「姓名回復」
名前は個人を識別するための符号であり、家族、エスニシティ、社会との関係を構築するためのものでもあります。
先住民族の名前の付け方は、種族によって異なります。日本統治時代の後期、皇民化政策が推進される中においても、多くの先住民族は部族の名前を名乗り、それをカタカナで表記していました。
国民政府は台湾を接収すると、1945年12月に「台湾省人民回復原有姓名弁法」を公布。日本名あるいは部族名のカタカナ表記を使用する台湾住民に対して「本来の姓名に戻す」ことを求めました。ここで言う「本来の姓名」とは漢名のことであり、決して先住民族の本来の名前のことではありませんでした。
しかも、この改名政策は個人の名前にとどまらず、集落名、地域名、道の名前にまで及び、個人のアイデンティティに影響を与えただけでなく、親族制度の破壊や、各部族の文化的記憶をも混乱させるものでした。
1945年10月25日に行政長官公署が台湾を接収して2か月足らずのうちに、民政処は「台湾省人民回復原有姓名弁法」を起草しました。最初の草案では先住民族への言及がありませんでしたが、陳儀行政長官による署名が行われる前日の12月1日に、民政処処長の周一鶚が緊急に第1科科長の袁継熱に命じ、高山族の改姓名に関する規定を作成させました。これにより草案に「本省人民(高山族人民を含む)」、「高山族人民は当面警察機関に(改名を)申し立てる」、また第4条の「高山族人民が本弁法第2条に定める事由で本来の名前への回復を申し立てる場合、本弁法の規定に基づいて対処する。回復すべき本来の名前がない、あるいは本来の名前が適当ではない場合は、中国風の姓名を参考に、自ら名前を定めることができる」などの文言が加えられました。
その後まもなく、行政長官公署は姓名回復を申し立てる人が少ないことを知り、「修正台湾省人民回復原有姓名弁法」を作成。1946年5月6日に行政院の承認を受けました。修正法では、1945年10月25日に中国籍を回復した台湾人は、現在使用している日本名を期限内に漢名に変更すること、期限内に変更しない場合は過料を科すことなどが明記されました。
行政長官公署民政処は1946年6月27日、日刊紙『新生報』に公文書を出し、3日間にわたって「修正台湾省人民回復原有姓名弁法」を掲載するよう求めました。なお、当初の公文書の内容は以下のようなものでした。
本省人の中には「台湾省人民回復原有姓名弁法」」に基づいて姓名回復を行うものも多いが、様子を見ながら先延ばしにしている人も少なくない。それゆえ公告の日から起算して3か月以内に・・・すべきであると特別に規定する。
この公文書はその後、以下のように修正されました。
今回の姓名回復は、本省人にとって栄誉なことであり、永久の権利であり義務でもある。ゆえに迅速に手続きを行い、期限内に完了されたい。我がすべての台湾同胞は・・・すべきである。
このように、行政長官公署は「温情」のある伝え方と、本人にとっての利害関係を示すことで、台湾の人びとが迅速に姓名回復を行うよう呼びかけたのでした。