展示
1987年人民の覚醒:写真展 韓国民主主義の目撃証言
更新日:
2021-06-22
会期: 2020.6.14(日曜日) - 2020. 9.27(日曜日)
開館時間: 火曜日〜日曜日 10:00〜17:00
休館日:月曜日(祝日の場合は開館し、翌火曜日に休館)
後援/内政部
主催/二二八事件紀念基金会、二二八国家紀念館
協力/民主化運動紀念事業會
主管/七頂創意有限公司
はじめに
20世紀の韓国と台湾の歴史は似ているところが数多くあります。両者とも日本に植民地化されたことや、軍事独裁政権に支配されたことだけではなく、人々の力で民主化を成し遂げることに成功しています。近年、軍事独裁と民主主義の発展を描いた韓国映画が台湾でかなり反響を呼んでおり、韓国での「移行期の正義」(過去の大規模な人権侵害とその結果に対して折り合いをつける社会の試みの過程と仕組みのことをいう)もまた、台湾の人々の間で参考や比較の対象となっています。
台湾と韓国における民主化のプロセスは、それぞれ決して平坦な道のりではありませんでしたが、幸いにも人々による大きな支持が民主化を進める力となりました。また、両国には民主化を進める上での共通点があります。それは、過去の国家暴力によってもたらされた悲しみや傷を償おうとする特別な精神的原動力です。この原動力は、台湾では1947年の二・二八事件、韓国では1980年の光州民主化運動にその源があります。
二・二八事件は数十年にわたり台湾の人々の心の奥深くに刻まれていた深い傷であり、かつては語ることが許されないタブーでした。この心の痛みは、半世紀近くの苦しみを経て、少しずつ癒されてきています。
韓国では、1961年に軍事クーデターを起こし政権を掌握した朴正熙(パク・チョンヒ)が1979年に暗殺されたことで、韓国の人々は民主化が進むと期待を抱きました。しかし、当時の保安司令官だった全斗煥(チョン・ドゥファン)が「粛軍クーデター」(1979年)を起こしたことで、民主化への道は再び大きな挫折に見舞われました。
1980年5月、全斗煥が行った光州での民主化闘争にを残忍にで鎮圧したことは、韓国社会に癒しがたい傷跡を残しました。しかし、光州事件への正当な評価を求める声は、後に独裁に立ち向かう韓国の人々の勇気ある行動を目に見えない形で支えていきました。全斗煥は鎮圧と独裁で政権を掌握していましたが、1987年4月13日の護憲措置の声明や、大統領の直接選挙制の拒否などをきっかけとして、韓国の人々は全斗煥が権力を保持し続けようとしていることに声を上げないではいられなくなりました。
1987年、韓国の人々による6月民主抗争は、全斗煥独裁政権終焉の鐘を鳴らしました。 政権の座に長くいることを夢見ていた全斗煥に対し、性別、年齢、職業を問わないあらゆる層の韓国の人々が民主的な改革を要求し、一歩一歩独裁政権を打倒するために街頭デモに参加したのです。6月29日、盧泰愚(ノ・テウ)により「6・29宣言」が発表され、大統領の直接選挙制及びその他の民主改革措施を実行することが表明され、韓国は本格的に民主化へと進むこととなりました。偶然にも同年、台湾においても38年もの間続いた戒厳令が解除され、民主化への扉が開かれることとなりました。
韓国の民主主義の発展には、多くの闘争、鎮圧、つまずき、再起など、台湾の人々にとってはあまり知らないことなのに、どこかで見たような光景が繰り広げられました。1987年、台湾紙の韓国特派員が6月民主抗争の現場を取材し、多くの貴重な歴史的記録写真を残しました。これらの写真を通して、私たちは血と涙が入り混じった現場に連れ戻され、民主化を求める人々の叫びが聞こえるような気がしてきます。とはいえ、写真から伝わるメッセージは、壁の隅に隠れながら応援する市井の人々、自宅から密かにデモ隊を応援する人々、いわれなき罪に問われ拷問を受けた人々の声や涙、民主化への改革を勝ち取るために闘う強い意志など、当時の状況を完全に表したものではないかもしれませんが、この貴重な映像を通して、民主主義や自由が如何に貴重なものなのかを知り感じてくださることを願っています。
写真家プロフィール
朱立熙。台湾台中出身。政治大学東語系韓語組に学ぶ。韓国語を履修したことで韓国との関係が始まる。大学卒業後、新聞社の報道記者としてトップ採用され、ジャーナリストとしての活動を開始する。1985年から1988年までのソウル駐在中、韓国の民主化運動が最も揺れ動き激しかった時期にその現場を目のあたりにし、今回、展示した貴重な写真を残すこととなった。
超級電視台新聞部総編集長、TAIPEI TIMES総編集長、及び中華テレビ(CTS)副総経理(副社長)等の要職を歴任。また、『漢江の変化』『さよならアリラン』『国家暴力と過去の清算』『韓国史-悲劇と運命の循環』など11冊の韓国に関する著書がある。現在は、新世代の人々に民主主義や自由を知ってもらうことに最も力を入れている。
現在、国立政治大学と国立台湾師範大学の講師。韓国を正しく知ってこそ、さらなる価値判断ができることから、学生には親韓・反韓を問わず、まず「韓国を知ってほしい」と願っている。大学では「韓国近代史」、「韓国における移行期の正義に関する映画分析」、「韓国政治と民主化」、「北朝鮮研究」などの講座を担当しているほか、台湾の中南部で講演を頻繁に行っている。台湾の若者に韓国ドラマやK-POPだけではなく、近現代の韓国の歴史的展開や移行期の正義を推進するための努力を理解してもらうことで、異なる角度から韓国を理解し、台湾と韓国の人々が互いに学び合えるようになることを目標としている。
民主化への道のり-台湾vs韓国
1895-1945
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台湾→ 50年間、日本の植民地となる
1910-1945
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韓国→ 35年間、日本の植民地となる
1945
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台湾→日本の敗戦により、国民政府が台湾を接収する
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韓国→ 朝鮮半島独立
1947
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台湾→ 二・二八事件発生。戦後台湾において最も人権が侵害された事件
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韓国→済州島四・三事件の導火線となる事件発生
1948
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韓国→済州島四・三事件発生。済州島四・三事件は、韓国現代史上、朝鮮戦争に次ぐ死傷者を出した悲劇的事件。南北に二分した朝鮮半島が「大韓民国」と「朝鮮民主主義人民共和国」としてそれぞれ独立
1949
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台湾→戒厳令布告:国民党が国共内戦に破れ、中華民国中央政府は南京から台湾に逃れた
1950
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台湾→朝鮮戦争勃発:米国は、台湾の防衛と共産化を防ぐため、第七艦隊を台湾海峡に派遣
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韓国→朝鮮戦争勃発:北朝鮮による韓国侵攻を防ぐため国連軍が派遣される
1960
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台湾→雷震が新党結党を宣言するも、雷震等数名が逮捕される
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韓国→ 四・一九革命:第4代大統領選挙時の不正に反発した学生や市民による抗議デモにより李承晩独裁政権が打倒される
1970
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台湾→米国において、黄文雄と鄭自才による蒋経国暗殺未遂事件発生
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韓国→縫製工場で働く全泰壱が焼身自殺を行ったことで労働者の権利が喚起された。この事件は後に台湾の鄭南榕に影響を与えたとされる
1971
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台湾→国連脱退を強いられ、以後、各国と国交断絶
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韓国→朴正熙が第7代大統領に選出される。12月、「国家非常事態宣言」を発する
1972
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台湾→雷震が「救亡図存献議」を表し、蒋介石等に提出するも回答を得られず
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韓国→朴正熙大統領が「維新憲法」を制定。大統領の重任制限が撤廃される
1979
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台湾→ 1月、高雄において戒厳令施行後30年で初めてのデモ「橋頭事件」が発生。12月10日、高雄市で台湾における最大規模の民主化を求める反体制運動「美麗島事件」が起こる
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韓国→ 釜馬民主抗争:10月16日、5,000人を超える学生が、朴正熙「維新体制」への抗議デモを行う。10月26日、朴正熙は中央情報部(KCIA)部長金載圭により射殺され、維新体制は幕を下ろす
1980
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台湾→「林義雄一家殺害事件」発生。林義雄の母親及び双子の娘が殺害され、長女が重傷を負う
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韓国→ソウルの春:学園民主化運動から全国的な政治闘争に発展。民衆は「戒厳令の即時解除」を求める声明を発表。光州事件:光州市民による自発的な民主化運動。軍の実権を掌握していた全斗煥による鎮圧で、大勢の市民と学生が死傷した
1986
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台湾→鄭南榕等による戒厳令反対運動が起こる
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韓国→ソウル大学学生の権仁淑(クォン・インスク)が「性的拷問」を受け、民衆が抗議デモを行う
1987
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台湾→「二・二八和平日促進会」成立。受難者の名誉回復を目的とした運動を行う。7月15日、38年に及ぶ戒厳令が解除される
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韓国→朴鍾哲(パク・ジョンチョル)拷問死、李韓烈(イ・ハニョル)催涙弾直撃死事件:6月民主抗争に発展。盧泰愚は民意に屈し「六・二九民主化宣言」を発表。韓国は民主化への道を歩み始める
1988
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台湾→1月13日、蒋経国死去。権威主義体制の終わりを意味する
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韓国→ソウルオリンピック開催
1989
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台湾→鄭南榕が「100%言論の自由」を求めて焼身自殺
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韓国→タブー視されていた「四・三追慕祭(済州島四・三事件犠牲者慰霊祭)」を初めて開催
1990
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台湾→3月16日から22日にかけて「野百合」学生運動が発生。中華民国政府の台湾移転後最大の学生運動
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韓国→ソ連と国交樹立
1991
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台湾→『動員戡乱時期臨時条款』が廃止され、台湾の民主化は新しいステージに入る
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韓国→韓国と北朝鮮が国連に同時加盟。国際的に独立国家として認められる
1992
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台湾→ 5月、立法院において刑法100条が改正され、言論統制により処罰される規定が廃止され、名実ともに言論、思想が自由な時代となった。『「二・二八事件」研究報告』発表
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韓国→中国と国交樹立。中華民国(台湾)と国交断絶
1995
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台湾→李登輝総統が二・二八事件の犠牲者に対し正式に謝罪を行う
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韓国→「5.18民主化運動に関する特別法」、「憲政秩序破壊犯罪の時効等に関する特別法」が国会で可決成立
1996
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台湾→初の総統直接選挙が行われ「主權在民」が実現する
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韓国→全斗煥及び盧泰愚等16名が「粛軍クーデター」及び「光州事件」で起訴される
1997
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台湾→「台北二二八紀念館」開館
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韓国→ 5·18民主化運動を記念し、5月18日を法定記念日に制定
2000
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台湾→初の政権交代が実現
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韓国→「6.15南北共同宣言」:南北首脳会談で締結された歴史的合意文書。南北関係転換のマイルストーンとなる
2003
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台湾→立法院において「公民投票法」が可決成立
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韓国→「済州4•3事件真相調査報告書」を公表。大統領が初めて公式に謝罪を行う
2006
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台湾→『二・二八事件責任帰属研究報告』出版
2007
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台湾→「二二八国家紀念館」創設。「二二八事件処理及び補償条例」が改正され、条例中全ての「補償」が「賠償」と改められた
2008
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韓国→済州島四・三事件から60年。「済州 4・3 平和記念館」開館
2011
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台湾→「二二八国家紀念館」開館・運営開始
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韓国→光州民主化運動(光州事件)に関する記録物がユネスコの記憶遺産に認定される
2014
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台湾→太陽花学運(ひまわり学生運動)発生。『サービス貿易協定』強行採決に抗議
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韓国→済州島四·三事件での犧牲者を追悼し、4月3日を法定記念日に制定
2017
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台湾→戒厳令解除から30年。蒋介石档案(公文書)が国史館サイトで一般公開
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韓国→朴槿惠(パク・クネ)大統領が「崔順実ゲート事件」等により弾劾罷免される
2019
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台湾→ケタガラン大道で反「親中メディア大規模デモ」が行われ、親中メディアの浸透に反対するとともに、香港の「反送中」運動に声援を送った
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韓国→ 18名の済州島四·三事件犠牲者の有罪判決が取り消され、事件から71年にして、ようやく名誉が回復される
2020
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台湾→『二二八事件の真相と移行期正義』出版
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韓国→光州民主化運動から40年
人々の激しい怒り
1987年4月13日、全斗煥(チョン・ドゥファン)独裁政権が憲法改正を断固として拒否したことが国民の激しい怒りを買った。6月10日、1,000を超える社会運動団体が結集して「民主憲法争取国民運動本部」を組織し、全国の各大都市で午後6時から30分間クラクションを鳴らすことを求めた。クラクションから発せられた独裁政権への怒りの音は全国に響き渡った。 韓国では6月10日を「民主化紀元日」としている。
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6月10日、与党「民主正義党」が奨忠体育館で党員大会を開催。盧泰愚一人が全斗煥から後継指名を受け、与党の次期大統領候補に選出された
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奨忠体育館では歓声が湧き上がる。クーデターを起こし政権掌握に加担した盧泰愚が全斗煥独裁体制を引き継ぐことで、既得利益が守れることとなり、興奮が冷めやらなかった
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しかし、体育館の外には、歓喜する政権当局を抗議の群衆から守るために、機動隊が大勢待機していた
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同日の夕方5時すぎ、明洞のメインストリートには抗議の人々が押し寄せ、その勢いは止まらなかった
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エリートサラリーマンまでもがラップで目を覆って道路脇に立ち、道行く車にジェスチャーで大きくクラクションを鳴らして独裁への抗議をするよう呼びかけた。
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ゴーグルをつけ、窓を開けてデモの様子を見ているバスの乗客
街頭デモ-市民と学生による闘い
この日も6月の他の週末と同様、街頭での抗議デモが絶えなかった。市民と学生はゲリラ戦法を採り市街戦を戦うことで機動隊を疲弊させた。市の中心部のいたるところが催涙ガスの煙で充満した。
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市街地のオフィスビルの窓には、6月26日午後6時から行われる民主的な憲法を求める平和的デモへの参加を呼びかける大文字の張り紙が貼られた
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国宝第一号「南大門」(崇礼門)。過去に類を見ない規模の機動隊
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催涙ガスが次から次へと発射され、命がけで逃げるデモの参加者たち
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オフィスビルで働く勤め人たちも窓に大文字の張り紙を貼り、抗議の市民を大きく力づけた
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深夜の南大門前。機動隊を乗せてきた警備車の窓ガラスが割られ、放火され炎上
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怒る群衆に放火され炎上する南大門前の警備車
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明洞大聖堂前に集まり、2,500名の「良心の囚人」の釈放を要求する群衆
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この催涙弾はカメラマンの左腕に命中したが爆発せず、地面に落下しても爆発しなかったので、大変だった取材の「戦利品」として持ち帰り家のテレビの上に飾っておいた。 2週間後、日本と韓国の記者が家に遊びに来た。韓国の記者はテレビの上の催涙弾を見るなり驚いて「テレビが熱くなって万が一爆発したら、この家は最低でも3ヶ月は人が住めなくなるぞ」と警告してくれた。そこで、翌日「情けなくも」警察に返しに行った。このとき、韓国製の催涙弾は「世界一」性能がよく、唐辛子、ニンニク、コショウ、化学薬品など、涙が出るものなら何でも原料にしていることを知った。当時、 韓国はイスラエルや南アフリカに催涙弾を輸出しており、2011年から2014年には、トルコやバーレーンにも大量に輸出していたことが明らかになっている。
壮絶な6月民主抗争-呼応するホワイトカラーと中産階級
1987年6月26日は「6月民主抗争」が最高潮に達した日だった。全国のホワイトカラーと中産階級のほぼ全員が独裁政権と戦うために街頭デモに加わった。政治的な嵐は爆発寸前となり、人々の力は全斗煥独裁政権を打倒寸前に追い込んだ。米国は軍事力による鎮圧をしないよう警告を発し、国際オリンピック委員会(IOC)もまた、翌1988年のソウル五輪開催中止を躊躇しないと発表したことも影響し、当局は民意に屈せざるを得なかった。盧泰愚により「六・二九民主化宣言」が発表され、1カ月にわたる政情不安が沈静化された。これは、台湾の蒋経国が世論の圧力を受けて、1987年7月15日に戒厳令解除を発表したことと同様である。
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勤務時間中にデモに参加するホワイトカラーや中産階級の人々
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韓国銀行近くの大通りで「民主主義のための闘い」という横断幕を掲げ抗議する勤め人たち
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「不正政権出ていけ!」:抗議デモを行う統一民主党城北区の党員たち
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入院患者までもが患者衣のままデモに参加
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明洞大聖堂の聖職者たちも中央郵便局前で抗議を行った
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明洞での商売ができずどうしようもなく道端に座り込み国旗を振り抗議をする女性
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負傷した通行人を手当する明洞近くの白病院の医療スタッフ
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「直接選挙で独裁者を倒そう」とスプレー書きされた交通標識の横を機動隊が通っている実に皮肉な光景
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サムスングループの「新世界百貨」前が、このように機動隊で埋め尽くされたのは、後にも先にもない
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撮影中に歩行者がぶつかってきてピンボケになったが、暴動鎮圧の臨場感が感じられる一枚
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私服のデモ鎮圧警察「白骨団」に逮捕されたデモ参加者
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徹夜で情報収集を続ける在韓米国大使館。軍事クーデターの監視もしていた
青年の犠牲
「6・10デモ」前日の9日、延世大学の学生李韓烈(イ・ハニョル)は後頭部に催涙弾が当たり脳死状態となり4週間後の7月5日に死亡が宣告された。7月6日、悲憤にかられた延世大学の学生たちは学内でさまざまな追悼集会を行った。
延世大学での追悼と抗議行動に加え、7月7日からは高麗大学に抗議の中心が移り、そこに全国の大学の学生会からの代表が集結した。6万人が高麗大学の運動場に結集し「独裁政権は消え失せろ!」と声を揃え高らかに叫び、過去にないほどの怒号が雲間に響いた。
7月9日は李韓烈の告別式だった。 前日の8日、延世大学の学生たちは、禹相虎(ウ・サンホ)学生会会長(現在「共通民主党」国会議員)を中心として校内で集会を行い、終了後には校門を出て街頭デモを行った。彼らは李韓烈の遺影を掲げ、武力鎮圧を行った警察に正義を求めた。デモは落ち着いて行われたが、「李韓烈烈士の死を無駄にするな」というスローガンを掲げた学生たちの悲しみは、非常に心を揺さぶられるものだった。
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延世大学行政ビルに掲げられた黒布の弔旗
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写真をもとに作成された大きな版画「韓烈を救い出せ!」
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延世大学図書館前での糾弾集会
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糾弾集会では学生代表が交代で独裁体制の暴政を糾弾
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延世大学図書館前の抗議の立て看板
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悲しみと怒りが入り交じった表情を浮かべる学生
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李韓烈を追悼するため、延世大学学生活動センター前に長蛇の列ができた
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サークル広場で李韓烈を追悼する「霊歌」を歌う延世大学の学生たち
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「霊歌」を歌い終わった後、手を挙げて独裁政権を糾弾するスローガンを叫ぶ
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学内での糾弾集会後、学生たちは街頭でデモを行った
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怒った延世大学の学生たちは、大学キャンパスを出て街頭デモを行った。重装備で警戒にあたる機動隊は動くに動けなかった
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延世大学の学生たちは棍棒や素手で機動隊に立ち向かった
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素手で機動隊に立ち向かう学生
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高麗大学の運動場には6万人が集まり、怒号が空に響き渡った
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李韓烈の母親の悲しみの叫び:殺人鬼盧泰愚はどこへ逃げた?
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デモに参加した人々の顔は皆、怒りと悲しみに満ちていた
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延世大学の学生会長禹相虎は、催涙ガスが充満する中、李韓烈の遺影を抱え嗚咽した
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デモに出発! 横断幕には「李韓烈の死を民主主義への火花に」と書かれている
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延世大学から街頭に出たデモ隊
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幹線道路に座り込み機動隊と対峙する
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李韓烈の遺影を手に、機動隊に対し、正当な扱いを求める
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一時的にガスマスクを外して一息つく。目はすでにむくんでいる
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学生たちが「李韓烈烈士の死を無駄にするな 」と前進を続ける中、機動隊は道路脇に退却した
民主主義の夜明け
この日は延世大学にとって最も沈痛な一日だった。全学の教師・学生、学外の学生、そして各界の人々により李韓烈のために大規模な「国民葬」が行われた。ソウル大学の李愛珠(イ・エジュ)教授が鎮魂の舞を舞う中、李韓烈烈士の棺を乗せた霊柩車は出発した。延世大学の学内及び学外は40万人もの弔問の人々で囲まれた。多くの記者や弔問の人々が鉄道の高架によじ登り、高所からその様子を見守った。通過する列車も乗客が見送れるようにと一時停止した。葬儀の列が西小門路を通りソウル市庁前広場に入る頃には、すでに100万人の群衆が李韓烈に別れを告げるために集まっていた。市役所前広場での葬儀の後、霊柩車は高速道路を通り、李韓烈は光州市の望月洞墓地に埋葬された。 この史上最大規模の告別式は、韓国駐在の外国人記者にとって大変な驚きだった。
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「愛国学生故李韓烈烈士葬儀」。李韓烈の棺がゆっくりと大学を出ていく
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太極旗と「民族民主闘争の永遠なる先鋒」と書かれた幡旗に先導され、国旗で覆われた棺が校門を出る
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乗客が告別式の様子を見ることができるよう、高架を走る列車も一時停止した
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葬列の先頭の幡旗がソウル市庁舎に到着
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市庁舎前広場を埋め尽くす弔問に集まった市民
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市庁舎前に壮観に立ち並ぶ弔旗
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葬列は西小門から南大門通りを通って市庁舎広場に入った
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100万の人々が李韓烈に別れを告げた史上まれに見る光景
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当日の午後、延世大学に戻り撮影した人生で最も思い出深い写真
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韓国駐在の外国人記者も集合写真を撮った。誰もがこの告別式に驚嘆していた