第二次世界大戦後の先住民族組織
台湾省山地建設協会
1948年3月、台湾省民政庁は山地行政処を設置し、山地の業務を管轄させました。11月2日、ロシン・ワタン(日本名:日野三郎、漢名:林瑞昌)は「台湾省山地建設協会」を設立。その理事長に台湾省警務処処長の王成章が着任していることから、政府の懸念を見て取ることができます。理事にはシシン(南志信)、華清吉、ロシン・ワタン、ウオグ・エ・ヤタウヨガナ(日本名:矢多一生、漢名:高一生)が、監事には游仲健、林貴春らが就任しました。同協会は1994年に「台湾原住民建設協会」と改名。2009年にはさらに「台湾原住民発展協会」と改名しました。
民生公司の設立と廃止
1949年3月、シシン(南志信)、華清吉、ロシン・ワタン(日本名:日野三郎、漢名:林瑞昌)、ウオグ・エ・ヤタウヨガナ(日本名:矢多一生、漢名:高一生)、游仲健らが出資して「台湾山地民生建設公司」を設立しました。それは、山地の生活に必要な物品を供給し、山地の商品や農林工業を支えることを目的とした会社でした。
しかし1949年4月、山地行政処が廃止され、山地の業務はさまざまな主務官庁が管轄することとなりました。5月には山地行政指導室が設置され、山地行政を統括することになりましたが、政策の執行には限界がありました。加えて同社の設立によって利益に影響が出た平地の商人が政府に密告したため、民政庁は山地で働く職員に対し、同社と関わらないよう指示したのでした。これは山地の住民やその他の一般職員の誤解を招きました。彼らは同社への協力を避けるようになったため、同社の発展に影響がでました。
こうして同社は11月に廃止されました。1950年1月20日、「台湾省山地物資供銷委員会」が発足し、シシン(南志信)が主任委員に、華清吉、王成章が常任委員に、ロシン・ワタン、ウオグ・エ・ヤタウヨガナ、游仲健らが委員を務めました。しかし、やはり思ったように成果が上がらず、1952年初頭に廃止となりました。