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第二次大戦後初期における台湾の学生たちの社会参加:国民政府を歓迎し、そしてその夢が破れるまで

第二次大戦後、台湾人は新しい時代の到来を喜び、歓迎しました。若者や学生たちは自主的に中国語を学び、新しい政府の文化、言語への理解を進めようとしました。1945年10月には台北公会堂で、台湾大学医学部の学生、郭琇琮をリーダーとする、中国語の普及、三民主義の宣揚を目的とした「台湾学生連盟」が設立されました。


第二次大戦後、日本に進学していた多くの台湾人や知識人たちが次々と台湾に戻り、あるいは自分の知識や力を社会に貢献しようと考え「新生台湾建設研究会」を組織しましたが、こうした情熱はすぐに現実によって一掃されてしまいました。当時、多くのエリートは「中国語が理解できない、中国語が書けない、公文書の書き方を知らない」といった理由で、政府や官庁への道が閉ざされ、国や社会に貢献したいという理想を果たすことができませんでした。また、当時、中国から来た役人や教員の質や素行は芳しくなく、汚職や賄賂がはびこったことは、学生たちにとって想像を絶するものでした。夢破れた多くの学生の不満は、授業のボイコットや、抗議行動に発展しました。


二・二八事件勃発前、台北では学生たちによる2つの大規模な抗議行動がありました。ひとつは、1946年12月20日で、これは日本の警察と在日台湾人が衝突した「渋谷事件」において不当な扱いを受けた台湾人のために行った請願です。もうひとつは1947年1月9日で、中国・北京大学の女子学生、沈崇が米兵に暴行された「沈崇事件」に対する台北の学生たちによる抗議デモです。この2つの事件は、いずれも台湾で発生したものではありませんでしたが、学生たちが社会運動に参加するきっかけとなりました。

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