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逮捕理由

二・二八事件の平地での反抗とそれに対する鎮圧が一段落すると、政府は先住民族居住地域の調査と監視に力を入れ始めました、ウオグ・エ・ヤタウヨガナ(日本名:矢多一生、漢名:高一生)、ヤプスヨグ・エ・ユルナナ(日本名:湯川一丸、漢名:湯守仁)、ロシン・ワタン(日本名:日野三郎、漢名:林瑞昌)らの政治や軍事方面で影響力を持つ先住民族のエリートたちは、共産党にとって仲間にしたい人物である一方で、政府が疑いや懸念を持つ相手でもあったのです。集落内での彼らの声望に懸念を持った政府は、「汚職」や「スパイ」などの名目で彼らを処刑し、プロパガンダを通じて集落の分裂を図りました。


1950年12月31日、国防部山地検閲第一組の「工作報告」において、山地の各郷に住む主要な先住民をリストアップし、地元での名声、政府に対する態度、思想の状況などに関して分析しました。その多くが「単純」、「純潔」、「公正」とされましたが、角板郷のロシン・ワタン(日本名:日野三郎、漢名:林瑞昌)、Yagu Hola(漢名:李月嬌)、和平郷の陳福全らは「複雑」と記載されました。


一方、第二組の「工作報告」を見ると、当時、達邦村の村長であった方義仲の思想は「公正」と肯定的な評価を得ています。


政府は警戒心を解くため、1950年10月9日にウオグ・エ・ヤタウヨガナ(日本名:矢多一生、漢名:高一生)、ヤプスヨグ・エ・ユルナナ(日本名:湯川一丸、漢名:湯守仁)らを省主席名で台北に招き、会談を行いました。しかし、それが終わると直ちに取り調べを開始し、国防部総政治部主任の蒋経国によるウオグ・エ・ヤタウヨガナとの会見までもが手配されていました。


ヤプスヨグ・エ・ユルナナ(日本名:湯川一丸、漢名:湯守仁)は前年秋に台北市川端町(現在の台北市中正区)の月華園で、陳顕富から「蓬莱族政策方案」の内容を受け取り、それをウオグ・エ・ヤタウヨガナ(日本名:矢多一生、漢名:高一生)にも話したが、具体的な協力には至らなかったことを認めました。政府は二人をしばらくの間籠絡し、最終的に1950年10月16日、2人が過ちを認める形で事件は決着をみました。

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