展示
意志固く誇り高き道:青年 張万傳
更新日:
2020-09-12
会期:2020年9月12日(土)~2021年1月10日(日).毎週月曜日休館
開館時間:10:00~17:00(入場は閉館の30分前まで)
会場:二二八国家紀念館 二階南翼/台北市中正区南海路54号
後援/内政部
主催/二二八事件紀念基金会、二二八国家紀念館
はじめに
生活の中にある芸術こそが真実である。
張万傳は、その生涯を通じて常に画壇の主流や学校教育から離れ、社会の好みにおもねることなく、主流に与することもなく、作風、色彩、題材、そして画筆のタッチに至るまで、自らが考える創作のあり方を追求しました。枠にとらわれることもなく、筆がすすむままに自らの作風を表現し、評論家等による誌上での遠慮ない批判的な評価も、張の「自分は自分である」という主張を崩すことはできませんでした。
張万傳は台陽美術協会(略称「台陽美協」)に2回入会、そして2回退会し、洪瑞麟、陳徳旺らと「MOUVE(ムーヴ)美術集団」(略称「MOUVE」)を結成しました。1938年3月、第一回作品展が当時の台湾教育会館(現、二二八国家紀念館)で開催され、1941年3月には、MOUVEを改組、改称した「台湾造型美術協会」(略称、「造型美協」)による第一回作品展が本館で行われました。
張万傳は性格が誇り高く不屈であったことに加え、戦時中という情勢も相まって、青春時代は各地を放浪していました。台湾やアモイの風景、友人の店での鮮魚料理などを、軽快に筆を動かし紙上に瞬時に描き出しました。しかし、1947年、建国中学で教鞭を執っていた際、二・二八事件の抗争に参加した生徒を支援した疑いをかけられ、また、校長の陳文彬、教師の王育霖や生徒等が相次いで拘留されると、身の安全のために陽明山や金山に避難しました。そして、そこで人生の伴侶に出会ったことで、教師を職業とし、引退後は絵を描くことに生活の重きを置くこととしたのです。
今回の特別展では張万傳の半生をテーマに、張が絵画を学び台湾美術展覧会(略称「台展」)に1回、総督府美術展覧会(略称「府展」)に4回入選するまで、そして、画会の結成から二・二八事件後、教師生活に入るまでを中心に紹介し、25点の作品を展示しています。「生活の中にある芸術こそが真実である」という信念のもと、日本統治時代、二・二八事件、戒厳令期を経て、今日の民主的で自由な時代にいたるまで、いかなる社会情勢にも拘わらず、常に誇りを持って歩んできた張は、台湾近代美術史の一頁を刻む存在です。
経歴
1909年|出生
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張万傳の生涯:
台北淡水に生まれる。父、張永清は淡水税関に勤める
1911年|3歳
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張万傳の生涯:
父が「淡水稅関基隆支署」に異動したため基隆に転居
1916年|8歳
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張万傳の生涯:
台北大稻埕太平町(現、台北延平南路一帯)に転居
1917年|9歳
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張万傳の生涯:
公館地(現、台北士林区公館里一帯)公学校入学
1923年|15歳
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張万傳の生涯:
士林公学校卒業、高等科へ進学 -
台湾近代美術の発展:
皇太子裕仁殿下の訪台に合わせ、公・小学校の学童美術教育研習及び作品展覧会が行われる
1924年|16歳
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張万傳の生涯:
士林公学校高等科一年修了 -
台湾近代美術の発展:
石川欽一郎、二度目の来台。台北師範学校勤務
1927年|19歳
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張万傳の生涯:
石川欽一郎主催の「台湾水彩画会」に入り、11月に開催された第一回水彩画展に参加 -
台湾近代美術の発展:
第1回台展、台北の樺山小学校で開催
新竹以南、東京美術学校に学んだ台湾籍の学生(廖継春、陳澄波、顔水龍等)により「赤陽会」が結成され、台南で絵画展開催
1928年|20歳
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台湾近代美術の発展:
第二回台展、台北の樺山小学校で開催
北部の七星画壇解散、赤陽会と合併し「赤島社」設立
1929年|21歳
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張万傳の生涯:
倪蒋懐創設の「台北洋画研究所」(翌年「台湾絵画研究所(会)」と改名)に加わり、石膏デッサンや水彩を学び、洪瑞麟、陳徳旺と知り合う -
台湾近代美術の発展:
第三回台展、台北の樺山小学校で開催
1930年|22歳
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張万傳の生涯:
洪瑞麟、陳徳旺に続いて東京へ行き、陳植棋、李梅樹、李石樵と共同生活を送る。「川端画学校」及び「本郷絵画研究所」で西洋画、デッサンを学ぶ
《台湾風景》が日本の第一美術展に入選 -
台湾近代美術の発展:
第四回台展、台北総督府旧庁舎で開催
郭雪湖、陳進、林玉山等が栴壇社展を開催
1931年|23歳
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張万傳の生涯:
洪瑞麟、陳徳旺とともに日本帝国美術学校に合格したが、理論の授業が多く退学する。退学後は、ほとんど川端画学校及び本郷絵画研究所において独学で画を学ぶ -
台湾近代美術の発展:
第五回台展、台湾教育会館(現、二二八国家紀念館)で開催。嘉義、台中、高雄、新竹巡迴展を初めて行う
1932年|24歳
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張万傳の生涯:
中国のアモイに親戚を訪ねる。廈門美専の学生謝国鏞と知り合う
作品《廟前の市場》が第六回台展に入選 -
台湾近代美術の発展:
第六回台展、台湾教育会館(西洋画)及び台北第一師範(現、台北市立大学、東洋画)を開催。台南、台中巡迴展を行う
1933年|25歳
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張万傳の生涯:
第十一回「春陽会展」に絵画を出品 -
台湾近代美術の発展:
第七回台展、台湾教育会館で開催。台中、高雄巡迴展を行う
赤島社解散
1934年|26歳
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張万傳の生涯:
初めてモーリス・ド・ヴラマンクの作品を鑑賞 -
台湾近代美術の発展:
第八回台展、台湾教育会館で開催。嘉義、台中巡迴展を行う
陳澄波、陳清汾、楊三郎、李梅樹、李石樵、廖継春、顔水龍、立石鐵臣等「台陽美術協会」創設
1935年|27歳
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張万傳の生涯:
作品《自画像》 -
台湾近代美術の発展:
第九回台展、台湾教育会館で開催
台陽美術協会の第一回「台陽展」、台湾教育会館で開催
1936年|28歳
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張万傳の生涯:
洪瑞麟、陳徳旺とともに台陽美術協会に入り、第二回台陽展に出品 -
台湾近代美術の発展:
第十回台展、台湾教育会館で開催。台中巡迴展を行う
第二回台陽展、台湾教育会館で開催
栴壇社解散
1937年|29歳
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張万傳の生涯:
廈門絵画学院を卒業した許聲基(戦後、呂基正と改名)と「青天画会」を結成
第三回台陽展に出品
洪瑞麟、陳徳旺、許聲基、陳春徳とともに「MOUVE(ムーヴ)洋画集団」を結成 -
台湾近代美術の発展:
日中戦争勃発のため、台展中止
第三回台陽展、台湾教育会館で開催
1938年|30歳
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張万傳の生涯:
彫塑家黄清呈(黄清亭)が加わり、「ムーヴ洋画集団」を「ムーヴ美術集団」に改称。3月19~21日、第一回「ムーヴ美術展」を台湾教育会館で行う
5月、張万傳、洪瑞麟、陳徳旺が同時に台陽美術協会を退会
8月、許聲基、山崎省三とアモイで三人展を行う
10月、作品《コロンス風景》が第一回府展の特選に
廈門美専の新任校長林克恭に招かれ、廈門美専で教える -
台湾近代美術の発展:
展覧会が再開され「台湾総督府美術展覧会」(略称「府展」)と改称。第一回府展の主催は台湾教育会から台湾総督府文教局社会課に移管され、台北公会堂(現、台北中山堂)で開催
第四回台陽展、台湾教育会館で開催。陳植棋、黄土水の記念展も行われる
1939年|31歳
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張万傳の生涯:
アモイから帰台し、倪蒋懐の瑞芳鉱山で働く
作品《コロンスの教会》が第二回府展に入選 -
台湾近代美術の発展:
第二回府展、台湾教育会館で開催
第五回台陽展、台湾教育会館で開催
1940年|32歳
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張万傳の生涯:
5月、台南公会堂(現、台南呉園)において、黄清呈、謝国鏞と「ムーヴ三人展」を開催 -
台湾近代美術の発展:
第三回府展、台湾教育会館で開催
第六回台陽展、台北公会堂で開催。東洋画部を増設
1941年|33歳
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張万傳の生涯:
ムーヴの英文字MOUVEが時局に合わないことと、これを機に組織を変えて美術デザインを加え、総合芸術団体とし「台湾造型美術協会」と改称。3月1日~4日、台湾教育会館で展覧会を開催 -
台湾近代美術の発展:
第四回府展、台湾教育会館で開催
12月、太平洋戦争勃発
1942年|34歳
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張万傳の生涯:
戦時中は、ほとんど台南に疎開しており、台南の「望郷茶房」でスケッチ展を開く。
作品《廈門所見》が第五回府展に入選 -
台湾近代美術の発展:
第五回府展、台北公会堂で開催
1943年|35歳
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張万傳の生涯:
作品《南方風景》が第六回府展に入選 -
台湾近代美術の発展:
第六回府展、台北公会堂で開催
1944年|36歳
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張万傳の生涯:
軍に入隊する -
台湾近代美術の発展:
連合国による台湾空襲が始まり、府展が中止となる
1945年|37歳
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張万傳の生涯:
父が亡くなり、二番目の弟も南洋で戦死 -
台湾近代美術の発展:
展覧会中止
8月、日本が降伏し太平洋戦争終結
1946年|38歳
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張万傳の生涯:
建国中学の校長に招かれ、体育と訓導の教職に就く -
台湾近代美術の発展:
台陽美術協会の活動、一旦中止
1947年|39歳
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張万傳の生涯:
二月、二・二八事件発生。抗争に参加した学生を支援した疑いで逮捕されることを恐れ、建国中学を辞め、金山一帯に隠れ、そこで医者をしている弟の張萬居を頼って生活。生計を立てるために魚を捕る。後に夫人となる許寶月と知り合う -
台湾近代美術の発展:
二・二八事件で陳澄波が嘉義駅前で銃殺
1948年|40歳
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張万傳の生涯:
台北の大同中学の美術及び体育の教師となる -
台湾近代美術の発展:
台陽美展、戦後初めて展覧会を開催
1949年|41歳
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張万傳の生涯:
許寶月女史と結婚
1950年|42歳
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張万傳の生涯:
延平高中補習学校でも教える
作品
自画像
1935|油絵.木板|33×23 cm
肌色のフラットな筆致で真正面から描いた張万傳の若い頃の自画像は、光と影の変化を大胆に強調し、丸いフレームの眼鏡、口角がやや下がっているようすに、自らの人生と芸術の方向性を選択する段階にあったこの青年の、こだわりの強い頑固な一面が浮き彫りにされている。この自画像は当時の若手画家がよく選んだテーマで、東京美術学校の卒業前の必修課題にもなっていたもので、意図せずに画家たちそれぞれの個性を反映している。
コロンス風景
1940|水彩.紙|23.5×31 cm
廈門風情
1931~1938|鉛筆.水彩.紙|13.5×20 cm
廈門風情
1931~1938|鉛筆.水彩.紙|13.7×21.5 cm
この二枚の《廈門風情》には、作画の日付がない。おそらく1931年から1938年にかけて、張万傳が中国のアモイに親戚を訪ね、廈門美専を訪れた際の写生ではないかと思われる。府展に入選した数点の作品とは異なり、こうした自然で軽く描いたタッチは、張万傳の作品の特徴でもあり、青い空に白い雲のふんわりとした水彩画の筆致には、石川欽一郎から受けた水彩画法が隠れているのがわかる。
コロンス風景
1940|水彩.紙|24.5×31.5 cm
廈門風景
年代不詳|鉛筆.水彩.サインペン.紙|22.3×26.4 cm
淡水風景
1940|油絵.サインペン.カンバス.木板(カンバスを木板に貼る)|31.6×39 cm
淡水観音山
1963|水彩.クレヨン.紙|22.1×26.9 cm
淡水観音山
1996|サインペン.クレヨン.水彩.紙|10F
早い時期から画家たちはしばしば淡水を主題とし、陳澄波、陳植棋、李梅樹、李石樵、顔水龍、そして洪瑞麟……など、いずれも淡水を題材とした作品を残している。しかし、張万傳が描く淡水は、とりわけ感情がこもっている。というのも、淡水は張の生まれたところで、子供の頃の思い出が鮮明に残っているところだからである。マカイ博士親子が建てたレンガ色の教会を中心とし、屋根瓦が続く淡水の街、淡水河の向こうに見える観音山、アーチ型の軒が続く白い建て物など、どのような風景をもクレヨンや水彩、油絵具で大好きな淡水の雰囲気を描いた。
淡水風景
1968|サインペン.クレヨン.水彩.紙|24.5×35 cm
淡水教会
1970|サインペン.クレヨン.水彩.紙|30.5×39 cm
淡水風光
年代不詳|サインペン.クレヨン.水彩.紙|18.9×26 cm
淡水風光
年代不詳|サインペン.クレヨン.水彩.紙|21×27.6 cm
新荘舊街
1968|コンテ.水彩.サインペン.クレヨン.紙|30×38.5 cm
1960年代の新荘の街。台湾式の家が軒を突き合わせて建ち並んでいる。赤い瓦と白い壁がとても面白く、特に屋根の煙突から出ている煙が、隣の家の素朴さを引き立たせている。また家の大きさにも違いがあり、太く黒い線が被写体の重厚感を強め、赤い部分はやや重たい雰囲気を添え、全体に動きを加えている。
鹿港老街
年代不詳|油絵.画板|37×44.5 cm
コロンス風景
1940|油絵.紙|29×36.5 cm
張万傳はより自然な筆致を追求する一方で、より「一般受けする」作品も描いた。野性的で荒々しい筆致とは一線を画した端正な構図と細やかな筆致と色彩で、安定した雰囲気のある作品。異なった筆致の作品から、張万傳が自らの作風と官展に入選する作品の間で揺れ動いているようすが見えてくる。
コロンス風景
1937|油絵.カンバス|72×89 cm
1938年、第一回府展特選の作品。特選の中で唯一の台湾籍の画家。この作品では大胆で奔放な作風が影を潜め、色彩豊かな構成が主とされており、コロンスのエキゾチックな建物や路地が描かれている。壁や窓、屋根などが丹念に描かれており、当時のエコール・ド・パリの延長線上にあるよう。
桃
1955|油絵.紙板|21×27.6 cm
静物
年代不詳|油絵.カンバス|19.2×25 cm
瓶花(花瓶に生けた花)
年代不詳|クレヨン.紙|32×24 cm
魚とくだもの
1950|油絵.カンバス|45.4×53 cm
この作品は戦後間もない二・二八事件後に描かれた張万傳の代表的な静物画の一つであり、魚シリーズの中では年代が最も早い作品。手前の白い腹の黒い魚は、白い腹の上に黄色やオレンジ色の濃淡をつけ描かれている。線の太さに変化がなく、筆致もやや硬く画風も重たい。まだ模索している時期。
石斑魚(ハタ)
年代不詳|油絵.紙板|16.6×24.3 cm
大蝦子(大きなエビ)
年代不詳|油絵.紙板|20.2×25.7 cm
嘉鱲魚(真鯛)
1983|クレヨン.水彩.紙|26.4×38.6 cm
自画像
1985|水彩.木炭.サインペン.紙|32×22 cm
大器晚成の絵画青年
美術学校出身以外の者の絵画学習の道のり
張万傳は日本統治時代の1909年に台北淡水に生まれ、父親は英語ができたため税関で働いていました。山と水に囲まれ、赤瓦の洋風の建物や日本の官舎が立ち並ぶ淡水の町は、張万傳の心の中にひときわ深く刻まれた場所です。淡水の情景は、張の人生の様々な段階で、頻繁に描かれる題材となりました。
父の転勤に伴い、張は幼い頃、淡水、基隆、そして祖父の家があった草山公館(現、台北市陽明山士林公館里一帯)と転居を重ね、最後は大稻埕太平町に落ち着きましたが、こうしたことが原因で就学が遅れ、1923年、15歳で士林公学校を卒業、高等科に一年進学し1924年に修了しました。
1924年、石川欽一郎は台北師範学校の志保田鉎吉校長に招かれ台湾に渡り、同校の絵画教師となりました。石川は台北師範学校に限らず、課外の時間を利用して学外者も参加できる「学生写生会」「台湾水彩画会」「暑期美術講習会」を開催。張万傳も縁があり台湾水彩画会に入会し、1927年11月の第1回水彩画展に出品しました。1929年、倪蒋懐が資金を提供し、台北の大稻埕円環近くに「台北洋画研究所(翌年、内容を変更し「台湾絵画研究所(会)」に改称)を創設。石川欽一郎を指導に招き、7月1日より学生募集を始め、大稻埕に住んでいた21歳の張万傳もこれに加わりました。
仲間の励ましを受け、東京で絵画を学ぶ茨の道に
台北洋画研究所では、石川欽一郎のほかにも、藍蔭鼎、倪蒋懐、陳植棋、楊三郎など、当時すでに日本の帝展や台展で入選していた画家たちが講師となり、生徒も台北師範学校の学生や卒業生が多かったため、張万傳の絵画への熱意が刺激されました。また、ここで張は同じ大稻埕に住む洪瑞麟や陳徳旺と知り合い、絵画の創作のみならず、人生においても互いに助け合うようになりました。洋画研究所の講師の一人である陳植棋は、東京美術学校の卒業生で「帝展」や「府展」での入選経験のある大画家で、東京美術学校での経験をよく学生たちに語って聞かせました。1920年代には多くの台湾人作家が日本の画壇で異彩を放ち、1927年には台展が開催され、台湾の新世代の画家たちが競い合う舞台となりました。講師の陳植棋に背中を押された張万傳、洪瑞麟、陳徳旺の3人は日本に留学し、絵画の腕を磨きました。
1930年、相次いで上京した3人は、陳植棋の紹介で専ら絵画の基礎を教える川端画学校や人体画を専門とする本郷絵画研究所に入り絵を学びました。しかし、3人とも「中学5年卒又は専門学校受験資格合格者であること」という東京美術学校の出願資格を満たしていなかったため、創立間もない私立の「帝国美術大学(現、武蔵野美術大学)」を受験することとなりました。実技重視の東京美術学校とは異なり、帝国美術学校では、芸術と政治・社会・命とを関連づけることを重視し、学生の思考を鍛え、前衛芸術の実験に意欲的に取り組むことに力を入れていました。1931年春、張万傳、洪瑞麟、陳徳旺の3人は合格しましたが、陳徳旺は入学手続きをせず、張万傳は、同校は文学と哲学の科目が多く絵を描く時間が少ないことから期待との違いを感じ、入学手続き後に入学をあきらめたため、実際に入学し卒業したのは洪瑞麟だけでした。
自分流の在野の道
学校をやめた後も東京に残った張万傳は、すべての時間を川端画学校や本郷絵画研究所での絵の習得に費やし、時折、最新の美術・文学情報を得るために外に出て、あちこちの展覧会を訪れていました。同じ頃、パリに留学していた佐伯祐三ら日本の若き画家たちが結成した「一九三〇年協会」は、時代に新風を吹き込み、前衛芸術の創造を提唱し、日本の画壇にフォーヴィズム旋風を巻き起こしました。 1933年の第11回「春陽会展」や「大阪美術同好会」には、非アカデミック派や在野派の作品が多数出品されました。既成概念にとらわれず、個性が強く、型にはまらず、野性的な画風に、張万傳はこれまでとは違った感覚を得ました。1934年、ヨーロッパ画壇のフォーヴィズムを代表する、フランス人画家モーリス・ド・ヴラマンクの展覧会が東京で開催されました。張万傳は展覧会に赴き画集を購入。フォーヴィズムの画風に触発され、自らもフォーヴィズムタッチの作品を制作するようになりました。
青年時代の張万傳
「台北洋画研究所」でのデッサンの様子。立っているのが石川欽一郎、右から洪瑞麟、張万傳、陳植棋
個性の強い若き日の張万傳のパイプ姿
台湾の美術における在野派
台府展の入選に対する肯定と迷い
川端画学校、本郷絵画研究所での修行が実を結び、1932年第六回台展で張万傳の作品《廟前の市場》が入選しました。
1930年から1937年にかけて、張万傳は親戚を訪ねるために中国のアモイを訪れ、当時有名だった「廈門美専」を訪れ、同じく台湾出身の黄連登、曹秋圃、謝国鏞らと出会いました。1937年には長期滞在し、アモイやコロンス(台湾日日新報でのアモイ紹介の挿絵)の中国風でもあり洋風でもある街並みや建物などが絵画のテーマとなりました。1938年、第一回府展の特選となった《コロンス風景》は、洪瑞麟が張万傳の台北の家で出品のために選んだ作品です。当時アモイにいた張は、まったくこのことを知らず、アモイの朝日新聞記者からそのことを聞かされたとのこと。その後、張万傳がアモイで制作した作品が、府展で次々と発表されていきました。例えば、1939年の第二回府展に入選した《コロンスの教会》、1942年の第五回府展の《廈門所見》、1943年第六回府展の《南方風景》は、いずれもアモイやコロンス、または南方の風景を題材にしたものです。
張の絵画は台府展で何度も受賞していますが、官展とフォーヴィストの画風の取捨に迷いがあったことは、張の絵画にも表れています。府展に入選したいくつかの作品で、張はワイルドで大胆な筆致を抑え、絵画の雰囲気を重視し、情感よりも思想に重きをおいた絵画構成にしています。しかし、同時期の他の作品では、スケッチの筆致で描いた油彩画や水彩画の作品を見ることができるのです。
1932年
廟前の市場
第六回台湾美術展覧会入選
1938年
コロンス風景
第一回総督府美術展覧会特選
1939年
コロンスの教会
第二回総督府美術展覧会入選
1942年
廈門所見
第五回総督府美術展覧会入選
1943年
南方風景
第六回総督府美術展覧会入選
昭和13年(1938年)12月11日、『台湾日日新報』に掲載された「コロンスの島」。挿絵は張万傳の作品《コロンス情趣》。「コロンスの島」では、コロンス島の風景が細かく描かれており、張万傳の描いたコロンス島の挿絵が記事にとても合っている。
〈コロンスの島〉 莊琮耀
事変以来私の覚えた支那各地の地名のうちで、コロンスの名は何か知ら支那離れした感じを与へられる、この島は共同租界で、各国の旗が支那家屋と云ふよりはむしろ西欧式の屋根の上にひらめいてゐる。併し一歩美しい建物の内に踏み入れば、やはり支那町の何処にもあり得るやうな特殊な臭みが感ぜられる。事実、各国の旗ひらめく屋根の下に住む主は、同じ町の泥棒市に暮すぼろ衣をまとつた支那人と同じ支那人である。この小さいコロンス島の狭い町通りは、骨董屋と食べ物屋が非常に多い。これも支那の各地の街に見られる風景である。骨董をもてあそび、世界一種類の豊富で美味い料理を食べてゐさへすれば、外の一切の事は関心をもたない人が多い
むさ苦しい町の店々を覗いて私は好きな“おもちや”の人形を探して歩いたが、おもちや屋がないばかりでなく、コロンスの唯一のおもちやたるはりこの虎が、雑貨屋のシヨウインド―につりさげられてゐる―と云つた実にひどい虐待ぶりである。之を見て私は急におもちやの少い支那の子供達の世界が淋しくてならなくなつた
あまりにも貧しき人の多いのと数少いけたはづれの金持ちしかゐない、この国の人々は自分の生れた土地にゐながら、他国の旗を立てなくては安心して暮して行けないのだ。この国の為政者は真剣な建設の努力をつづけてゐるが、かうした民衆の生活は、果していつの日世界の歩みに追随し得るであらうか、(挿絵は台展に「コロンス風景」を出品して特選となつたムーヴ展会員張万傳氏の筆になるコロンス情趣)
昭和14年(1939年)3月6日の『台湾日日新報』掲載の挿絵「廈門スケッチ.沙波尾の街」。
厦門スケツチ 張萬傳
◇沙波尾の街◇真昼の空はカラリと晴れてゐる。犬も通らぬ、この町の白い壁の色。赤い煉瓦の色が特に頭に残る。何処かの船の汽笛がかすかに聞えてくる
台陽美協を辞めムーヴ美術集団を創立
1934年11月に台陽美術協会(略称、台陽美協」)が設立され、1935年5月4日から12日まで台湾教育会館(現、二二八国家紀念館)で第一回展覧会が開催されました。この会は、台展で入賞した台湾籍の画家たちが、官展における日本籍の審査員の制約を受けることのない、自主運営の仕組みを作ろうと結成されたものです。1936年、張万傳、陳徳旺、洪瑞麟の3人は正式に会員となり、第二回展、第三回展に出品したのですが、3人は東京で見た「独立美協」の画家たちの独特の美学と台陽美協の芸術思想との間にギャップを感じ、自らの会を結成しようという思いを抱くようになりました。
1937年10月18日付けの台湾日日新報に「ムーヴ洋画集団 五氏が結成」という記事が掲載されました。張万傳、洪瑞麟、陳徳旺、日本に進学していた陳春徳、そして張万傳がアモイ滞在中に知り合った許聲基(戦後、呂基正と改名)が、正式に「ムーヴ洋画集団」結成したという内容のものでした。「ムーヴ」とは、フランス語の「Mouvement」の略で、「行動」や「運動」を意味する言葉です。1935年に張の東京滞在中のルームメイト藍運登が、前衛や若さを象徴する言葉として日本語で「ムーヴ」と命名したものです。後に、東京美術学校彫刻科に在籍していた黄清呈(「黄清亭」が画名)が加わり、「ムーヴ洋画集団」は「ムーヴ美術集団」と改称され、1938年3月19日から21日まで、台湾教育会館(現、二二八国家紀念館)で作品展が開催されました。 ムーヴ美術集団の創設趣旨は、招待状に「私達一同は造形芸術に対し若さ・熱情・明朗の意欲の下にムーヴ美術集団を結成」したと記載されています。当時の台湾日日新報によると、洪瑞麟の《東北の冬》、許聲基の《事務室》、陳春徳の《都会風景》、そして黄清呈の彫塑《顔》が出品されていたようです。
ムーヴ展終了後の3月23日、台湾日日新報紙上に当時の官展美術評論家野村幸一氏による「ムーヴ展評」が掲載され、張の作品は「色彩の麻痺状ですこぶる気になったのが張万傳の絵だが、マチエールの研究が足りないのが根本的欠陥ではなかろうかの疑問符が残る。水彩二点は技巧的に観ていい作品だった」と手加減無く批評されています。野村幸一氏は、張の作品を肯定的というよりは否定的に評価していましたが、しかし、これによって張やムーヴのメンバーたちが、ムーヴ創立の理念を崩すことはありませんでした。同年5月、張万傳、洪瑞麟、陳徳旺の3人が台陽美協を退会したことで、ムーヴは「台陽美協」とは異なる属性と主張をもつ美術団体となりました。8月には、張万傳、許聲基、山崎省三の3人による青天画会の三人展がアモイで行われました。10月に張万傳の作品《コロンス風景》が第一回府展の特選に選ばれたときには、張万傳は廈門美専の林克恭校長に招かれ、アモイで教職に就いていました。
1936年台陽美展は記者会見を開き作品の公開審査を行うとともに、南部の巡迴展を行った。台南での会員の集合写真。前列左から陳澄波、廖継春、楊三郎、後列右から謝国鏞、張万傳。
昭和10年(1935年)5月9日『台湾日日新報』漢文版の記事「台陽美術協会 開展覧会 假教育会館」。張万傳の《南華風景》及び《台南古城》の二作品が出品された。
「ムーヴ洋画集団」が1937年9月1日に正式に成立した際の記念写真。前列左から陳徳旺、許聲基、張万傳。後列左から洪瑞麟、陳春徳。
昭和12年(1937年)10月18日『台湾日日新報』の記事「ムーヴ洋画集団 五氏が結成」
ムーヴ洋画集団 五氏が結成
本島画壇の沈滞を一掃すべく、若さ・熱情・明朗を標榜に、モダニズム及純粋絵画への研究第一歩として、本島画壇の中堅作家洪瑞麟、許聲基、陳春徳、陳徳旺、張万傳の五氏に依つてM・A・Sムーヴ洋画集団が結成された、尚集団の第一回行動展は昭和十三年一月中旬を期し台北に於て開催される予定
昭和13年(1938年)ムーヴ第一回作品展の招待状。成立時のメンバーに黄清亭がいる。
御招待
榕樹愈々冴える頃皆様には一層御清適のことと大慶に存上げます。さて私達一同は造型芸術に対し若さ・熱情・明朗の意欲の下にムーヴ美術集団を結成して以来早、半星霜を過ぎました。
その間私達一同は互ひに相励み研究を重ねて些少の収穫をまとめましたので皆様の御高評を仰ぎ度く、こゝに未熟乍らも第一回作品展を開くことになりました
何卒万障御繰合せの上御来場、御叱正を賜はりますればと一同こゝろから御待ち申上げます
昭和13年3月 日
ト キ×3月19日→21日9時ヨリ5時マデ
バシヨ×台北教育会館
M.A.S.ムーヴ美術集団
同人 張萬傳 陳春徳 陳徳旺
許聲基 黄清亭 洪瑞麟
(ABC順)
事務所 台北市永楽町3ノ22(電5960)
会期中ハ会場内
1938年3月ムーヴ第一回作品展が台湾教育会館(現、二二八国家紀念館)で開催。教育会館前の看板で記念撮影。
1938年ムーヴ第一回作品展の会場(現、二二八国家紀念館)での記念撮影:上から、許聲基、張万傳、洪瑞麟、黄清呈、陳徳旺、陳春徳。
1938年ムーヴ第一回作品展会場(現、二二八国家紀念館)において、作品の前で記念撮影する張万傳。
1938年ムーヴ第一回作品展が開催された教育会館で、メンバーと懇談する塩月桃甫。左から、許聲基、張万傳、黄清呈、陳徳旺、洪瑞麟、塩月桃甫。
昭和13年(1938年)3月14日『台湾日日新報』の記事「ムーヴ洋画集団 第一回作品展 十九日から教育会館」。洪瑞麟の出品作品《東北の冬》も掲載。
ムーヴ洋画集団 第一回作品展
十九日から教育会館
明日の絵画への抱負と、造形美術の純粋化の下に、昨年結成された本島中堅作家の新人を網羅するムーヴ洋画集団第一回作品展は、洪瑞麟氏以下五名の会員に依つて三月十九日より二十一日迄、市内瀧口町教育会館に於て開催される事になつた
同展は嘗て本島画壇に於て試みられた事のない絵画の純粋性への第一歩を踏むものとして、特に期待されてゐる
昭和13年(1938年)3月21日『台湾日日新報』に掲載された許聲基のムーヴ作品展出品作《事務室》
昭和13年(1938年)4月14日『台湾日日新報』に掲載された陳春徳のムーヴ作品展出品作《都会風景》
昭和13年(1938年)3月16日『台湾日日新報』に掲載された黄清呈(黄清亭)のムーヴ作品展に出品された彫塑作品《顔》。
昭和13年(1938年)3月23日『台湾日日新報』掲載された、官展美術評論家の野村幸一による「ムーヴ展評」。
ムーヴ展評/野村幸一
台湾の画壇は疎通口のない泥沼だと、誰かが悪罵した事があるが、然し、第一回ムーヴ展は、六人の本島人作家の若さをもつて新鋭なる感覚を現はさうとする表現欲と造型芸術に生き、絶えざる意欲を唯一の生命とし、明日の絵画への完成を標榜してゐることから、刺激されるものが多々あつた
出品者も同一程度の技倆で夫々の個性が認められたが、その反面に於て、造型芸術を主眼とした作家の意識が、フオルムの上に於て形而上的にも形而下的にも何等得る処がなかつた、創造的なものへの憧憬はあるのだが、要するに形の上の美的要素の表現が曖昧であつた。造形芸術のマスクをつけたオブジエ(物体)のリアリズム化したモンスタと云つた結果である
強てダイナミツク的な手法は無くとも幻想的なメカニズム位の発散があれば良かつた、非造型的旧式美学へのアンチテーゼから解放される日が来ることを望む、これは苦言である
この会場でもつとも異色のあるのは洪瑞麟君の作品である。その芸術的立場にも独特の主張があり、絵画的要素を持つてゐる。「北への旅」は感傷的な手法であるが効果の上に於いて洗練されたものがある。「雪景」「老幼」等は、空間にもつと立体的表現を覗へばとも思つた、「五日市」其他の雪景には雪そのものの実質感の追求か足りないのはどうか、セザニアンな感覚とモチーフはこの作家を何処迄進展させるかは期待される問題である
ロマンチスト性薫陶が内面的に暴露して一種の安逸状態を現出してゐる許聲基君の作には、目ぼしいものがなかつた、デツサン程に絵面が構成されて行くことを望んで止まない、モチーフの扱ひ方も概念的である、がデツサンの良さは大に感心させられた、其他版画の「裸婦」はユニティな味のある小品であつた
陳徳旺君の「試作」は単調だが出来栄えはよい、但しメーチエに於て偶然効果をその儘生かさうとしてゐるのが目だつ、但しこれでは魅力的な仕事は出来ない事を認識する必要がなからうか、他の作品では「習作」にデフオルメーションをもつと鋭く表現したらばと思つた
自己過剰でもあるまいが、多角的な仕事をしてゐる陳春徳君の努力は敬服する。工芸の部にまで進出したのが、一寸面白いガラス絵を観せられて、大に感謝するが画の方は平面的な画面処理がいたづらにポスター染みた効果に堕してゐるのが惜しい、然し同君のポスターは悪くない、本島にあつても画家はこの大衆芸術である、商業美術を研究して、宜しく台湾宣伝の為に働いて貰ひたいものだと思ふこともある。だがそれは天分の有無で、解決されて行くことだから仕方がない
色彩の麻痺状で頗る気になつたのが張万傳君の絵だが、マチエールの研究が足りないのが根本的欠陥ではなからうかの疑問符が残る、水彩二点は技巧的に観ていい作品だつた
黄清亭君の彫刻は、本島の展覧会では珍らしいもので、確かに何か暗示させられるものがあった、作品は、リアル一つの習作にしか過ぎないもので、ブルーデルやロダン、マイヨールを引合して、今更喋々する程の作でもないが、この立体的作品が出品されてゐる事、それが全く嬉しかった、人物(A)(B)の絵も彫刻的技法の立体感覚が無意識のうちにも働きかけて、アカデミックな作としても親みあるものがあった
要するにこれ等六人の作家が素質的にももやもやした、何かを突破してゆく、力を持つて明日への明快なる設計獲得の希望を抱いてゐることは、愉快なことだ、これでは内地人作家もじつとして居られまい、大にやつて貰ひたいものだ、力(実力)と云ふものが凡ての解決であることが地球の上を見渡しても理解出来る、最後にこの事変下にあつても展覧会が開催され又観られると云ふ喜びを感謝する
ムーヴの発展と紆余曲折
1938年、張万傳は招かれて厦門美専で教職に就いたのですが、アモイに戦争の影響が及んできたことにより、学校は閉鎖され授業もほとんど行われなくなりました。香港に避難した林克恭校長をはじめ、教師や生徒も次々と避難、転校し、間もなく厦門美専は休校を余儀なくされました。1939年初めに台湾に帰国した張万傳は、倪蒋懐の瑞芳鉱山で働き、先に鉱山で働いていた洪瑞麟の同僚となりました。1939年、ムーヴのメンバーだった許聲基と陳春徳が台陽美協に入り、他のメンバーは出品こそしていませんでしたが、それぞれの創作活動で成功を収めていました。張万傳の《コロンスの教会》と洪瑞麟の《労働》は、ともに第二回府展に入選しました。
第二回府展に入選したことで、張万傳はプロの画家になることを決意し、1939年末に瑞芳鉱山を辞め、台南の友人の謝国鏞のところに身を寄せました。謝国鏞は台南の名家の出身で、その家系は財力も物資も豊富で、謝国鏞自身の絵画も台展に1回、府展に2回入選しています。美術の実力も侮れないものを持っており、ムーヴのメンバーでもあったことから、1940年に人物彫塑の《若人》が日本の帝展に入選した黄清呈とともに「ムーヴ三人展」を行うこととなり、1940年5月11日と12日に台南公会堂(現、呉園)で開催されました。昭和15年(1940年)5月13日に洪瑞麟が「ムーヴ連中」に宛てた葉書きの宛先の「望郷茶房」は、謝国鏞が1940年頃に、当時台南でもっとも賑わい、もっともモダンだった「台南銀座」や林デパートの近くに芸術家たちが集まり交流をしたり芸文活動ができる場所となるよう開いたモダンなサロン喫茶のことです。ここでは新鮮な魚料理が提供され、ここ「望郷茶房」のキッチンの「魚」は、張万傳のスケッチの最高の題材となり、後に張の作品の一大特色となりました。
当時はすでに第二次世界大戦が勃発しており、日本と英米諸国との関係も悪化していたことから、総督府は西洋文字の使用を禁止しました。このため、「MOUVE」は改名を余儀なくされ、これを機に改組し「台湾造型美術協会」が設立されました。第1回展は1941年3月1日と4日、台湾教育会館(現、二二八国家紀念館)において第一回の展覧会が開催されました。張万傳、洪瑞麟、陳徳旺、黄清呈、謝国鏞等の固定メンバーのほか、藍運登、東京美術学校木彫科の范倬造、台展審查員であり、台陽美協の創立メンバーであった顔水龍などが、油画、彫刻のほか、竹材利用の家具セット等の工芸品が出展されました。1942年、造型美協が台南の望郷茶房で非公式に行ったスケッチ展は造型美協としての最後の活動となりました。1941年12月、日本が真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が勃発し、物資が欠乏する中、キャンバスや絵の具などの画材を手に入れるのは非常に困難でした。1943年5月には「台湾美術奉公会」が設立され、画家は絵の具を手に入れるためには、この組織に入らなければなりませんでした。また、時局に応じるため芸術家は慰問のため絵画を寄付することになり、こうしたなか、張万傳は台南の謝国鏞宅に閉じこもっていました。造型美協のメンバー黄清呈は、1943年3月、東京美術学校を卒業し台湾に戻る途中、乗船していた「高千穂丸」が米軍の魚雷攻撃を受けて撃沈したことで亡くなってしまいました。1944年、府展は中止となり、造型美協も活動を停止しました。張万傳は軍に入隊し、絵が得意だったことから、軍事用の絵を描く部門に配属されました。1945年8月、日本が降伏し戦争は終わり、日本の台湾統治も終わりを告げました。張の二番目の弟は南洋で戦死し、父親も亡くなったことから、生活は苦しくなりました。1946年、台北の建国中学校の張耀堂校長に招かれ同校で教職に就きましたが、教員が足りなかったため、体育と訓導も担当することとなりました。
1939年、張万傳と洪瑞麟が瑞芳鉱山で休憩しているときの写真。
昭和14年(1939年)10月17日,陳春徳が瑞芳柑仔瀨瑞芳一坑分坑の張万傳と洪瑞麟宛てに送った葉書。
前略 (徳旺兄の作品、額縁が大体完成)
新しく開催されんとする新台展の秋 搬入日の眼前に迫り 両兄にはますへ御精 励中のことゝ思ひます 何卒最善を尽して下さい 台陽展の連中はまだもめてゐるやうです
小生数日間遊びに帰つて来ましたが 歩き過ぎた為 身体の調子悪く 本日また新北投へ戻ります
それから 本日高橋惟一氏からハガキが来て 来る廿日の便船で上京する由
両兄によろしくとのこと、若しお見送りに行つたら 私からもよろしくと一言頼みます
いづれ両兄と懐かしく会ひませう
張万傳が瑞芳鉱山をやめる前日に、瑞芳一坑の同僚と撮った送別記念写真。前列右から4人目が張万傳、最後列の右端が洪瑞麟。
昭和15年(1940年)5月13日、瑞芳柑仔瀨瑞芳二坑(元の一坑分坑)で働いていた洪瑞麟が台南の「ムーヴ連中」に宛てに送った葉書。
展覧会のお伝手〔手伝〕出来なくて
失礼へ。会の状況如何。
諸兄は何時帰北するか。お知せ願います。台陽展は今度研究所を開くことを倪様よりきいた。翁様廖様達によろしく。翁様のところにある、小生の作はいづれきっと修補出来ると思ふからくれべもよろしく。
昭和16年(1941年)3月1日『台湾日日新報』掲載の記事「台湾造型美術展」。
台湾造型美術展
本島洋画壇の中堅作家を中心とした“台湾造型美術協会展”が一日より三日に亙り毎日午前九時より午後五時まで台北教育会館で開催される、陳列作品は彫刻二十五点工芸品二十五点その他油絵三十余点であり特に白衣の勇士達の肖像画五十点が壁面を飾ることになつてゐる、同展は従来ムーヴ美術集団と称し、張萬傳、陳徳旺、顔水龍、范倬造、黄清亭、洪瑞麟、藍運登、謝国鏞の諸氏で結成されたもので今回名を新たにし新しき明日の画壇への発足を志す意欲に燃えた青年作家集団で相当期待されるものがあると云はれてゐる
昭和16年(1941年)3月3日『台湾日日新報』掲載の記事「造型美術展けふ限り(造型美術展今日限り)」。美術展に出品された彫刻と工芸品の紹介。
造型美術展けふ限り
目下台北教育会館で開催中の本島中堅作家を中心とした“台湾造型美術協会展”は頗る好評を博し、陳列の彫刻並に工芸品には見るべきものがあり、顔水龍氏の竹材利用家具セットは本島産出の竹を使用したもので注目されてゐる、その他絵画には白衣の勇士達の肖像画五十点も力作が多い、尚同展は三日限りである
昭和16年(1941年)3月4日『台湾日日新報』掲載の「造型美術展日延べ(造型美術展会期1日延長)」。非常に好評を博しているため、3月3日までの会期を3月4日に延長するという記事。
二・二八事件の陰鬱と転機
建国中学での教員生活と二・二八事件後の転機
張万傳は、1946年から建国中学で体育と訓導を担当することとなりました。大柄でスポーツ熱心な張は、建国中学の生徒たちのためにラグビーチームを結成し、彼らを率いて中華民国第一回ラグビー大会で優勝しました。
翌年の1947年2月28日には二・二八事件が発生しました。事件が起こった台北市をはじめとして民衆によるデモや抗議行動、ストライキやボイコットなどが行われたため、学校は安全のために休校措置を取りました。デモや抗議には多くの学生が参加し、建国中学の近くにある専売局の本局も建国中の学生たちの抗議の対象となりました。張万傳の教え子で、現在台北保安宮董事長を務めている廖武治氏によると、張万傳は二・二八事件の発生について学生に話をした際に、同校の化学の教師に化学実験室にあった物を使って即製爆弾を作ってもらい、それをデモで使うように学生に渡したとのことです。もちろん国府軍の機関銃には敵うわけもなく、学生たちは抵抗に失敗して逃げ、学生たちを支援していた張万傳も、自分自身が逮捕リストに載るのではないかと心配するようになりました。加えて、建国中学の陳文彬校長が「内乱罪」に問われ、逮捕・拘留され、同校の教師だった王育霖も3月14日に自宅で国府軍に逮捕されて以降、行方不明になりました。学校の同僚で廈門美専の友人でもある曹秋圃の強い勧めにより、張は危険を避けるために避難することにしました。まず、祖父の家がある草山公館に身を隠し毎日のように山に下り、事態が収まったかどうかの状況を確認していました。3月中旬になると、国府軍が「綏靖布署(平定措置)」を始め、武力鎮圧や「清郷(粛清)」、戸籍の精査を行い、怪しい行動を起こした者の捜査逮捕を進めたため、張万傳は台北の金山で医者をしていた一番上の弟の所に身を寄せました。金山に隠れていた頃は、魚を捕り生計を立て、絵を描くことはほとんどなかったため、此の頃の作品はあまりありません。縁あって、弟の診療所で働いていた許寶月女史と出会い、二・二八事件の不穏な時局が収まった1949年に結婚しました。
1947年二・二八事件当時 建国中学の教師、生徒の受難一覧
姓名:王育霖
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詳細:日本統治時代に台湾人として初めて京都地方裁判所の検察官となった。戦後、台湾に戻り新竹地方法院検察官となるが、新竹市長郭紹宗の汚職案件を担当したことで辞職し、台北に転居。建国中学及び延平学院で教職に就く。1947年、二・二八事件の際、同年3月14日午後3時に自宅に訪れた国府軍によって理由もなく逮捕され、今日まで生死不明。
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事件後:行方不明
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備考:建国中学教師
姓名:陳文彬
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詳細:本名陳清金。高雄出身。台中一中卒業後、進学のため日本に渡る。1931年、法政大学を卒業。上海の復旦大学、法政大学で教鞭を取る。1946年に台湾へ戻り、台北市立建国中学の校長となり、日本に進学していた台湾籍のエリート等を同校に教師として招く。その後、宋斐如に請われて『人民導報』の編集長も務める。1947年、二・二八事件の際に「内乱罪」に問われて逮捕、50日余り拘留された。1947年7月、一家で中国の北平へ転居、定住する。
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事件後:拘留
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備考:建国中学校長
姓名:黄守義
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詳細:1947年、二・二八事件発生時、建国中学の生徒だった。同年3月10日、買い物に出たところを理由もなく国府軍に銃殺される。
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事件後:死亡
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備考:建国中学の生徒
姓名:郭国純
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詳細:1947年二・二八事件発生時、建国中学の生徒だった。同年3月10日、理由もなく国府軍に逮捕され、約3ヶ月拘留され、拷問を受ける。
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事件後:拘留
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備考:建国中学の生徒
姓名:郭国長
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詳細:1947年二・二八事件発生時、建国中学初中部の生徒だった。同年3月1日、学校へ登録に出かけ、帰宅途中の延平北路と中華路の交差点で、理由もなく国府軍に銃撃され負傷。学籍も失う。
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事件後:負傷
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備考:建国中学初中部の生徒
姓名:呉沃熙
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詳細:1947年二・二八事件発生時、建国中学の生徒だった。同年3月1日、公館路を歩いているところを、理由もなく国府軍に逮捕され、約4ヶ月拘留され、拷問を受ける。
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事件後:拘留
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備考:建国中学の生徒
姓名:李徳昌
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詳細:1947年二・二八事件発生時、建国中学の生徒だった。学生聯盟自治会の幹部で、地方秩序の維持を手伝っていたため、同年3月、国府軍に「共産党員」の疑いで逮捕され、約2ヶ月拘留される。
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事件後:拘留
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備考:建国中学の生徒
1946~1947年、建国中学の教職員との集合写真。立っている左端が張万傳、前列右から4人目が曹秋圃。
建国中ラグビーチーム第一回全省ラグビー大会に参加。台北新公園(現、二二八和平紀念公園)での記念集合写真。中段に立っているのが陳文彬校長、その隣りが張万傳。
1951年台湾省第六回運動大会。張万傳が引率した大同中学ラグビーチームの生徒との記念写真。
休むことのない絵画人生
二・二八事件において国民政府軍は全ての反対の声を軍事力で鎮圧しました。張は、事件翌年の1948年に台北市大同中学校で教職に就き、美術と体育の教師となりました。1950年、家計を補うために延平高級補習学校でも掛け持ちで教えていました。1964年、国立芸術専科学校美術科夜間部の教職に就いた頃、家庭を持ったことで経済的な負担が大きくなったため、創作作品の数にも影響が出ました。1959年には八七水災で多くの作品がだめになり、家賃を払うために学生の助けが必要になっても、張の絵への情熱は変わりませんでした。生活が安定してきた1966年以降は、鹿児島や台北の中山堂、画廊で個展を開催したり美術展に参加したりしました。1975年、すでに67歳になっていた張は教職を辞し、1年以上かけてヨーロッパへスケッチ旅行に出かけたほか、日本やアメリカ等へも赴き、旅の途中で見た風景をスケッチしたり記録したりしていました。台湾に帰国後、個展を開催し、1990年代に80歳を過ぎるまでは盛んに創作活動をおこなっていました。2003年1月12日、老衰のため、自宅で息を引き取りました。享年95歳でした。
張万傳は日本統治時代、二・二八事件、戒厳令の時代を生き抜いてきましたが、張自身が二・二八事件で逮捕される恐れがあったほか、造型美術協会の范倬造も二・二八事件が原因で海外に逃亡しました。張の教え子で芸専の助教だった呉宇忠は、白色テロで投獄されています。このような時代を生きる中でも、張は誇りを持って創作の理想を追求するために努力を続け、台湾近代美術史の一頁を残したのです。
左から陳徳旺、学生の孫明煌、そして張万傳。1950年代、淡水でスケッチをしている写真。廖武治氏によると、写生は一日中行われ、張万傳は20数枚スケッチし、帰宅後、一枚ずつ絵の具で仕上げていたとのこと。
1960年代、張万傳一家の家族写真。写真の撮影者は張万傳の学生の廖武治氏。
1968年、張万傳が60歳の時に書いた自伝。家族のこと、仕事、経歴、絵画を学んだ経緯、そして、良き友の洪瑞麟、陳徳旺、周春江、楊三郎についても書かれている。最後に、当時の「時局」を反映して、「攻め返って中国を取り戻し、各地の名跡を訪ね写生をしたい。」と書かれている。
85歳の張万傳。出かけるときは、相変わらずスケッチブックと絵筆を持って行く。魚のケースの所でスケッチをしている様子。