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二・二八事件の名誉回復運動:淡江中学における名誉回復運動

戒厳解除前の1980年代になると、政府による社会統制は次第に緩和され、民主主義、自由、人権を求める台湾の人びとの渇望を抑えることはできなくなっていました。社会運動も活発となり、これまでに語られてきた二・二八事件の名誉回復の動きが始まりました。


二・二八事件において、淡江中学では校長の陳能通、教師の黄阿統、盧園、そして生徒の郭曉鐘などが受難者となりました。二・二八事件発生から一甲子(60年)経った2007年、淡江中学は、事件の受難者となった教師、生徒らを追悼する記念碑を建てたほか、演劇を通じ、当時、受難した教師、生徒が遭遇した苦難を再現し、事件を記念すると共に、今後、こうした悲劇が再び起こらないよう警鐘を鳴らしました。


淡江中学埔頂二二八蒙難記念碑全文:


1947年、台北市で二・二八事件が勃発しました。台湾の人びとの不満はすでに長い間蓄積しており、その激しい怒りは台湾全土に広がりました。淡水の市井の若者たちもこれに呼応し、一部の急進派は淡江中学に侵入、日本統治時代に使っていた軍事訓練用の銃を強奪し、淡水郊外の守備軍を攻撃しようとしました。後に、軍隊はこれを理由として粛清を行い、罪をでっちあげたため、無実の人びとが巻き込まれました。本校の教師、生徒の多くが犠牲となり、半世紀もの長い期間、その屈辱に苦しみ耐え忍んできました。


同月10日には台北の援軍が淡水に攻め入り、友人を訪ねようと街頭にいた本校の生徒、郭曉鐘は理由もなく殺され、その遺体は路上にさらされました。翌朝、軍隊は本校を包囲、校内を捜索し、生徒を逮捕しようとしたものの叶わなかったため、校長宿舎に進入、陳能通校長を無理やり縛って連行し、校長を助けにいこうとした化学の教師、盧園に発砲しました。軍隊が校門を通過したときに軍に抗議した体育教師の黄阿統も連行されました。陳校長と黄阿統は海軍の駐屯地に勾留され、三日後には基隆へ連れていかれましたが、その後の行方はわかっていません。同日の午前、本校の董事長、林茂生博士が台北の自宅から便衣兵によって強制連行され、現在に至るまで行方はわかっていません。学校と家族はあらゆる手をつくして探しましたが、関連部署はまったく取り合いませんでした。戒厳解除後、ようやく、当時三人が身に覚えがない罪名を着せられて殺害されたことを知ることとなりました。


淡江中学における二・二八事件から六十年の月日がたちました。本校では、歴史を振り返り、血を流し自らを犠牲にしながら、学校を愛し、守った先生方の功績を讃えるとともに、親を失い頼る者がなくなった痛み、悲しみを耐え忍んだ受難者の親族の方々を慰めるために、ここに記念碑を建て碑文を刻むこととしました。これは、淡江中学の生徒たちに、こうした台湾の苦難の歴史を決して忘れてはならないとの忠告でもあります。わたしたちは、この経験から教訓を得、智慧を重ね、台湾をよりいつくしみ、この美麗島が真の意味で神に祝福される平和な楽園となることを願っています。


2007年3月10日 建立


あなたは主が正しいと見なされることを行うなら、罪なき者の血を流した罪を取り除くことができる。(申命記:第21章9節)

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