行政院(内閣)は「戒厳令解除前には触れることができず、台湾社会に不安をもたらした『二・二八事件』について研究、調査を行い、政府が『二・二八事件』の事後処理を行う際の参考にする」のを目的に、1991年1月、「二・二八事件研究チーム」を立ち上げました。委員には陳重光、葉明勲、李雲漢、遅景徳、張玉法、何景賢、陳三井、頼澤涵の8人が名を連ね、陳重光と葉明勲の2人が座長を、頼澤涵が総主筆を務めました。学術界から招聘した黄富三、呉文星、黄秀政、許雪姬、頼澤涵の5人が執筆を担当したほか、陳美妃、簡英聡、方惠芳が兼任研究員としてそれぞれ黄富三、黄秀政、許雪姬の3人の教授を手伝いました。これがいわゆる「実務チーム」です。

 「前述の執筆メンバーは学術の良心と超党派の立場に基づき、档案(公文書)や文献の研究、オーラルヒストリーの仕事に取り組みました」。時間は1年しかありませんでしたが、公式な一次資料を大量に参考にし、100人単位の証人に話を聞くことができ、系統立てて客観的に事件の顛末を分析しました。

 「資料収集においては、台湾に現存する政府档案(公文書)を徴集するほか、研究員が手分けして海外や大陸地区に渡り、貴重な関連資料を集めました。集めた資料の一例は、米スタンフォード大学フーヴァー戦争・革命・平和研究所文書館が所蔵するジョージ・H・カー寄贈の『二・二八事件』資料、英パブリック・レコード・オフィス(Public Record Office)の淡水領事館に関する資料、南京第二歴史档案館の資料などです。研究チームが手に入れた資料の豊富さは、台湾や海外で現在進められている二・二八事件の研究プロジェクトにおいて右に出る者はいないと言えるでしょう。」

 「『二・二八事件』調査報告が1992年2月20日に公表された後、いくつかの細かい点に関しては様々な見方が示されたものの、それでもなお社会に受け入れられました」。執筆者はさらにもう一歩踏み込んだ資料を参考にして研究報告を加筆修正し、1994年2月20日、時報文化出版企業股份有限公司によって出版されました。これが『「二・二八事件」研究報告』の成り立ちです。

 『「二・二八事件」研究報告』は二・二八事件を知るための主な参考資料としてもちろん非常にふさわしいものです。しかし、全504ページに及ぶため、忙しい現代人にとってはその量がやや重たいものとなっています。研究報告の「結論」は405ページから412ページまでで、二・二八事件の簡単な説明と反省がまとめられており、読者は短時間で事件の成り行きと原因、結果を理解することができます。そこで当会は報告の結論部分を参考資料の軸として選び、8節に分けて注釈を加えながら丁寧に説明しています。注釈の内容は特に説明しているもの以外は全て研究報告からの引用です。これを読めば1時間で二・二八事件全体の概要をつかむことができるでしょう。事件の全体をさらに詳しく理解したい場合は、原書をご参照ください。

 「二・二八大虐殺事件」[説明1]は第2次世界大戦終結[説明2]から1年半も経たずに発生しました。その背景は極めて複雑で、一つの要素だけで説明できるものではありません。まず、50年にも及ぶ日本の植民統治によって、中国の政治制度や社会の現況に対する台湾人の理解は十分ではありませんでした。これにより、1945年末、期待は肩透かしを食らうことになったのです[説明3]。次に、政治面においては、行政長官制度[説明4]には確かに多くの欠陥があり、官箴(かんしん、官吏心得)[説明5]や軍紀は乱れ[説明6]、政治参加と待遇も極めて不公平でした[説明7]。経済面では、復員して帰郷した元台湾人日本兵[説明11]に働き先がなく、一文無しとなり、政府への不満が水面下で次第に形成されていきました。このほか、行政長官・陳儀の剛愎な性格により[説明12]、民情が上に伝えられず、官民の関係は劣悪なものとなりました。これらの様々な要素により、識者は危機が迫っていることを早くから予期していましたが[説明13]、台湾省行政長官公署は依然として全く気付いていませんでした[説明14]。


説明:

1.)『「二・二八事件」研究報告』が対象とする期間は、原則的には1947年2月27日の闇煙草取り締まり事件発生から5月16日の清郷(粛清)終結までです。

2.)1945年。

3.)台湾人は長期的に日本人に封じ込められていたため、祖国の状況について知っていることは多くありませんでした。そのため、台湾人は何かに付けて日本統治時代の軍、政治、経済、社会などを挙げて戦後の中国政府の統治者と比較し、強烈な対比の下で、祖国は日本人に及ばないとの感情をかえって抱き、軽蔑する心理が生まれました。このほか、中国大陸から台湾にやって来た人が台湾の女性に結婚詐欺を働いたことや、現代知識が欠けた生活習慣の隔たり、異なる社会的背景によって生まれた価値観や道徳観の違い、言語面での意思疎通の不足などが省籍(本省人と外省人)の溝を深めてきました。台湾人は当初、祖国に対する期待が高すぎたため、まもなくしてそれは失望から軽蔑に変わっていきました。

4.)「台湾省行政庁官公署組織条例」に基づき、行政長官公署は中央の委託を受け、中央行政を担当しました。行政長官は在台の中央各機関を指揮、監督する権限を有し、職権の範囲内で署令の公布や単行規章の制定を行うことが可能でした。同時に台湾省警備総司令を兼任することから、行政長官制は本省の司法、立法、軍事、行政などの大権を一身に集めた一元化統率であったことがうかがえます。行政長官は国民政府によって特任(文官の任用において4段階で最高位)されます。この点は各省の委員制とは異なっています。各省の省府は合議制を実施しており、委員と省主席は共に簡任官(文官の任用において特任の次に高い階級)となります。台湾省行政長官公署の各部署(秘書処、民政、教育、財政、農林、工鉱、交通、警務、会計処)および秘書長はいずれも行政長官の側近であり、簡派(公的機関の派遣職員の階級の一つ)となっています。このほか、法制委員会、宣伝委員会、査定設計委員会が設置されました。銀行の通貨システムも国内とは異なっていました。(中略)「陳儀」は台湾元と台湾の金融機関を維持し、独自システムを形成させるべきだと考え、法幣(国民政府の法定紙幣)の台湾での流通を阻止しました。このようにしてこそ「大陸各省のように法幣が溢れて災いとなり、物価が暴落するという現象を台湾で生じさせる」ことはないと考えました。そこで陳儀は「まず安定を保ってこそ繁栄を促進できる。したがって、独立した新台湾ドルを発行し、台湾が大陸の法幣の影響を受けないようにする」と主張しました。この主張は陳儀が台湾に渡る前に蒋介石主席の同意を獲得し、蒋主席は宋子文にそのとおりに進めるよう言いつけました。これにより、当時台湾への支店開設を考えていた4行2局(中央銀行、中国銀行、交通銀行、農民銀行、中央信託局、郵政総局)の台湾進出は叶わないものとなりました。財政部も「台湾与内地通匯管理弁法」(台湾・内地送金管理規則)を公布し、「中央銀行および委託を受けた銀行を除き、その他の銀行は台湾ドルと法幣の両替業務を執り行ってはならない」と定めました。国民政府のこの処置に対し、多くの台湾人が「台湾人を植民地人だとみなすもの」だと考え、政府に大きな不満を抱きました。

5.)役人は普段から市民に奉仕しないだけでなく、何かあれば役人然とした態度をとり、言い訳を並べて責任逃れし、物事をおざなりにしていました。これらの欠点は日本統治時代の役人の真面目で効率を重んじる働きぶりと強烈な対比をなしました。政治において効率が悪い上に官僚主義は盛んで、これらの現象は台湾人が日本統治時代には経験したことがないものでした。たった1年半という期間でしたが、行政長官公署の働きぶりは日本人には遠く及びませんでした。公務員が酒場に足を踏み入れたり、紀律を破ったり、汚職したりという事件が新聞に掲載されることは後を絶ちませんでした。例えば、1947年2月12日付の『台湾新生報』社説(私腹を肥やすために不正を働く問題について)に掲載された不正の件数は驚くべき数で、記事では多くの公務員が都会のダンスホールや茶館、酒楼、賭場に普段から足を運んでいることが指摘されました。各機関にはむだな人員が数多くおり、公務員に対する人々の印象は良いものではありませんでした。汚職事件は一般の公務員に限ったものでなく、検察官や裁判所長、教師でさえも汚職を働いていました。軍人の法律違反や無銭乗車、代金を払わずに商品を持って帰るといった行為は日常茶飯事で、公然とひったくりをする者までいました。汚職の金額が1000万元を超えるケースも少なくありませんでした。

6.)駐台の軍隊は軍紀が乱れており、軍人はたびたび「市民から強引に買ったり、借りたりしたほか、婦女暴行までし、なにかにつけて発砲して負傷させました。卵5個(5元相当)を1元で買おうとするなど、市場でのいさかいは日常茶飯事でした」。ひったくりやスリはこれにもまして頻発していました。

7.)政治の上では、日本統治時代の台湾人は行政であれ、専門分野であれ、技術分野であれ、公平な地位を得ることは容易ではありませんでした。台湾光復(日本統治時代の終結)で、多くの台湾人は「これからは自治ができるはずだ」と幻想を抱いていましたが、(中略)実際はそうではありませんでした。長官公署の9つの主要な処・会の処長、副処長18人のうち、台湾人は副処長1人だけでした。17人の県長、市長の中では、台北市長の游彌堅、新竹県長の劉啓光、高雄市長の黄仲図(旧名・連謀)、高雄県長の謝東閔(二・二八事件発生当時は黄達平)のみが台湾人でした。しかし、5人はいずれも重慶から戻ってきた「半山」(半外省人)だったことから、台湾人には好まれませんでした。(中略)さらに、台湾人が不服だったのは、「同一労働非同一賃金」の待遇や台湾人が公的機関の職を得るのが容易ではなかったことにほかなりませんでした。

8.)島嶼地区の経済にとって、対外貿易は非常に重要なものです。島嶼地区が貿易に頼らないとすれば、相当に豊富な資源を有している必要があります。しかし、台湾はその条件を完全には満たしていなかったため、対外貿易が必要でした。しかしながら、陳儀はこの事情をしっかり理解していなかったようで、台湾に来るとすぐに経済の統制に取り掛かりました。(中略)商人から反対が出ると知っていながら、陳儀は自身が自分のためではなく公の利益のために仕事をしているのだと考えていました。陳儀が求める「追い求めるのは少数の懐を肥やすことではなく、台湾の人々の食、衣、道具などの生活の問題を一歩一歩解決すること」といった態度は、社会主義思想への強いあこがれを示していました。これに加え、陳儀の頑固な性格によって、経済政策は極めて大きな批判と反発を受け、後の「二・二八事件」の導火線の一つとなりました。
台湾の行政の特殊化によって、長官公署は外来者を強く排斥し、4行2局またはいかなる民間銀行であっても、台湾に拠点を設立することを拒絶しました。これによって「官警貿易企業以外の民間貿易企業は一律で(開設)停止」という状況が生まれました。また、中国大陸の政府銀行は「送金問題」によって台湾を抑え込もうとする封鎖政策を採用し、台湾はこれによって自己封鎖の局面に向かいました。その結果、台湾と中国大陸間の乗船券や航空券の販売は不可となり、税関も課税をすることができず、船は輸出を禁じられ、台湾の貨物輸送はスムーズにできなくなりました。これに加え、長官公署の統制政策では政府自身が貿易を行い、為替レートも不定だったため、商人に二の足を踏ませ、これによって各地の貨物の台湾への輸送、販売は困難となり、外貨も台湾に入ることができず、台湾の貨物も輸出できない自己封鎖状態となりました。
1946年1月10日、ある台湾人が行政院に請願し、「中央政府は市民と利益を争う貿易会社や類似の各種の中間搾取機関に取り消し命令を出し、市民を支援するために各種の戦時統治法令を取り消す」よう求めました。陳儀の統治政策に対する人々の不満がうかがえます。

9.)(陳儀は)日本人が台湾に導入した専売制度を継続し、専売局を設置したほか、省内外の運輸を統制する貿易局をも設置しました。これにより、台湾の一般貿易と工業の各分野がほぼ独占されたため、一般の民間企業は発展できず、人々の多くの不満や失望を招きました。そのため「二・二八事件」発生時、この2つの機関は改革者が廃止を求める対象となりました。

10.)台湾で経済危機が生じた主な原因は、通貨膨張や物価高騰にあります。特に穀物の価格は高止まりしていました。台湾はもともと米どころとして知られていましたが、日本統治時代には「戦争の影響を受け」、穀物の生産は激減しました。(中略)台湾光復後(中略)、1946年初頭、台湾は深刻な穀物不足に陥り、(中略)コメの価格は高騰し続けました。そのため、物価の高さは全国(中華民国)一とも言われました。多くの地域で飢饉が発生し、ひいては台中、台南などのコメの産地でさえ嫌がらせ事件が起こりました。失業者が日増しに増え、強盗は白昼下で公然とひったくりを働き、泥棒がいたるところにいました。
台湾の物価は急騰し、1945年10月から1946年12月までに100倍に値上がりしました。穀物の問題は特に深刻でした。
コメ一斤はもともとたった1.5元で売られていましたが、1946年初頭の台北のコメ価格は10元以上になり、1947年2月には1斤32元にまで跳ね上がりました。これは台湾人が過去に経験したことがないものであり、大きな不満を招きました。

11.)元台湾人日本兵は(中略)十数万人余りいました。

12.)陳儀の部下への過度の信頼は部下の放任へとつながり、愚かな配下に囲まれることとなりました。当時の台北市商会理事長、蒋渭川は面と向かって陳儀をこう批判したことがあります。「長官が奥に下がり、官民の架け橋を自称して付け入ろうとする少数の者と悪徳官僚らに囲まれています。社会の民情は知るすべがなく、上の命令も下に伝えることができていません」

13.)台湾光復から3カ月経たずして、多くの台湾人が陳儀の台湾でのやり方の多くは不適当だと批判していました。1946年初頭、台湾の状況の悪化はかなり深刻で、当時の中国人や外国人から大きな関心を寄せられていました。閩台通訊社(香港に本社を置く通信社)は政府に対し、台湾の問題をより一層重視するよう呼びかけていました。上海の『密勒士評論報』は「台湾は50年遅れている」という文章を掲載し、「5か月後、(台湾は)中国のアイルランドになるだろう」と指摘しました。米国在台領事館が1946年末に駐華大使や国務省に提出した報告でも「台湾はすでに反乱の地点にある」と言及されました。1947年初頭になると、鋭い観察者はすでに情勢の深刻さに気付いていました。例えば上海の雑誌『観察』の在台特約記者は事件が起きる前の1947年2月2日、「今日の台湾は危機の狭間にあり、危険極まりない。騒動や暴乱がいつ起きてもおかしくない」と予言していました。台湾がすでに変乱の瀬戸際にあることに中国や外国の人々が気づいていたことがうかがえます。

14.)政治、経済などの各方面で台湾人はすでに大きく失望していました。しかし陳儀は平和を装うため、駐台の政府軍を共産党討伐のために中国大陸に異動させ、台湾の兵力はにわかに手薄になっていました。急進派は陳儀政府を倒せると考え、政府に反抗するよう大胆に市民に促しました。

 「二・二八大虐殺事件」は闇販売の取締員と警察が闇煙草の取り締まりにおいて不当な処理を行ったことを発端としています[説明15]。これにより、2月28日に一部の台北市民による請願デモが起こり、ストライキが行われました[説明16]。また当日、長官公署の衛兵がデモに参加した市民に発砲する事件も発生し[説明17]、収拾がつかない事態となりました。そして加害者への懲罰を求める請願から、長官公署への反抗に趣旨が変わり[説明18]、省籍衝突(本省人、外省人間の衝突)にまで激化しました[説明19]。この抗争と衝突はすぐさま台湾本島全土に広がり、単なる治安事件は政治運動へと変質を遂げました。地方の指導者は機に乗じて全面的な改革を求め、一部の地域では軍や警察の武器の接収[説明20]によって武力衝突も生じました。


説明:

15.)「二・二八大虐殺事件」の導火線は、偶然発生した円環闇煙草取り締まり事件に端を発します。事件の大まかなあらましは次の通りです。1947年2月27日午前11時前後、専売局に「淡水港で密輸船がマッチやタバコ50箱余りなどを運び込んでいる」という密告が寄せられました。専売局は葉得根、鍾延洲、趙子健、劉超群、盛鉄夫、傅学通の6人の取締員を派遣し、警察大隊が派遣した警察官4人に同行させました。しかし、淡水に到着した際、発見した私製煙草は5箱だけでした。まもなくして再び密告者から「密輸品は台北市南京西路の天馬茶房(太平町、現・延平北路)付近に移された。ここが台北最大の密輸品の集積所だ」との情報が入り、取締員と警察官は先に捜索先に近い太平町付近の小香園で夕食を取りました。
午後7時30分、取締員らが天馬茶房に到着すると、闇業者はすでに逃げており、摘発できたのは40歳の寡婦の林江邁が持っていた煙草だけで、官製・私製に関わらず全ての煙草と現金を没収しました。林江邁はほとんど土下座に近い状態で「全て没収されたら食べていけません。せめてお金と専売局製の煙草だけは返してください」と懇願しました。しかし、取締員は相手にしませんでした。当時、多くの人がこの様子を周りで見ており、女性に加勢する人が相次ぎました。林江邁は切羽詰まり、取締員に抱きつきました。すると取締員の一人「葉得根」が銃身で林江邁の頭を殴り、女性の頭から血が流れました。この光景を目撃した市民はひどく憤慨し、取締員を取り囲んで「阿山(外省人の蔑称)は話が通じない」「豚(同)はひどすぎる」「煙草を返せ」などと激昂した言葉を口々に叫びました。取締員は不穏を感じ、そそくさと逃げ出しましたが、群衆はぴったりと追いかけていきます。すると、取締員の一人、傅学通はこの状況から脱しようと、群衆に向けて発砲し、弾は不幸にも当時自宅の階下で野次馬見物をしていた市民の陳文渓(約20歳、翌日死亡)に誤って当たりました。取締員は永楽町(西寧)派出所に逃げ込み、後に警察総局(中山堂の隣に位置)に移りました。激怒した市民は取締員のトラックのガラスを破壊し、トラックを道の脇になぎ倒しました。そして派出所を取り囲み、犯人を突き出して法で裁くよう求めました。
専売局業務委員会常務委員の李炯支と業務会第四組組長の楊子才は知らせを聞き、9時ごろに対応のため現場に駆けつけました。当時、100人ほどの人が集まっており、2人の車が到着するのを見るやいなや、殴りかかろうと近寄ってきたため、李と楊は方向転換して台北市警察局に向かいました。群衆は後をついていき、その人数は6、700人に膨れ上がっていました。李、楊の2人は取締員を処罰する旨を表明しましたが、群衆が求めたのは加害者張本人を差し出すことでした。2人はやむなく、台北市警察局長・陳松堅と連携して取締員6人を憲兵隊の管理下に移しました。しかし群衆は納得せず、6人の取締員の即刻逮捕を要求しました。李と楊の2人は「処罰は法律上明文化されており、勝手に答えることはできない」ということを理由に、再三説明を行いましたが、納得してもらえませんでした。群衆は取締員が憲兵隊(国民党政府傘下の新聞社・台湾新生報社の向かい)に移されると知ると、包囲しに押し掛け、加害者を差し出すよう求めました。張慕陶団長は厳しい言葉で拒否し、一小隊の憲兵に射撃の構えを取るよう命じました。群衆はこれを見て、新生報社の騎楼(張り出した2階部分の下を歩道とした場所)に隠れました。現場にいた目撃者の周傳枝はこう証言します。―当時の『台湾新生報』日本語版主編(編集責任者)の呉金錬が興味本位で現場を見に出てきて、私を見るとほほえみながらあいさつをしてきました。私が「鑼はありますか」と聞くと、呉氏は「ある」と答え、一度中に入ってから銅鑼を持ち出してきました。それから、雨が小休止すると銅鑼の音が響き、群衆はまた憲兵隊を取り囲みました。また、街では青年が銅鑼を叩き、「台湾人は恨みを晴らすためにすぐ出て来い」「出てこないやつはサツマイモ(台湾人を指す言葉)ではない」と大声で叫び、夜を徹して罵り続けました。一部の市民は台湾新生報にこの出来事を掲載するよう求めましたが、主編の呉金錬は「台湾省行政長官公署宣伝委員会」から事件を掲載しないよう命じられていたため、拒否しました。市民から「新聞社にガソリンをまいて火を付ける」と脅されたため、呉金鍊は仕方なく社長の李万居に表に出るよう要請しました。李が掲載を約束すると、群衆は新聞社を後にしました。翌日、同新聞は小さい文字で100字前後の記事を掲載しました。そのため、闇業者の取り締まりを発端に起こった傷害殺人事件は台湾光復から一年余りの間に積み重なった怒りに火をつけ、群衆は車を燃やしたり、警察局や憲兵隊を取り囲んだりするなどし、犯人を即時処刑するよう求めました。納得できる回答が得られない中、群衆が解散することはなく、ついに翌日のさらに大きな衝突が引き起こされることになりました。

16.)2月28日午前9時、市民は闇煙草取り締まりによる死亡事件が解決されないのを理由に、街で銅鑼を鳴らし、ストライキを通告しました。市民や商店はこれに呼応し、相次いで店を閉めました。一部の市民は太平町2丁目派出所前までデモ行進を行い、派出所の黄主管は制止しようとしましたが、黄は日頃、職権をかざして市民いじめをおこなっていたため、市民は黄を取り囲んで殴り、派出所内のガラスや物品などを叩き壊しました。その後、デモに参加する市民の数は膨れ上がり、10時ごろ、本町(現・重慶南路)に位置する、事件を起こした当事者の専売局台北分局に突入し、局内で取締員を発見しました。群衆はそのうちの一人が昨晩の犯人だと早とちりし、その取締員ともう一人の警察官を殴り殺し、別の4人にけがを負わせました。そして、局内にあったマッチや煙草、酒、車1台、自転車7、8台を道に捨てて燃やしました。火は翌日になっても消えませんでした。当時、その光景を眺めていた市民は2、3000人に上り、憲兵や警察が駆けつけましたが、手をつけるのは難しいと判断し、退避しました。(中略)12時ごろ、市民は南門の専売局総局に押し掛け、加害者の処罰を求めました。しかし、今度は憲兵や警察が先回りして守っていたため、ガラスを割っただけでした。(中略)群衆は専売局総局への請願が失敗に終わったため、行き先を長官公署に変えました。このほか、専売局南門工場も破壊されました。専売局が引き起こした人々の恨みはここからもうかがえます。

17.)午後1時ごろ、4、500人の群衆が駅から長官公署に向けて前進しました。鑼を鳴らす人を先頭に、参加者は大声を上げたり、スローガンを叫んだりしていました。コメ不足の中、公署でコメを受け取れると聞いて多くの人がデモに加わり、声はかなり大きいものになっていました。しかし、群衆が中山路の交差点に差し掛かると、公署広場に達していないにも関わらず、配備された兵士が銃を掲げて群衆を阻止しました。まもなくして銃声が鳴り響き、市民は逃げ回り、ある人は負傷してその場に倒れました。これが公署衛兵銃撃事件です。情勢を悪化させた重要な事件でもあります。

18.)公署銃撃事件の発生後、官民の対立は不可避となり、第2次世界大戦後に積み重なった省籍矛盾(国民政府の遷移前から台湾に暮らす「本省人」と、国民党と共に台湾に移り住んだ「外省人」の人口比率と両者の社会的な権力配分の不均衡から生じる様々な矛盾)の問題がこれによって勃発しました。本省人は公署に反抗すると同時に、外省人に対する一連の暴力行為、いわゆる「阿山(外省人の蔑称)を打ちのめす」という行為を繰り広げました。28日午後2時ごろ、群衆は台北公園(現・二二八和平公園)に集結すると、公園内のラジオ局・台湾広播電台を占拠し、台湾全土に向けて放送を行いました。主な内容は政府の汚職やコメの運び出し、庶民が生活していけないことなどを批判するもので、自らの生存のために各地の汚職役人を追い出そうと呼びかけました。しかし、板橋中継局が当局の介入により放送を止めたため、この知らせは台北地区内にしか届かなかったという説もあります。いずれにせよ、台湾は小さく、交通も便利であるため、翌日には台北での「二・二八衝突」は台湾各地で順次知られることになり、紛争は全島に蔓延しました。そして加害者処罰の要求は政治抗争へと高まっていきました。午後3時、警備総司令部は情勢の緊迫を鑑み、戒厳令を発出し、武装した軍警を市街地に派遣して乱射しました。しかしながら、市民は専売総局や鉄路警察署、交通局などを再び包囲し、軍警と衝突しました。これにより多くの市民や学生が命を落としました。警備総司令部の報告によれば、午後時点で1000人余りの群衆が郵政総局に集い、軍警の追い出しにも解散せずに衝突が起き、数十人が死傷しました。

19.)市民は怒りの矛先を外省人にも向け、無差別に報復を与えました。まず本町正華旅社と虎標永安堂が被害にあい、門のガラスを割られただけでなく、物品を運び出されて焼かれました。午後5時ごろ、栄町貿易局が開設した新台公司(台北最大の百貨店)が破壊され、物を運び出されて焼かれました。これに乗じて盗みを働き、めった打ちにされた人もいました。車やトラックを持っていれば、中にいた人は降ろされて殴打され、車両は台北駅や円環夜市付近に運ばれて焼かれました。焼かれた車は概算で十数台に上ります。市民は物を破壊するだけでなく、外省人には有無を言わさず暴行を加えました。本町や台北駅、台北公園、栄町、永楽町、太平町、万華などの地域では、多くの外省人が理由もなく暴行されました。新竹県長の朱文伯や台北市地政局長も侮辱されたり、殴られたりしました。一般的には、これは一年半の間に積もり積もった恨みが爆発した盲目的な外省人排斥暴動だとみなされています。そのため、罪なき一般の公務員やその家族、旅行や商売で訪台した外省人がスケープゴートとなりました。驚くべき暴行事件も多く発生しました。(中略)かつてこれらの行為を目撃したことがあるという当時連合国救済復興機関に務めていた汪彝定さんは、多くは棒や棍で殴るというもので、日本刀は見たことがないと話します。女性や老人を攻撃するという行為は多くなく、強姦もたまに聞く程度だったといいます。暴行されて死亡した外省人は少なくとも15人に上り、暴行によって身体機能が奪われた人もいるとされています。

20.)憲兵団長の張慕陶は、台湾の情勢はすでに「叛逆・権利奪取の段階」に来ており、地方政府は完全に統制能力を失い、暴徒は各地の軍警から計4000本以上の武器を取り上げたと指摘しました。また、陳儀を「まだ事態の深刻さを理解していないようだ。相変わらず平和を装っている」と非難しました。

 台北市はこの政治の嵐の中心となり、この嵐は後に台湾本島各地に蔓延していきました。そして台北市の「二・二八事件処理委員会」[説明21]と各地の分会がこの政治紛争の主役でした。紛乱の期間、日頃から庶民の心を掴んでない地方の役人は当然のごとくこぞって職を放棄して避難しました。一方で、秩序の維持に取り組むために処理委員会に協力しようとする役人も情勢に迫られ、身の安全のために一時的に身を隠すほかありませんでした。台北市の処理委員会と各地の分会はそれぞれ民意の取りまとめや秩序の維持、政治改革の推進といった重要な任務を担いました。また、行政長官公署との意思疎通も担当し[説明22]、一時は公署と各地方政府の機能を代わりに負いました[説明23]。しかし、処理委員会自身も意見が入り乱れ、指揮系統が一元化されておらず、各地も従うべき統一された運営綱領がなかったために、政局を安定させる機能を十分に発揮することはできませんでした。

 事件の勃発後、各地の衝突は絶えず拡大し、一部地域では中国共産党やその支持者が機に乗じて介入しました。台中地区で「三二事件」[説明24]を主導した謝雪紅と楊克煌はその一例です。謝は「市民大会」を開催しただけでなく、デモ隊を利用して台中市の公的機関を全面的に接収しました。さらには青年学生組織「二七部隊」[説明25]を利用して武装勢力を後ろ盾とし、民主主義政治を徹底的に勝ち取ろうとしました。処理委員会が取る議会路線のほかに、もう一つ別の武装路線を切り開いたのです。

 嘉義地区は3月2日事件[説明26]が発生して以降、その他の地域とは異なる様相を呈しました。第一に、各地の市民が武装部隊を結成し、紅毛埤造兵廠や嘉義飛行場を攻撃する軍事行動に参加しました[説明27]。しかし、参加者の大半は烏合の衆でした。第二に、嘉義地区は多くの市民がこれらの行動を支持したため、孫志俊市長は、嘉義地区は「争いの激しさと公務員、教員の被害の深刻さにおいては全省一だといえる」とみなしていました。

 高雄地区は3月3日から市民による騒動が発生しました。群衆の行動は次第に過激化し、一○五後方医院と憲兵隊などを取り囲んで攻撃を加えました[説明28]。高雄要塞司令の彭孟緝はこの行動を反乱同様だとみなし、兵を待機させました。3月6日午後2時、彭孟緝は司令部がある寿山まで交渉に来た代表を拘留し[説明29]、すぐさま兵を出して鎮圧しました[説明30]。高雄地区のごたごたした不安な情勢は安定したものの、軍事攻撃によって高雄市政府内[説明31]や駅前[説明32]では罪なき市民が死傷しました。その後の清郷(粛清)で1500人の容疑者を逮捕し、一部は銃で公開処刑されました。これは衝突の傷跡が長年たっても癒えない重要な原因だと言えます。


説明:

21.)3月1日、台北市参議会は民意を反映しようと、台湾出身の国民大会代表や省参議員、国民参政会参政員を招いて午前10時に中山堂で集会を開き、「緝菸血案調査委員会」(煙草取締殺傷事件調査委員会)を立ち上げました。会議では、黄朝琴・台湾省参議会議長、周延寿・台北市参議会議長、王添灯・台湾省参議員、林忠・国民参政員らが代表者として行政長官と謁見することを決議し、数項目の要求―戒厳令の解除、逮捕した市民の釈放、軍隊や警察の発砲禁止、官民共同で処理委員会を設置、陳儀がこれらの内容を全省向けにラジオ放送すること―を提出しました。陳儀はこれらを全て受け入れ、委員会名称は「二・二八事件処理委員会」にするほうが適切だとの考えを示しました。これが当該委員会の名称の由来です。
処理委員会は委員会自身の機能を強化させる一方、宣伝活動を繰り広げました。6日午後、中山堂で設立大会を正式に開き、王添灯が会議主席を務め、その場で常務委員を選出しました。選ばれたのは、国民参政員の林献堂、陳逸松、国民大會代表の李万居、連震東、林連宗、黄国書、台北市参議員の周延寿、潘渠源,簡聖堉、徐春卿、呉春霖、省参議員の王添灯、黃朝琴、蘇維樑、黄純青、林為恭、郭国基です。補欠には洪火煉、呉国信が選ばれました。

22.)7日午前、陳儀は処理委員会に書簡を出し、各方面の代表にまとまりがなく、意見がばらばらであるため、まずは処理委員会が協議して意見を取りまとめてから長官公署に提出するよう通知しました。

23.)3日から5日にかけて、全省の各県市で処理委員会が相次いで設置され、公署の権力はすでに空白化していました。

24.)3月2日午前、台中市民が台中戯院に集結し、(中略)市民大会を開催しました。午前9時、私立建国工芸職業学校の教員・楊克煌が開会を宣言するとともに、台北事変の発端と市民の請願のあらましを報告し、台北市で起きた行動と要求した事項について説明しました。続いて、参加者一致で建国工芸職業学校校長の謝雪紅を大会主席としました。謝は主席就任後、「光復以来の陳儀の暴虐政治の事実と現在の台湾の情勢を詳細に述べ、『台湾の人々の苦痛を解くためには、人々が団結して国民党の一党独裁を終わらせ、台湾人民の民主的な自治を即刻実施しなければならない。したがって、今回の台北市民の勇気ある蜂起に呼応しなければならない。犠牲を恐れずに徹底的に戦い、徹底的に勝利を収めるのだ』と強調しました」。謝の演説が終わると、「台湾省政治建設協会台中分会」の代表・巫永昌と弁護士代表の張風謨らが相次いで発言し、「政府を攻撃するため、省内外の感情を分離させる言葉」も発しました。10時ごろ、参加者の群衆は擁護の立場を示そうと、デモ行進の実施を決めました。デモ隊は消防車を使って警笛を鳴らし、蜂起に呼応して抵抗運動にこぞって参加するよう市民に呼びかけました。全市は突如騒然となり、緊張が高まりました。

25.)(3月6日)謝雪紅はその政治的主張を貫徹し、徹底的に抗戦するため、400人余りの青年や学生を集結させ、第八部隊内に「二七部隊」を組織し、自ら総指揮官に就任しました。鍾逸人を隊長、蔡鉄城を参謀に就かせ、その他の重要幹部には楊克煌、李喬松、古瑞雲らを充てました。基本部隊は鍾逸人の腹心である黄信卿を長とする埔里隊、何集淮、蔡伯勳を長とする中商隊(隊員中数名が中国共産党員)、呂煥章(中国共産党員)を長とする中師隊、黄金島を長とする警備隊(独立治安隊)、李炳崑を長とする建国工芸学校学生隊でした。このほか、林大宜が農村から募った元日本兵の農家や延平学院の学生、元日本軍砲兵少尉、元日本軍工兵なども部隊にいました。また、少人数でまとまって出頭した人もいました。「二七部隊」の設立は謝雪紅が武力で地方政府に対抗しようという具体的な表れであり、「この民兵は処理委員会の議会路線のほかに、また別の武装路線を新たに切り開きました。中部や南部の武装闘争において、『二七部隊』の反抗は最も長く持ちこたえました」。

26.)3月2日午後3時、彰化や台中から南下してきた若者数十人が嘉義駅と噴水池の間にやって来て、そのうち銃を背負った30、40歳くらいの人が街中で、孫志俊市長の官舎を燃やしに行こうと市民に呼び掛けました。孫市長は状況がまずいと判断して外に飛び出し、憲兵隊のほうに逃げようとしましたが、無情にも群衆が寄り集まってその後をぴったりと追いかけてきました。危険な状況でしたが、幸いにも市参議員の林抱と林文樹が助けに入り、無事に憲兵隊までたどり着くことができました。
孫市長の逃走と時を同じくして、街では外省人を暴行したり、警察局を包囲して銃を接収する行為が行われていました。警察はすでに相次いで持ち場を離れていたため、市街地は混乱に陥りました。孫市長は午後5時、電話で駐留軍と連絡を取る一方、議長の鍾家成に治安や秩序の維持に出ていくよう要請しました。3月3日、市民大会が開かれ、嘉義市「二・二八事件処理委員会」が立ち上げられました。三民主義青年団嘉義分団準備処主任の陳復志が主任委員兼作戦司令官に、李曉芳は秘書に就任しました。その下に各チームや部隊が置かれました。

27.)嘉義市「二・二八事件処理委員会」は数時間の協議の末、ラジオ局の乗っ取りを決め、ラジオ放送を通じて全市や台湾全土各地に「志願軍の募集」をかけました。この呼びかけで、布袋や朴子、塩水、佳里、六脚、番路、斗六、台中、埔里、北港、台南工学院などから人々が相次いで嘉義に応援に駆けつけました。当時、東門町を守っていた第二十一師独立団第一営(駐屯地)の羅迪光営長は孫市長の要求によって鎮圧のために市街地に入り、局面に変化が生まれました。強力な武器を有する軍隊が相手では敵わないため、処理委員会は交渉のために参議員を憲兵隊に向かわせ、平和的解決を目指しましたが、双方の条件は開きがあまりに大きく、合意には至りませんでした。この日嘉義にやって来た各部隊約3000人が憲兵駐屯地や紅毛埤第十九造兵廠や嘉義飛行場、東門町軍駐屯地への攻撃を開始しました。3日夜9時、市政府は占拠され、外省人の警察官は全員、局長の林天綱の先導の下で東門町に退避しました。

28.)3日、台北から南下してきた「浮浪者百数十人」が台南方面からトラック数台に分かれて市街地に入り、台南工学院の学生も高雄に到着しました。高雄の「二・二八事件」はこれを皮切りに勃発しました。まず、一○五後方医院の独立団第七連の国軍第一陣が攻撃され、憲兵隊を攻撃しようと塩埕町にも4、500人が集まりました。外省人を暴行、侮辱したり、商店を奪い取ったりする行為も頻発し、市街地の治安は混乱を呈しました。この日の夜、警察局長の童葆昭が乗る車が燃やされ、要塞司令部に保護を求めてやって来ました。未明、警察局の電話線は切断され、武器が奪われました。一部の本省人警察官は武器を持って逃げ、家に戻って治安維持の職務を放棄した人もいれば、市民の攻撃行為に加わった人もいました。

29.)6日午前9時、罠だと知らない市長ら7人(彭清靠・市議会議長、凃光明、范滄榕、曽豊明、林界・苓雅区長、李仏続・台電高雄弁事処主任)は寿山に赴きました。黄仲図市長の話によれば、制圧の方法について指示を請うために司令部に向かおうとしていたところ、(中略)数十人が銃刀や手榴弾を持って市政府に押し入り、市長を罵倒しました。それは、リーダー格の凃光明らが違法な条件を出して国軍に規定違反の要求をしようと、市長と参議会議長に市民の代表を率いて司令部に行くよう武器を持って迫っているという内容でした。(中略)7人の代表が要塞司令部の応接室に入った後、彭孟緝要塞司令は別の小さな扉から中に入り、双方は円卓を囲むように座りました。市長と議長は彭司令の左右に、凃は彭司令の正面に座り、市長は和平条項9条を取り出して彭司令に見せました。彭司令は交渉に応じるつもりは元々なく、時間を先延ばししているだけだったため、すぐさまテーブルを叩いて「ばかげている」と激怒し、大声で部下を呼びました。部屋の外にいた官兵は声を聞いて中に入り、代表らを一人ずつ身体検査しました。彭孟緝の話では、凃は銃を持っており、范と曽の2人は手榴弾を持っていたといいます。凃と范、曽の3人は逮捕され、その他は衛兵の監視下でだまってその場に座っていました。

30.)彭孟緝の指揮の下、兵は3手に分かれて鎮圧に向かいました。一つは建国三路を経由し、もう一つは寿山の要塞司令部からまっすぐ下り、鼓山一路と大公路の陸橋を超えて市政府に向かうルート、3つ目は踏切を超えて五福四路に入るルートです。各ルートは3班で構成され、それぞれ約100人がいました。

31.)6日午後、市政府に進攻したのは守備大隊の陳国儒の部隊です。市政府の上の階には機関銃が設置されていたため、軍は市政府にいる人々を暴徒とみなしました。そのため、市政府に到着すると命令どおりに空中に発砲するのではなく、まず手榴弾を投げ込み、相手が見えたところで発砲しました。市政府にいた人は全く抵抗できず、多数が死傷しました。市参議員の許秋粽や黄賜、王石定など5、60人が市政府で命を落としました。参議員の邱道得が命令に応じて軍の慰労のために市政府に入った際、足元は死体だらけで、血がぬかるみのように広がっていました。

32.)駅と第一中学を主に攻撃したのは二十一師何軍章団第三営です。2手に分かれて(中略)駅に到着しました。高雄第一中学卒業生の顔再策が学生を率い、前進してくる部隊を追い払おうと長春旅社から発砲しました。しかし火力が足りずに危険を犯して飛び出し、急所を撃ち抜かれました。駅前にいた人々はこの光景を目にすると逃げたり地下道に隠れたりしました。軍隊は地下道を掃射し、多くの死者が出ました。

 事件が次第に各地に広がっていきましたが、陳儀は兵力の不足の懸念[説明33]と自身の職位の維持を鑑み、元々は事件が大事にならないよう処理し、政治的手段で解決するつもりでした。「二・二八事件処理委員会」に加わった人々も当初はただ単に闇煙草取締事件の解決を求めているだけでしたが[説明34]、長官公署の不適切な対応によって、加害者処罰を求める単純な請願事件は政治改革運動へと変貌しました。さらには、人々の士気の高まりによって、その訴えは次第に大きくなっていきました[説明35]。しかしながら、各地の処理委員会はまとまりがなかったため、中央政府に「国家反逆」の動きだとみなされ、治安機関が出兵を要請して鎮圧する口実となりました。政府はなぜ兵を出して鎮圧しようとしたのでしょうか。現存の档案(公文書)や各種文献、口述資料などからは、当時の中央政府の対応が台湾の為政者の意見に左右されていたことが見て取れます。事の始まりにおいて、陳儀や柯遠芬・台湾省警備総部参謀長ら台湾の軍政を司る権力者は台湾社会の当時の状況を理解しておらず、市民や処理委員会の要求についてはおしなべて理不尽な要求だとみなすか、あるいは取るに足らないと考えていました。そこで、内部分裂[説明40]や浸透の戦略を用い、危機の鎮静を図りつつ、続けて衝突の深刻さを誇張し、武力鎮圧を進めるために中央政府に兵の派遣を要求しました。

 政府の文献を読み解くと、蒋介石主席は当初鎮圧を主張してはおらず、加勢軍団の派遣に同意しただけだったことが分かります。これは「帰建」(軍隊を元の駐屯地、部署に返すこと)であり、主には防備が目的でした。その後、蒋介石は陳儀や各情報機関からの要請を受け取ったことで、この事件を「反動暴民」による暴乱とみなすようになり、台湾人団体の陳情を軽んじて[説明41]、平定に向けて派兵を決めました。平定作戦[説明42]は武力掃討と清郷(粛清)の大きく2つに分かれます。武力掃討に関し、実行に移すまでに長官公署が周到な計画と準備を整えていたことに加え、各地の動乱が実際には公署が宣伝していたほど深刻ではなかったこともあり、掃討作戦は予定よりもはるかに早く進みました。中部地区の「二七部隊」の残部が少しの抵抗にあった[説明43]のを除き、その他の各地[説明44]ではほとんど戦闘は起こりませんでした。ただ、平定の地域部隊が武力掃討作戦を実行する際、報復行為は確かにあり、罪なき市民が死傷したり、容疑者が裁判を経ずにその場で銃殺刑に処せられる事態も発生しました[説明45]。

 軍事鎮圧行動の後、続けて清郷(粛清)作戦が行われました。その主な目的は容疑者の逮捕[説明46]、武器、軍用品の接収、戸籍の点検、自首転向の手続き[説明47]、連保連座(国民党が実施した保甲制度の一つ)誓約書の取得などで、全て予定通りに完了しました。ただ、状況が状況だけに、罪をでっち上げられたり、私怨によって報復された容疑者も少なくなく、軍や憲兵は詳細な調査もしないまま軽々しく逮捕し、処罰しました。そのため、多くの冤罪が生まれました。また、罪が確定した者が賄賂の根回しや特殊な口利きによって罪を逃れるといったケースや、軍や警察が不法に恐喝やゆすりを働いたり、機に乗じて私人の財産を掠奪するなどの違法行為もあり、人々の怨恨が形成され、世間から非難を浴びました。率直に言えば、これは当時の軍事当局が有効的に防御や統制をすることができておらず、軍紀教育もまた不十分だったことから引き起こされたものであり、当局は多くの命が罪もなく犠牲になったことの責任を負う必要があります。

 「二・二八大虐殺事件」は台湾の歴史上の一大悲劇です[説明48]。悲劇というのは、2つの面から見て取れます。台湾人犠牲者にとっては、日本統治時代の帝国主義者による迫害で死ぬのではなく、日夜回帰を望んでいた「祖国」の軍警の鎮圧によって死んだという点です[説明49]。彼らはもしかすると、政府批判や台湾人自治の要求といったものは政府に対する反逆行為ではないと信じていたのかもしれません。しかし、あろうことかこれによって処刑され、その多くは公の審判の手続きを経ていませんでした。あるいは秘密裏に処刑され、遺体が不明な人もいます。これは断じて文明社会のやり方ではありません。さらには、一部の死傷者は反政府的行動には全く参加しておらず、ただ軍隊の平定作戦での掃射によって冤魂となりました。もう一つは第2次世界大戦後に台湾に公務でやって来た大陸籍の人の面から見たものです。一部の軍人や公務員は汚職や不正行為などの悪行を働いていたものの、台湾に来た全ての職員が汚職をしていたわけではありませんでした。しかしながらこの事件において一部の大陸出身者はスケープゴートとなり、怒りに燃える群衆から手あたり次第に攻撃され、死傷しました。その数は台湾人の犠牲者ほどではありませんでしたが、恐怖感から台湾を離れた公務員や教員もおり、これらの現象は大陸と台湾の間の溝を深めました。外省人を殴打したり、各機関や空港を武力攻撃、ひいては命を傷つけたりした者は法律による制裁を受けるべきだということは否定できません。よって、全ての「二・二八大虐殺事件」の死傷者がいずれも無実の犠牲者というわけではなく、区別する必要があります。


説明:

33.)台湾に駐屯する兵力をみると、事件前の編制は21師の独立団と工兵営、3つの要塞守備大隊で、総兵力はわずか5251人でした。このうち、3つの要塞守備大隊が1532人、工兵営は517人で台中以北の監護勤務を担当し、独立団の2500人は嘉義以南の監護勤務を担当していました。警備総司令部本部が掌握する兵力は独立団の1営約700人のみで、兵力が手薄だったため、台北を防衛する任務を担うには足りませんでした。

34.)(3月6日)王添灯は各方面の疑念を晴らすため、中国や海外向けのラジオで「二・二八事件」に関する真相の全文を読み上げました。主な内容は、処理委員会の目標が「汚職官僚を粛清し、本省の政治改革を勝ち取る。外省人同胞が本省の政治の改善に関与するのを排斥しようとしているのではない」という点を説明するものでした。文中では事件の処理方法が示されました。おおまかに「現在の処理に対して」が7条、「根本的処理」が25条(軍事3条、政治22条)で、これがよく知られる「32条の要求」です。その条文は以下の通りです。

一、現在の処理に対して

1. 流血を伴う衝突事件の発生を食い止めるため、政府は各地の武装部隊に対し、武装や武器の一時的解除を命じ、各地の処理委員会や憲兵隊に引き渡して共同で保管させる。

2. 政府の武装部隊が武装を解除した後、地方の治安維持は憲兵隊と非武装警察、市民組織が共同で担う。

3. 各地に政府の武装部隊による脅迫がない場合、武装闘争の行動は決してあってはならない。汚職官僚に対しては本省人、外省人に関わらず、検挙をして処理委員会に憲兵や警察と共に逮捕し、法で厳しく裁くよう要請するのみにとどめ、危害を加えて問題を起こしてはならない。

4. 全面的解決のため、政府改革に対する意見は要求条件を列挙し、各省の処理委員会に提出することができる。

5. 政府は兵力の再動員、あるいは中央政府に対する派兵要請をしてはならない。武力によって事件の解決を図ることでさらに深刻な流血事件を引き起こし、国際社会の干渉に至らしめてはならない。

6. 政治問題が根本から解決するまでは、政府は一切の施策(軍事、政治問わず)について処理委員会にまず問い合わせる必要がある。人民が政府の誠意を疑い、各種の誤解が生じるのを防ぐためである。

7. この事件について、民間に対して責任者を追究すべきではなく、将来的にも何らかの口実でこの事件の関係者を逮捕してはならない。この事件によって死傷した人民には最大の見舞金を授けるべきである。

二、根本的処理

甲、軍事面

8. 教育や訓練が不十分な軍隊は決して台湾に駐留させてはならない。

9. 中央政府は職員を派遣し、台湾での徴兵、台湾防衛をすることができる。

10. 内陸の内戦が終息を迎える前は、台湾防衛を目的とする場合を除き、台湾での徴兵には決して反対しない。台湾が内戦の渦に巻き込まれるのを防ぐためである。

乙、政治面

11. 国父の建国大綱の理想を実現させるため、省自治法を制定し、本省の政治の最高規範とする。

12. 県市長は本年六月以前に民選を実施し、県市参議会は同時に改選する。

13. 省各処長の人選は省参議会(改選後は省議会)の同意を得る必要がある。省参議会は本年六月以前の改選に関し、現時点でその人選は長官により提示され、省処理委員会に審議が任される。

14. 省各庁長・処長の3分の2以上は本省に10年以上居住する者が務める。(秘書長、民政、財政、工鉱、農林、教育、警務などの処長はこれを満たすのが好ましい)。

15. 警務処長および各県市警察局長は本省人が務める。省警察大隊および鉄道工鉱などの警察は即刻廃止する。

16. 法制委員会委員の半数以上は本省人とする。主任委員は委員が相互に選任する。

17. 警察機関以外は犯人を逮捕してはならない。

18. 憲兵は軍隊の犯人を除き、逮捕してはならない。

19. 政治性を有する逮捕、拘禁は禁止する。

20. 非武装の集会、結社は絶対に自由である。

21. 言論、出版、ストライキは絶対に自由である。新聞発行の申請登記制度を廃止する。

22. 人民団体組織条例を即刻廃止する。

23. 民意機関選挙弁法を廃止する。

24. 各級民意機関選挙弁法を改進する。

25. 所得の統一累進課税を実施し、嗜好品税や相続税を除き、いかなる雑税をも徴収してはならない。

26. 一切の公営事業の管理者は本省人が担当する。

27. 民選の公営事業監察委員会を設置する。日本時代の公有資産処理は省政府に全権を委任する。接収した工場や工鉱には運営委員会を設置するべきであり、委員の過半数は本省人を充てなければならない。

28. 専売局を取り消し、生活必需品は配給制度を実施する。

29. 貿易局を取り消す。

30. 宣伝委員会を取り消す。

31. 各地方法院(裁判所)院長、各地方法院主席検察官には全て本省人を充てる。

32. 各法院の推事(現在の裁判官)、検察官以下の法曹の各半数以上には省民を充てる。

35.)7日午後、処理委員会は全体大会を開き、様々な声が飛び交う中でもともとの32条の要求に加え、新たに追加された10条を可決しました。10条の内訳は軍事関連が2条、政治関連が8条で、これが42条の要求となりました。追加された10条の条文は以下の通りです。

1. 本省陸海空軍は可能な限り本省人を採用すべきである。

2. 台湾省行政長官公署は省政府制度に変更すべきである。ただし、中央政府の承認を得るまでは二・二八処理委員会の政務局が組織改編を担当し、普通選挙による公正な賢達の者を職務に充てること。

3. 処理委員会政務局は3月15日までに立ち上げること。立ち上げ方法は各郷鎮区代表によって当該区の候補者1人を選び出し、それから当該県市の管轄参議会で選ぶ。定数は台北市2人、台北県3人、基隆市1人、新竹県3人、台中市1人、台中県4人、彰化市1人、嘉義市1人、台南市1人、台南県4人、高雄市1人、高雄県3人、屏東市1人、澎湖県1人、花蓮県1人、台東県一人の計30人とする(実際は29人)。

4. 労動営およびその他の不必要な機関の廃止または合併は、処理委員会政務局の検討によって決定されなければならない。

5. 日本財産処理については省政府に帰属し、省政府による処分を要請する。

6. 軍権の乱用を防ぐため、警備司令部は取り消されるべきである。

7. 高山同胞の政治的、経済的地位および享受すべき利益は確実に保証されなければならない。

8. 本年6月1日から労働保護法を施行する。

9. 本省人の戦犯および漢奸(裏切り者)の疑いで拘禁された者について、無条件での即時釈放を求める。

10. 中央政府に送付した食用砂糖15万トンについて、時価で見積もった金額を台湾省に繰り入れることを中央政府に求める。

36.)陳儀は台湾籍の議員の要求に同意し、官民合同の処理委員会を組織しました。同時に陳儀、柯遠芬、張慕陶らはすぐに蒋渭川らに連絡し、処理委員会の上層部の分裂を図ると共に、軍事委員会調査統計局(軍統局)職員の許徳輝を忠義服務隊隊長兼処理委員会治安組組長の座につかせました。軍統局台北站の林頂立站長は警備総司令部の義勇総隊長に任命され、「裏切り者を分裂させ、民衆の力を用いて裏切り者を打ちのめす」という任務を実行しました。その中で、党政軍各派が機に乗じて力比べをしようとする動きもあり、中国国民党中央執行委員会調査統計局(中統局)は蒋渭川と王添灯を機に乗じる者だとして絶えずあおり、軍統の柯遠芬はまた、蒋と王の2人を党が新たに取り込んだ悪劣な紳士だとみなしました。そして、処理委員会の設立当初、委員の多数は依然として国民党党員でしたが、省党部は正しい道に導くということはせず、反対に心中は「他人の不幸を願う」というものでした。その結果、処理委員会が複数の指導者の下で運営される中で政治的要求は絶えず高まり、そして軍事鎮圧が公署にとって正当な選択となりました。

37.)後に中国共産党員となった蘇新によれば、「32条の要求」は王添灯の取り巻きだった左翼青年の潘欽信、蕭友三、蔡慶栄、蘇新らが起草しました。さらには、中国共産党地下組織の責任者の同意も得ていました。(中略)国民参政員の陳逸松は当時を振り返り、確かに王添灯のために原稿を書いた左翼青年がいたと証言しました。しかし、台湾共産党員は中国共産党に逃げ入った後、多くは二・二八事件における中国共産党および自身の重要性を強調することになり、信用性は差し引いて考える必要があります。「蔡孝乾スパイ事件」の取り調べに加わった軍統局員の一人によれば、中国共産党の当時の台湾における勢力はごく小さく、古くからの台湾共産党員が等しく中国共産党員だったわけではないということです。

38.)32条の要求が出された際、会場では軍統やC.C.(中統)などの諜報職員が動いていたとされています。C.C.の白成枝や呂伯雄、軍統の許德輝などがそうです。追加された10条の一部は、軍統やC.C.が鎮圧の口実とする狙いで出したものです。例えば、政治関連の第29条「本省人の戦犯と漢奸の即時釈放」は国民大会代表兼台湾鉄道党部書記長の呉国信によって出され、その他の人はこれに呼応して可決を求めました。また一説には、代表から出された要求は12条しかなく、後の32条と追加された10条は「憲政協会」メンバーが可決を求めたものだとも言われています。

39.)8日、処理委員会は声明を出し、前日可決した決議案をひっくり返しました。会議の参加人数が多く、前日可決した42条は推敲が間に合っておらず、不当な要求があったと説明しました。例えば「警備総部の取り消しや国軍の武器引き渡しは中央に背くことに近く、決して省民の総意ではない」などです。

40.)事件発生後、劉啓光が武力による徹底的な鎮圧を主張した一方、参謀長の柯遠芬、警備総部調查室主任の陳達元、軍統局台湾站長の林頂立らは「民衆の力で民衆の力に対抗する」と主張していたとされています。柯遠芬は2月28日、諜報職員に対し、処理委員会の主謀者を調査、監視するよう命じました。公署は台湾に駐留する兵力の手薄さから鎮圧には不十分だという点、もう一つは社会運動を解決する最良の方法は外からの抑えつけではなく、内部の分裂、解体であるという点を考慮し、2番目の策略を採用することにしました。それは蒋渭川が率いる「台湾省政治建設協会」の勢力を利用し、処理委員会の力を削いでいくと同時に諜報職員を処理委員会に入り込ませることで、頃合いを見て行動に移すというものでした。2月28日と3月1日、憲兵第四団団長の張慕陶は2度にわたって蒋渭川に書簡を出し、「表に立って終局を収拾」するよう促しました。1日の夕方、柯遠芬も書簡を送り、危局の収拾への協力を蒋に求めました。これらのことから、公署側がすでに分裂の策略を準備していたことがうかがえます。

41.)3日午前、処理委員会は蒋介石主席に事件の真相を報告することを決め、午後4時、台湾省民衆大会の名義で電話を掛け、公署が放任した軍や警察が無差別に発砲し、民衆を射殺したことで省民の怒りが巻き起こったことや、光復以来の劣悪な政治や不法行為の横行、省民が何度も改善を要求しても全く効果がなかったことを指摘しました。また、中央政府に対し、職位の高い官僚を台湾に派遣し、民衆の怒りを鎮めるために調停し、地方自治を即座に実施するよう求めました。同日、台湾旅滬同郷会理事長の李偉光が蒋主席に手紙を書き、悲惨な事件の真相を徹底的に調査し、事件に伴う法律的、道徳的責任を厳しく罰するよう、そして台湾人の見聞を新たにすべく、官僚による統治を透明化するよう請いました。これらから、蒋主席は各方面の情報と見解を十分に把握していただけでなく、省民の意見と期待についても理解していたことが分かります。

42.)3月10日、陳儀は全省に向けて戒厳令をラジオ放送し、平定工作が本格的に始動しました。

43.)15日、国軍は引き続き埔里方面へ進んでいき、包囲範囲を狭めていきました。(中略)二七部隊は外部につながる2本の主要道路が封鎖されたため、連絡の利便性が失われ、非常に不利な情勢となりました。そこで陳明忠を派遣して突撃隊長を務めさせることを決め、兵は3手に分かれて日月潭方面の国軍を夜襲しました。また、警備隊長の黄金島は1小隊を率いて烏牛湳橋を守り、腹背に敵を受けるのを防ぎました。突撃隊と国軍436団第2営第4連は日月潭付近で激戦を繰り広げ、国軍は多くの死傷者を出して水裡坑への撤退を余儀なくされました。しかし、突撃部隊も死傷が甚大で、弾薬も尽きようとしていました。翌16日、国軍436団第2、3営の一部の兵力はまたも烏牛湳橋を守る黄金島の部隊と激しく戦いました。戦闘が始まった当初、小隊は地の利を生かして国軍に大きな損害をもたらし、多くを死傷させました。それからまもなくして、火力が国軍にはるかに及ばず、作戦の経験も不足していたために次第に劣勢に追い込まれ、国軍の火網に包囲されました。やむを得ず、黄金島が率いる部隊の隊員1人が国軍の火力の封鎖線を突破して「二七部隊」本部に助けを求めに駆け戻りました。しかし、同隊本部の武徳殿は無惨な状態で、みな恐れをなしており、呼び掛けに応じた人は十人余りしかいませんでした。同日夜、「二七部隊」は武器や弾薬が補給できず、敵に挟まれていて他部隊と連絡を取ることもできず、これ以上は持ちこたえられないことから、一時的に部隊の解体を決め、嘉義小梅に向かい陳篡地の遊撃隊に加わるか、各自帰宅するなどしました。深夜11時、隊員がそれぞれ武器を埋めた後、解散を宣言しました。

44.)14日、(嘉義市)国軍は斗六に進攻し、「斗六鎮建安医院院長」の陳篡地の残りの部隊(斗六警備隊、二七部隊には属さない)と斗六鎮で市街戦を繰り広げました。陳は多勢に無勢と判断し、隊員全体を率いて嘉義付近の小梅山山中に逃げました。16日、国軍436団第8連は小梅以東の地域に進み、陳の残部200人余りと激しく戦い、十数人を撃ち殺し、歩兵銃20丁、重機関銃2丁、擲弾筒1筒、山砲1門を奪いました。2日が過ぎ、436団第7連は小梅付近で残りの100人余りと激しく戦い、60人余りを撃ち殺し、12人を捕虜としました(並びに武器や弾薬を奪いました)。19日から、陳は遊撃戦を持久戦とするため、相次いで山地に撤退し、全ての武器や弾薬と付近の村民の食糧、牛車など全部を持ち去りました。陳はまた、各地の賛同者に呼び掛け、山奥に身を潜めて一年の作戦計画を実施しました。20日、21師は残部が山地に潜伏していることを懸念し、436団第8連を小梅付近に進攻させ、数時間にわたり激しく戦い、ついには相手を逃げられなくしました(並びに武器、弾薬を奪いました)。
小梅、樟湖一帯は地形が険しく、守りやすく攻めにくい場所です。その後、国軍は数度にわたり派兵し、多くの残衆を撃ち殺しましたが、徹底的に消滅させることは一向にできませんでした。5月16日、魏道明が台湾省主席に就任し、戒厳令を解除、清郷(粛清)を終わらせ、警備総部が各平定区を警備区とするまで、陳篡地の残部は依然として小梅や樟湖などで遊撃戦を繰り広げていました。

45.)基隆平定司令部は(中略)21日までに、大方の掃討任務を終わらせていました。統計によると、2月28日から3月11日までに、軽機関銃6丁(全て修理前)、歩兵銃139丁(大部分が修理前)を鹵獲(ろかく)し、ライフル弾34643発、軽機関銃弾39897発、ピストル弾5183発、重機関銃弾9592発、手榴弾549個、戦防砲弾35発を使用しました。(中略)使用した弾丸の数がほぼ十万に達していることは、基隆要塞司令部が強大な火力で力強く掃討を図ったことを示しています。したがって、死傷者数は約100人どころではない可能性があり、事実についてはさらなる詳しい調査が待たれています。
基隆平定部は地域ごとに独自に事件を処理させていたとみられています。例えば、頭城媽祖廟前で郭章垣ら7人が射殺された事件や八堵駅事件、羅東で陳成岳や張雲昌、趙桐、基隆市で楊元丁、金山で許日生、許甲長、徐士明、簡徳発、陳金埤、田文寛、施金栄らが射殺された事件は、遺族の話によれば、いずれも現地の駐屯軍が独自に処理し、法執行官による取り調べや審理を経ていなかったということです。そのため、犯人の名簿や処理報告などは残されておらず、社会の信頼を得ることは実に難しいものとなっています。兵士が街で掃討作戦を行っていた際、逃げ遅れた人は即座に射殺され、あるいは有無を言わさず勾留所に入れられました。しかし、金銭や貴重品の賄賂を行えば釈放されました。暴力を伴う供述の強要や痛めつけなどにあった後に処刑された人も少なくなく、上海在住の台湾出身者でつくる6団体は各方面の報道と風説を総合して共同で報告書を提出しました。報告書では「基隆の軍隊は人々のかかとにワイヤーを通し、3人または5人を1組として縛った。1人の場合は麻袋に詰めて海に捨てた。最近、基隆の海面には遺体が浮いているようだ」「基隆の軍隊は青年や学生20人の耳、鼻や生殖器を切断してから刃物で刺殺した」と指摘しました。調査に応じた人の中には、家族の遺体を探す際に同様の惨状を目撃した人も少なくありません。

46.)1947年11月の警備司令部の総括報告によると(中略)逮捕者は計1800人でした。

47.)警備総司令部は1947年4月30日、(中略)自首転向者は3022人だったと発表しました。

48.)「二・二八事件」は台湾史上最も痛ましい悲劇です。当時の死傷者は数千、ひいては万単位に上る可能性があり、社会のエリートから小市民まで、ありもしない罪をふりかけられて亡くなった人は数知れません。そのため、犠牲者遺族や人々にとってこの事件は忘れられないものとなり、人的要素によってもたらされたこの不幸な事件は後の台湾独立運動や左翼思想、ひいては省籍矛盾の形成につながりました。台湾社会の調和、さらには未来の社会の発展に深刻な影響を与えたのです。

49.)「宜蘭省立医院院長の郭章垣は遺言で次のような言葉を残しました。『祖国と生き別れ、死して祖国に帰る。生と死は天命であり、無想無念である!』」(李筱峰著、『二二八消失的台湾菁英』、p.170)

 まずは、公式に有罪と認定された者です。政府は「二・二八大虐殺事件」を国家反逆行為と認定したからには抗争組織の参加者と暴動者を一様にいわゆる「ブラックリスト」に入れることは避けられず[説明51]、それらの人々を逮捕、処刑しました。しかしながら、事件の関与に関する認定に誤りがなかったか、正しい執行が行われたのかについては、調査研究によれば多くの不正行為が存在していたのは確かです。まず、ほとんどの参加者に当初、国家反逆の意図はなく、台湾政治の改革を求めるだけだったものの、「政府転覆を目論んだ」との罪名で処分されました。これは納得できるものではありません。次に、一部の犠牲者は秘密裏に逮捕され、死因も不明となっています。裁判を経て成立した罪名で処刑されたのか、はたまた仇討ちとして機に乗じて殺されたのか。これは犠牲者遺族の深い痛みとなっています。今(2007)年、この虐殺事件の責任帰属報告が公表され、当時の蒋介石主席が最大の責任を負うべきだと確認されました。

 次は、戒厳令を破った者です。動乱によって戒厳令が出されたことは本来過度に責められるべきではありません。しかし、本省同胞は戒厳令の経験がなく、戒厳とはなにか知らず、また、多くの人は国語(台湾華語)あるいは大陸のその他の方言に通じていませんでした。そのため、平定期間中、登校や出勤、外出の仕事をした際に命令をよく理解していなかったり、兵士が警告する言葉が分からなかったりしたために射殺された人も少なくなく[説明52]、冤罪を晴らすことはできませんでした。

 3つ目は、政府機関の風紀[説明53]や軍紀の退廃による犠牲者です。中華民国建国(1912年)後、戦乱は止まず、抗日戦争(日中戦争)が軍隊教育に与えた影響は特に大きいものでした。これによって軍政制度や風紀は一向に厳粛で清廉なものにはならず、鎮圧や平定の期間には不正[説明54]が次々と生じました。最もよく見られたのは、公の立場を利用して私怨を晴らすというものです。中には、些細ないさかいが原因で殺された人や、財産を奪ったり、巻き上げたりするために相手を死に至らしめる人までいました[説明55]。駐軍は再三にわたって注意し、矯正を図っていましたが[説明56]、不法事件の根絶は困難でした。また、密告 [説明57]やならず者の告発[説明58] を奨励する政策の下、私怨によって陥れられ、罪なき犠牲者となるケースも少なくなく、罠を仕掛けられて殺された人もいました。円山事件[説明59]がその一例です。


説明:

50.)犠牲者が参加していた団体の内訳は、処理委員会、台湾省政治建設協会、台湾自治青年同盟、三民主義青年団、新聞社、共産党組織などです。政治と関係しているのは明らかで、特に政治を批判、あるいは政治活動に参加していた団体の犠牲は最も大きなものでした。

51.)(1947年3月13日に陳儀が蒋介石主席に提出した「犯人姓名調査表」)によれば、「二・二八事件」の主犯格は計20人です。その20人は王添灯(省参議員)、徐征(私立延平学院教授、中共台湾省工作委員会委員)、李仁貴(台北市参議員)、徐春卿(台北市参議員)、陳炘、林茂生(国立台湾大学教授)、宋斐如(人民導報社長)、艾璐生(大明報発行人)、阮朝日(台湾新生報総経理)、呉金錬(台湾新生報編集者)、廖進平、黄朝生(台北市参議員)、林連宗(省参議員)、王名朝(台湾省鉄路管理委員会職員)、施江南、李瑞漢(弁護士)、李瑞峰(弁護士)、張光祖(台北のならず者の首領)、堀內金城(工業研究所技師)、植崎寅三郎です。公式資料によれば、張光祖は台北のならず者で、罪名は「外省人の要人殺害の策動」と「悪の手先を指揮し、暴乱を支援」といったものでした。最後の2人は日本のスパイ、残る17人は反乱を密かに企んだとされました。この17人はいずれも、国軍が9日に台北に進駐してまもなく連行され、その後行方不明となりました。17人の多くは1つか2つの政治団体に参加していました。「処理委員会」に参加していたのは、王添灯、李仁貴、徐春卿、廖進平、黄朝生、林連宗(台中)ら6人です。台湾省政治建設協会には王添灯、李仁貴、陳炘、呉金錬、廖進平、黄朝生、施江南(一部は「処理委員会」委員会を兼任)ら7人が参加していました。このほか、王添灯は三民主義青年団にも参加し、台湾区団台北分団幹事長も務めていました。陳儀は3月11日と13日、それぞれ「処理委員会」と「政治建設協会」を非法組織だと宣告し、組織の解散と共に叛乱罪でメンバーを罰することを命じました。しかしながら、この2つの組織が反乱に関与していたのかについては裁判所による審理や判決を経ていないため、手続き上は完全ではありません。また、リストに挙げられた人の半数近くはこの2つの政治団体に属していませんでした。徐征、林茂生、宋斐如、艾璐生、阮朝日、王名朝、李瑞漢、李瑞峰の8人です。いわゆる「反乱」の認定基準は非常にあいまいでした。档案(公文書)資料によれば、前述の主犯中、陳炘1人のみが裁判の手続きによって死刑に処されました。

52.)陳儀はラジオ放送で登校や商売を再開するよう民衆に呼び掛けました。真面目な学生はばらばらと学校に向かい、それによって兵士に誤殺されてしまった人もいました。また、多くの牛乳配達や新聞配達、電報配達、野菜売り、台車を引く台湾人が戒厳令を理解していなかったために誤殺されました。(中略)聞き取り調査によれば、主な原因は台湾では戒厳令が敷かれた経験がなく、それが何なのか分からなかった上に、大多数の人が華語を理解せず、兵士と意思疎通ができなかったことにありました。

53.)政府機関の乱れた風紀も、不徳な役人が機に乗じて私怨を晴らそうとする原因となりました。最も驚くべき一例は、高等法院(高裁)推事(裁判官)の呉鴻麒ら8人が殺害された事件です。(中略)3月15日深夜12時、南港橋のそばで数発の銃声が聞こえ、翌朝、(呉鴻麒ら)8人の遺体が発見されました。公式には(中略)「台北市街地のごろつきらが、軍官や外省人、靠山(政府の官吏を務め、市民をいじめる台湾人)を専門に殺害する暗殺団を組織し、すでに行動を開始している。南港橋下の8人殺害事件は当該団によるものだ」と説明されています。(中略)民間にもまた「暗殺団」の仕業だという説がありますが、その団体は政府機関が買収したヤクザ団体だとされました。団体の拠点は保安街の禁煙所に設置され、(中略)反対勢力に対処する役割を担っているとされていました。一般市民と呉鴻麒の遺族はいずれも私怨による報復行為だとみなしました。(中略)呉はまっすぐな性格で、法曹界の暗黒面をしばしば批判し、同僚に忠告していたため、恨みを買っていた可能性があります。中でも王検察官の嫌疑が大きく、呉夫人は、呉の遺体に残されていた名刺には爪を押し当てて刻んだ文字で「王」の字がはっきりと浮かび上がっており、王検察官の犯行を暗示しているように見えたと証言しています。王育霖の殺害も役人による私怨の可能性があります。王は(中略)日本統治時代の台湾人検察官第1号です。光復後、王は新竹地検処の検察官を務め、(中略)実直な性格で公正を固く守り、多くの汚職事件を厳しく処理しました。中でも新竹市の「粉ミルク横領事件」が最も有名です。王はこの事件の黒幕が新竹市長の郭紹宗だと突き止め、逮捕に向かいました。しかし予期せぬことに、新竹市警察局長が反対に王を包囲するよう警察に命じており、逮捕令状を奪っていきました。その後、上司はあろうことか白黒を区別せず、逮捕令状を失った責任を追究しようとしました。王はこれに憤慨し、検察官を辞職し、台北建国中学の教員となりました。一説によると、国軍が台湾に到着した後、郭紹宗は機に乗じて報復を試み、警察を台北に派遣して王を逮捕し、処刑したと言われています。

54.)事件発生期間、台湾人は公署に反抗するだけでなく、外省人に暴行を加える行為も行いました。これにより、国軍は上陸後、すぐさま報復行動に乗り出しました。当時の軍紀は理想的ではなかったため、多くの常理に反する悪行が次々と発生しました。各種の報道や聞き取り調査の記録はいずれも、国軍が8日に基隆に上陸して以降、無差別な殺害を開始したという証拠を指し示しています。警備総司令部は事務職の役人に短銃を配布し、自衛のために発砲する権限を与えたこともありました。また、国軍は命令によって「国家反逆造反」者を皆殺しにしました。さらには人を獲物とみなし、その射撃の腕前を見せびらかす者もいました。国軍は台北に入った後、華語が分からない者と見れば射殺し、このため8日から13日まで、台北市ではいたるところに死体が転がっていました。

55.)例えば台北市長春路の某所で3月10日ごろ、兵士のグループがやってきて、小銭や腕時計、財物などを奪うためだけに相手を死に至らしめました。

56.)11日午前、国軍が台南に入った後に戒厳令が出されました。通行人を検査する際、駅付近では21師独立団第3営第7連兵士の涂平章が勝手に1人の台湾人がポケットにしまっていた台湾元2、3千元と腕時計1本を没収しました。同営の副営長がこれに気付き、金銭と腕時計を台湾人に返すと共に、この兵士の軍服をすぐさま剥がしてその場で銃殺刑に処しました。

57.)警備総司令部は徹底的に任務を達成するため、賞罰の決まりや規定を公布しました。悪党を検挙または武器を私蔵する者を密告すれば、1000~1万元の報奨金を出し、これを隠匿し、報告しなかった者は通謀罪で罰するとしました。そのため、一部の不徳者(本省人、外省人共にいました)は機に乗じて仇討ちをし、小銭を稼いでいました。

58.)規定によると、里長や頭目はその里にいる一定数のならず者を必ず報告しなければならず、そうしなければ厳しい処罰が下されました。そのため、臆病者はむやみに名前を挙げ、多くの無実の死をもたらしました。例えば北投区では数人がこれによって命を落としました。また、良心に背いてむやみに名前を挙げたくないという者は自身が被害にあいました。瑞芳鎮金瓜石の一里長の游竹根がその例です。国軍は金瓜石に進駐した後、游里長に銃とならず者のリストを差し出すよう迫りました。これに対して游里長は「ここの住民の気風は純朴で、事件に参加したことはありません」と答え、屈服しようとはしませんでした。その結果、息絶え絶えになるまで拷問された後、銃殺されました。

59.)円山事件は8日夜、柯遠芬・台湾省警備総部参謀長の主導の下、林頂立や許徳輝らが実行したとされています。忠義服務隊副隊長の廖氏は次のように証言しています。―事件の期間中、100人余りの学生を連れて円山に銃の接収に向かいました。銃は治安維持用でした。兵士が発砲したため、兵士を包囲し、水を浴びせました。これが彼らを激怒させ、8日夜の報復につながったのかもしれません。そこで100人余りの学生が死にました。9日午前、柯遠芬が楊亮功(閩台監察使)を円山陸軍倉庫前の広場に連れてきて、数百体の遺体を指して昨晩国軍に撃たれた暴徒だと言いました(別の説では遺体は20数体)―。楊は深い疑いを表明し、随行者に対し、死者はいずれも18、19歳の学生で、付近には戦闘の形跡もなかったと話したとされています。

 混乱が平定され、秩序が回復すると、長官公署は3月末から事後救済[説明60]に取り組み始めました。事件で命や財産を失った公務員や教員、その家族、傭人に対し、困窮する生活を支援するのを目的に救済金を支給しました。しかしながら、この施策は円満とはいきませんでした。原因は次の通りです。(1)救済が公務員・教員とその家族、傭人に限られており、一般の被害者に対象が及んでいなかった(2)救済の実施規則が必ずしも合理的であるとはいえず、損失が極めて大きいにも関わらず規定によって少しの補償しかもらえないケースがあったほか、損失が大きくないのに虚偽の報告によって過多の補償を得た人もいた(3)救済金額が十分でなかったことにより、一部の不徳な公務員や教員が職権を悪用して市民(特に富裕者)に金品を要求したり、ゆすりを働いたりし[説明61]、極めて悪辣な印象を与えた―。また、当時救済を受けられた公務員や教員の数は多くはなく、そのため、一般市民や被害者は政府が本省人や外省人に一切の救済を施していないと思い、迅速に補償策を検討するよう政府に要求しました。


説明:

60.)台湾省行政長官公署や所管する各機関の公務員、教員を救済するため、公署は3月21日に特別に「台湾省行政長官公署および所管各機関公教人員の二・二八事件による死傷損失見舞い救済弁法」全9条を公布しました。内容は以下の通りです。

第一条 台湾省行政長官公署が所管する各機関の公務員、教員で、二・二八事件によって死傷または損失を被った者は、本弁法によって補償または救済する。

第二条 補償および救済の範囲は次の通り。1.死亡、2.負傷、3.物財損失。

第三条 死亡者には葬祭補償費二十万台湾元を一括で支給する。前項の規定は公務員、教員の配偶者、およびその直系尊属・卑属親族、傭人に適用する。

第四条 負傷者の全ての医療費を病院の領収書に基づいて支給する。入院治療をしていない者は、主管長官の証明を得ることによって、軽症の場合、救済金五千台湾元、重症の場合は五万台湾元を支給する。重軽傷の程度は刑法の規定に準じる。しかし医療費がすでに政府に負担されている者については本条の規定を適用しない。

第五条 物財の損失にかかる救済は、衣服や布団を主とし、衣服の損失は一着につき一万台湾元の救済金を支給する。冬服、夏服各二着を上限とする。布団一式は二万台湾元を支給し、一組を上限とする。

第六条 負傷または損失が深刻で特殊な状況にある者には、当該の各主務機関が負傷の実情を列挙、および損失の詳細を特例で批准することで、特別救済金を支給できる。

第七条 第三条から第六条までの葬祭、補償、あるいは救済金の支給について、省レベルの機関に属する者には、省が支出し、県市といった地方に属する者には地方の資金から支出する。企業機関は当該機関が自ら支払う。いずれも監査に備え、領収書一覧を取得すること。

第八条 損害救済の申請は、所属する主管股長、科長および各級上官が責任を負う調査証明を経て行わなければならない。虚偽があった場合、各級主管証明人は一律で連帯責任を負い、厳重に処分される。

第九条 本弁法は公布日から施行する。

61.)1947年6月15日、台湾全土の各新聞は閩台監察使の楊亮功が省政府に宛てた書簡を掲載しました。楊は書簡で、各県市の公務員が民間人および市民団体、あるいは民意機関に対して自発的な援助を口実に実際は金品を奪おうとし、少しでもうまく行かなければ職権を利用して罪をでっち上げるといった悪事を働くことを厳しく禁じるよう省政府に提言しました。省政府はそこで、「二・二八」事件の損失を口実に民間に援助を要求してはならないと全ての機関職員に命令し、今後金品を奪う目的を達成するために職権を利用して言葉巧みに陥れた者を厳しく処分すると通達を出しました。このことから、公務員が二・二八事件を口実にゆすりを働いていた状況が伺えます。

 本報告は事実の真相を説明することを目的としており、責任の所在を判別する意図はありません。しかしながら、数名の主要人物が行ったことについては、見直す必要があります。

 来台当初の陳儀は、国をきちんと治めようとする意欲を持っており、事件勃発当初にもまた、政治的手段によって危機を解決しようと考えていました[説明63]。しかしながら事態の発展は制御可能なものではなかったことから[説明64]、中央政府への重兵派遣要請に方針を転換させました[説明65]。大軍が台湾に到着した後、陳儀は台湾の最高軍政長官でありながらも軍や警察職員を統制して正当な平定任務に当たらせることはできず[説明66]、「警察や警備部軍士が報復の手段を用いて[説明67]暴徒を殴打、逮捕する」という行為が発生しました。また、「憲兵駐台特高組に国民大会代表の逮捕を命じた」ことなど[説明68]は、事件の追究におけるダメージを大きくし、台湾人のパニックと恨みを引き起こしました。しかしながら、陳儀は事後において「これは一度の失敗だった」と認めただけで、「政策の誤りは認めなかった」ため、国民の許しは当然のごとく得られませんでした。

 当時台湾省警備総司令部参謀長を務めた柯遠芬は、事件発生当初から「二・二八事件処理委員会」の活動を「陰謀論」[説明69]と認定し、浸透、分裂の策を実行していました。そして事件が拡大すると再び厳しく処罰したのです[説明70]。心積もりは極めて不当なものでした。政府を代表し、軍の慰労のために台湾に派遣された[説明71]国防部長の白崇禧はかつて率直にこう指摘しました。―柯は「罪なき99人を殺しても、1人の本物を殺せばそれでいい」という考えでこの事件を処理していた―。その結果、報復を受けて死傷した人は少なくなく、人々を不安にさせました。そのため白は柯を「処理が性急で、職権を乱用した。今回の事件の対処においては失策が極めて多く、天性頑固で悔い改めるということを知らない」と評しています。このため、「懲戒処分によって平民の怒りを鎮める」べく、柯を解任処分とすることを提言しました。

 事件発生時の高雄要塞司令・彭孟緝は3月6日午後2時、鎮圧の手段を断固として使うこととし[説明73]、南部の騒乱拡大を食い止めました。政府の立場からすれば、彭の功績は非常に大きいものです。しかし、高雄市民からすれば、彭の鎮圧命令を受けて軍人が無差別に発砲したことにより、多くの市民が死傷しました。これには確かに過失が考えられる部分があります。事件後、政府があろうことか彭を台湾省警備司令に抜擢したことは、市民に深刻な恐怖と不安を与えました。

 憲兵第四団団長の張慕陶上校の当時の行動もまた、議論に値する点が多くあります。まずは、蒋渭川に官民間の争いを調停するよう促し、処理委員会に参加するよう仕向けて分裂を進めたことです。次には、国軍の上陸直前だった3月8日正午、処理委員会の委員をだまし[説明74]、民衆が兵士の武装を解こうとしない限り、政府は台湾に対していかなる軍事行動をも取らないと話し、逃亡しようとする者の警戒心を解かせて元の場所に留めようとしました。そのため、軍隊が上陸して逮捕を始めた際、これらの人々は網にかかってしまいました。加えて、張の配下の憲兵は戒厳令が敷かれた後、あちこちで逮捕をし、不正も多く働いていました。国防部長の白崇禧が台湾に慰労にやって来た際、今後は警備総司令部が逮捕を執行するよう命じましたが、憲兵隊は逮捕行為を続けました[説明75]。上層部の命令を軽んじていたことが見て取れます。

 このほか、在台の諜報職員が当局をミスリードしていた疑惑も拭いきれません。事件発生期間、軍統や中統[説明76]はいずれも事件の深刻さをぼやかしており、参加者について、単に政治改革を要求しているのではなく、国家反逆や独立、権利奪取の重大な陰謀を抱いていると指摘しました。また、外省人の死傷数や暴動の参加者数を誇張しました。これによって蒋主席は事態を深刻だと認識し、騒動を平定するために21師を台湾に派遣しました。蒋主席は台湾市民に報復してはならないと再三厳しく命令していましたが、配下には最後まで守られませんでした。

 「二・二八事件」の平定における蒋主席の役割が、世間が注目する問題であるというのは疑う余地がありません。国家元首として、蒋は反乱行為に対して出兵して鎮圧する職権を有しています。しかしながら、この決定に瑕疵がなかったか、実行の過程に不正がなかったのかという点はないがしろにすることはできません。様々な資料から判断すると、処理委員会の行動は高度な自治を要求するだけのもので、中央に反逆する意図はありませんでした。しかし蒋は軍務が緊迫していて裏取りをする時間がなく、さらには陳儀を信頼しすぎていました。派兵要請の受け入れには過失があったと言わざるを得ません。後に蒋は真相を理解しましたが、歴史の過ちはすでに犯されており、挽回はし難いものでした。次に、平定作戦の実行時に報復や紀律違反事件が多く発生していたこともまた、残念なことであります。蒋は確かに再三にわたって厳しく紀律を伝え、報復の禁止を命じていましたが[説明77]、不正行為の発生を防ぐことは一向にできませんでした。事後、台湾籍官僚(丘念台、蔡培火など)が市民の怒りを鎮めるために職務に背いた者を懲罰するよう提案しましたが、蒋はこれを採用せず、長きにわたって社会に傷を残しました。考えが周到ではなかった点が確かにあったといえます。


説明:

62.)陳儀は1945年10月24日に台湾に到着し、松山空港で小休憩した後、施政方針を発表しました。その中で、自身が台湾に来たのは「官僚を務めるためではなく、仕事をするためである。台湾の整備に自信がある。清廉な政治を行うことを決意し、汚職や全ての不正を取り除く。共に台湾を作っていけるよう、台湾同胞に協力を求める」と説明しました。

63.)一つ目は兵力不足で対応が困難だったこと、二つ目には台湾を統治する長官として、大事を起こせばその政治的地位や名声が損なわれることから、陳儀の態度は事件の発生当初、強硬なものではありませんでした(説明21参照)。大事は小事に、小事は無いものにしようと考えていたのだろうと考えられます。

64.)しかしながら、事態の成り行きは陳儀にとって予想外のものでした。この一年に台湾人がため込んだ政治に対する不満と経済的困窮はすでに沸点に達していたのです。処理委員会は民衆の怒りを利用できると考え、一連の政治面、経済面の改革を要求しました。そしてこれは陳儀が容認できるものでは決してありませんでした。なぜなら、全権を一手に掌握する公署制度は元々、陳儀が設計し、提出したものだったからです。全てが崩れ去る命運に直面し、その政治的名声や地位は大きな打撃を受けました。

65.)3月6日、陳儀は蒋主席に対し、今回の事件に関する詳細な報告を提出しました。そして7日、省党部主任委員の李翼中を南京に派遣し、その詳細を蒋の目の前で述べさせました。書簡では、事件発生後に奸党(共産党を指す)や日本統治時代の御用紳士、ヤクザが機に乗じて活動を活発化させ、外省人を排斥したり、政府に反抗したり、武器を奪い取ったり、県市政府を包囲したりしていることに触れ、「一般の市民運動と比べられるものでは決して無いことが伺い知れます。計画的、組織的な反逆行為であるのは明らかです」と指摘し、「厳しく処罰することは疑いの余地のないものであるはずです」と強調しました。陳儀は就任以降、「日本時代の御用紳士らに対しては徹底的に取り除く。台湾の兵力は比較的十分であり、今回の出来事はそれほど広がらないだろう」と考えていました。失敗を取り繕おうと、この機に問題を完全に解決し、いかなる禍根をも残さないようにするため、陳儀はいくつかの方法を出しました。一つ目は政治面において多数の民衆の「封建思想」を改めるべきだというものです。同時に、政治を改善し、長官公署を省政府へと組織改編するほか、県市長の民選を試験的に実施し、これによって政府の求心力を高めようとしました。二つ目は「奸党乱徒は必ずや武力によって消滅し、その存在を容認してはならない」というものでした。同時に、台湾には少なくとも、厳格な紀律や優れた武器を持つ国軍二師が必要であり、そうしてこそ奸党に対処し、独立を望む国家反逆の動きを消滅させるのに十分な実力が備わると考えました。――その後の平定作戦において各地のエリートが相次いで逮捕され、殺害された理由は、この書簡からわずかにうかがい知ることができます。

66.)档案(公文書)資料によれば、蒋主席と陳儀は報復政策に反対していました。3月10日、陳儀は軍法処の徐世賢処長と参謀長の柯遠芬にこう命じました。―兵士が台湾人を痛めつける事件が多発している。巡視を絶えず行うよう連排長以上の者に言い聞かせ、このような行為を制止するように―。同日、柯は各部隊に命令の順守を命じました。3月11日、徐世賢処長はこう報告しました。―戒厳からこれまでに各部隊・機関が市民135人を逮捕したが、取り調べの結果、問題が極めて多いことが発覚し、「事実と大きく異なる」ことが頻繁にあった。護送した犯人は「重傷者もあり」「財物を奪われた者もあった」―。したがって徐処長は、善悪を分別して罪のないものを巻き添えにしないよう陳儀に助言しました。そして官兵に対し、「勝手な報復をしてはならない」と命令しました。無差別な逮捕や殺害、略奪が珍しいものではなかったことが見て取れます。聞き取り調査の中でもまた、このことが裏付けられました。

67.)3月12日に憲兵司令部と中統局が蒋主席に上げた報告によれば、3月9、10日に国軍が到着した後、当局はすぐに報復行動を開始しました。台湾省党部調査統計室は機に乗じて悪党を消滅させるよう助言し、名簿を警備総司令部に提出しました。そして10日夜、「市内の奸徒」の粛清を開始しました。

68.)陳長官は10日、国民代表の林連宗や参議員の林桂端、李瑞峰、「奸詐の首脳・曽璧中ら」を秘密裏に逮捕するよう憲兵駐台特高組に命じました。蒋渭川はすでに身を隠していました。

69.)2月28日夜、参謀長の柯遠芬は日記にこう書いています。「今回の事件の発生は奸人が中で手を引いているのはもちろんだが、私は未然に防ぐことができず、政治の緩みや群衆の運動には注意を払えていなかった。群衆を確実に掌握してはおらず、統率できていなかった。これはわれわれ党政軍団の最大の失策である」

70.)3月4日、柯遠芬は日記にこう記しました。「私は周密な検討の上で軍事上の万全な準備を迅速に整えることを決めた。彼らの国家反逆罪の証拠が公になるのを待って、即時に軍の力で騒ぎを平定する」

71.)3月28日、白崇禧は台北賓館で、二・二八事件の処理に関する6つの要項を指示しました。内容は次の通りです。(1)犯人の逮捕:未決、既決の者の人数、氏名、処刑機関をその(白崇禧を指す)台湾滞在期間中に報告しなければならない。中心的人物以外の勾留については規定を緩めて処理すること(2)逮捕の規定:1.共産党関係者と事件の中心的人物に限る▽2.逮捕の執行機関は警備総司令部の命令によってこれを行う▽3.被告に対し、法律に基づいて速やかに審理を行い、手続きを終わらせる(3)学生:1.一律に復学する▽2.復学後は共産党関係者以外は逮捕してはならない。規定を逸する行為があれば、学校側が学則に基づき処分する(4)平定工作は県市政府職員が行い、軍隊が支援する(5)負傷した公務員、教員および衣食に困窮する市民に対しては緊急救済を行う(6)軍紀は厳しく秩序正しく維持されなければならない―。

72.)彭孟緝『台湾省「二二八」事件回憶録』、p.45。

73.)彭孟緝は6日午後、平定に向けて出兵した後、陳儀に電報を入れ、陳儀から叱責を受けました。陳儀は「台湾の問題は政治的手段によって解決すべきである。高雄の連日の騒動を耳にしている。当該司令の行動は軽率であり、今回の事件の全責任を負うべきである。電報到着の2日目から全ての兵営を引き上げ、解決を待つよう命じる」と指示しました。7日、高雄を平定した後、彭は兵を動員した理由を陳に再度説明し、凃光明ら3人の「暴徒」のリーダーに銃殺刑を執行することの許可を求めました。この電報が出された後、警備総司令部はすぐに返電し、彭を「処置は適切であり、実に小気味よい」と評し、主要犯の処刑を許可しました。陳儀が態度を変えた原因の一つには、彭をなだめるとともに、南部の騒ぎを鎮めるには彭の主導が必要だったという理由があります。

74.)8日正午、張慕陶団長は処理委員会委員と面会し、「本省の今回の政治改革の要求は極めて正当であり、中央政府は決して兵を台湾に派遣しない」と述べました。また、全省の人々に対し、「中央政府を刺激することは決してしないように」と促し、「私は命をかけて保証する。中央政府が台湾に対して兵を用いることは決してない」と伝えました。実際のところは、事件期間中、柯と張の2人およびその他の諜報職員は想定される軍事行動に合わせ、すでに台北で各種の準備を整えており、援軍は当日(8日)午後すでに基隆に上陸していました。

75.)3月31日、警備総司令部は(白崇禧)の指示に従い、各部隊、機関に対し、命令なく逮捕してはならず、緊急逮捕が必要な者は随時報告するよう通知しました。しかし4月4日、憲兵第四団は警備総司令部に対し、平定工作の執行の足かせとならないよう、憲兵が軍事検察官と司法警察の職権に基づき思い通りに任務を遂行することを認めるよう要請しました。

76.)3月1日(中略)未明、南京中統局は切迫した電報を台湾調査統計室から受けました。「二・二八事件」発生の報告以降、緊急電報は毎日2通届きました。中統局の葉秀峰局長は蒋介石主席に対し、精鋭軍隊3師を台湾に追加派遣するよう提言しました。中統局は5日の電報で、暴動の参加者の多くは元々日本軍に徴兵され、海外から戻ってきた放浪者であり、全省に約12万人いると指摘するなど、事件の深刻性を故意に強調していました。

77.)憲兵司令部と中統局は3月12日、国軍の上陸後、陳儀が報復行為を横行させていると蒋介石主席に報告しました。13日、蒋主席は緊急電報で陳儀にこう命じました「軍事、行政職員の報復行為を厳しく禁じる責任を負うことを求める。さもなくば、命令違反で罪に問う」。語気は非常に強いものでした。同日、陳儀も緊急電報を返し、すでに軍事、行政職員の報復行為をすでに厳しく禁止しているものの「さらに厳しく統制する」と報告しました。14日、陳儀は再び、配下の軍や行政職員に対し、報復行為を厳しく禁止すると命じました。しかしながら、再三の命令にも関わらず、報復事件は後を絶たちませんでした。実に理解に苦しみます。

 「二・二八事件」は確かに近代の台湾史上における重大悲劇であり、この悲劇は様々な要素が互いに激しくぶつかりあった結果としてもたらされました。台湾の50年にわたる植民地統治において、日本人が思惑を働かせて講じた遮断政策により、台湾人の中で祖国に対する隔たりが生まれました。ましてや日本人の作意がまじった教育により、台湾人の認識と価値観はすでに中国大陸の人々とは明らかに開きが生じていました。一方で、台湾の状況に対する中国大陸の人々と政府官僚の認識は非常に薄いものでした。これに加え、当時の大陸の平定情勢は日に日に悪化しており、政府は台湾により多くの関心を向けるつもりも、その力もありませんでした。為政者は人々の心情を察知することができず、逆に政治面で台湾の人々に圧力を加えたのです。また、官僚が無能であり、深刻な汚職によって市民の政府に対する不満がさらに高まりました。台湾は第2次世界大戦時に大きく破壊されましたが[説明78]、中国大陸もまた政局が動揺し、戦乱が絶えなかったため、台湾を支援する余力がなく[説明79]、復興事業は短期間で終えられるものではありませんでした[説明80]。この客観的事実は最後まで台湾の人々に広く理解されないままでした。よって、悲劇の発生には当時の主観的要素および客観的要素が存在しており、為政者が完全に統制できるものでもありませんでした。

 多方面の調査研究によって、「二・二八事件」の真相は大まかな輪郭を描くことができるようになりました。残念なのは、当時の死傷の状況については、丹念な資料収集や聞き取り調査、統計分析が行われているものの、正確な数字を出すことが一向にできていないことです。聞き取り調査によって、研究メンバーは犠牲者遺族が数十年来で経験した悪夢と心の痛みを深く感じました。遺族らの無力感、哀怨、期待は私たちが簡単に理解できるものではありません。そしてそれらは当局が軽視してはならないものでもあります。前事を忘れざるは、後事の師なり。吾輩はこれを恐れる。―不幸な事件の痛ましい教訓であり、骨肉の争いが再び起こることを慎重に防がなければなりません。さらに、当局が当時の不適切な鎮圧の責任を回避せず、罪なき犠牲者に優先的に恵みを与えることを願っています。同時に、各界の人々が当時の特殊な情勢を理解し、広い許しと平和な心でこの悲劇によってもたらされた痛みを慰め、より良い未来のために手を取り合って進んでいけることを望んでいます。


説明:

78.)第2次世界大戦末期、台湾は連合軍の爆撃にあい、台北、基隆、新竹、嘉義、高雄などの地域が深刻な被害を受けました。基隆の場合は「要塞地帯だったために最も激しい爆撃を受けた」とされ、1944年10月から1945年かけて25回の爆撃を受けました。「爆撃を受けた各町の元の面積は305万1000平方メートルで、その56%が被害を受け、家屋5056棟が損壊しました。概算では戦前の家屋棟数は約9030棟で、破壊された割合は56%に達します」。このほか、道路や水道も深刻な被害を受けました。工業、鉱業、電力面の被害はとりわけ深刻で、電力に関しては光復直前の電力供給量が3万キロワット時余りにまで落ち込みました。これは1943年の3分の1にも満たない数字です。さらには、戦後は原料を手に入れるのが難しく、人材獲得も困難でした。このため、行政長官公署は光復初期、工鉱業の日本人技術者を台湾に残し、生産を維持しようとしました。しかし、米国の反対に遭い、送還せざるを得ませんでした。これにより、短期間に台湾の生産水準を戦前の状態にまで回復させることは容易ではありませんでした。

79.)大陸の国共間の争いは絶えず激化し、全国的な経済危機が発生していました。物価の上昇、社会秩序の崩壊、人々の心の乱れにより、中央政府は台湾の政権運営に力を入れにくい状態でした。

80.)戦後、全世界がぼろぼろの状態から復興を進めていた頃、通貨膨張が国際社会を襲いました。中国も例外ではなく、さらには内戦が激しさを増し、この影響が及んだ台湾経済も日に日に厳しくなっていきました。当時の台湾は工業原料の不足、生産系統の破損、交通器材の不足があり、財政が厳しく、技術者を補充することも難しい状況でした。