湯守仁等の反乱事件の「成立」
ウオグ・エ・ヤタウヨガナ(日本名:矢多一生、漢名:高一生)、ロシン・ワタン(日本名:日野三郎、漢名:林瑞昌)らの声望は、先住民族の権益のために積極的に発言し、行動したことによるものでした。しかし、これは当局を煩わせることになっただけではなく、彼らに関する怪文書や密告もあとを絶ちませんでした。そこで政府は最終的に、スパイであるとこじつけ、先住民族のエリートであり、漢民族への対抗の中心人物であり、潜在的に敵となりうる二人を処刑したのでした。
起訴理由は「汚職」を主軸としたものでしたが裁判が行われることなく、先に判決が下されました。また、「罪状を誇張する」ことで、集落の人びとに衝撃と羞恥心を与え、当局の決定を支持する世論を形成していったのでした。
1952年6月10日、保安司令は逮捕に向けた行動、宣伝、処刑による影響などの評価に着手。9月10日に「山地保安会議」を行うという名義でウオグ・エ・ヤタウヨガナとヤプスヨグ・エ・ユルナナを嘉義におびき寄せ、逮捕しました。同日、台北の山地会館ではロシン・ワタンも逮捕されました。
1954年4月17日、ウオグ・エ・ヤタウヨガナ(日本名:矢多一生、漢名:高一生)、ヤプスヨグ・エ・ユルナナ(日本名:湯川一丸、漢名:湯守仁)、ロシン・ワタン(日本名:日野三郎、漢名:林瑞昌)、Mo'e Peongsi(漢名:汪清山)、方義仲、Behuy Tali(漢名:高沢照)の6人の銃殺が執行されました。
また、Tibusung'e Muknana(武義徳)、Vo'e Tosku(日本名:鳥宿秀男、漢名:杜孝生)、廖麗川には懲役刑が言い渡されました。
ウオグ・エ・ヤタウヨガナ(日本名:矢多一生、漢名:高一生)の銃殺が執行された2日後の1954年4月19日、台湾嘉義地方法院の検察官は不起訴処分告知書を出し、同氏の汚職疑惑に関して調査した結果、不起訴処分とすることを決定したと通知しました。
この不起訴処分告知書は4月25日に達邦(タッパン)に届けられました。しかし、保安司令部嘉義山地治安指揮所は高山同胞を刺激するのを避けるため、達邦分駐所の警察官に対して告知書を送り返すよう指示し、嘉義地検処には告知書を再送しないよう求めたのです。
保安司令部嘉義山地治安指揮所は、ウオグ・エ・ヤタウヨガナ(日本名:矢多一生、漢名:高一生)らの処刑が集落の反発や反抗を招くことを懸念し、対策を練ることにしました。監視を行ったり、先住民族同士の分裂を図ることで、山地治安指揮所は主要な道路を制御し、住民の出入りを制限しました。
この事件は当事者だけでなく、その家族たちをも路頭に迷わせることになりました。大黒柱を失って経済的に困窮する家庭もあれば、村八分に遭って集落を離れざる得なかった人びともいました。しかも、集落を出た彼らは、台湾社会に存在する先住民族差別と向き合うことになりました。また、長期間にわたって監視された末、再び政治事件に巻き込まれた人もいました。