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高砂族青年団幹部懇談会

参加者には、のちに「高山自治」を唱えたウオグ・エ・ヤタウヨガナ(日本名:矢多一生、漢名:高一生。二列目右から2人目)などもいた。

資料來源:林日龍/提供

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近代国家意識の形成

日本は、教育や文化の宣伝といった制度を通して、先住民族の日本人としてのアイデンティティを形成していきました。


その結果、新しい世代の先住民族の若者と集落や家庭との間に軋轢や、世代間の衝突が生じることも珍しくありませんでした。一方、部族が異なる先住民族の若者たちは、「高砂族青年団」や「自助会」などの組織に参加することで、互いの認識や交流を深めていきました。それは、先住民族の権利獲得や意識の目覚めといったものの基礎となりました。</span></span></span><span style="font-size:12pt"><span sans-serif="" style="font-family:Calibri,"><span lang="JA" mincho="" ms="" style="font-family:">


総督府は1935年10月29日、「始政四十周年記念台湾博覧会」の開催に合わせ、高砂族青年団幹部懇談会を開きました。この懇談会にはタイヤル族、サイシャット族、ブヌン族、ツオウ族、パイワン族の青年32人が参加しました。総督府が手配したイベントだったからか、統治者を称賛する言葉も少なくなかったものの、先住民族の青年が初めて一堂に会し、集落統治に関する苦労話などを互いに語り、学び合うことで先住民族の汎エスニシティの概念が形成されることになりました。


この懇談会における6つのエスニック・グループの代表の発言から、新世代の先住民族の若者が集落あるいは自身に対してどのような抱負を抱き、切磋琢磨して進歩しようと考えていたかを見て取ることができます。同時に、銃器の押収、室内葬の是非、衛生問題など新旧伝統文化の衝突が存在していたことも見て取れます。


1936年7月16日、阿里山に住むツオウ族は達邦(タッパン)で青年幹部懇談会議を開催し、国語(日本語)の普及、労役、水田の開発、造林、水資源と土壌の保護、伝統習俗、薬用植物、土地の分配、本島人(平地に住む漢人を指す)の保留地への侵入問題など、集落のことについて話し合いました。


1936年12月13日、タイヤル族のブヨン・ボーナイ(日本名:馬場武)、ブヌン族のタキシヤン・ナオ(日本名:加藤直一)、ツオウ族のウオグ・エ・ヤタウヨガナ(日本名:矢多一生)、パイワン族のラホロアン・ジブランが台北放送局(JFAK、現在の台北二二八紀念館)で、当時の大日本帝国が統治するエリアをカバーする番組に出演し、「蕃山」の生活、高砂族の信仰、現在と過去の生活、歌唱などについて語りました。番組放送後、内地(日本)、台湾、朝鮮、満州などのリスナーから大きな反響がありました。これは台湾先住民族による初の全国ラジオ放送となりました。

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