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二・二八事件における選択

1947年2月27日夜、専売局の取締員が天馬茶房の前でタバコの密売を取り締まっていたところ、もみ合いになり闇タバコを販売していた林江邁をなぐり怪我をさせてしまいました。それが引き金となり取締員と市民の衝突が発生。取締員が発砲し、一般市民の陳文渓を誤殺してしまったことがきっかけで、溜まっていた市民の不満が爆発しました。翌日、市民による大規模な抗議デモが行われました。そして、デモ隊が行政長官公署(現在の行政院)に到着したところ、衛兵による機銃掃射を受けたのです。一部の市民はラジオ局「台湾広播電台(現在の台北二二八紀念館)」へ向かい、ラジオの電波を使って台湾全域に事態を伝えました。戦後の貧しい暮らし、政府の役人の汚職や腐敗、政府が米などの物資を中国に送ったため台湾島内の民生物資が欠乏したことなどといった問題を訴え、各地の市民に賛同を呼び掛けたことで、台北市の市街地に端を発した衝突が台湾全島に拡大していきました。この過程において、政府側と政府に反抗する側の両者は競って先住民族を味方につけようとしました。先住民集落の指導者たちはそうした中、自分たちの集落の住民の将来を考え、集落を上げて事件に関わったところもあれば、静観の立場をとった集落もありました。このほか、進学などのため都会にいた先住民族の中には個人的な立場で、多かれ少なかれ二・二八事件と関わった人たちもいました。


台湾各地の先住民族の反応

戦後、台湾の先住民族社会では集落の頭目、長老、あるいは若いリーダーなどが部落の問題で主導的な役割を担い、集落会議やリーダーの決断が下りると、住民の多くはそれに従いました。


台湾北部に住む先住民族の中には、抵抗運動に加わるように誘われた人もいましたが、実際には参加しませんでした。台湾中部では、一部の先住民族が個人的に加わり、南部の阿里山地域では、山を下りて秩序維持に加わった人もあれば、台南県県長(=県知事)の袁国欽など外省人の役人を保護した人もいるなど、どちらも支持する立場をとりました。台湾東部の先住民族は多くが中立の立場をとり、台東県県長(=県知事)の謝真ら外省人を保護したりもしました。


事件当時

二・二八事件発生時、台湾省訓練団はまさに「民政系郷鎮組第一期甲班(山地郷)」の郷長訓練を実施しており、山地の郷長23名が台北で訓練を受けていました。呉鳳郷の郷長、ウオグ・エ・ヤタウヨガナ(日本名:矢多一生、漢名:高一生)は病気のため訓練に参加していませんでした。


3月1日、台北の街は混乱が続いていたため、台湾省訓練団体は訓練に参加していた郷長を帰郷させ、住民を安心させるべきだと判断。行政長官公署民政処の同意を得て、当初3月11日に終了する予定だった訓練を、この日で切り上げることを決めました。教育長の韓逋仙はこれらの郷長らに「是非をわきまえ、政府に逆らわず、郷民を良く指導して法律や紀律を遵守させ、国家民族の精神を発揮するように」と伝え、午後に解散手続きを行いました。しかし、集落までの道のりが遠いなどの理由もあり、すべての郷長が直接集落に帰ったわけではありませんでした。</span></span></span><span


北部地域

1947年3月1日、烏来郷の郷長、陳志良は郷内の村長や郷民代表を集めた会議を開き、この事件が「一部のならず者が扇動したもので、我々山地とは無関係である」と説明しました。また、住民に対して、それぞれのやるべきことに専念するように勧告しました。平地の学生が烏来までやってきては人びとを扇動し、酒や肉を餌に高山同胞に下山を勧めましたが、郷長の陳志良らが落ち着いて適切に対処するよう求めたため、誘いに応じる者はいませんでした。


伝えられるところによると、陳志良は郷民代表のSilanやMorongを角板山へ派遣し、当時角板郷衛生所の所長だったロシン・ワタン(日本名:日野三郎、漢名:林瑞昌)に助言を求めました。情勢分析を行ったロシン・ワタンは、二人の郷民代表を直ちに帰らせ、先住民族が下山して事件に関与することを阻止させました。


1947年3月3日、台北県太平郷(現在の宜蘭県大同郷)副郷長の張方鏗は、郷内各村の村長、郷民代表、頭目、警察官らを集めて事件の状況を説明し、郷民らが一律慎重に対応し、扇動されたり、軽挙妄動に走らないよう求めました。3月6日、郷に戻った郷長の李栄進も集落の住民が下山することを改めて禁じました。


中部地区

中部地区は二七部隊の活躍もあり、二・二八事件の影響が現在の台中、南投、新竹一帯にまで広がっていました。情報当局は、台湾各地の先住民族と日本人による結託を強く懸念していました。このため、1947年3月1日に謝雪紅が台中で指揮総部を設立したと伝えられると、報告される情報はどれも日本軍や、高山族(あるいは蕃族と呼称)の支援の有無に言及するものとなりました。


二七部隊隊長の鍾逸人の回顧によると、3月3日、台中での対国軍作戦を支援するためにやってきた黄信卿が率いる埔里隊には、山地の先住民族の青年6、7人が含まれていました。彼らは台中の干城営区(軍事基地)で二七部隊に加わったということでした。また、陳明忠の記憶でも、教化会館を攻撃した際、黄信卿が率いる部隊に埔里の平埔族(平地に住む先住民族)が含まれていました。3月16日の「烏牛欄の役」を指導した黄金島も、若干の先住民族が作戦に加わったと述べています。


鍾逸人は、部隊の主力は「作戦経験のある山地青年」に頼るべきだと主張しました。このため、1947年3月7日に二七部隊は台中から撤収すると霧社へ向かい、能高区長の廖徳聡らを訪ねました。彼らは互いに日本語で意思疎通を図ることができましたが、霧社の先住民族は霧社事件(1930年の抗日反乱事件)で悲痛な経験をしていたため、誘いに加わることはありませんでした。一方で、埔里に退却していた謝雪紅は、仁愛郷郷長の高聡義と連絡を取りました。高は謝雪紅に同情を示したものの、霧社事件が仲間に与えた影響が甚大なことを考慮し、同じ悲劇が繰り返されることを懸念しました。二七部隊の入山を許せば、国民党の軍隊が山地を包囲・攻撃することになり、計り知れない被害が出ると考え、最終的には個人としての参戦に同意するにとどまりました。


当時、高菊花(ウオグ・エ・ヤタウヨガナ=矢多一生・高一生の娘)は台中師範学校簡易師範科で学んでおり、集められて保護されていた外省人の世話をしたこともあったようです。二七部隊の撤収に伴い、埔里や竹崎を経由して山地にある実家に帰りましたが、そのときの記憶によると、事件にかかわった先住民族は決して多くはなかったとのことです。

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