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受難した淡江中学関係者:陳能通の家族の苦境

陳能通校長が行方不明となった後、県政府は督学を派遣し、暫定的に代理校長としました。学校側は陳家の人びとに宿舎の一部屋を提供しましたが、一家の大黒柱を失った陳家の人びとは、宿舎近くの空き地に野菜を植えたり、鶏やアヒル、豚を飼い、家計の足しにしました。このほか、友人や行政院がアメリカからの援助資金を有効に活用する目的で設立した「美援運用委員会」の支援もあり、一家は衣食を切り詰めながら、なんとか生き抜きました。


生活が苦しい中にあっても、陳家の子どもたちは変わらず努力、奮闘しました。長男が台北工業職業学校(現在の国立台北科技大学)を卒業した後、他の兄妹たちも学校卒業後に就職したり、海外留学のために台湾を離れた者もいました。陳家の人たちも、若い世代にできるだけ海外へ行くよう勧めました。白色テロの時代にあって、二・二八事件の受難者家族という立場は微妙で、どのような境遇に合うか予測し難かったのです。

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