特別展 二・二八事件と台湾独立運動
啓蒙と行動:彼らの青春 私たちの歴史

 更新日:2020-09-12

会期:2020年8月30日(日)~2020年10月25日(日).毎週月曜日休館
開館時間:10:00~17:00(入場は閉館の30分前まで)
会場:二二八国家紀念館 三階芸術文化展示室/台北市中正区南海路54号
後援/内政部
主催/二二八事件紀念基金会、二二八国家紀念館
主管/台湾安保協会

失われた歴史

1945年9月、アメリカ統合参謀本部により作成された「一般命令第一号(General Order No. 1)」が発令され、蒋介石は連合国軍中国戦区大元帥として中国(満州を除く)、台湾、北緯16度以北の仏領インドシナの日本軍の降伏を受けることとなりました。これに基づき、台湾の接収を行い「実質的に」台湾の統治を続けたのです。ところが、その統治は妥当なものではなかったため、戦後の台湾経済は悪性インフレ、深刻な物資不足、伝染病の流行など混乱に陥り、人々の不満が積もりに積もった結果、1947年に二・二八事件が勃発することとなりました。1949年、国民政府は中国共産党との戦いに敗れ、中国から台湾に撤退しました。同年、戒厳令が敷かれ、台湾は白色テロの時代に入りました。軍部と警察が権力を濫用し、事件のでっち上げや冤罪が頻繁にあり、言論や思想も厳しく統制されました。蒋介石政権が行った一連の粛清や高圧的な統治下にあった知識人のなかには難を逃れようと海外に亡命、留学する者もいました。海外に出た青年たちは、さまざまな思想や自由な空気に触れることで、もはや国民党政権が作り上げた偽りの民主主義を信じることができず、学生会や同郷会を組織し、台湾の主権と地位の確定について解釈する権利を得ようと、国民党の海外特務が張り巡らすネットワークによる脅威の中、身を挺して国民党による権威主義体制下の独裁と闘いました。さまざまな弾圧にも屈することなく、海外における台湾人コミュニティは拡大し、国際的な反政府勢力と連携すべく取り組みを進めました。台湾アイデンティティの啓発、政治犯の救済、台湾における民主主義の実現を目指し、海外の台湾青年たちは人々と力を合わせ、民主と独立の道を一歩一歩進んできたのです。

 

日本における台湾独立運動のビラ。1965年2月26日に東京銀座の繁華街で行われた二・二八記念デモについてのもの。東京在住の台湾人約60名が参加。手に持ったプラカードには「台湾独立万歳」、「台湾は台湾人のものだ」、「国民政府は台湾から出ていけ」などのスローガンが書かれている。


1965年、米ウィスコンシン大学のキャンパスで行われたインターナショナルデーでの国旗パレード。「台湾研究会」は、このパレードを利用し、台湾人の声を発信した。中華民国の国旗ではなく、台湾の海を表す青地に白の台湾本島と澎湖島、自分たちで作った金色のFormosaの文字をあしらった「国旗」を掲げている。


ニューヨークで設立されたFormosan Readers Associates 発行の英文冊子「Formosan Nation Speaks」。国際社会に向けて台湾の人々の自決の声を届けた。


WUFIが小型飛行機をチャーター。機体後部から「台湾独立万歳 GO GO Taiwan」という横断幕を付け米ウィリアムズポートで開催される野球のリトルリーグ・ワールドシリーズの際に低空飛行、国民政府に衝撃を与えた。

台湾独立運動と世界の民主化運動の歩み

1945年
  • ホー・チ・ミンがベトナム民主共和国(当時の北ベトナム政府)を建国
  • 廖文毅が雑誌『前鋒』を刊行、「祖国への復帰」歓迎を表明
  • 太平洋戦争で日本が降伏
1946年
  • 黄紀男ら「台湾青年同盟」結成。台湾を国連の信託統治とすることを主張
1947年
  • 国民政府の統治が不当であったことから、二・二八事件勃発
  • 台湾独立を目指す団体、台湾住民投票促進会、台湾民主独立聯盟、台湾再解放聯盟などが次々と結成される
1948年
  • 楊逵が「和平宣言」を執筆し逮捕
  • 台湾大学中文科の許寿裳主任が謀殺される。政治的な理由とみられる
  • 非常時に憲法を凍結する「動員戡乱時期臨時条款」が可決成立
1949年
  • 中国共産党が中華人民共和国を建国
  • 四六事件が発生。国民政府が台北市で多数の学生を逮捕
  • 雷震らが雑誌『自由中国』を創刊
  • 戒厳令が敷かれる
  • 王育徳が台湾から香港経由で日本へ逃れる
1950年
  • 朝鮮戦争勃発
  • 史明が「台湾独立革命武装隊」を組織
  • 廖文毅が二・二八事件記念集会で台湾独立を主張
1951年
  • サンフランシスコ講和条約締結。これに基づき日本は台湾本島および澎湖諸島に関する一切の権利、名義、要求を放棄
  • 台湾と米国の間で「聯防互助協定(Mutual Defense Assistance Agreement)」締結。米軍事援助顧問団が台湾に駐留
1952年
  • 史明が日本に亡命
  • 台湾大学自治会の主席任期中に四六事件で逮捕された林栄勲が米ペンシルベニア大に留学
1955
  • 廖文毅がバンドン会議(第一回アジア・アフリカ会議)に出席
1956年
  • 2月28日「台湾共和国臨時政府」成立
  • 北米初の留学生による台湾独立結社The Committee for Formosans' Free Formosa、略称3F(台湾人のための自由台湾委員会)結成
1957年
  • ソ連が人類初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げたことが米国に国を揺るがす衝撃を与え、教育分野に巨額の予算を投じるとともに、積極的に奨学金を出したことで外国人が留学のために渡米した
1958年
  • フランスで第五共和政が成立
1959年
  • 米国がキューバのカストロ政権を承認
  • ダライ・ラマ14世がインドに亡命
1960年
  • 台湾独立を目指す大学生による秘密会議、関子嶺会議事件が発生
  • 中国民主党の結党失敗。雷震収監。『自由中国』は発行停止に
  • 「台湾青年社」が2月28日に結成。4月、雑誌『台湾青年』創刊
1961年
  • 韓国で朴正熙(パク・チョンヒ)独裁政権誕生
  • ベルリンの壁完成
  • ジョン・F・ケネディ、米大統領に就任
  • 蘇東啓が台湾独立と雷震事件により死刑を宣告
  • 黄昭堂が蘇東啓の救済に奔走
  • 2月28日、陳以徳が記者会見を開き、3Fを改編した台湾独立聯盟(The United Formosans for Independence、略称UFI)の結成を発表
1962年
  • キューバ危機
  • 英文季刊誌『Formosan Quarterly』発刊
  • 史明が『台湾四百年史』を出版
1963年
  • ジョン・F・ケネディ大統領暗殺
  • 許世楷ら「在日台湾学生聯誼会」を結成
  • カナダで台湾同郷会発足
  • UFIが英文誌『Formosa Gram』を発行
  • 周烒明が「台湾問題研究会」を結成
1964年
  • 彭明敏らが「台湾自救宣言」を発表しようとしたが、印刷所が捜索を受け、彭明敏・謝聡敏・魏廷朝が逮捕される
  • 「陳純真スパイ事件」発生。黄昭堂ら7名が警視庁に逮捕される
  • 王育徳が日本で『台湾―苦悶するその歴史』を出版
  • カナダで「台湾住民自決聯盟」発足
1965年
  • シンガポール独立
  • インドネシアでスハルト軍事独裁政権成立
  • 台湾独立を主張する「台湾大衆幸福党」で多数の逮捕者
  • 「台湾青年会」が「台湾青年独立聯盟(UYFI)」に組織改編
  • UFIと台湾問題研究会が共同でマジソン会議開催(ウィスコンシン大マディソン校)
1966年
  • 全米の台湾独立組織を統合し「全米台湾独立聯盟(UFAI)」を結成
  • UFAIが「自由長征(Freedom Trail)」計画を実施。全米を巡回し、メンバーと『台湾通訊』の購読者を増やす
  • 『FormosaGram』の中国語版『台湾通訊』を発行
  • UFAIなどの台湾独立組織が「台湾自救宣言」の摘要を英訳。「NYタイムズ」に掲載される
1967年
  • 史明が「独立台湾会」を結成
  • 2月28日、「欧州台湾独立聯盟」発足
1968年
  • パリの学生運動、五月危機が起こる
  • 「プラハの春」チェコスロバキアの政治民主化運動が起こる
  • 柳文卿が日本政府により台湾へ強制送還される
  • 『Formosan Quarterly』を『Independent Formosa』に改称
  • ブラジル同郷会発足
1969年
  • 米ニクソン大統領就任
  • 仏ドゴール大統領辞任
  • 黄昭堂が秘密結社を結成し彭明敏を救済
  • 『望春風』創刊。後に全米の台湾同郷会の共同出版物に
1970年
  • イタリアとカナダが中華民国と断交
  • 反政府運動の泰源事件が発生
  • 台南の米国新聞署(アメリカ合衆国広報文化交流局)爆破事件
  • 米UFAI、カナダCHRT、日UYFI、欧州UFEI、台湾自由聯盟が共同で「台湾独立聯盟(WUFI)」を発足
1971年
  • キッシンジャー米大統領補佐官訪中
  • 国連における中国の代表権が中華民国から中華人民共和国に
  • 台湾のキリスト教長老派教会総会が国是声明を発表
  • 台北シティバンク爆破事件
  • WUFIが小型飛行機をチャーター。機体後部から「台湾独立万歳 GO GO Taiwan」という横断幕を付け米ウィリアムズポートで開催される野球のリトルリーグ・ワールドシリーズの際に低空飛行、国民政府に衝撃を与えた
  • 国連で人間の鎖デモ
  • 「欧州台湾同郷聯合会」発足
1972年
  • ニクソン米大統領訪中
  • 日本が中華人民共和国と国交を樹立。中華民国と断交
  • リン・マイルス(Lynn Miles)が日本で雑誌『浪人』を創刊。アジアの人権問題に関する情報を発信
  • 『台湾独立』創刊
  • 黄彰輝牧師ら「台湾人民自決運動宣言」発表
1973年
  • 在日台湾同郷会発足
  • 「台湾協志会」発足。『蕃薯』を発行
  • 「台湾人民自決運動」組織発足
  • 黄照夫が中国国民党中央党部海外工作委員会パリ代表を刺し傷を負わせる
1974年
  • ブラジルが中華民国と断交
  • 世界台湾同郷会聯合会(略称、世台会)設立
1975年
  • ベトナム戦争終結
  • 蒋介石死去
  • 『台湾政論』創刊
  • 「台湾人権擁護国際委員会」設立
1976年
  • アムネスティ・インターナショナルによる「国際特赦組織簡報:台湾、Amnesty International Briefing: Taiwan」正式発表
  • 王幸男による郵便物爆弾事件(王幸男による国民党要人暗殺未遂事件)
  • 『夏潮』創刊
  • 『台湾政論』発行停止に。副編集長の張金策は日本経由で米国へ逃亡
  • 「台湾婦女維護人権委員会」発足。後に「台湾人権協会」に
  • WUFIブラジル本部設立
1977年
  • 「台湾政治犯救援会」発足
  • ラジオ「台湾之音」ニューヨークで設立
  • 米国下院で台湾人権公聴会が行われる。台湾の人権問題が初めて米国会で議論
1978年
  • 蒋経国が総統に就任
1979年
  • 『美麗島雑誌』、『八十年代』創刊
  • 米国と中国が国交樹立。中華民国と断交
  • 台湾に対する米国の基本政策を定めた「台湾関係法」制定
  • 美麗島事件
1980年
  • 韓国で民主化を求める反政府運動(光州事件)勃発。全斗煥大統領が武力で鎮圧
  • 林義雄の母親と双子の娘が家で殺害され、長女が重傷を負うという「林宅血案」が発生
  • 国際人権組織団体が美麗島事件の裁判を傍聴
  • 「北美洲台湾人教授協会」発足

 

海外へ

二・二八事件発生後、国民政府は武力で鎮圧しながら粛清を行い、戒厳令発令、特務工作などを通じ、党国一体の独裁体制を築き、これを継続しました。高圧的な統治、粛清といった社会をとりまく空気に加え、経済的な豊かさを求めて、故国を離れて海外へと移住する人が後を絶ちませんでした。二・二八事件から戒厳令解除までの40年間、台湾の人々の海外移住は、政治的要素、留学研究、経済的移民の三種類に大別されます。

◎政治的要素

二・二八事件によって、戦後の台湾において初めて政府と立場が異なることに起因する政治難民が出現することになりました。1949年、中国での国共内戦で国民党は敗北を喫し、中国に共産党政府が誕生したことで、台湾内外の若い知識人と政治運動家たちはそれぞれの道を歩むこととなりました。反帝国主義で社会主義を支持する蘇新、謝雪紅ら左翼のナショナリストたちは中国へ、黄紀男、廖文毅、王育徳、邱永漢、史明などは、台湾の独立自主の道に進みました。

◎留学

戦後初期、台湾の人々は言語や文化的な要素から日本へ留学する人がほとんどでした。そして、朝鮮戦争(1950)勃発後、アメリカは反共主義を強め、国民政府に軍事的、経済的援助をするとともに文化や外交、教育交換プログラムなどを通して積極的に親米人脈を育成し、台湾での影響力を拡大しようとしました。また、1950年代末以降、米国の大学は優秀な人材を集めるため、次々と奨学金制度を設立し「自由主義陣営」の留学生を受け入れるようになりました。教育部は1955年に台湾の公費留学制度を復活させ、国民政府も1964年に留学に関する規定を改正したことで、奨学金の受給が決定すれば比較的容易に出国資格を取得することができるようになり、1960年代後半からは米国留学が主流になりました。

欧州への留学は言葉の壁があるため少なく、教会による奨学金のほか、1960年代には西欧諸国が台湾からの留学生への奨学金の枠を設けました。

外国での仕事や生活の条件はよく、学業を終え帰国した留学生は20年間でわずか13%にとどまりました。こうして、海外台湾人コミュニティの拡大は台湾独立陣営の成長にとり有益なものとなりました。

◎海外移住

国民政府は初期において、資金や人材の海外流出を規制していたものの、経済的な豊かさを求める海外移住者の流れを止めることはできませんでした。1950年代、台湾の人々は日本のルートを通じて就労許可を入手し、農業労働力が極度に求められていたブラジルへと向かいました。1960年代、南米諸国が台湾からの移民を歓迎すると表明したため、密航した者がいるとのうわさもささやかれました。1965年、米国が移民法を改正したことで、台湾からは大量の移民が米国へ渡りました。1970年代以降、蒋政権を取り巻く国際的な環境は厳しくなり、国連脱退、米国との断交などで国民の中華民国政権存続への信頼にひびが生じました。米国は高度の専門人材を大いに歓迎したため、技術移民の形で台湾を離れた人々も少なくありませんでした。

 

当初、廖文毅は聯省自治(各省自治による連合国家)を主張していたが、二・二八事件後は「国連に一旦管轄を預け、住民投票で台湾の今後を決めるべき」と主張を変えたことで、国民政府により国家反乱を企てたとして指名手配されることとなった。上海、香港を経由して1949年に日本へと渡り、東京で「台湾共和国臨時政府」を設立。著書に『台湾民本主義』がある。


1948年8月25日付中央日報。「日本に台湾地下組織か 丘念台監察委員は怪聞と指摘」と報道。廖文毅の台湾独立活動が国際的に注目を集める。


王育徳(左)は二・二八事件の受難者、王育霖検察官(右)の弟。王育霖は市長が絡む通称「救済粉ミルク」横流し事件を担当。捜査対象の有力者に報復を受け逮捕連行され殺害されたが、遺体は見つかっていない。王育徳は巻き込まれるのを恐れ、1949年に香港に逃れたのち日本に渡り、生涯台湾に戻ることはなかった。育徳は日本で「台湾青年社」(台湾青年独立聯盟の前身)を結成し、『台湾青年』を刊行して台湾独立を提唱した。


「台湾ナショナリズム」を唱えた史明は台湾独立左派とされる。二・二八事件及び蒋介石の軍事独裁を経験し、蒋政権に強い不満を抱く。1950年、秘密組織「台湾独立革命武装隊」を組織し蒋介石の暗殺を謀るが、1951年末、暗殺に失敗し、指名手配され日本に亡命。1952年に政治犯として日本政府の政治的庇護を受け、以後日本で41年に及ぶ亡命生活を送った。


留学生だった何康美(左)はベルギーに渡航し、まず中華民国駐ベルギー大使館を訪問した。ところが、ベルギー台湾同郷会を結成したとしてブラックリストに登録された。後にWUFI欧州本部の主席となった。


陳中統(右)と蔡憲子の結婚記念写真。陳中統は日本留学時に「台湾青年独立聯盟」メンバーと知り合い、1969年2月6日に父が病に倒れたため台湾に戻り、そのとき蔡と結婚した。ハネムーン期間中も特務に監視され、2月21日の帰宅直後に逮捕。
当時の裁判資料によると、陳中統は東京留学時に「台湾青年独立聯盟」組織部長の侯栄邦と交流、1966年5月の台湾帰国時に大量の宣伝ビラを秘密裏に散布し、日本に戻り正式に「台湾青年独立聯盟」に加入し台湾独立運動に参加したとある。


1980年代には、留学生の8割以上が帰国せず、頭脳流出が懸念された。


1960年代の自立晚報。ブラジルの経済は繁栄しており、ブラジルへの開拓移民を歓迎とある。当時、台湾ではブラジルへの移住が急増しており、新聞でも移住広告が多く見られるようになった。

 

「台湾アイデンティティ」で結びつく海外の台湾人たち

海外における「台湾」と名のつく結社は国民政府による弾圧を受け続けていたのですが、それでも多くの海外の台湾青年らは「台湾」の名のついた学生会や同郷会を設立していきました。彼らは国民党の独裁政治に異議を唱えただけではなく民主と独立も提唱したために、ブラックリストに登録され、故郷に戻ることがかなわなくなりました。

◎台湾:関子嶺会議事件

1956年、台湾大学学生代表聯合会の主席に選ばれた蔡同栄は、国民党に不満を抱く学生たちとしばしば集まり政治について議論を交わしていました。1960年、蔡同栄らは留学前に関子嶺で秘密集会を開いたのですが、これが後に知られることとなり、多くの人々が逮捕されました。無事、出国した蔡同栄、張燦鍙、陳栄成、羅福全、侯栄邦、林啓旭、陳唐山らは、海外で台湾独立運動を推し進めました。

◎日本

武力を用いて台湾独立を実現しようとした廖文毅や史明のほか、日本には何文燦、張春興、廖明耀、邱永漢といった反権力運動のリーダーがいただけでなく、学者王育徳はペンでその理念を広めることを主張しました。1963年、許世楷は中華民国留日同学会を脱退し、「在日台湾学生聯誼会」を結成しました。1965年、辜寬敏は「台湾青年会」の委員長となり「台湾青年独立聯盟と改称。はっきりと「台湾独立」を目標に掲げました。左派路線を進んだ史明は1967年に「独台会」を立ち上げました。同郷組織としては1973年に郭栄桔、黄昭堂らが在日台湾同郷会を結成し、日本全国の台湾出身者社会に活動を広げていきました。

アメリカ大陸

【米国】1950年代、台湾の留学生が相次いで米国に渡りました。「四六事件」の受難者、林栄勲は1952年にペンシルベニア大学に留学して以降、アメリカで台湾独立思想の提唱に努め、陳以徳、楊東傑、林錫湖、盧主義の5人で1956年に3F(Formosans’ Free Formosa)を組織しました。これはのちにUFI(1958)に改組され、1966年にはこれを拡大してUFAI(全美台湾独立聯盟)が結成されました。西部では「台湾協志会」が1973年に設立。1978年に北カリフォルニア台湾同郷聯合会、ベイエリア台湾教会などとともに「Joint Committee of Taiwanese American for 1980 U.S. Census(在米台湾同胞1980年国勢調査聯合委員会)」が立ち上がり、各地同郷会とも連携し、米国での国勢調査の際に「人種(race)」欄に「Taiwanese」と記入するよう呼び掛けました。1980年代には台湾人の置かれた立場を伝えるべく米国国会へのロビー活動を強化しようと、全米のいくつかの団体が台湾人公共事務会(Formosan Association for Public Affairs, FAPA)を結成、台湾独立を主張する対米工作が正式にワシントンDCで繰り広げられることとなりました。
教会組織も海外における台湾独立運動で重要な流れを形成しています。1972年、黄彰輝牧師は林宗義、宋泉盛牧師、黄武東牧師に呼び掛け、ワシントンで「台湾人民自決運動」を始めます。全米14支部に加えて欧州、ブラジルにも支部を置き、人権救済にも全力を尽くしました。

【カナダ】1950年代以降、留学生が次第に増え、1961年にはトロント大学に台湾学生会が結成されました。1963年にウォータールー大学で教えていた黄義明と留学生の林哲夫らがカナダ台湾同郷会を設立。1964年にはさらに「台湾住民自決聯盟(後に「カナダ台湾人権委員会」と改称)」が結成されました。林哲夫は台湾独立建国聯盟カナダ大本部主席を務めていた1982年、世界教会協議会(WCC)を通じてキリスト教宣教活動のURM(Urban Rural Mission=都市農村宣教)という非暴力な手段で人々が権力を得られるよう訓練するプログラムを知り、台湾の人々向けにURMワークショップを企画。1982年7月にトロントで行われた第一期プログラムには、蔡明憲、洪奇昌、林哲夫ら7名が参加しました。この「台湾URM」ワークショップは毎年のように行われ、台湾の長老教会の牧師や社会運動の活動家が次々にカナダで訓練を受けられるよう積極的に行われ、草の根の反権力運動の組織指導者を数多く輩出しました。トロント台湾合同教会は、これが理由で台湾独立派教会と見なされることとなりました。

【南米】南米に住む台湾人は、多くが経済移民としてブラジルに移り住んだ人々でした。1969年、その中の9人がUFAIロサンゼルス支部に加わり、1970年には国民党代表の反対を畏れること無くブラジルで台湾の名で同郷会を設立しました。1976年には台湾独立聯盟の南米本部がブラジルで結成され、土木エンジニアの、周叔夜が初代主席を務めました。

◎欧州

1967年、欧州で学ぶ台湾の留学生数名により、欧州初の台湾人による政治団体──ヨーロッパ台湾独立連盟(UFEI)が秘密裏に結成されました。ベルギーの台湾人たちは在外公館に妨害されるなか、1970年に台湾同郷会を、1971年にはヨーロッパ同郷会聯合会を設立し、欧州在住の台湾の人々を結び付けました。

◎国際組織

1970年、米UFAI、カナダ台湾人権委員会CHRT、日本台湾青年独立連盟UYFI、ヨーロッパ台湾独立連盟UFEI、そして台湾の台湾自由連盟連合が国際的な組織「台湾独立連盟(World United Formosans for Independence, WUFI)」を結成しました。1974年には張維嘉、陳錦芳ら欧州同郷会の幹部が「世界台湾人同郷会(略称「世台会」)」の設立に取り組み、「台湾意識」を持つ世界の台湾人を結び付けました。1979年末、日米欧の左派・右派の組織や「キリスト教徒自覚運動」など10近い団体が「台湾建国連合陣線」を結成しましたが、ほどなく路線の違いから解散しました。

 

台湾共和国臨時政府が東京で「日月旗(共和国の国旗)」を高々と掲げてデモ。廖文毅らのグループは国民党の圧迫をものともせず、日本において公に活動を続けた。


1956年、林栄勲、陳以徳、楊東傑、林錫湖、盧主義が3Fを結成。写真は1954年の撮影。左から楊瓊姿(楊東傑の妹)、楊東傑、李国璿、陳以徳、林栄勲。
李国璿は台湾省立工学院(成功大学の前身)在学時に学生部隊宣伝部部長を務め、卒業後は台湾電力に就職、1954年に渡米した。国民党に入党していたため、台湾電力初の米国研修団に参加した唯一の本省人となった。米国滞在中に陳以徳らと交流し、その写真が流出したことで辞職に追い込まれた。李国璿は祖国、中華民国への憧れがのちに幻滅に変わり、台湾独立を望むようになった。


1960年の二二八。王育徳(左から3人目)と、左から順に黄永純、傅金泉、黄昭堂、蔡炎坤、蔡季霖、廖春栄、6名の留学生が「台湾青年社」を結成した。



1976年、ブラジルの台湾独立系団体が集まりWUFIに加わり、ブラジル本部となった。6団体があらたに憲章を定めともに遵守することを誓った。


左から羅福全、彭明敏、周烒明、蔡同栄。關子嶺會議事件の当事者たちは日本と米国の台湾独立建国聯盟の間をつないだ。


1965年、周烒明と陳以徳は連名で各地の台湾独立組織に呼び掛け、マディソン会議を開催した。会議後には共同声明を発表し、台湾人の団結を呼び掛けた。


台湾のURMワークショップ運営のための募金を呼び掛ける説明文。草の根運動のリーダーをより多く育てるため、林哲夫はこの訓練の指導者を育てる講座を積極的に台湾に導入した。


 

「二・二八」を共通の記憶として広がる台湾独立運動

痛みと集団的な暴力を受けた経験を記すことで、傷を受けた経験を構築しながら歴史を考える
~ Michael Berry, A History of Pain

二・二八事件は台湾において政治的タブーでした。しかし海外では、二・二八事件のことが伝えられていただけでなく、意識的に記憶に刻まれていきました。「台湾人」というアイデンティティーがもつ意味とその境界線、そして、台湾のナショナル・アイデンティティーをめぐる言説を考えるうえでの礎となり、繰り返し行われた記念活動によって、これまでになかった「台湾意識」のエネルギーを生み出したのです。

◎二・二八が台湾独立の新たな起点に

二・二八事件が勃発する前は、台湾の人々の自己アイデンティティをめぐり、「台湾意識」と「中国意識」の間には、それほどはっきりとした区別はありませんでした。二・二八事件を経て、台湾の知識人たちに「台湾人は中国人なのか」という思いが生まれます。戦後すぐに台湾独立を唱えた団体のうち、廖文毅と王育徳の2つのグループは、はっきりと、二・二八事件を台湾独立意識の起点とみなし、これが意味するものを極めて重要なものととらえました。

二・二八事件勃発後、廖文毅は上海在住の台湾人同郷会組織が「台湾二二八惨案聯合後援会」を結成し、『二二八惨案呼籲』と題する文章を発表したため指名手配となり海外に亡命したことを知りました。1950年2月28日、廖文毅は京都で行われた「二・二八事件三週年記念日」の集会で、台湾独立を主張する演説を行ったのを皮切りに、1950年から每年2月28日に記念活動と講演を行いました。廖文毅は1956年2月28日に東京の麻布公会堂で二二八紀念会を開き、「台湾共和国臨時政府」の成立を宣言。同時に大統領就任式を行い、独立声明を発表しました。「台湾共和国臨時憲法」には「二月二十八日正午」が大統領就任と継承の基準時であると明文規定されています。廖は1957年に出版した『台湾民本主義』において、「台湾人が連邦の一部として自治を行うという幻想は完全に消え去り、『台湾人の台湾』という理念が発展し完全なる『台湾独立』へと変わった」と述べています。ところが廖は1965年には台湾独立運動を放棄するとの声明を出し、台湾に帰国して「投降」したのです。

1960年の2月28日王育徳を中心として「台湾青年社」は結成されました。この日に結成されたことは、メンバーの台湾独立思想の根源が二・二八事件に触発されたことと関係があります。彼らが手がけた出版物『台湾青年』は、長年にわたって二・二八事件を振り返り、歴史的な解釈に取り組みました。また、民間と協力して真相を調査し、個人が受けた苦難の記録に努めました。1967年、『台湾青年』二・二八事件20週年記念号に掲載された「二・二八大革命的真相」と題した文章では、「二二八革命」という言葉が使われ、二・二八事件は台湾人が自己を認識し、台湾独立に情熱を傾ける新たな起点であると論じました。WUFIの機関誌『台独』の1977年二・二八事件30週年記念号の表紙「二・二八大革命.台湾人民建国起点」からも、米国WUFIがこの観点に着想を得ていることがうかがえます。同号の社説においても、「省籍」によるものではない台湾人のアイデンティティの定義を試み、「すべての台湾人」に対してともに中国に抗い台湾を建設しようと呼びかけています。

◎共通の歴史の傷痕を認識することで共同体意識を結束

海外の台湾人活動家は二・二八事件を記念する催しを継続して行いながら、デモを通じて台湾人の民族自決を求める声を上げ、さらに投書や意見広告、デモといった公での行動を通じて、常に「ゆめゆめ忘るるなかれ」と呼びかけました。1960年代、海外の台湾人は「三月の虐殺(March Massacre)」として世界に向け二・二八事件を語りました。1966年、UFAI(全米台湾独立聯盟)が結成され、その活動の重点の一つとして、各大学の2月の出版物への投書や意見広告掲載に取り組みました。1968年、UFAI本部は全米の台湾人に宛てて、二・二八事件に関する意見広告に1日分の収入を寄付するよう募金を呼びかけました。これには多くの人が次々と賛同し、ハーバード大学、コロンビア大学、カンザス州立大学、パデュー大学、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)、ジョン・ホプキンズ大学、ウィスコンシン大学などの10数校の大学の出版物に、UFAI署名の二・二八事件に関する意見広告が出され、その多くが「MASSACRE ON FORMOSA(フォルモサの虐殺)」の見出しで掲載されました。

共通の傷痕という歴史的経験を強調することで、海外の台湾人がその台湾というナショナル・アイデンティティとエスニック意識を形成し、そして、この事件が蒋政権の権威主義的独裁政権に対する国際的な認識を高めることを期待したのです。

 

1984年、WUFI日本本部が二・二八革命37年周年記念会を開催。王育徳が講演


『台湾青年』1961年2月号(第6号)。
通常の2倍の紙幅を割いて二・二八事件を報道。メンバーの体験記や、編集部が日本で収集した関連出版物をまとめた「二・二八の真相」などを掲載。社説で国民党政権を植民地政権と定義。


『台湾青年』には歴史的に価値ある文献が多く掲載された。体験記のほか、数多くの犠牲者の生い立ちも記録。401号には仕事のために日本から台湾に赴任した技師で二・二八事件の受難者、堀内金城の記録も掲載されている。二・二八事件の歴史的な記録として価値があるだけでなく、受難者の遺族にとっても真相を知る手がかりになった。


『台湾青年』1976年2月(75号)。
71号から台湾青年は全て中国語で出版された。同号の内容は主に第6号の中国語訳だったが、社説はさらに一歩踏み込み、二・二八事件を「失敗した革命」と位置づけた。


1956年の台湾共和国臨時政府成立を報じる号外


廖文毅が立ち上げた「台湾民報」が1957年に東京で出版した『台湾民本主義』





1977年の二・二八事件30周年記念活動でWUFIが機関誌『台独』の合併号を発行。社説からは米国で新たに二・二八事件が「ある種の革命」と再定義されていることがわかる。
1977年の「二・二八大革命.台湾人民建国起点」30週年記念。参加者は集会で二・二八進行曲を歌った。


1970年の二・二八を記念し、南米の台湾人が日本語の「サンパウロ新聞」に声明を発表。


1967年、ニューヨークのFormosan Readers Associatesが二・二八事件20週年記念として発行した出版物。



1968年の2月28日に、UFAIが台湾人に発送した独立運動への寄付を呼びかける手紙。
1968年、ハーバード大学の学生新聞、ハーバード・クリムゾンに掲載された蕭欣義執筆の文章。


 

覚醒、行動、分裂

◎剣に代えペンを執る

戒厳令が敷かれた台湾では、権威主義統治の実態が隠され、言論と自由も激しく弾圧されており、これに気付いた人々は多くが海外へと向かいました。中でも王育徳らは台湾青年社を結成し、思想的な啓蒙に取り組みます。王は、出版、理念の提唱、思想の伝達こそが台湾独立運動の重点だと考えたのです。1960年代から1970年代にかけ、『台湾青年』は台湾ナショナリズムの論調を掲げ、1960年代には海外の台湾の人々に最も影響力を持つ出版物となりました。交流の意味合いの強い同郷団体は、会報を通じて故郷の情報を発信するとともに台湾意識を啓発しました。台湾独立を唱える自由主義者だけでなく、1970年代からは社会主義者も同様に海外に集結し、出版物を使って理念を伝えました。

◎デモ行進で民意を現す

海外の台湾独立運動では、出版物を発行して自分たちの主張を発信するほか、もっともよく行われたのはデモと抗議活動です。特に1971年以降、米国政府の対中政策が変わり、国連における中国代表権をめぐる争いの激化を受け、台湾の前途に強く関心を寄せる台湾の人々が日増しに増えました。1970年代には北米の台湾人が台湾の人々の自決を主張する一連の「台湾民衆大会」を開催し、講演のほか千人規模のデモを行い、国際社会に向かって台湾人の自主を求める思いと決意を示しました。

◎424蒋経国暗殺未遂事件

1970年4月、蒋経国は訪米中にニューヨークのプラザホテルで黄文雄に狙撃されました。暗殺は未遂に終わりましたが世界に衝撃が走り、海外の台湾人は大いに士気を鼓舞されました。しかしながら「組織を取るか仲間を取るか」の争いが内部分裂を引き起こし、物事の進め方や運動の戦略の違いから一度は組織として成立したWUFIが衝突と分裂の危機に見舞われました。頼文雄、王秋森ら多くのメンバーが組織を離れるなど、この事件がその後の運動の方向性に影響を与えました。

◎左派と右派の分裂

海外の台湾独立組織は、権威主義独裁政権打倒と独立建国という大きな目標では一致していたものの、社会主義を主張する人も常に存在していました。左派の思想が欧米で盛んになるにつれ、組織の内部ではどういう路線を進むかの問題が顕在化し、1979年には張金策が脱退、1984年には副主席だった洪哲勝らもWUFIを離れ、他の左翼運動と連携し、社会主義台湾の建設を目標に掲げます。仲間割れは、表面的には運動の進展に打撃を与えたものの、長期的に見れば、路線が違ったことで多元的な価値を尊重することの重要性を体得し、衝突の中から民主の核心にある価値を学んだと言えます。これは半世紀に及ぶ台湾独立運動の中でも最も貴重な成果です。

 

1970年以前の海外の台湾留学生社会において、最も影響力のあった啓蒙的な出版物。


1962年7月より台湾青年社は英語の刊行物Formosan Quarterlyを出版し、世界に向けたロビー活動に取り組んだ。1964年2月に誌名をIndependent Formosaに改め、1968年からはUFAIと台湾青年独立聯盟が共同で編集を行った。


ジョージ・H・カーが自著『Formosa Betrayed(邦訳:裏切られた台湾)』の中国語訳「被出賣的台灣」の版権についてやりとりした書簡。


全米台湾同郷会の刊行物『望春風』は、ふるさと台湾の情報を伝える一方で、政治評論も大量に掲載されていた。



欧州同郷会聯合会が当時、刊行物『郷訊』を印刷した機械とこの印刷機で印刷された出版物。


欧州同郷会聯合会の刊行物『郷訊』


1964年、彭明敏らは「台湾自救宣言」の公表直前に逮捕された。1965年末、日本にいた許世楷がこれを入手し、月刊誌『台湾青年』で公開。これが北米に伝わると海外の台湾人が勇気付けられ、複製が回し読みされた。さらには1966年、UFAIが国連で中国問題を議論する決定を下す直前の日曜日、大勢の募金により米国「ニューヨーク・タイムズ」に1ページの半分を占める大きな意見広告が掲載された。5つの組織が、当時家が一軒買えるほどの額であった4,300米ドルもの広告料を拠出した。この意見広告は「台湾は台湾人のもの、台湾は北京の中国政府に属するものでもなく、また、民意に基づかない国民政府も台湾人を代表することはできない」と強調。台湾人には自決権があると主張した。 こうして、「自決権と民主主義の追求」という台湾の人々の声を国際社会に届けただけではなく、UFAIは「台湾自救宣言」をクリスマスカードに折り込み台湾に発送。当局による情報遮断を潜り抜けて数千部が台湾に送り届けられた。


1967年、蒋経国が来日した際、台湾独立青年聯盟は、国民党の独裁に対する抗議デモを敢行。蒋政権への支持をやめるよう日本の与野党に求めた。列の外側を歩いている二人の幹部は、前が侯栄邦、後ろで拡声器を持っているのが許世楷。


1970年、黄文雄による蒋経国暗殺未遂事件に世界が震撼。米国の有力各紙が大きく報道した。



中華民国が国連での議席を失い、米中関係が大きく変化したことで、台湾の将来に不安を抱いた海外の台湾の人々は、当局からの圧力をも恐れることなく立ち上がり、台湾の将来に関する集会に参加するようになった。1970年代を通じて、全米各地で一連の台湾民衆大会やデモ行進が行われ、数百人が参加した。要求は民族自決、独立自治、民主化、そして人権等の多岐にわたり、有力メディアの注目を集めただけではなく、国民政府にとっても脅威となった。


 

国民政府による海外の台湾独立運動の弾圧

国民政府による台湾独立運動に対する弾圧は、当初、「共産主義者との闘争」という枠組みのもとで行われました。1953年、国民党中央委員会は「海外工作指導部門」を設置し、海外の党務、僑務(華僑事務)、外交を取りまとめ、共産主義者との闘争のほか、「忠誠なる海外の華僑を策動して、非合法な台湾独立党の陰謀活動の打撃」にも取り組みました。1956年、この部門は「海外対匪闘争工作統一指導委員会(海指会)」に改組され、海外工作の体制を拡大強化し、台湾独立と共産党を全面的に弾圧することを期しました。

◎党、政府、特務機関が一体となり国内外の台湾独立運動撲滅へ

海指会は、1961年に国民党、外交部、国家安全局、僑務委員会、教育部と連携しプロジェクトチーム(仮称「応正本小組」)を立ち上げ、海外の台湾独立の動向について対応策を検討しました。「応正本小組」はアジアに重点を置き活動していましたが、UFI主席だった陳以徳が記者会見を開き、台湾独立組織の発足を正式に発表すると、国民政府は全米各地の領事館に台湾独立運動対策プロジェクトチームを設置します。そして、1970年に台湾独立を目指す世界的な組織、WUFIが結成されると、海指会は「安詳プロジェクト」として台湾独立運動対策を専門とする部門を立ち上げ、教育部、中国青年救国団、国家安全局、調査局、国民党中央委員会第三組がこれを取りまとめました。

◎キャンパスでの闘い

移民ブームが起きる以前、海外における台湾独立運動の主力は留学生でした。このため、「キャンパス」が国民政府と留学生との激しい争いの場となりました。国民政府は政府に忠実な「忠貞学生」に公の場で台湾独立への反対を表明させたり、反動的な学生の情報を集めさせたり、台湾学生会の発足を阻止させたりするなど弾圧的な手段を使いました。これに加え、在外公館も留学生への指導などを通じ、台湾独立団体による台湾留学生への影響を抑えようとしました。具体的には、学生会の掌握、交流活動の実施、生活上の問題解決のサポート、国民党の留学生支部の立ち上げなど、留学生への宣伝工作や、さらには留学生の台湾の家族への連絡にも力を入れました。

◎スパイと特務学生

台湾独立に打撃を加えるため、国民党は脅迫や利益誘導などの手段を使い、台湾独立運動の情報を収集したり、台湾独立組織に入り込んで事前に組織を分裂させたり破壊したりする工作を行いました。UFIに紛れ込み、主席の陳以徳の信任を得た柯文程は、活動を通じて台湾意識を持つ学生の情報を収集しました。ウィスコンシン大学の張先明は同校の博士課程の学生、黄啓明が台湾独立活動に関わっていると告発し、1966年に資料収集及びフィールドワークのために台湾に帰国した黄は、これによって反乱罪の容疑で軍事法庭に提訴されました。1964年、早稲田大学の学生だった陳純真は「台湾青年会」に紛れ込み、盗んだ資料を大使館に渡しました。このスパイ活動により台湾青年会の幹部の多くが日本の警視庁に逮捕され、のちに執行猶予で釈放されたのですが、国民党は日本側に強制送還を強く求めました。逮捕者のうち、柳文卿は1968年にビザの更新手続きをしようとしたところ、身柄を拘束され台湾に強制送還されました。

中山奨学金の奨学生は党の工作員だったと見ることもできます。国民党に忠誠を誓う党員であることが奨学金申請の条件で、奨学生になると台湾独立運動に関わったり左傾化した学生の名簿を収集したり、その活動情報を入手したり、団体の分裂を促したりなど、留学生としての党務や特殊工作を任務として与えられることもありました。

◎ブラックリストとパスポートの没収

台湾独立運動の規模が大きくなるにつれ、在外公館でもこれに対応する部門が常態的に設置され、体制も拡大していきました。在外公館は台湾独立のパンフレット発行を阻止したり、独立派の言論に反論する文章を発表したほか、各国政府に対し、取締りやビザ発行の拒否、パスポートの没収などの協力を求めて交渉しました。周烒明、呉秀恵、張燦鍙らは、パスポート更新の際に悔い改める文書を書くことを拒否したためにパスポートは更新されず、帰属国家がなくなってしまいました。

台湾独立や政府への異議を唱える人々のリスト作成などの作業は制度化され、1971年には国民政府がワシントンDCに「国家反乱分子資料センター」を設置、ブラックリストを作成し、台湾独立を主張する人がパスポートの失効を機に台湾に送還された際、台湾で裁判にかけたり監視・軟禁できるようにしました。

 

1972年、米ウィリアムズポートで開催された野球のリトルリーグ・ワールドシリーズの際、国民党は応援に駆け付けた台湾の人々をマサチューセッツ州で訓練中の海軍に棍棒で挑発、攻撃させた。






1965年、ヒューストン・ポストに「愛国学生」による蒋介石を擁護する投書が掲載された。これに対し、留学生だった林栄長、張錦輝、李慶宗、廖明徴、張燦鍙の5名が投稿し反論。張燦鍙は自己批判書を書くことを拒否したためにブラックリストに登録され、パスポートを没収された。これがかえって張燦鍙が台湾独立運動に身を投じるきっかけとなった。





1964年の2月28日前夜、駐米大使館が人を雇いデモの写真を撮らせ、機密情報として台北に送った。駐米大使だった蒋廷黻が外交部に報告したものが、さらに総統に報告された。こうしたことからも在外公館による台湾独立派の活動に対する監視の姿勢がうかがえる。


1980年代に入ると、海外の台湾独立運動の規模は、もはや台湾の国民政府が無視できないほど大きなものになった。





1967年、陳隆志と著名な政治学者ハロルド・ラスウェルが共著を出版し、台湾の国際的地位についての見解を表した。警備総司令部は圧力をかけ、書籍が台湾に流入するのを阻んだ。さらに国民政府は政府と立場を同じくする台湾とアメリカの学者に反論させた。1969年、陳隆志は国連総会開会前にニューヨーク・タイムズ紙に投書を寄せ、台湾の法的地位は未定であり、台湾問題は台湾住民自らの決定で解決されるべきだと主張した。1970年1月29日、海指会は外交部、国家安全局、警備総司令部、司法行政部、教育部、新聞局などを召集し「台湾独立を企てる首謀者の法的処罰について」協議を行い、陳隆志をいかに処罰するかを議論した。




1964年、国民党は学生だった陳純真をスパイとして利用し、「台湾青年会」に潜入して名簿を手に入れさせた。これが青年会に発覚し、陳は許しを乞う反省文(左図)を黄昭堂(黄有仁は仮名)宛に書く一方で、黄昭堂等を日本の警察に告発したために、台湾青年会の幹部の多くが警視庁に逮捕された。黄らは後に執行猶予の判決を受け釈放された。

1968年、柳文卿はビザの延長を申請した際に身柄を拘束され、台湾に強制送還されることになった。青年会のメンバーは羽田空港で柳を奪回することを秘密裏に決定。日本の警察に柔道の技をかけられ投げ飛ばされたにもかかわらず、「台湾独立万歳!」と舌を噛みながら叫ぶ劉文清に身を挺してしがみつき離さなかった。


 

国際社会との連携と台湾の民主化への支援

中華民国が国連における中国代表権を失うと、台湾独立運動は新たな段階に入りました。台湾問題を国際問題とすべく絶えずアピールすると同時に、台湾内外の反政府組織との連携ルートを確立し、民主化運動を支えました。

◎台湾政治犯救援会

1977年、許千恵らが日本で「台湾政治犯救援会」を結成。ここで収集した資料がアムネスティ・インターナショナル(略称AI)のロンドン総会を動かしました。台湾の政治的受難者を世界的に救済し、不当に拘束された「良心の囚人」を35か国のAI支部で受け入れることになったのです。1979年末の美麗島事件を受けて、海外の団体が直ちに人道支援を開始し、募金の呼びかけ、抗議デモ、情報発信などに取り組みました。こうした活動により、アメリカの元司法長官、ラムゼイ・クラークが視察のため台湾を訪れ、美麗島事件について理解を深めるとともに受刑者に面会、国民政府に裁判の過程を公開するよう求めました。クラークは米国帰国後、直ちに記者会見を開いたほか、国務省に報告を提出し、国民政府に国際的な圧力を与えました。

◎民間外交を通じ台湾人の声をワシントンDCに

1977年6月、米国国会で初めて台湾の人権問題に関する公聴会が行われました。これが台湾の民主と人権に重要な役割を果たします。1983年11月9日、米上院は、「台湾前途決議案」のため公聴会を開くことに合意。当時、台湾公論報(Taiwan Tribune)のスポークスパーソンだった羅福全が証人として出席し、「The Future of Taiwan」を発表。証言はすべて議事録に収められました。11月15日、上院外交委員会で「台湾前途決議案」を承認。「台湾の前途は強制されることなく、また台湾の住民が受け入れられる平和的な方法で解決されなければならない」と明記した同案は11月20日に上院で可決されました。1987年、当時WUFI主席だった張燦鍙は国務省で講演し、台湾の人々が自決権を持って民主的に政治改革を進めるのを米国は支援すべきだと指摘しました。この講演は、台湾独立の主張を初めて米国務省に届けるものとなりました。

 


1971年10月18日、国連総会で「中国代表権問題」の討論が行われ、WUFIがデモを敢行。陳希寬、許富淵、王博文、頼文雄、鄭紹良、黄師銘、黄静枝らが国連の入口で自身に手錠をかけ、「台湾自決」などのスローガンを叫んだ。これは「一つの中国」という考え方が台湾に与える大きな圧力を象徴し、また台湾の人々が看過されているという事実に対する抗議でもあった。日本の本部もこれに呼応して東京銀座の数寄屋橋公園でデモを行い、許世楷、黄昭堂、林啓旭の三人が体に鎖を巻き付け、台湾問題の国際化を訴えた。


1983年11月9日、米国上院は「台湾前途決議案」のための公聴会開催に合意。当時、台湾公論報のスポークスパーソンだった羅福全が証人として出席、その発言はすべて議事録に収められた。


1987年、張燦鍙が米国務省で講演。国民党政権の虚構性と非合法性を指摘した。また米国の対台湾政策に関し、1)台湾への武器販売をやめること 2)蒋政権に台湾の人々が台湾の前途について公に議論することを認めるよう要求すること 3)ブラックリスト登録者の帰国の権利をサポートすることの3つの提言を行った。こうして、台湾独立の主張が初めて米国務省に届けられた。


 

鍵を握る数少ない存在——台湾独立運動における女性

さまざまな台湾人組織の中で、女性は目に見えない存在であることが多いのですが、その貢献は組織運営や戦略、人的ネットワーク、問題への取り組みなどのほか、民主主義、人権、外交、家庭、後進の育成などの分野でも際立っています。

◎独立への道の毅然とした力

運動が始まったころに第一線の政治運動に参加していた女性は極めて少数で、羽田での柳文卿奪還の際に現場にいた唯一の女性だった金美齢や、20世紀において唯一女性として台湾独立建国聯盟欧州本部の主席を務めた何康美がいました。金美齢は台湾青年社時代にすでに組織に加わわっており、情報伝達という危険な任務を担い、台湾独立運動に参加した女性としては第一世代にあげられます。何康美は1986年、台湾における現代看護医療教育のパイオニアである陳翠玉と世界規模の婦女台湾民主運動(Women’s Movement for Democracy in Taiwan, WMDIT「穏得」)を発足させました。陳翠玉は二・二八事件の銃殺刑リストから辛くも逃れたのですが、国民政府の迫害を受けたことで台湾を離れ中南米で働き、のちに独立運動に身を投じたためブラックリストに登録されました。

◎手に手を取り建国への路を歩む

台湾独立運動の活動家の背後にはいつも力強いパートナーがいました。台湾大学医学部の呉秀恵は周烒明の「ウィスコンシン大学台湾同郷会」と「台湾問題研究会」の発足を支援しただけではなく、人権問題にも関心を寄せ、AI支部の設置を申請したほか、「美麗島事件」の受刑者だった陳菊の身元を引き受けました。1980年代に発足した「北米台湾人医師協会」(NATMA)と「北米台湾婦女会」(NATWA)の背後にもいずれも呉秀恵の協力がありました。台湾大学を卒業した毛清芬は羅福全を全力で支え、人権救援、台湾における宣伝活動や、台湾へ秘密裏に帰国したほか、『台湾公論報』の精神的支柱でもありました。盧千恵は1960年代から人権団体を組織、日本の友人を通じて、何度も国民党が人権を侵害しているという情報をAIに知らせました。これに触発された張燦鍙の妻、張丁蘭は、米国で人権擁護の活動を始めます。1976年、張丁蘭はニューヨーク在住の台湾人女性、戴恵美、林麗嬋、林千鶴らに声をかけ、ともに「台湾婦女維護人権委員会」を結成し、台湾にいる政治的に迫害を受けた人々を救援したり、その家族を支援し国民党の人権蹂躙に抗議しました。国民党独裁政権に打撃を与えるため、AI米国支部代表のニューヨーク大学教授、ジェームズ・シーモアの支持のもと、組織をあらため「全米台湾人権協会(Formosan Association for Human Rights, FAHR)」とし、AIと協力して台湾に人員を派遣して人権の調査を行い、出版物を出版し、巡回広報、国会議員へのロビー活動に取り組み、台湾の人権問題に注目するよう広く呼び掛けました。台湾の政治犯を助けるだけでなく、国民党政権に国際的な圧力をかけました。高雄事件の発生後、盧千恵は多くの仲間とともにカリフォルニアで「台独之声」を立ち上げ、海外の台湾の人々に向け、いち早く台湾の独立運動の情報を知らせ、電話によるネットワークでより多くの反政府の力を結集させたのでした。

◎台湾の音

1977年、敬虔なキリスト教徒である楊宜宜がニューヨークで立ち上げた「台湾之音」(ボイス・オブ台湾)は、台湾出身者の電話メッセージを録音したものに、キリスト教の福音放送を挟み込む形の放送を始めました。楊はのちに刑期を終えたばかりの党外総幹事、施明徳を取材したことでブラックリストに登録され、高雄事件後に警備総司令部によって国家反逆罪に問われ起訴されました。それにもかかわらず楊宜宜は自力で資金を調達してこの「ホットライン」を障害なく運営し続け、海外の台湾人がいち早く台湾の情報を受け取れるよう尽力しました。「台湾之音」の影響力は日に日に増し、世界30数カ所で次々と支局が開設されました。WUFIは同じ方法でカリオフォルニアと東京に「台独之声」を開設しました。

 

経済面から台湾独立運動を支援した極めて少数の女性のうち、最も有名だったのは「井上魯鈍」だった。1967年から、ある謎の購読者が長期にわたって『台湾青年』に資金援助を続けた。1986年、台湾青年社は突然、井上が他界したとの知らせと百万円の寄付を受け取り、その時初めて「井上魯鈍」とは台南出身の女性医師、黄聡美だったことを知る。井上の正体が明らかになり、『台湾青年』は悲しみにあふれた追悼文——「みなが泣いた」を掲載した。


台湾の政治犯の救済や人道支援に立ち上がった台湾独立派の女性は、常にその第一線で闘った。


この「台湾之音(ボイス・オブ・台湾)」というビラに記された電話番号こそが、国内外を繋ぐ窓口だった。台湾の民主化運動陣営が即時に海外の台湾人組織の協力や支援を受けられるようになった。