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日本統治時代にも「台湾原住民族」の呼称が存在していたが、それは主にもともとここに住んでいた住民という意味であり、それが正式名称、あるいは広く使われる呼称となることはなかった。

隘勇線(あいゆうせん)の設置は、近代国家勢力による先住民族エリアへの侵入過程を意味するものだった。樟脳の採取などの経済的影響のほか、日本語や日本文化が少しずつ、国家権力によって集落に植え付けられていった。

資料來源:國立臺灣圖書館

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失われた土地

土地は一つの民族にとって生存と発展の根幹となるものです。台湾の先住民族は集落ごとに自分たちの領域を持ち、そこで集落のアイデンティティと独自の生活や文化を形成していました。とりわけ土地は共有のものという考え方があり、それは私有地や資本主義の概念、近代の国家制度などとは異なるものでした。


当初、漢人は婚姻、賃貸、売買、ひいては武力行使によって、平地に住む先住民族から土地を取得していました。日本統治時代になると、台湾にも登記制度や近代的な法律の概念が持ち込まれ、山地に住む先住民族の自然権を否定しました。国家の法律が、先住民族の土地の所有や使用の権利について改めて規定したのでした。


タイヤル族大嵙崁群(Msutunux)大豹社は、現在の新北市三峽の一帯にあった集落です。1886年から1893年にかけて、台湾巡撫・劉銘伝の先住民族政策「開山撫番」が行われ、一帯は樟脳資源を開発するため侵入を受けましたが、大豹社の人びとの必死の抵抗により失敗に終わりました。


日本統治時代になると、今度は台湾総督府がこの一帯の山地の資源が豊富なことに目を付けて大豹社と衝突。ロシン・ワタン(日本名:日野三郎、漢名:林瑞昌)とその父親ワタン・セツが住民を率いて対抗しましたが敵わず、叔父パヤス・セツが命を落としました。ワタン・セツは総督府と和解し、ロシン・ワタンを人質として差し出しました。これによってロシン・ワタンは日本の教育を受けることになり、集落の人びとは現在の桃園市復興郷への移住を強いられました。


もともと大豹社があった土地は1912年、三井合名会社が「予約売渡」許可を取得して開墾。1921年に開墾に成功すると「売渡許可」を取得し、正式に取得しました。

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