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第二次世界大戦後初期の動き

1946年、南京で行われた国民大会に出席した台湾代表らの集合写真(二段目右がシシン(南志信)、三段目右から2人目が張七郎、三段目左が林連宗)。プユマ族のシシン(南志信)は制憲国民大会の代表を務めた唯一の台湾先住民族。南志信の右側に署名している張七郎は、二・二八事件で息子2人と共に殺害された。

資料來源:立法院秘書處

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山地行政

戦後、台湾先住民族のエリートたちは伝統領域を守るため一丸となり、山地と平地をつなぐ交通を制限するよう政府に請願しました。


行政長官公署は地方行政を確立するため、先住民族の集落(社という単位)600か所あまりを、30の郷と162の村に区画整理しました。山地に設置された郷の首長である郷長には先住民族が当てられたものの、新設の郷や村には関連の財源が与えられませんでした。このため先住民族の生活は困窮し、納税免除と耕作への助成を求めることになりました。


ロシン・ワタン(日本名:日野三郎、漢名:林瑞昌)らは「山地及平地交通制限弁法」に名を連ね、平地住民及び公務員が山地に出入りすることを制限するよう求めました。これに対して1946年1月19日、高山族施政研究委員会が下した決議は「しばらく現状を維持する」で、その旨を警務処から各地の警察官に通知することになりました。この会議による決議は、「山地の行政は特殊であり、専任の人員を配置して責任を負わせるべきである」という考え方を広げることになり、この頃から「山地行政」という言葉が政府の文献に見られるようになりました。


1946年5月16日、高雄県は同県内の山地にある「郷」の図説を報告しました。5月22日、これに対する行政長官公署民政処の回答は、山地に設置する「郷」は8つを超えてはならないというものでした。また、「郷」や「村」の名称は原則、意味を伴った漢字二文字を採用することとし、日本語や先住民族言語の地名の音訳、あるいは日本語の符号などを使用してはならないと通知しました。


日本統治時代は多くの集落名には、先住民族の言語による名称が使用され、それをカタカナで表記していました。しかし、第二次世界大戦後は漢人のロジックに基づく改名や漢化が求められ、地名の伝承を途切らせてしまったのです。

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