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受難した淡江中学関係者:林茂生

林茂生は1887年に台南で生まれました。林家は学問をとても大事にする家柄で、成績が非常に優秀であったことから、教会の支援を受け日本へ進学しました。1916年、東京帝国大学を卒業し、台湾籍初の文学士となりました。台湾に戻った後、長栄中学、台南師範学校、台南商業専門学校で教鞭をとったほか、台湾文化協会などの多くの政治、社会運動にも参加しました。1927年、台湾総督府の「在外研究員」として米コロンビア大学に留学し、1929年には哲学で博士の学位を取得しました。卒業後、コロンビア大学からアメリカに残るよう引き止められましたが、やはり、故郷台湾への想いから、最終的に台湾へ戻り、教育で台湾に貢献しました。


 第二次世界大戦後、台湾の人びとの誰もが国民政府を歓迎し期待したのですが、実際に統治が始まると、それは失望へと変わっていきました。林茂生もまた同様でした。林茂生は、日本降伏後の祝賀晩餐会の席上で、手を高く挙げ「我々が主人公になる時代が、ついに来たのだ」と叫びました。


 第二次大戦後、林茂生は、淡水中学、淡水女学校、神学院などの学校機関の接収の命を受け、淡水中学の初代校長に就任しました。また、台湾大学校長の要請を受け、文学院(文学部)の代理院長に就任したほか、台湾行政長官公署教育処から教育甄選(選抜)委員会の委員に採用されるなど、非常に重用されました。また、『民報』の社長として、当時の政治や社会の暗部を勇敢に暴きました。権力、当局に対して少しも臆することなく批判を行ったことで、権力中枢の恨みを買い、これが自らに災難をもたらす発端となってしまったのです。


 二・二八事件勃発後の3月4日、林茂生は台北二二八事件処理委員会において、「政府は公平で、建設的であるよう希望する」との簡単な談話を発表しました。3月11日の午前、武装した4人と中山服を着た2人が黒いセダンで林茂生の家を訪れました。そして、台湾大学の陸志鴻校長が林茂生と話したいと「招待」され、それ以降消息を絶ったのでした。

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