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政治の場での呼びかけ

1951年6月、ロシン・ワタン(日本名:日野三郎、漢名:林瑞昌)は省参議会第1回第11次大会での質疑で、山地行政の特殊性を鑑み、山地行政の一元化を図り、総合的な主務官庁を作るべきだと訴えました。また、雑誌『山光』で、中国語と日本語を併用することで中国語の普及を図れるよう期待を寄せました。


これに対して省政府主席の呉国楨は、山地行政はすでに一元化されているものの、改革から時間が十分たっていないため、意思疎通が欠けているだけだと述べました。また、中国語の普及については、日本語を使用してはならないと答えました。


省政府民政庁長の楊肇嘉は、中国語普及のためには我慢が必要で、山地方言(先住民族言語)による「発音記号」を開発するなどの必要があると述べました。また、「台湾省山地物資供銷委員会」は、人員、競争力、資金などの関係で、政府監督のもと、農会(=農協)や合作社といった形で市民が運営することを検討しているとの発言もありました。


1952年8月、省臨時省議会第1回第二次大会でもロシン・ワタンは、山地行政機構の問題について再度質問し、省政府に直属する「山地行政管理局」を設置するよう求めました。また、政府に対して山地同胞(山地先住民族)に農耕地を与え、「耕者有其田(農地を耕作者の手へ)」を実現するよう要請しました。これに対して省政府は9月20日に回答を行いました。それによると、山地行政を統括する機構の設置については依然同意しなかったものの、耕地の開放については検討するというものでした。しかしそれは、9月10日にロシン・ワタンが逮捕されたあとのことだったのです。

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