オンライン企画展
「土地に刻まれた傷跡:二・二八事件の遺跡-北部地区」特別展
真夜中の喧騒

 更新日:2021-06-19

会期:2021年2月20日(土)~2021年5月16日(日).毎週月曜日休館
開館時間:10:00~17:00(入場は閉館の30分前まで)
会場:二二八国家紀念館 二階南翼/台北市中正区南海路54号
後援:内政部
主催:二二八事件紀念基金会、二二八国家紀念館
主管:社団法人台湾共生青年協会


はじめに

 1947年に発生した二・二八事件は、台湾社会に決して拭い去ることのできない傷跡を遺しました。その事件の舞台になった場所や建物には、歴史の記憶が刻まれ、二・二八事件を知る手がかりを伝える「二・二八遺跡」となっています。

 こういった遺跡には、公的機関の執務場所や一般市民の暮らしと密接な関わりを持つ場所、そして人々が実際に迫害を受けた場所があります。今回の展示では空間を軸に、公文書などの文献や口述記録で描写されている場所、建物、経路をたどり、点と線、面からより具体的に歴史的な事件の姿を繋ぎ合わせました。

 二・二八事件に関連して起きた事件について、時系列と発生地点の2つの視点から3回に分けて展示を行います。第一回は戦後まもない1947年2月に事件が発生した台北市天馬茶房での闇タバコ取締り暴行事件から、同年3月1日の臨時戒厳令まで。第二回は台北市以西、淡水河以南の台湾北西部のそれぞれの場所において、台北で起きた事件を受け、各地の人々が時局への対応策を話し合い、集まって議論した場面。そして3月8日に国民政府軍が中国から台湾に上陸したのちに各地で展開された鎮圧作戦と掃討作戦の状況まで。最後の第三回は台北市以東の台湾東北部および台湾東部の宜蘭や花蓮における市民と政府との間で繰り広げられた出来事、特に基隆港での陸軍第二十一師団上陸後の機銃掃射、及び銃殺刑により多くの人々が死傷した場面を取り上げます。全三回の展示に登場する遺跡は、台北周辺から基隆、桃園、新竹、苗栗、さらには台湾東部の宜蘭、花蓮などに及んでいます。


第一回:真夜中の喧騒
展示期間:2021年2月21日~5月16日

 1945年10月25日、日本の植民地だった台湾では、日本の敗戦により統治権力が日本から中国国民党率いる国民政府に移りました。多くの人々が、この日本とは違う見知らぬ「祖国」が、台湾の人々に新たな希望を与えてくれるものと期待していました。しかし、近代化された日本の統治を受けていた台湾の人々は、新政権の行いの一つひとつに驚きをもって直面することになります。不当な統治、汚職や腐敗、公権力の濫用などを目の当たりにし、人々の不満は日増しに高まっていきました。

 1947年2月27日、暴力的な闇タバコ取締りによって人命が奪われ、積もり積もった人々の不満が爆発します。大稲埕での衝突が、翌日には行政長官公署前での衛兵による群衆への発砲に拡大。命からがらラジオ局まで逃げてきた人々が「全島放送」を通じ、行政長官公署前で起きた血の弾圧事件を台湾全土に伝えたことで、人々の国民政府への不満が一気に爆発したのでした。


第二回:銃声のその後に
展示期間:2021年5月20日~8月15日

 3月1日、住民の代表らが闇タバコ取締り暴行事件の処理委員会を組織。翌3月2日には二・二八事件処理委員会と改組され、中山堂でさまざまな立場の代表者による会合を開催し、事件の平和的な収拾を目指しました。4日には台湾全土の17の県や市で処理委員会が組織され、状況は一見好転するかに見えました。しかしながら、各地で処理委員会が成立された同時期に、行政長官公署長官だった陳儀は中国からの派兵を蔣介石に要請していたのです。陳儀は、対外的には武力による鎮圧は行わないと表明していたにもかかわらず、一方では中央政府(当時は中国南京)に支援を要請し、台湾での兵力配備を進めており、事態は平和的に収拾できない方向へと進んでいったのでした。


第三回:島に響く挽歌
展示期間:2021年8月19日~11月14日

 1947年3月8日、中国から台湾に派遣するために編成された陸軍第二十一師団が基隆港と高雄港から台湾本島に上陸しました。行政長官公署が二・二八事件処理委員会の解散を命じたことで、台湾各地の処理委員会地方支部で事態収拾のための議論に参加したメンバーや人々は、逮捕や粛清の対象になりました。軍部と警察が戒厳を画策し、軍を配備して鎮圧を進める中、多くの人々が不幸にして軍部と警察による無差別の虐殺や略奪に巻き込まれていきました。交渉や話し合いによる打開という希望は踏みにじられ、事態は国民政府による武力鎮圧へと突き進み、台湾という島に虐殺と銃殺刑という痛ましい記憶が刻まれたのです。


  • 台北市公会堂|中山堂
  • 台湾省参議会|二二八国家紀念館
  • 天馬茶房|南京双子星ビル
  • 港町派出所|台北市政府警察局刑警大隊档案ビル
  • 台北市警察局|台北市政府警察局
  • 台北憲兵隊|憲兵指揮部台北憲兵隊
  • 台湾省政治建設協会弁公処|統一名廈
  • 太平町二丁目派出所|台北市大同分局延平派出所
  • 専売局台北分局|彰化商業銀行台北支店
  • 専売局総局|台湾菸酒股份有限公司総部
  • 台湾省行政長官公署|行政院
  • 郵政総局|中華郵政台北北門郵便局
  • 鉄路管理委員会|国立台湾博物館鉄道部園区
  • 人民導報社|撫台街洋楼
  • 台湾新生報社|新生報業広場ビル
  • 台湾広播電台|台北二二八紀念館
  • 台湾省警備総司令部|国防部後備指揮部
  • 保密局台湾站站長林頂立住宅|ホテルリバービュー台北(豪景大酒店)
  • 基隆要塞司令部|基隆要塞司令部
  • 元町派出所|基隆東岸広場

戦後、国民政府が台湾を接収

 1945年、第2次世界大戦が終結すると国民政府は台湾を接収(一時的な軍事占領)し、行政長官公署と警備総司令部を置きました。行政長官公署は民政を、警備総司令部は軍政を担当し、同時に情報機関(軍統局、中統局)も台湾に置かれました。同年10月25日、台北市公会堂(現在の中山堂)で「中国戦区台湾省降伏受諾式典」が開かれ、台湾の統治権が移行されました。しかし、これが二・二八事件の悲劇の始まりになりました。

 戦争の終結および統治者の交代は、台湾人にとっては植民地から解放されることへの期待であり、政治と経済、生活が一新することへの希望でした。そのため、人々はこぞって地方自治に参加したのです。1946年4月15日、各県や市の参議会から30名の参議員が選ばれ、台湾省参議会が組織されました。戦前から台湾に住む本島人が大多数をを占め、それ以外は日本統治時代に台湾から中国に渡り、戦後に台湾に戻ってきた「半山」でした。省参議会は当時では珍しい台湾人主体の政治機関でした。


台北市公会堂



遺跡紹介

 1928年、台湾総督府は清朝統治時代の台湾における最高行政機関「布政使司衙門」を解体し(一部の建物は台北植物園に移設)、跡地に台北市公会堂を建設。1936年に完成しました。日本の敗戦後の1945年には、この場所で第2次世界大戦中国戦区第十五降伏区(台湾、澎湖を含む)の降伏受諾式典が開かれ、台湾島と澎湖島は国民政府によって接収されることになりました。式典後、台北公会堂は「中山堂」と改称され、行政機関の式典や議員による議事、市民集会、文化関連の展覧、公演などが行われる場所となりました。2001年に改修がなされ、2019年に国定古跡に指定されました。

事件の概要

 1945年10月25日、中国戦区台湾省降伏受諾式典が公会堂大宴会ホールで行われました。日本側の代表、安藤利吉が降伏文書に署名し。「中国台湾省行政長官公署・台湾省警備総司令部署部字第一号命令」に基づき降伏式典が行われました。正式な国際条約に基づいた統治権の移管が完了したわけではありませんが、中華民国はこの時から台湾を国内法で統治し始めました。


台湾省参議会



遺跡紹介

 日本統治時代、台湾総督府は各種の近代教育を実施するため、1901年に「台湾教育会」を創設しました。1928年には「台湾教育会館」の建設を計画。台湾総督府営繕課長の井出薫が設計をし、1931年5月に完成しました。当時は様々な講演会や教育成果の展示会場として使われたほか、映画上映や「台湾美術展覧会」の会場にもなりました。

 1946年5月、台湾省参議会はこの場所で設立大会を開きました。1951年12月末、臨時省議会と改組され、1958年に台中の霧峰に移転するまでこの地を所在地としました。その後、1959年からは米国広報文化交流局がここに移転。1979年の米国との断交後は「アメリカ文化センター」と改称し、2002年に移転するまで引き続き使用されていました。

 建物の修復と再利用のための工事が行われ、2011年2月28日に正式に開館しました。

事件の概要

 1946年5月1日、台湾省参議会は設立大会を開きました。第一期第1回大会は会期が15日間で、国民政府の台湾接収によって生じた問題に対し、省参議員は厳しく批判を行いました。王添灯や林日高は政府と企業の癒着をを暴いたほか、郭国基や李万居らは台湾籍の人材登用を声を大にして求めました。林連宗は司法が独立できておらず、裁判所が判決を出す際に中央政府に指示を仰ぐ必要があること等について厳しく追及しました。メディアはこうした民主主義に関する重要な議題に大きく注目し、「人民導報」や「台湾新生報」は会期中、連日、紙面一面を使い特集を組みました。


衝突発生前夜 闇たばこ取締り事件

 行政長官公署は日本統治時代の専売制度を踏襲し、専売局総局と県や市ごとに分局を設置しました。しかし、専売局の管理が適切ではなく、製品の質も悪かったため、私製のたばこや酒が市中にあふれていました。また、私製たばこ取締りが原因のいざこざが相次いで新聞で報道されたことで、市民は専売制度や市民から利益を奪う状況に不満を抱くようになりました。

 1947年2月27日午前、専売局は「淡水港に密輸船がマッチや巻きたばこ50箱余りを運び込んでいる」との密告を秦朝斌から受けました。そこで、専売局台北分局から傅学通、葉得根、盛鉄夫、鐘延洲、趙子健、劉超祥の6名、警察大隊から張国傑、何恵民、蔡厚勳、張啓梓の4名が淡水に取締りに向かったところ、密輸品がすでに台北最大の密輸品集結拠点の一つである「天馬茶房」に運ばれたとの情報を得ました。数名の取締官と警察官はまず近くの小春園で食事をとり、夜7時半ごろに天馬茶房で闇たばこの取締りを行いました。その際の衝突が原因となり二・二八事件が勃発したのです。


天馬茶房



遺跡紹介

 1941年、著名な活動弁士の詹天馬が開いた「喫茶店」天馬茶房の近くには「万里紅酒家」や高級台湾料理レストラン「蓬莱閣」、西洋料理レストラン「波麗路」などがあり、当時、この一帯は文化人が集い交流する場所でした。1947年2月27日夜、専売局が闇たばこを取締った際に起きたいざこざが、二・二八事件が勃発する導火線となりました。

 1998年、台北市は南京西路185号に「二二八事件引爆地紀念碑」(二・二八事件勃発地点記念碑)を建てました。

 当時の建物は2005年に取り壊され、2011年、地元の郷土史研究家によって跡地の3階に「天馬茶房」が開設されましたが、現在は休業しています。

事件の概要

 1947年2月27日夜、台湾省専売局台北分局の取締官が天馬茶房に到着したときには、販売業者の大半はすでに逃げていましたが、逃げ遅れた林江邁は所持していた金銭とたばこ全てを取締官に没収されたため、土下座して許しを請いました。通りには多くの市民が集まり、現場を取り囲むように見ていました。集まった市民らは口々にあれこれ言い、多くの人が林の味方になり温情ある対応を求めました。騒ぎの中、取締官の葉得根が銃床で林の頭を殴って怪我をさせたことで、傍観していた市民は見るに見かね、取締官を取り囲んで捕まえようとしました。取締官の傅学通は窮地を脱しようと発砲した弾が市民の陳文渓に当たり誤って射殺してしました。これにより事態はさらに激化し、群衆は逃げる取締官や警察官の後を追いかけていきました。


港町派出所



遺跡紹介

 1937年に完成した台北州台北北警察署港町警察官吏派出所は、戦後は港町派出所と改称されました。当時の建物は1988年に取り壊され、建て替えられて現在は台北市刑警大隊が管理する台北市政府警察局刑警大隊档案室として使われています。

事件の概要

 1947年2月27日、天馬茶房前で闇たばこ取締りに起因する衝突が発生した後、取締官と警察官は市民に追いかけられました。警察官の蔡厚勳と取締官の盛鉄夫は、まず下奎府町派出所に逃げ込み、警察大隊部に電話をかけ応援を要請しました。応援が現場に到着したとき、蔡厚勳は人力車でその場を離れようとしていましたが、人力車は発車しようとせず、後ろからは市民が「殴れ」と叫んでいたため、蔡厚勳は助けを求めて港町派出所に逃げ込みました。その後、大隊部の車が到着し蔡厚勳は警察大隊部に戻ることができました。盛鉄夫は、応援の警察が到着したこと知り、現場に戻って専売局の同僚を探しましたが、着いた時にはすでに警察の姿はなく、目にしたのは群衆が専売局のトラックを壊そうとしている光景だったため、港町派出所に逃げ込み、応援の車でようやくその場を離れ台北憲兵隊に向かいました。


台北市警察局



遺跡紹介

 1920年、総督府は台北南警察署(南署)を台北市公会堂広場に建設しました。南署は日本統治時代、北門以南の派出所20カ所余りを管轄していました。コンクリート造りの2階建てで、横一列に並んだ縦長の長窓は当時の台北北警察署(現新文化運動紀念館)と似ています。戦後も警察署として使われ続け、中山堂の広場で行われる集会を監視しています。

 当時の建物は1968年と1988年の2度にわたり改築された後、建て替えられました。現在は台北市政府警察局庁舎として使用されています。

事件の概要

 1947年2月27日夜、天馬茶房前で群衆と取締官、警察官の間で衝突が起こった後、取締官と警察官は、それぞれ近くの派出所に逃げ込み、応援を求め、相前後して台北市警察局に戻りました。これを知った群衆は台北市警察局を取り囲み、 事件を起こした取締官を差し出すよう求めました。しかし、陳松堅局長はこれを拒み、取締官6名を憲兵隊に向かわせたため、群衆は憲兵隊に押し寄せて行きました。

 この年の3月、台北市警察局は逮捕者を拘禁し、自白を強要する場となりました。


台北憲兵隊



遺跡紹介

 日本統治時代の台北憲兵隊本部は台北城内の西門街に置かれ、主に台湾全土の軍事警察、行政や司法警察をまとめる役割も兼ねていました。島内の主要地域に憲兵分隊が設置され、そのうち台北憲兵分隊は本部内に置かれました。建物正面には菊の御紋が刻まれていました。戦後は台湾地区軍事接収委員会に接収されました。当時の建物はすでに撤去され、建て替えられています。

事件の概要

 1947年2月27日、天馬茶房前で闇たばこ取締りによる衝突が発生した後、群衆は取締官6名が台北憲兵隊で匿われていると知ると憲兵隊を取り囲み、事件の張本人を差し出して厳しく処分するよう求めました。抗議は夜通し続きました。憲兵第四団団長の張慕陶は群衆を脅し、制止しようとしましたが、徒労に終わりました。群衆は「台湾新生報」と台北憲兵隊の間を行き来して情報を伝えながら夜を徹して憲兵隊を包囲し、事件関係者を差し出すよう叫びました。それは2月28日早朝に警察大隊が排除に来るまで続きました。


1947年2月28日闇たばこ取締り事件の抗議デモルート

前夜の闇たばこ取締りによる衝突で、軍や警察が当事者の引き渡しを拒否したため、市民は取締りを担当した専売局総局と行政長官の陳儀に正しい事後処理を行うよう求めました。2月28日午前、市民団体の台湾省政治建設協会が大稲埕地区の人々に大橋頭の広場に集合するよう呼び掛け、張晴川を総指揮としてデモを開始しました。デモ隊は迪化街や延平北路、北門円環を経て重慶南路の専売局台北分局に向かいました。万華の龍山寺にも市民が集まり、南昌街の専売局総局に抗議に向かいました。また、台北商業学校自治会会長の廖徳雄は、台湾商工学校(現開南商工)、台北工業学校、台湾省立商学院(台湾大学徐州路キャンパス)、成功中学、延平学院の各校の学生らに招集をかけ、社会人によるデモ隊に加わりました。正午、大稲埕や万華からやって来たデモ隊と各校の学生らは次々と行政長官公署前に集まってきました。


大稲埕隊:大橋頭の広場→江山楼、普願宮→天馬茶房→太平町二丁目派出所→鉄路管理委員会→北門円環→台北郵局→専売局台北分局→北一女中→専売局総局→南門円環→新公園→台大医院→行政長官公署


ストライキ、同盟休業 街頭で抗議

 前夜に天馬茶房で起きた闇たばこ取締りによる衝突は人々の不満を引き起こしました。群衆は台北市警察局や台北憲兵隊に向かい、軍や警察に対し、当事者を差し出して厳しく処分するよう求めました。しかし、この要求は叶えられなかったため、さらに大規模な抗議行動に火を付けることとなりました。1947年2月28日午前、大稲埕に集まった抗議の市民はドラを鳴らし、同盟休業を通告しながら延平北路を進みました。10時ごろ、事件当事者である専売局台北分局に到着して抗議活動を行い、局内のマッチやたばこ、酒、自動車1台、自転車7、8台を道に放り出し燃やしました。それを取り囲んで見守る市民は2000~3000人に上りました。デモ隊は続けて、専売局総局と行政長官公署などに抗議に向かいました。

 デモ隊が行政長官公署前に向かっているとき、衛兵はすでに行政長官公署の屋上に機関銃を設置しており、群衆が近づくと機関銃を掃射し、即死者がでました。この時から衝突は拡大を続け、台湾広播電台からラジオ放送を通じて事件が報じられ全島的な抗争に発展していったのでした。


台湾省政治建設協会弁公処



遺跡紹介

 1946年1月、元台湾民衆党員や台湾革命同盟会メンバーらは「台湾民衆協会」を設立しました。4月には行政長官公署の指示で「台湾省政治建設協会」に改称し、蒋渭川が開設した大稲埕の書店「三民書局」で会議を行いました。二・二八事件勃発後、三民書局は政治的な理由により閉鎖されました。

 当時の建物は取り壊され、建て替えられています。

事件の概要

 1947年2月27日夜、台湾省政治建設協会のメンバー、廖進平、黄朝生、張晴川、王万得らは天馬茶房近くの万里紅酒家2階で会議中でしたが、騒ぎを聞いて様子を見に下に降りていきました。私製たばこを取り締まる取締官と警察官は前後して台北市警察局に戻り、これを知った群衆は台北市警察局を包囲して当事者を差し出すよう求めましたが、要求は叶えられませんでした。抗議に参加しようと協会メンバーの一部は台湾省政治建設協会の事務所に戻り、緊急会議を開き対応策を協議するとともに、大稲埕や万華の支持者や学生と連絡をとり、翌2月28日に街頭で抗議を行うことを決議しました。


太平町二丁目派出所



遺跡紹介

 日本統治時代、1931年1月に完成した太平街二丁目派出所は台北北警察署の管轄で、建物1階の右を消防事務所、左を派出所としていました。2階には40坪(132㎡)余りのロビーがあり、市民の集会場所として提供されていました。戦後、当初の建物に増築され3階建ての建物となりました。現在でも派出所として使われています。

事件の概要

 1947年2月28日午前9時、群衆は前日の闇たばこ取締り事件で満足のいく回答が得られなかったことから、街頭でドラを鳴らして抗議し、ストライキや同盟休業を呼びかけました。市民や商店はこれに応じ、相次いでシャッターを下ろしました。デモ隊が二丁目派出所を通りかかったとき、同派出所の黄警長がデモ隊を制止しようとしましたが、反対に群衆に攻撃され、派出所のガラスや物品が叩き壊されました。


専売局台北分局



遺跡紹介

 1929年、辰馬商会取締役社長の河東富次の出資により本町に店舗が建設されました。その後、1934年9月、専売局台北市局が辰馬商会から借り受け、中央の壁を取り払いました。戦後、台北支局は台北分局と改称され、1951年に建物は国有となりました。そして1968年、彰化銀行に譲渡され台北支店として使われるようになりました。建物の騎楼(一階部分を半屋外とすることで作られた歩行空間)や内部は複数回にわたって改装されていますが、外観は建設当初とほぼ変わらない形を保っています。2012年に歴史建築に指定されました。

 日本統治時代の1901年、台湾総督府は専売局を設立し、アヘンや塩、樟脳、たばこ、酒、マッチ、度量衡儀器、石油などの生活物資を専売とし、その収入は総督府の主要な財源となりました。1945年、国民政府により接収された後は台湾省専売局に改組され、日本統治時代の専売制度をそのまま引き継ぎました。専売局には、台北、台中、台南、台東、高雄、新竹、花蓮港、嘉義の8つの分局が置かれました。

事件の概要

 1947年2月27日夜に起こった闇たばこ取締り事件は市民の怒りに火をつけ、翌日、街頭で抗議デモが行われました。デモ隊は大稲埕を出発し、10時ごろに専売局台北分局に到着すると、事件に対する公正な措置を求めました。しかし、分局の外省籍職員はすでに姿を消しており、残っていたのは数名の事務員だけでした。このため群衆は請願の相手を失い、局内の物品を街頭に運び出して火をつけることで抗議の意を示すことしかできませんでした。当時の漢口街里長の鄧進益はデモ隊の行動を阻止して「これを燃やすのは筋が通っていない。ここはただの分局で、城中区のたばこを売っているだけだ。陳情をするなら、総局に行くべきだ」とデモ隊に告げました。そこで、群衆は専売局総局と行政長官公署に向かい、抗議を続けました。


専売局総局



遺跡紹介

 1922年、台湾総督府営繕課の技師、森山松之助によって設計されました。中央にそびえ立つ塔や赤と白が交互にあしらわれている壁、アーチ状の窓などは同時期に建てられた総督府とよく似ています。専売局はアヘンや塩、樟脳、たばこ、酒、マッチ、度量衡儀器、石油などの重要な生活物資を専売しました。戦後は行政長官公署に接収され、1947年5月、台湾省菸酒公売局に改組されました。2002年に公売制度が改正されると、台湾菸酒股份有限公司本社となりました。建物は1998年に国定古跡に指定されています。

 1945年、国民政府が接収し、台湾省専売局に改組しました。当時、穀物不足やインフレが深刻で、失業率も高止まりしていました。新政府の役人は公有財産を私物化し、虚偽の水増し報告をしていました。専売を扱う専売局は不当な管理によって私製たばこや私製酒を溢れさせ、闇たばこの取締りによる衝突が相次いで報じられました。さらに、専売制度は民間から利益を奪うものであったため、印象も良くありませんでした。

事件の概要

 1947年2月27日夜に天馬茶房で起きた闇たばこ取締りによる衝突によって翌28日午前、大勢の市民が専売局台北分局に抗議に押し寄せました。その後、市民は専売局総局へと移動して抗議を続け、要求を出しました。総局は事前に抗議活動の情報を得ていたため憲兵や警察を動員し、守備のために屋外に機関銃を設置していました。局長の任維鈞は早々に避難し、台湾人の事務員数名のみが残っていました。憤怒した群衆は道すがら専売局南門工場や職員宿舎を破壊し、最後に行政長官公署に抗議に向かいました。

 二・二八事件後、専売局は矢面に立たされることになりました。人々の反感を避けるため、「専売規則」は「公売規則」に、「煙」の字は一律「菸」に変更され、1947年5月、台湾省菸酒公売局と改編されました。


台湾省行政長官公署



遺跡紹介

 1920年、行政区域改革により台北市が設置され、市役所は暫定的に樺山尋常小学校校舎で業務を行いました。台湾総督府営繕課長の井出薫が設計を手掛けた庁舎の建設は1937年から始まり1940年に竣工しました。戦後の1945年9月20日、台湾省行政長官公署が設立され、1947年5月16日に行政長官公署の廃止後は台湾省政府弁公庁舎として使用されました。1957年、台湾省政府が南投・中興新村に移転した後は、行政院庁舎として現在まで使われています。1998年に国定古跡に指定されました。

事件の概要

 1947年2月28日、天馬茶房での闇たばこ取締り事件の翌日、民衆は大稲埕からデモを始め、専売局台北分局、専売局総局前で抗議活動を行うと、行政長官公署に移動し、事件の当事者を厳しく処分するとともに専売制度も廃止するよう求めました。午後1時ごろ、数百名にのぼる群衆は、先頭でドラを鳴らしながら台北駅から長官公署に向かって進んでいきました。

 抗議の群衆が中山南路と中山北路の交差点の手前、公署広場前の到着前に、銃をもった完全武装の兵士に行く手を阻まれました。まもなく銃声が鳴り響き、長官公署の屋上に設置された機関銃から射撃が群衆に向けて行われました。銃弾に当たってその場に倒れる人もおり、群衆は散り散りになって逃げていきました。当時、警備総司令を兼務していた行政長官の陳儀は午後3時に長官公署で、台北地区臨時戒厳を宣言し夜間外出を禁止しました。その後、武装した軍や警察を出動させ、市街地を警邏するとともに機銃掃射を行い、重要地域の警戒に兵力を充てました。


郵政総局



遺跡紹介

 1920年代末、台湾総督府は木造だった台北郵便局庁舎の建て替えを決め、栗山俊一に設計を担当させました。1928年に着工し、2年後に3階建てのロビーが2階まで吹き抜けになった新庁舎が完成しました。戦後、郵政総局によって接収され、1960年代には車寄せが撤去され4階部分が増築されました。現在は中華郵政台北北門郵便局として使用されており、郵便業務を行うほか、公共の展覧、展示場所として使われています。1992年に国家三級古跡に指定されました。2013年に外壁の改修が終わり、2020年から車寄せの再建工事が進められています。

事件の概要

 1947年2月28日、群衆は大稲埕から専売局台北支局、専売局総局、行政長官公署へと向かい、抗議を行うとともに要求を提出しました。衝突は拡大を続け、午後3時ごろ、警備総司令部は台北市区に臨時戒厳を宣言し、武装した軍や警察を派遣して市街地を警邏するとともに銃による掃射を行いました。しかし、群衆はそれでもなおデモを続け、北門一帯に進路を変え1000名余りが郵政総局前に集結しました。軍や警察が排除にあたっても解散せず、衝突が起こり市民十数名が死傷しました。その数日後も郵政総局前では死傷者を伴う衝突が続きました。


鉄路管理委員会



遺跡紹介

 もともと台湾巡撫の劉銘伝が1884年に建てた機器局でした。1895年、日本軍の接収後、台北兵器修理所となり、1900年に鉄道部に移管後、台北工場に改称されました。1918年、鉄道部庁舎が新たに建設されました。1945年、行政長官公署交通処の鉄路管理委員会が鉄道部を接収し、政府の組織改編を経て1999年に交通部台湾鉄路管理局の管轄となりました。

 2006年、「鉄道部博物館園区」をコンセプトとして古跡の修復や再活用工事を行うことが協議され、2007年、 として国定古跡に指定されました。当初、敷地内には40棟近い建物がありましたが、その後一部は取り壊され、残っているのは10棟で、8カ所が法定文化資産になっています。2020年7月から一般公開されています。

事件の概要

 1947年2月28日午後3時ごろ、警備総司令部は台北市区の臨時戒厳を宣言しました。群衆はそれでもなおデモを続けて北門一帯に向かい、1000名余りが集結して郵政総局や鉄路管理委員会、鉄路警察署などを囲みました。軍や警察が排除をしても衝突は続き、十数名が死傷しました。2月28日夜、鉄路管理委員会職員宿舎の一部の職員と家族は近くの米国駐台領事館(台北市中華路一段2号)に避難しました。鉄路警察署は騒ぎの拡大を目の当たりにすると、台北や基隆、松山などの分駐所に連絡し、鉄路管理委員会と職員宿舎の警戒に人員を集中配備しました。

 3月1日、鉄路管理委員会周辺では依然として衝突が起こっていました。米国駐台領事館副領事のジョージ・H・カーは「裏切られた台湾-Formosa Betrayed簫成美訳」でこう述べています。

 「(前略)田舎から出てきた数人の学生が汽車は何時になったら出るのかを聞くために、ちょっと離れた鉄道局の建物の中に入って行った。彼等はその前日市内で行く所がなくなって家に帰りそびれていた。鉄道局の衛兵はびくびくしていた。銃声が聞こえ、学生達は二度と出て来なかった。それから鉄道局の構内に隠れていた特別鉄道警察は下の道路に向かって射撃を開始し、さらに二人の通行人が殺された。この頃には北門は人で一杯になり、鉄道局を襲撃する気配が見えていた。しかしちょうどその時、鉄道局が助けを求めたために来たと思われる軍用トラックが一台近づいて来た。そのトラックは民衆に道を止められた。突然、民衆に向かって機関銃と小銃の一斉射撃が起こり、群衆は蜘蛛の子を散らすように散った。この突然に起こった攻撃で少なくとも25名の市民は即死、100名以上の人が重傷を負った。(中略)この惨事によって25名の鉄道局職員は道を横切ってアメリカ領事館という安全違いに逃げ込む機会を得た。彼らは自分さえ良ければいい、女性や事務員が後から遅れて逃げて来たが先に領事館に着いた者が自分だけ門に入るや否や自分の仲間を締め出そうと領事館の門を閉めようとした。結局一番遅れた者は塀を乗り越えて入ってきたが、その時街路上の民衆の誰かがその者を狙って石を投げた。その石は領事館の壁に当たった。」


全島放送

 1947年2月28日午後、抗議の群衆は行政長官公署前で機関銃掃射を受けた後、新公園に結集して台湾広播電台を包囲し、台北市の闇たばこ取締り事件をラジオを通じて全島に知らせるとともに、戦後の生活苦や官僚の汚職や腐敗、米や生活物資の海外への流出などの問題を訴えました。そして、台湾各地の民衆に対し、立ち上がるよう呼び掛けたことで、初めは台北市だけだった抗議デモは全島的な行動へと拡大しました。

 ラジオ放送のほか、新聞報道も事件において重要な役割を果たしました。宋斐如が経営する「人民導報」や陳旺成が経営する「民報」などはの長期的に政府の施政を批判してきた新聞社は事件を詳しく報じました。「大明報」や「重建日報」「和平日報」「中華日報」などもそれぞれ立場は異なるものの、事件のあらましを大きく報じ、ニュースを各地に伝えました。


人民導報社



遺跡紹介

 1910年、大倉組台湾出張所土木事業主任の高石忠慥とその弟の金原風藏によって「高石組本社」が建設されました。1階が石造、2階が木造という構造のため「石頭厝(石の屋敷)」とも呼ばれていました。戦後初期は「人民導報」の事務所として使われ、二・二八事件の際には閉鎖されました。1950年から1997年までは警備総司令部軍法処軍官宿舎として使われ、1997年に市定古跡に指定されました。2000年に発生した火災によって損傷し、2007年、台北市文化局による修復工事が完了しました。2014年4月から一般公開されています。

事件の概要

 1946年、「人民導報」創刊。「三民主義の宣揚、政府政策の発揚、人民間の正しい言論の形成」を主旨としました。戦後初期の台湾社会の政治的、経済的混乱を報道、批判したことによって二・二八事件以前から情報機関に目をつけられており、社長の宋斐如は政府の圧力によって辞職し、王添灯がその後任として社長になりました。

 二・二八事件勃発後、『人民導報』は事件を詳細に報じましたが、3月、警備総司令部により「思想が反動的であり、でたらめな言論で政府を貶め、暴乱を扇動した主要勢力」との理由で閉鎖され、宋斐如は「叛乱を策動した首謀者」の罪名で逮捕された後、その行方は知れません。台湾省参議員だった王添灯は、二・二八事件勃発後、二・二八事件処理委員会委員となりました。しかし、「叛乱を策動した首謀者」等の複数の罪名で1947年3月11日に憲兵第四団特務を名乗る者に逮捕され、その後の行方はわかっていません。編集長の蘇新、総主筆の陳文彬、記者の呉克泰らは中国に逃亡し、記者の呂赫若は中国共産党の地下組織活動に身を投じました。


台湾新生報社



遺跡紹介

 『台湾新生報』が入っていた建物では、日本統治時代には『台湾日日新報』が発行されていました。台湾日日新報は当時規模が最も大きく、最も長い歴史を誇る新聞でした。総督府土木局営繕課の技師、近藤十郎によって設計されたレンガ造りの建築物で、1908年に落成しました。1944年、報道規制と戦局への対応を目的に、当時台湾にあった主要日刊紙6社は統合され『台湾新報』となりました。戦後、行政長官公署が台北本社と台湾各地の支社の不動産と印刷・出版設備の全てを接収し、官営の『台湾新生報』を設立しました。

 当時の建物は建て替えられ、現在は商業ビルとなっています。

事件の概要

1947年2月27日、天馬茶房での闇たばこ取締り事件勃発後、群衆は台北市警察局前に移動し、当事者への厳しい処罰を求めました。憲兵第四団団長の張慕陶が射撃態勢を取るよう憲兵に命令したため、群衆は『台湾新生報』の騎楼に逃げ込みました。群衆の一部は新聞社に向かい、中国語と日本語で事件の経緯を掲載するよう求めました。編集長の呉金鍊は、掲載禁止令が長官公署から出されたことを理由に要求を拒否しました。市民は納得できず、新聞社に火を放つと言い出しました。後に社長の李万居が表に立ち、事件を報じることに同意してようやく市民は解散しました。

翌2月28日から3月9日まで、『台湾新生報』はたばこ取締り事件や処理委員会のその後の展開、政府の反応などを報道し続けました。3月10日に1日休刊した後、報道は政府寄りになり、政府が戒厳を宣言したのは叛徒を消滅させ、同胞を守るためだと改めて発表しました。処理委員会に関与していない総経理の阮朝日や日本語版編集長の呉金鍊、印刷場長の林界、高雄支社主任の邱金山、嘉義支社主任の蘇憲章など、多くの台湾籍の職員が二・二八事件で命を落としました。


台湾広播電台



遺跡紹介

 1930年、台湾総督府交通局逓信部はラジオ事業の発展を目的に、現在紀念館がある場所に台北放送局を設立し、1931年にはラジオ業務を引き継ぎました。戦後の1945年、放送局は国民政府に接収され、台湾広播公司と改称されました。1947年、二・二八事件が勃発すると、ラジオ局は党、政府、軍隊の各界の政令を伝達したほか、市民の代表が市民に事件の処理の近況を伝える重要なメディアとなりました。1949年、中国広播公司に改称されました。1972年、中国広播公司の新庁舎が完成すると、建物は台北市政府に引き渡され、台北市政府公園路灯管理処の事務庁舎となりました。1996年、台北市はこの建物が二・二八事件の際に重要な役割を担ったことから、ここを台北二二八紀念館とすることとしました。

事件の概要

 1947年2月28日正午、デモ隊は行政長官公署前で機関銃掃射により鎮圧を受けため、散り散りに逃げました。警備総司令部は臨時戒厳を宣言し、武装した軍や警察が市内を警邏しながら機銃掃射を行いました。群衆の一部は台湾広播電台に駆けつけ、ラジオを通して事件の経過を台湾全島に伝えました。

 28日夜、警備総司令部参謀長の柯遠芬は台湾広播電台において、ラジオ放送を通じて長官公署と警備総司令部の事件処理方針を発表しました。方針は、一、闇たばこ取締事件を起こした当事者を厳しく罰する。二、少数の暴徒の逸脱した行為に対し、警備総司令部は「臨時戒厳」を実施した、というものでした。

 3月1日午後5時、陳儀行政長官は二・二八事件について初めてラジオで放送しました。主な内容は、一、人を誤って死傷させた取締官は、すでに裁判所に送った。死者1名、負傷者1名については、手厚い見舞金を渡した。二、夜12時に戒厳を解除する。ただし、集会やデモはしばらく許可しない。ストライキや授業ボイコット、同盟休業、暴力は許されない。三、暴動による逮捕者は保釈する。四、参議員の代表と政府が共同で委員会を組織し、暴動事件を処理することを認める、というものでした。

 陳儀と柯遠芬は、自らラジオで関連の措置を発表し、人々の心をなだめました。しかし、一方では暴力的手段で関連する言論を押さえつけ、逮捕を拡大させることを密かに企てていたのです。

 二・二八事件の際に、ラジオは重要な情報源となりました。3月2日、二・二八事件処理委員会が設立され、処理委員会はラジオを通じて学生と台湾人元日本兵を動員し、服務隊を組織しました。3月7日、処理委員会宣伝組長の王添灯がラジオで「三十二条大綱」の内容と陳儀との交渉経過を発表しました。後期には、政府の調査結果や人々をなだめる言葉は、全てラジオを通じて発表されました。閩台監察使の楊亮功や国防部長の白崇禧などの官僚が台湾広播電台で談話を発表しました。事件後、電台台長の林忠遭は免職となり、職員の曽仲影、宋憲章、陳亭卿、陳嘉濱らは「秩序を乱した」などの理由で刑に処されたり、勾留されたりしました。


臨時戒厳

 戦後の接収については、民政体系の確立に加えて、軍事を掌管する台湾省警備総司令部及び諜報組織(軍統局、中統局)の進駐も無視できません。1946年2月、軍統局は台湾を調査する複数の情報機関を警備総司令部第二調査室の指揮下に統合しました。このため、警備総司令部調査室主任の陳達元は公職にありながら、軍統局台湾台湾站の站長を兼務することになりました。同年8月、軍統局は国防部保密局に改組され、二・二八事件発生前夜、陳達元は行政長官公署参事に異動になり、台湾站站長には林頂立が就任しました。保密局は台湾站を一つの情報調査単位とし、警備総司令部第二処が逮捕を行いました。同処処長の林秀欒と副処長の姚虎臣の2人は、当時もっとも恐れられていた情報特務(秘密工作員)でした。

 2日間に及んだ衝突は拡大を続け、台北市の近隣地域にまで広がったことから、行政長官公署と警備総司令部は、2月28日午後3時から戒厳令を発令すると発表しました。そして、憲兵第四団団長の張慕陶に台北市臨時戒厳司令を兼任させました。戒厳令発令後、集会やデモ、夜間外出が禁止されました。武装した軍や警察が街を警邏し、時折銃声が響き、死傷者が出たとも伝えられました。

 多くの有力者の要求により、3月1日午後5時、陳儀は台北地区の戒厳解除には応じたものの、依然としてデモやストライキなどは厳しく禁止されました。また、街頭での銃声も止むことはありませんでした。長官公署と警備総司令部は、台湾全島をいくつかの軍事区域に分けました。そして、陳儀は史宏熹を基隆臨時戒厳司令とし、基隆の「暴徒」の粛清を行うよう引き続き指示しました。

 政府は表面的には友好的な態度を見せていましたが、実際は市民を全く信用していませんでした。柯遠芬が記した「事変十日記」における3月1日の記録は、その後の悲劇の発生を予測したものでした。


台湾省警備総司令部



遺跡紹介

 日本統治時代の初期、台湾総督は武官が任用され軍隊指揮権を有していました。1919年に文官が初めて総督に任用されたことで、別途「台湾軍司令官」が置かれ、軍の力で文官総督の行政権を補佐しました。当初、台湾軍司令部は書院街の旧守備司令部に置かれましたが、ほどなくして小南門街の歩兵第二大隊跡地に新庁舎が建設され、1920年8月3日に完成しました。台湾軍司令部には軍事幕僚、武器、経理、軍医、法務などの各部門が設けられました。1945年5月31日、台北市は米軍の爆撃を受け、台湾軍司令部も一部が損壊しました。戦後、建物は国民政府に接収され、台湾省警備総司令部として使用され、戒厳令下における最高執行機関となりました。動員戡乱時期が終わりを告げると、警備総司令部も1992年に廃止されました。その後、数度の改編を経て、2004年、この場所に「後備司令部」が置かれました。動員計画の作成、実施、予備部隊の管理、奉仕、民間防衛、予備軍力の立ち上げなどを主な業務としています。

 2004年1月に市定古跡に指定されました。一般公開はされていません。

事件の概要

 台湾省警備総司令部は1945年9月、中国・重慶で設立され、同年10月17日、同部参謀長の柯遠芬が部下を率いて第七十軍主力部隊と共に基隆に上陸し、台北市に進駐し、台湾総督府の降伏受諾と接収、在台日本人の引揚げ、台湾の治安維持などにあたりました。総司令は行政長官の陳儀が兼任しました。

 1947年2月28日、行政長官公署の衛兵が抗議の群衆に向かって発砲した後、警備総司令部は同日午後、台北市区に臨時戒厳令を発令し、集会やデモを禁止するとともに、毎日午後8時から翌朝6時までを特別戒厳時間とし、特殊な状況を除き、汽車の乗車やバスの市内走行を禁じました。柯遠芬と副参謀長の范誦堯は陳儀に対し、闇たばこ取締り事件の処理を警備総司令部軍法処に任せるよう提案しましたが、陳儀は普通裁判所での審理にこだわり、戒厳に関する準備に着手するよう柯遠芬に求めました。同日夜、警備総司令部は基隆の守備中隊2隊を台北に配置換えし、南部・高雄の鳳山独立団一営を北上させようとしましたが、人々によって新竹で足止めされました。柯遠芬は事件当事者の厳重処分を人々に約束しましたが、一方で、軍の配備を整え、二・二八事件の参加者に対する監視を強化するよう情報機関に要求していたのです。


保密局台湾站站長林頂立住宅



遺跡紹介

 1933年9月、高進商会社長・高橋猪之助の私邸として建てられました。外観は前衛的なアーチ状設計を採用し、遠くに淡水河を眺めることができる当時台北で最もモダンな住宅の一つでした。戦後、台湾省公産管理処が土地を接収し、建物には軍統局の陳達元が入居しました。二・二八事件の前夜には保密局台湾站站長・林頂立の住宅となっていました。1949年から1958年までは内政部調査局本部(後に基隆路二段に移転)として使用されましたが、1970年に取り壊され、現在は同所にホテルリバービュー台北が建てられています。

事件の概要

 事件当時、以前の建物は林頂立の邸宅として使われていました。1947年3月8日に国軍が台湾に到着すると、陳達元は事件に大きく関与した陳逸松(国民参政員)と劉明(延平学院学校董事)に、当局がまもなく逮捕行動を開始することを伝えました。そして2人を林頂立の邸宅に匿い、当局の手を逃れる手助けをしました。


基隆要塞司令部



遺跡紹介

 1896年、日本軍は基隆に要塞指揮所を置き、1903年に基隆要塞司令部を設置しました。基隆、金山、淡水、新竹、後龍を管轄する北台湾における最高軍事指揮機構でした。同年6月、基隆要塞司令部は基隆堡大沙湾庄に新設されました。1919年に台湾軍司令部が設立されると、基隆要塞司令部の各種施設の増強が行われ、1924年までにかなりの規模となりました。1928年に基隆要塞司令部庁舎の建設が始まり、1929年に完成しました。

 第2次世界大戦末期、連合国の爆撃を受けて建物の一部が損壊し、戦後に接収される際に再建されました。1946年、台湾省警備総司令部の下部に置かれ、史宏熹が司令を務めました。1957年には台湾省保安司令部の下、1995年以降は海岸巡防署の下部組織となりました。

 2010年に基隆市の市定古跡に指定され、2020年には基隆要塞司令部校官眷舎の修復が完了し、博物館として一般公開されました。基隆要塞司令部庁舎は現在修復中で、公開されていません。

事件の概要

 1947年2月28日、台北の行政長官公署において民衆に対して発砲がなされ、その知らせは、ほどなくして基隆に伝わりました。同日夜8時、基隆市警察局第一分局はデモ隊の襲撃にあい、市内のいたるところで騒乱や外省人、兵士への暴行が起こりました。これによって兵士や市民10名余りが負傷しました。基隆要塞司令部と憲兵、警察はデモ隊を銃で制圧し排除するとともに逮捕を開始しました。同夜、公務で外出した司令部の官兵が襲撃されて負傷、行方不明となり、護身用の拳銃が奪われました。台北から司令部に向かった軍用車は汐止を通過する際に襲撃され、上尉副連長が射殺されました。澳底から汽車で司令部に向かった官兵は車内と駅で袋叩きにされて負傷し、拳銃3丁を奪われました。

 3月1日深夜、陳儀は基隆要塞司令の史宏熹を基隆臨時戒厳司令に任命しました。午前9時、同司令部は基隆の臨時戒厳を宣言しました。午後、基隆市参議会で臨時大会が開催され、参議員や市民代表がこぞって参加し、陳儀の暴政を厳しく指摘し、台湾の自治や戒厳令の即刻解除を要求するとともに、政治、経済改革の提案を行いました。3月2日午後6時、陳儀は戒厳令の解除を指示しましたが、同部は引き続き基隆地区の治安を担当し、哨兵を港務局や市政府、第一分局、中正区などの重要地点に集結させました。


元町派出所



遺跡紹介

 日本統治時代は元町警察官吏派出所が置かれていました。設立時期は不明です。当時の建物はすでに取り壊され、現在は複合施設「基隆東岸広場」と駐車場になっています。

事件の概要

 1947年2月28日、台北で衝突、暴動が起こったという知らせはすぐに隣りの基隆に伝わりました。群衆は立ち上がってこれに呼応し元町派出所を攻撃しました。派出所の守備を強化するため、要塞司令部二連官兵が警備を行い、派出所横の第一倉庫には軍隊がびっしりと配備されました。派出所の屋上にはテントが張られ、機関銃が設置されました。以後、数日にわたって元町派出所前では市民が守備軍によって撃たれ、多数の死傷者が出ました。基隆市参議員の楊元丁、楊阿寿、蔡炳煌、陳桂全らは死傷者の拡大を食い止めようと、基隆要塞に軍の撤退を求めましたが、守備軍は国軍がまもなく到着することから、これをあしらいました。

 3月9日、第二十一師団は基隆港から上陸すると、要塞の軍隊と連携し大規模な鎮圧行動を開始しました。基隆市警察局で用務員をしていた林木杞は軍警に逮捕、暴行された後に他の市民とともに元町派出所そばの港に連れて行かれ、両手を後ろで縛られた状態で手のひらにワイヤーを通され、一人ずつ銃で処刑された後に海に落とされました。林木杞は海に落ちるのがやや早かったため、銃弾に当たらず、命拾いしました。