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新たな統治者との出会い

1945年8月15日、日本が戦争に負けて投降すると、国民政府が連合国軍を代表して台湾を接収しました。ロシン・ワタン(日本名:日野三郎、漢名:林瑞昌)らは新政権と、先住民族のこれからの地位と存続発展についての交渉を開始しました。しかし、10月25日に台湾省行政長官公署が正式に台湾総督府の業務を引き継ぐと、国民政府は即日、すべての台湾住民の中国国籍を「回復」すると一方的に宣言しました。


国民政府は「台湾接管計画綱要」で先住民族について「自決自治を可能とする」と表明していました。しかしながら実際には、行政長官公署の行政・統治はうまくいかず、中国からやってきた役人や軍隊のやり方はたびたび人びとの不平不満を招いていました。しかも、当時多くの先住民族は、先住民族としての名前をカタカナで表記して名乗っていましたが、国民政府はこれを漢名(中国風の姓名)に「回復」するよう強制しました。このように二・二八事件勃発前、統治者と先住民族は互いに相手を観察し、これからの付き合い方を模索する状況が続いていたのです。


台湾の「光復(台湾の統治権が日本から中華民国へと移譲されたこと)」は、先住民族の心情に複雑な影響を与えました。これまでの「敵国」が「祖国」となり、これまで「栄誉」とされていたことが「恥辱」となることを意味したため、先住民族は複雑な心境となりました。しかし、日本人が去って新統治者の影響が先住民集落に及ぶまでは時間がかかり、とりわけ山間部の集落ではほぼ自治のような機能が作用していたため、統治者が変わったことで大きな影響を受けることはありませんでした。


国民政府は、中国では辺境の少数民族に対して三民主義思想を適用したものの、長期的な内政の混乱もあり、実際に統治したことはありませんでした。このため、近代国家の洗礼を受けた先住民族と接するのは初めてのことで、先住民族への理解にも限界がありました。


台湾接管計画綱要


1945年3月14日、国民政府は「台湾接管計画綱要」を制定しました。第4条では「民族意識を高め、奴隷化思想を取り払い清めなければならない」、第18条では「蕃族に対しては、建国大綱第4条の原則に基づき、自決自治を可能とする」と定めており、この2つの条文が国民政府の先住民族政策の原則となりました。


行政長官公署は1945年10月5日、台北に「前進指揮所」を設置。10月7日には国軍第70軍が台湾に到着しました。10月19日、ロシン・ワタン(日本名:日野三郎、漢名:林瑞昌)らが行政長官公署秘書長兼前進指揮所主任の葛敬恩を訪ね、国民政府を表敬しました。


民報の報道は葛敬恩の訓示から始まっており、小見出しには、「君たちは中国人だ。君たちは自由民だ」と書かれています

しかし、先住民族が新たな統治者と関わりを持ちし、今後の先住民族の地位、経済・文化、そして戦争で海外に取り残された先住民元日本兵の帰郷問題について話し合いたいと希望していることにも触れています。

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