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受難した淡江中学関係者:張七郎、張宗仁、張果仁

日本統治時代、台北医学専門学校を卒業した張七郎は、基隆病院、台北馬偕病院で勤務しました。ジョージ・レスリー・マッケイ博士/牧師(Dr.George Leslie Machay)の息子で、淡水中学の設立者である「偕叡廉」ことジョージ・ウィリアム・マッケイ(George William Mackay)と非常に親しく、それがきっかけとなり、淡水で開業しました。三男の張果仁も淡水中学の卒業生です。1921年、張七郎は東部・花蓮の鳳林へ赴き、「仁壽病院」を開業しました。


張七郎は1946年、花蓮県参議員選に出馬すると、順当に当選し、議長に推薦されました。1947年、二・二八事件勃発からほどなくして、花蓮地区では二二八事件処理委員会が設立されましたが、張七郎は病気のため参加しませんでした。


4月4日の午後、鳳林の名士達は宴席を設け、進駐軍を接待しました。当日、張七郎は病床に伏していて出席ができなかったため、長男の張宗仁が代理で出席しました。当日の夜、兵士が自宅を訪れ、兵士が食中毒なので張宗仁に薬を持って部隊に向かうよう要請しました。しかし、その後、張宗仁が戻ってくることはありませんでした。同日の夜、兵士はさらに三男の張果仁を連行、張七郎と次男の張依仁も無理やり連れていかれました。


付近の住民によると、連行された当日の夜11時、泣き叫ぶ声が聞こえたかと思うと、続けて六発の銃声が響き、その後、静寂に包まれたといいます。そして、4月5日の夕方、鳳林郊外の公共墓地で張七郎、張宗仁、そして張果仁の三人の遺体が発見されました。遺体は全身が傷だらけで、生前に虐待を受けたことを示していました。さらに服や金品は全て剥ぎ取られていました。聞くところによりますと、張依仁は、身体検査の際、現職の軍医上尉のバッジがみつかったこと、また、かつて中国東北部で医師として勤務していた際、蒋介石から直接称賛されたことを知られ、死を免れたとされています。そして張依仁は、張父子で唯一の生存者となりました。

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