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淡江中学出身者と二・二八事件:初の台湾籍の気象予報官——周明徳

1924年、淡水(現在の新北市淡水区)に生まれ、淡水中学で学び、李登輝元総統とは同級生でした。淡水中学卒業後、「台湾総督府測候技術官養成所」に入学し、気象学に関する正規の教育を受け、後に台湾籍として初めての気象専門家になりました。


周明徳は、日本統治時代、各地の気象台や測候所に勤務し、その足跡は台湾全域に及びました。第二次大戦後も引き続き、その気象に関する専門知識を活かし、天災によってもたらされる損害を予防、減少させました。1981年の定年後は、アメリカに移住しましたが、2007年に故郷の淡水に戻って定住し、台湾の郷土文学や歴史のほか、気象学に引き続き貢献し、2016年に亡くなりました。


第二次大戦後、周明徳もまた、国民政府による政治腐敗、そして二・二八事件を経験しました。周明徳は、1947年2月28日の正午、台湾省気象局(現在の交通部中央気象署)で勤務していたとき、街頭の抗議デモが聞こえ、まもなく、台湾籍の同僚が気象予報室に飛び込んできて外の様子を伝えたため、事務所にいた台湾籍の職員も抗争に応じ始め、外省籍の職員は次々に持ち場を離れたと、振り返ります。事件後、多くの同僚が逮捕され、年末になってようやく釈放されました。台湾籍の同僚の一人、陳進順は事件発生後、自転車で、廟宇の前で人びとが「擲筊(ポエと呼ばれる神杯を投げて、神様の意思を問う占い)」を取り囲んでいるところを通りかかりました。群衆を目にした兵士の一団が「動くな」と大声で命令しました。陳進順は慌てて自転車で家に逃げ帰りましたが、家に押し入ってきた兵士に刺殺されてしまいました。

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