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展示

特別展示|文字の力量—二・二八事件に関する民間出版物特別展示

1947年、台湾で第二次世界大戦の終戦と政権交代の際、二・二八事件が発生した。その後38年以上に渡り戒厳令がしかれ、台湾社会は長期にわたり言論と思想の自由が抑制を受ける白色テロの時代となった。しかし台湾の人々は言論の自由を求め、真相を追求する願望と勇気をもって、あらゆる方法で制度に挑み、現状を突破し、最終的に権威主義の障壁を破った。

戒厳令下では、二・二八の歴史の傷跡は触れてはいけないタブーとなっていた。しかしなお多く先行者が冤罪の悲運に陥る人々を救い、歴史の真相を知らせるために声をあげた。これらの民間からの力は文字に書かれ、海外で発行されるか、危険を冒して非公式のルートで流通した。さらに社会運動の際に小冊子として配布されることもあった。民間の出版物として生み出されたこれらの力は、二・二八事件の真相の調査研究に歴史の軌跡を残した。

特別展示|「絆:台湾の祖父母たちの日本時代」台日巡回展

台湾と日本は西暦1895年から1945年まで同じ国でした。このため、戦前の50年間に台湾と日本で生まれ育った人々は同じように、明治、大正、昭和と三代の天皇の時代を経験しました。しかし、この50年間の歴史は台湾でも日本でも長い間、教科書に記載されておらず、近年になってようやく、多くの史料や映像資料から、日本に統治されていた時代の台湾の風景を垣間見ることができるようになりました。

台湾ではこの50年間に近代化が始まり、まるで18世紀半ばから19世紀にかけてヨーロッパで起こった産業革命のように、西洋の文明と制度が絶え間なく台湾に入ってきました。戦前に生きた人々にとって、それはどれほどの衝撃だったことでしょう。

イラストレーターのKCNは、過去への想像を創作意欲と化し、主要メディアや学校の教科書とは異なる解釈で、台湾の近代化を促した人物の物語にスポットライトを当て、数々の作品を生み出しています。私たちはKCNの作品を通して、現代に生きる人々の生活や記憶のかけらを呼び起こし、祖父母たちの「あの時代の、さまざまな出来事」を再現することで、この島に生きる人々がエスニック・グループを問わず、かつて運命共同体であった時代の歴史の記憶と「絆(きずな)」という初心を取り戻せるよう願っています。

特別展示|彼らの時代:台展92

きらめきほとばしる才能——陳植棋の生涯

陳植棋 台湾第一世代の洋画家。1906年1月生まれ。1931年4月病没。享年26歳。陳の人生は、あたかも花火の如く、一瞬で弾けてまばゆく輝き、そして忽然と夜の闇に消えていった。陳は油絵を通し美に対する自らの考えを表現しただけではなく行動でそれを実践した。美術団体の創設に関わったほか、絵画研究所の講師をつとめ文を表すなど、行動と参加を通し、自身が追い求める台湾民族意識を表現した。「時代的な台湾芸術を創り出す」ことを目標とした、1920年代の台湾における民族運動及び文化啓蒙の流れにおいて最も代表的な人物の一人である。

展示からは、陳植棋が美術の道に進むようになった経緯を知ることができる。陳の人生が大きく変わったのは「修学旅行事件」に起因して受けた退学処分だった。陳はこの事件の後、美術を学びに東京へ行くこととなり、その後、その天才の姿が台湾と日本内地の両方の画壇で大きく異彩を放ち、後進を育てるために美術団体の創設にも加わった。台湾の民族社会運動への関心も非常に高く、台湾文化及び民族意識の前途のために日台間を奔走した。日台の警察に尾行、監視されたが、それでも台湾文化の水準を上げ、台湾民族意識の理想を追求に力を尽くすことを止めることはなかった。一生を台湾画壇に捧げた陳は台湾画壇を代表する人物である。

オンライン企画展

二・二八後の私たち-次の世代は歴史をどう解釈するのか

戒厳令下では二・二八事件を話題とすることがタブーとされました。このため台湾の多くの人々は、自らが住む台湾の歴史を知ることができませんでした。近年、ソーシャルメディアの発達により、より多くの人々が学校教育で習わない現代社会の問題に気づき始め、二・二八事件を題材とした、この土地に関するより多くの物語の執筆を試みるようになりました。その切り口は民主化の波によって変化し、二・二八事件に対する世代間の認識の違いを反映しました。私たちは世代間の認識の違いから対話のきっかけを作り、二・二八事件と民主主義、人権などについての理解を深められるよう期待しています。

特別展示|悲しみの駅 二二八

「悲しみの駅 二二八 特別展」では、駅を切り口とし、八堵駅、嘉義駅、高雄駅、及びその周辺で発生した事件をテーマに、この3つの地で二・二八事件が発生した過程を説明します。文献、画像や映像、そして関連するオーラルヒストリーを通じて、歴史の様相をより明確に描き出します。

二・二八事件は、ただ単に闇タバコの取締り流血事件、あるいは役人の圧政に民衆が反抗を起こしたというものでもなく、ましてや族群(エスニシティー)の衝突という事象に限定できるものでもありません。事件は社会や文化のあらゆる面に影響を及ぼしただけではなく、さまざまな人や集団の考えや決断に影響し、行動を起こさせることとなりました。現場となった駅は、今日では文化的には観光拠点となっていますが、改めて解釈がなされた歴史的事件の現場を再構築することにより、当時、事件の受難者が、国家による暴力の下で殺害された過程を知り、人権意識の向上の中、鉄道の駅が持つ歴史的な価値を体得していただければと思います。

企画展|彼らの時代:1930~1960年代映像展

1930年代から1960年にかけての台湾では、日本統治、第二次世界大戦、そして国民政府軍により接収されたことで統治者が変わるなど、戦争や台湾社会を揺るがす出来事が起こりました。繁栄した生活や美しい建物は戦争によって破壊され、戦後は急に統治者が変わったことで、人々のアイデンティティーは混乱し揺らぎました。

著名な写真家や一般の人々が、カメラのレンズを通して、この時期の台湾の貴重な歴史的記録を残しています。台湾を統治した日本や国民政府もまた、それぞれの目的のために、台湾に関するさまざまな記録や宣伝映像を撮っています。こうした映像は、特定の時空を切り取ったものでしかなく、当時の様子を完全に再現することはできませんが、この時代の歴史を捉えるための切り口とすることができます。今日、当時の宣伝色の濃い映像を見てみると、やや馬鹿げて見えるかもしれません。しかし、それでも当時の環境や生活の様子をうかがい知ることはできるのです。

展示では、写真等の静態記録と映像等の動態作品を通し、日本統治時代の台湾の庶民のあれこれ、戦時中の動員、爆撃で崩れてしまった建物や戦後の厳しい社会環境などを紹介することで、台湾がたどってきた激動の時代を明らかにします。

オンライン企画展

二・二八事件と学校:事件における建国中学関係者たち

創設から120年以上の歴史をもつ建国中学は、日本統治時代、第二次世界大戦末期の台北大空襲、国民政府による台湾接収後の再建期に立ち会ってきたほか、国民党による独裁、権威主義体制による統治、市民の言論の自由が奪われた戒厳令時代も経験しました。そして、台湾が民主化に向かって邁進していくまで、様々な時代を経てきた建国中学では、常に教師や生徒が良識をもち、勇敢にも不公平、不正に対して立ち向かいました。しかし、それが故に逮捕されたり、命を落とす災いに巻き込まれたほか、さらには、校長が生徒を保釈させようとしたところ、警備総司令部により数カ月間勾留されるという荒唐無稽な事件までも発生しました。逮捕、行方不明、自白の強要、銃殺といった、これらの生徒、教師たちが遭遇したことは、二・二八事件と建国中学、そして台湾の近代の民主主義発展の歩みの中に、はっきりと足跡を残しています。彼らが遭遇したことを理解して初めて、「移行期正義」の重要性、そして建国中学校門の「蒋介石像」の撤去をめぐる議論について、深く知ることができるのです。

二二八国家紀念館常設展

本常設展は歴史歩道をイメージし、従来の展示方式と双方向型のデジタル展示を組み合わせることで、二・二八の史料と歴史記録を展示し、歴史の現場を再現しています。当時の雰囲気を体感し、歴史のあらましを来場者に理解していただくと共に、台湾の数十年来の人権、法治の歩みや自由、民主主義の実現などを見つめ直します。

オンライン企画展

1987年人民の覚醒:写真展 韓国民主主義の目撃証言

20世紀の韓国と台湾の歴史は似ているところが数多くあります。両者とも日本に植民地化されたことや、軍事独裁政権に支配されたことだけではなく、人々の力で民主化を成し遂げることに成功しています。

この原動力は、台湾では1947年の二・二八事件、韓国では1980年の光州民主化運動にその源があります。

1987年、台湾紙の韓国特派員が6月民主抗争の現場を取材し、多くの貴重な歴史的記録写真を残しました。これらの写真を通して、私たちは血と涙が入り混じった現場に連れ戻され、民主化を求める人々の叫びが聞こえるような気がしてきます。この貴重な映像を通して、民主主義や自由が如何に貴重なものなのかを知り感じてくださることを願っています。

オンライン企画展|二・二八芸術文化関連展示

あの日・あの日の後:陳武鎮二・二八関連芸術創作展

陳武鎮は1949年、屏東県の萬巒郷で生まれました。それは権威主義統治下の戒厳令がしかれた時代でした。1969年に高雄・左営の海軍新兵訓練中心で兵役に就き、適性検査の回答用紙に「反中央反対国民党」の8文字を書いたことで「叛乱罪」に問われて軍事法廷に送られ、「懲治叛乱条例第7条」に違反したとして懲役2年を言い渡されました。控訴を諦め、台東の泰源感訓監獄に収容されました。政治犯となって囚禁され、家族が政治的抑圧を受けて精神的にも心理的にも傷を負ったことが、陳を、苦難を絵筆で記録し、彫刻刀で刻むことで、台湾人に「二・二八事件と白色テロに踏みにじられた台湾の歴史を忘れるな」と訴える行為に駆り立てました。

2017年、二二八国家紀念館は陳武鎮氏と共同で「風中的名字(風の中の名前)」油絵展を開催しました。そして2020年、再び陳氏を招き「あの日・あの日の後:陳武鎮二二八関連芸術創作展」を開催します。「虐殺」シリーズの木彫作品10点および「家族」シリーズの油絵作品18点を展示し、二・二八事件で受難者が射殺された瞬間と遺族のその後の苦しみについて掘り下げていきます。あの日、あの日の後、それは私たち台湾の歴史の永遠の痛みなのです。

特別展示|彼らの時代:台展93

意志固く誇り高き道:青年 張万傳

張万傳は性格が誇り高く不屈であったことに加え、戦時中という情勢も相まって、青春時代は各地を放浪していました。台湾やアモイの風景、友人の店での鮮魚料理などを、軽快に筆を動かし紙上に瞬時に描き出しました。しかし、1947年、建国中学で教鞭を執っていた際、二・二八事件の抗争に参加した生徒を支援した疑いをかけられ、また、校長の陳文彬、教師の王育霖や生徒等が相次いで拘留されると、身の安全のために陽明山や金山に避難しました。そして、そこで人生の伴侶に出会ったことで、教師を職業とし、引退後は絵を描くことに生活の重きを置くこととしたのです。今回の特別展では張万傳の半生をテーマに、張が絵画を学び台湾美術展覧会(略称「台展」)に1回、総督府美術展覧会(略称「府展」)に4回入選するまで、そして、画会の結成から二・二八事件後、教師生活に入るまでを中心に紹介し、25点の作品を展示しています。「生活の中にある芸術こそが真実である」という信念のもと、日本統治時代、二・二八事件、戒厳令期を経て、今日の民主的で自由な時代にいたるまで、いかなる社会情勢にも拘わらず、常に誇りを持って歩んできた張は、台湾近代美術史の一頁を刻む存在です。

特別展|二・二八事件と台湾独立運動

啓蒙と行動:彼らの青春 私たちの歴史

1945年9月、アメリカ統合参謀本部により作成された「一般命令第一号(General Order No. 1)」が発令され、蒋介石は連合国軍中国戦区大元帥として中国(満州を除く)、台湾、北緯16度以北の仏領インドシナの日本軍の降伏を受けることとなりました。これに基づき、台湾の接収を行い「実質的に」台湾の統治を続けたのです。ところが、その統治は妥当なものではなかったため、戦後の台湾経済は悪性インフレ、深刻な物資不足、伝染病の流行など混乱に陥り、人々の不満が積もりに積もった結果、1947年に二・二八事件が勃発することとなりました。1949年、国民政府は中国共産党との戦いに敗れ、中国から台湾に撤退しました。同年、戒厳令が敷かれ、台湾は白色テロの時代に入りました。軍部と警察が権力を濫用し、事件のでっち上げや冤罪が頻繁にあり、言論や思想も厳しく統制されました。蒋介石政権が行った一連の粛清や高圧的な統治下にあった知識人のなかには難を逃れようと海外に亡命、留学する者もいました。海外に出た青年たちは、さまざまな思想や自由な空気に触れることで、もはや国民党政権が作り上げた偽りの民主主義を信じることができず、学生会や同郷会を組織し、台湾の主権と地位の確定について解釈する権利を得ようと、国民党の海外特務が張り巡らすネットワークによる脅威の中、身を挺して国民党による権威主義体制下の独裁と闘いました。さまざまな弾圧にも屈することなく、海外における台湾人コミュニティは拡大し、国際的な反政府勢力と連携すべく取り組みを進めました。台湾アイデンティティの啓発、政治犯の救済、台湾における民主主義の実現を目指し、海外の台湾青年たちは人々と力を合わせ、民主と独立の道を一歩一歩進んできたのです。

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