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受難した淡江中学関係者:陳能通
台北の汐止(現在の新北市汐止区)出身。桃園の南崁公学校を卒業後、牧師の父に伴い淡水へ転居し、淡水中学(淡江中学の前身)に入学しました。卒業後、熊本の旧制第五高等学校に入学、1927年に京都帝国大学の理学部を卒業後、同年、台湾に戻り、淡水中学の教師となりました。
1937年、東京神学社に進み、1940年に卒業。台南の長栄中学、台北神学校を経て、淡水中学で教鞭をとりました。また、教会の牧師も兼任しました。
二・二八事件発生後、淡水中学の陳能通校長は、情勢が芳しくないと感じ、まず学生寮住まいの中南部出身の生徒らを帰省、避難させました。しかし、生徒の一人、郭曉鐘は帰省せず、淡水の街頭で兵士に射殺されてしまいました。陳能通校長と教務主任の黄阿統は郭曉鐘の弔いをし、帰宅後、息子に「外で行われている、いかなる活動にも決して参加してはならない」と警告しました。しかし、この言葉が、陳能通が息子へかけた最後の言葉になってしまったのです。
陳能通が帰宅した翌日(3月11日)の朝7時過ぎ、学校の調理場で働く少年が数名の兵士を連れて陳能通の家にやってきました。陳は強制的に寝床から連れ出され、家の中の物は略奪されました。陳能通の後を追いかけた父の陳旺も勾留されてしまいました。
陳能通と父の陳旺が兵士に連行された後、陳家の人びとはさまざまな方法を試み、行方を探しました。3月12日、陳旺が釈放されたことで、海岸(淡水沙崙)まで運ばれたこと、一晩中、木に縛られていたことを知りましたが、釈放されたのは陳旺のみで、他の人たちは行方知れずとなってしまいました。
陳能通が事件に巻き込まれたのは、学校の軍事訓練用の銃が、政府を攻撃した武器と関係があったと当局が考えたからだ、と推測されています。
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