受難した淡江中学関係者:林茂生の家族の苦境
林茂生が黒いセダンで連れ去られた後、林家の人びとは林茂生の行方をたずね続けました。希望は捨てはしなかったものの、最悪の事態の覚悟はしていました。一家の大黒柱だった林茂生が突然消息を絶ったことは、一家の生活に大きな打撃を与えました。一家約10人の家計は、当時、台湾大学医院に勤務していた次男の林宗義にのしかかりました。ほどなくして、林茂生の母親と、身体が弱かった長男が一年以内に相次いで他界しました。
悲劇の発生後、林茂生の妻、王采蘩は子どもたちに、「もし、お父さんが帰ってこなかったら、その時は中国の軍閥の『抄家滅族(財産を没収し、一族を皆殺しにする)』というやり方をよく覚えておきなさい」と諭しました。一家が大きな変化に見舞われるなかにあっても、王采蘩は変わらず気丈で、同じ二・二八事件の受難者家族に、毅然とした態度で、しっかり家族を守っていれば、かならずいつかは希望が見えてくると励まし続けました。
王采蘩は生涯、林茂生の事を思い慕い続けていました。次男の林宗義は、1967年、スイス・ジュネーブのWHO(世界保健機関)に勤務していたとき、母の王采蘩の欧州旅行を手配しました。この旅行中、王采蘩はたびたび「あなたのお父さんは、ここに来たことがあるかしら(林茂生は欧州で講演を行ったことがある)」と尋ね、そして「きっと来たことがあるわね」と独り言をつぶやいていたと回想します。この欧州旅行が、王采蘩にとって、林茂生のかつての足跡を辿る追想の旅だったことがうかがえます。
1976年、王采蘩はカナダのバンクーバーで亡くなりました。臨終の前、次男の林宗義に「宗義、私は本当にあなたのお父さんの事を思い続けていたの。この30年間、毎日会いたかったわ。だから嬉しいの。これからお父さんに会いにいくのよ」と語ったそうです。