展示
企画展|彼らの時代:1930~1960年代映像展
更新日:
2018-12-10
はじめに
それぞれの時代の記憶
1930年代から1960年にかけての台湾では、日本統治、第二次世界大戦、そして国民政府軍により接収されたことで統治権者が変わるなど、戦争や台湾社会を揺るがす出来事が起こりました。繁栄した生活や美しい建物は戦争によって破壊され、戦後は急に統治権者が変わったことで、人々のアイデンティティーは混乱し揺らぎました。
著名な写真家や一般の人々が、カメラのレンズを通して、この時期の台湾の貴重な歴史的記録を残しています。台湾を統治した日本や国民政府もまた、それぞれの目的のために、台湾に関するさまざまな記録や宣伝映像を撮っています。こうした映像は、特定の時空を切り取ったものでしかなく、当時の様子を完全に再現することはできませんが、この時代の歴史を伺うため切り口になることが可能です。今日、当時の宣伝色の濃い映像を見てみると、やや馬鹿げて見えるかもしれません。しかし、それでも当時の環境や生活の様子をうかがい知ることはできるのです。
展示では、写真等の静態記録と映像等の動態作品を通し、日本統治時代の台湾の庶民のあれこれ、戦時中の動員、爆撃で崩れてしまった建物や戦後の厳しい社会環境などを紹介することで、台湾がたどってきた激動の時代を明らかにします。
1930年代 日本統治下の台湾
1930年代になると、日本は台湾を「日本の農業生産基地」とするためのインフラを整備していきました。国勢調査や土地調査も一通り終わり、主な交通インフラとしては、基隆・高雄間の西部縦貫鉄道も開通して10年以上経っていたほか、港湾建設や日台を結ぶ「内台航路」の運行により、日本の製品と台湾の物資の流通が加速され、経済発展にしっかりとした基盤が築かれていきました。民生用のインフラとしては、嘉南大圳や日月潭水力発電所が相次いで完成したことで、農業生産量が増加したほか、新興工業への豊富で安価な電力が供給されることとなりました。こうして、この時期の台湾社会全体の秩序は、日本の領台初期より安定したものとなっていました。
1930年代の日常風景の写真で、籠のバナナが基隆港岸壁で日本への船積みを待っているところです。日本統治時代、台湾のバナナは大量に日本へ移出されていました。初めは台中州産が最も多く、産地は大屯、員林、豊原、南投でしたが、1926年以降は、次第に生産の中心が高雄に移り、年間生産量は約15万1250トンでした。基隆から高雄までの西部縦貫鉄道が開通して10年経ち、基隆港と直接つながったことで移出入される物資の流通が滞りなくできるようになっていました。(『台湾世紀回味・Vol. 1 時代光影 1895-2000』)
1930年代の栄町(今の博愛路と衡陽路の角)は、日本統治時代の台北において最も繁栄した地域で「台北銀座」とも呼ばれ、病院、銀行、茶荘、書店等の商店が立ち並びました。当時、日本人は栄町に、台湾人は大稻埕や万華一帯に多く住み、北門を出て大稻埕へ行くと、別の賑やかな街が現れました。(王佐栄編著『帝国興亡下的日本・台湾』)
安定した社会の発展
霧社事件発生後、台湾総督府による苛烈な鎮圧が行われ、左翼団体への締め付けも厳しくなったため、大規模な武装抗日闘争は見られなくなりました。この頃、台湾の市街地は道幅が広くなり繁栄していました。百貨店が相次いで開業し、台北公会堂(今の中山堂)、台湾総督府博物館(今の国立台湾博物館)、新公園(今の二二八和平記念公園)等、人々が集まって活動や憩う場所ができていきました。一方で「皇民化」運動が展開され、国語運動(日本語を常用語とする)、改姓名、志願兵制度、宗教や社会風俗の改革等の政策が実施されました。統治者には、こうした政策を通して、台湾の人々に日本統治を認め支持させる狙いがあったのです。
1942年、栄町一丁目前(今の衡陽路と重慶南路一段交差点)、紀元節(建国記念)を祝うパレードの様子です。左側に「辻利茶鋪」の看板が見え、市営バスも走っており、路上には「左側通行」の道路標示が見えます。1912年、台北ではバス営業が始まり、1931年には全台湾のバス業者は168社を数えました。バス事業の発展にともない、台湾総督府は各州の道路整備を始め、1936年には全島道路のアスファルト舗装が計画的に始まり、1945年には台湾一周道路3,688キロが、各市街庄道路では13,995キロの道路舗装がなされていました。(李火増撮影 夏門攝影企画研究室提供)
1936年、総督府営繕課長、井手薰の設計により、市民が集まる場所として「台北公会堂」(今の中山堂)が建設され、非常に多くの歴史的な瞬間に立会いました。写真は、1940年「日本皇紀二千六百年」を祝うパレードが終わった台北公会堂前の様子で、女性は和服に草履、男性は胸元にポケットチーフを入れたスーツ姿です。この20世紀初頭の英国紳士の基本的なスタイルからは、西洋の影響を受け始めていることが見て取れます。(李火増撮影 夏門攝影企画研究室提供)
1932年、日本人が出資した台湾初のデパート、菊元百貨店(今の台北市博愛路148、150号)、が栄町に開業しました。菊元には当時としては珍しい「流籠」と呼ばれるエレベータがあり、和洋雑貨が売られていたほか、食堂や遊園地、展望台もあり、遠くを眺めることができました。モダンな7階建ての菊元は、台湾総督府に次ぐ台湾で2番目に高い建物でした。写真は、1942年に菊元百貨に掲げられた「祝建国祭」の垂れ幕です。(李火増撮影 夏門攝影企画研究室提供)
1930年代。制服に制帽、下駄を履き自転車に乗っている青年たちの左後方に菊元百貨が見えます。日本統治時代の高等学校の制服、制帽は栄誉の象徴でした。制帽に白線が3本入っているのが台北帝大生で、2本なら台北高校生と、白線の本数で学校を見分けました。(『台湾世紀回味・Vol. 2 生活長巷 1895-2000』)
写真家の鄧南光氏が撮影した太平町(今の大同区延平北路一段から三段のあたり)の光景。日本統治時代の太平町は商業の街として栄え、文化の香りも高く、台湾の四大酒家(蓬萊閣、東薈芳、江山楼、春風得意楼)も1キロ四方にありました。写真の深いスリットが入った旗袍を着ている女性は、多くが酒家で働く「芸旦」(芸者)です。酒家は、戦前は台湾人の社会運動の拠点で、戦後は台湾近代社会に大きな影響を与えた二二八事件発祥の地となりました。(鄧南光撮影 夏門攝影企画研究室提供)
国民学校の授業風景。1937年に皇民化運動が推進されると「国語は皇民精神の母胎」であり、愛国精神を持つ人材を育てる基本とされ、学校教育から台湾語の授業がなくなりました。教室には大きく「同胞相愛」、「献身報国」と貼られ、戦時下であることが明白です。(王佐栄編著『帝国興亡下的日本・台湾』)
「皇民化」運動の影響下、多くの「国語家庭」が誕生しました。写真は、1940年の北港で、台湾の姓「簡」から日本の「神田」に改姓名した家族のものです。
日本の領台初期、台湾社会では、日本語の学習があまり盛んに行われていませんでした。1937年の時点で生活で日本語を使用していたのは、総人口の37.38%に過ぎませんでした。日中戦争勃発後、日本は「皇民化」政策を推進し、台湾の人々の愛国心や犠牲となる精神を養い戦争に備え、台湾人の母語を抑圧し、日本語を推進する「国語運動」を展開しました。「国語家庭」として認められると、公の機関に優先的に採用され、日本人が多い小学校への進学にも有利でした。1942年当時、台湾全体における国語家庭は、当時の人口の約1.3%でした。(王佐栄編著『帝国興亡下的日本・台湾』)
文化的な活動が盛んに
日本統治時期に台湾の人々は多くの新しい概念やものに触れ、文化的な活動も盛んになりました。民間の祭りや野球、相撲、そして競馬など、さまざまなレジャーが行われるようになりました。また、台湾総督府の伊沢修二が帝国教育会において「有用な学術」を提唱し、台湾において「図画」や「音楽」、「教育」に力を入れていたことから、「台湾美術展覽会」、「台陽展」、「台湾文芸聯盟」、「台湾新文学社」等のさまざまな活動や文化団体が雨後の筍のように次々と現れました。こうした芸術家や文学者たちは、日本や台湾で目覚ましい活躍をするようになりました。
「望春風」の作詞を手がけた李臨秋が黒美人大酒家(延平北路と南京西路の角)での食事後、歌っている様子。李臨秋は、大稻埕で知られた劇場「永楽座」で働いていたこともあります。永楽座ではよく、京劇、南北管、台湾語の映画が上演され、太平町(今の延平北路)の「第一劇場」では、多くが日本語による上演でした。(李修鑑氏提供)
純純(右端)と愛愛(右から3番目)は、1930年代の台湾流行歌手。純純が歌った「桃花泣血記」「雨夜花」は、今でもよく知られています。当時の名曲「跳舞時代」で歌われた「私たちは新しい時代の女性よ どこへ行こうと自由だわ 気ままで自由自在 世の中のことなんかに構わない」という歌詞から、新時代の女性たちが憧れた社会の雰囲気がわかります。(『台湾世紀回味・Vol. 3 文化流転 1895-2000』)
1935年、新竹の北埔慈天宮広場で上演中の「平安戲」。毎年旧暦の8月、秋の収穫の後の「平安戲」は、客家の集落にとっての一大行事です。お供え物や平安戲は、神様に楽しんでいただくほか、収穫までの苦労をねぎらという意味もあります。この写真は、東京から帰省した鄧南光氏が祖父母の家の2階から撮影したものです。(『平安戲』〔1935〕鄧南光撮影をデジタル化。31.5 x 47.5 cm,台北市立美術館収蔵)
1938年から1942年、永綏街を通る台湾神社祭の神輿。1937年、皇民化運動が始まり「宗教・社会風俗改革」が推進されると、政策的に神社の建設が進められ、日本の国家神道を台湾在来の宗教に取って代わらせるために、地方の寺廟の整理、廃合が行われました。「寺廟整理」は強力に推進される中、強烈な反対を受け中止されましたが、台湾の寺廟や齋堂は大幅に減少しました。(李火増撮影 夏門攝影企画研究室提供)
「五月十三人看人」——毎年旧暦の5月13日、「大稻埕霞海城隍廟」では、城隍爺の誕生日を祝い神様が練り歩くため、通りは人であふれます。日本統治初期には禁止されたこともありますが、後に、伝染病が跡を絶たず神様に助けを求めるために解禁されました。1937年、皇民化運動が推進され「宗教社会風俗改革」が行われると、台湾の伝統的な宗教活動は抑圧され、写真のような賑やかな光景は見られなくなりました。(国立台湾歴史博物館収蔵)
日露戦争に至るまで幾多の戦争を経験した日本政府は、軍馬の重要性を認識し改良計画を実行しました。競馬の振興も馬の改良の一つとされました。1928年、台北圓山運動場で、初めて馬券が売られ競馬が行われました。台北以外では、新竹、台中、嘉義、台南、高雄、屏東にも競馬場がありました。写真は、1942年の北投競馬場(今の国防大学政治作戦学院)の様子。(鄧南光撮影 夏門攝影企画研究室提供)
1935年、台湾教育会館(二二八国家記念館)で「台陽美術協会」による第一回「台陽展」が開催されました。これは、官主導で開催された「台湾美術展覽会」とは別の美術展です。写真は右から陳澄波、李梅樹、陳春徳、陳植棋の未亡人と子供たち、楊三郎、許玉燕夫婦と娘たち、李石樵。(楊三郎美術館提供)
1937年、第三回「台陽展」台中移動展の会員歓迎座談会。前列右から洪瑞麟、李石樵、陳澄波、李梅樹、楊三郎、陳徳旺。(財団法人陳澄波文化基金会提供)
1897年という早い時期から、相撲は台湾で行われていました。各地の学校や街の力自慢の若者たちは、相撲の稽古や試合をしました。1940年から1945年、台湾の原住民の力士が日本で「幕内」に昇進したことがあり、これは台湾出身の力士の番付では最高位です。(鄧南光撮影 夏門攝影企画研究室提供)
台湾文芸聯盟は1934年に、台湾で最も早期に結成された全島規模の文学団体。会員は各地域にまたがっています。「文芸大衆化」を主張し、文芸活動にとらわれませんでした。出版誌『台湾文芸』の表紙には、陳澄波、顔水龍等の画家による挿絵がよく見られます。台湾の外との交流もよく行われ、日本統治時代に台湾人が創刊した文芸雑誌の中で、最も寿命が長く作家も多い影響が大きかった出版物です。(『台湾世紀回味・Vol. 3 文化流転 1895-2000』)
台湾博覽会
1935年、台湾総督府は、台湾統治40年の実績を広く宣伝するため、地方の名士や民間企業とともに「始政四十周年記念台湾博覽会」を開催しました。総督府は、台湾を日本の植民地統治の成功モデルとし、大規模な展示館を設け展示を行うことで、日本政府の植民地統治能力を示すとともに、日本内地の資本や外国資本の台湾への投資を呼び込もうとしました。
台湾博覽会は台北市を主会場とし、地方には分館が置かれました。台北市には会場が3ヶ所と分場が1ヶ所あり、第一会場は台北公会堂周辺の約13,000坪の土地に、台湾の産業(土木交通、製糖、鉱山、林業等)をテーマとした展示館や、朝鮮館、満州館が置かれました。第二会場は新公園の約24,000坪の土地に、日本の植民地統治開始以来の台湾の社会文化の発展がわかる展示館と日本各地の展示館が置かれました。第三会場は草山温泉一帯に台湾観光を宣伝する観光館が置かれました。そして、敷地面積4,000坪の「南洋の雰囲気」あふれる大稻埕分場では、日本の南進政策の現況と今後の目標が展示されました。
1935年「始政四十周年記念台湾博覽会」の鳥瞰図で、当時活躍していた鳥瞰図絵師の吉田初三郎が描いたものです。左上には台北公会堂(今の中山堂)が、下のほうには現在の二二八和平記念公園野外音楽堂と第一文化施設館(今の国立台湾博物館)が描かれています。(国立台湾歴史博物館収蔵)
第一会場の北門入口です。会場の「交通土木館」では、日台と世界の交通発展概況や都市地下鉄工事が紹介されました。土木では、模型を使い地震が構造に与える影響が展示されました。このほか、台湾電力、中央研究所等の成果を展示する「興業館」や台湾の各資源を紹介する産業館、糖業館、鉱山館等がありました。(王佐栄編著『帝国興亡下的日本・台湾』)
台湾博覽会第二会場の台北新公園(今の二二八和平記念公園)には、第一、第二文化施設館が置かれました。両館のテーマは公衆衛生政策の成果、漢人衛生習慣の確立と原住民の統治状況でした。写真右は企業の出資による森永ミルクキャラメル館です。(王佐栄編著『帝国興亡下的日本・台湾』)
博覽会会場が市の中心に置かれることで大稻埕が軽んじられないよう、地元の名士等は連名で第三会場を大稻埕に置くよう求めました。そこで、総督府は南進政策とその後の目標をテーマとする「南方館」(タイ、フィリピン、福建省特産物を紹介)の会場を大稲埕に変更しました。地元の名士等は、媽祖の巡行、京劇の名女形梅蘭芳と京劇団を招き、台湾人参観者の動員に努めました。(王佐栄編著『帝国興亡下的日本・台湾』)
博覽会第二会場の「第一文化施設館」(今の国立台湾博物館)では、台湾統治後の教育成果、失業、貧困対策等の社会問題が展示されました。(王佐栄編著『帝国興亡下的日本・台湾』)
博覽会の期間中、官民合同で組織した台博協賛会と万華秋季祭典委員会は、北港朝天宮の媽祖を台北へ招き、11月17日「艋舺青山王秋季祭典」の日に、大規模な媽祖巡行を実施しました。台南、嘉義、基隆から大小合わせて50余りの団体が練り歩きました。写真は媽祖の巡行が総督府(今の重慶南路、衡陽路の交差点)近くを通っている様子。(王佐栄編著『帝国興亡下的日本・台湾』)
博覽会の期間中、「台北検番芸妓連」が新公園の野外音楽堂で「台博踊り」を披露しました。芸妓は芸旦とも言い、舞台での伝統劇、詩歌の吟詠に長けており、俗に「芸旦を見ずして、大稻埕を語るなかれ」と言われました。日本統治時代の文人たちの会合には、よく芸旦が同席していました。(王佐栄編著『帝国興亡下的日本・台湾』)
台湾への観光客を誘致するため、台湾博覽会の第三会場には「観光館」が置かれ、1階で台湾の南北の観光スポットを紹介、2階の休憩室からは北投の風景が一望できました。このとき、士林から草山までの11キロの道路が整備され、台北・草山間の走行時間が大幅に短縮されました。台北(北投経由)からバスで草山へ、または台北(士林経由)から直接草山への直通バスが走り、風景が楽しめました。写真は、直通バスの北投のバス停と時刻表です。(王佐栄編著『帝国興亡下的日本・台湾』)
戦時下の台湾
1941年の太平洋戦争勃発前の台湾は、まだ本格的に戦火が及ぶことはありませんでしたが、台湾を日本内地の延長と捉えていた日本政府により、台湾人も戦争のための準備が求められました。戦時色が色濃くなるにつれて、学校や町では老若男女幼の別なく動員が始まりました。空襲に備えた防空・防火演習や物資の供出、前線に派遣する志願兵の募集など、台湾社会はしだいに慌ただしく不穏な戦時体制へと移行していきました。
1942年の台北「城西」(今の万華区)での防空演習の一コマ。(王佐栄編著『帝国興亡下的日本・台湾』)
1940年代、青年たちが消防団員の指導の下、台北で行ったバケツリレーでの消火訓練の様子。(鄧南光撮影 夏門攝影企画研究室提供)
大規模な防空・消火演習
日本政府は、太平洋戦争が勃発したら、戦争の最前線として重要な戦略的地位を占める台湾にも戦火が及ぶことを予想し、「消防組」を「消防団」に改組し、街の各集落で結成された「隣組」を使い、各地の人々の動員を積極的に始めました。各地では防空・消火演習が行われ空襲に備えました。
来たるべく空襲や大火に備え、「消防団員」に消火演習を指揮させました。写真は、台北「城北」(今の中山、大同区)で消火演習を行っている「隣組」の様子。(王佐栄編著『帝国興亡下的日本・台湾』)
前線への物資供出・支援
日中戦争勃発後、日本は多くの軍隊を海外に送ったため、巨大な軍事費が必要となりました。そこで、日本政府は『国家総動員法』を制定し、あらゆる「人的」および「物的資源」を「統制運用スル」大幅な権限を政府に与えるとしました。こうした政策や社会の雰囲気の下、台湾では民間による「供出」が始まり、軍機や軍艦の建造のために人々はお金や物資を供出しました。また、「愛国婦人会」台湾支部の活動に見られるように、社会団体による銃後支援活動も行われるようになり、物資の供出のほか、兵士の食料の準備、前線への慰問袋の作成、衣服の縫製などの支援活動を行いました。
1937年~1945年、台湾「愛国婦人会員林支部」の会員が中国戦線への出征兵士のために「梅干」を作っている様子。(王佐栄編著『帝国興亡下的日本・台湾』)
「愛国婦人会台湾支部」が海軍に寄贈した「九六式」艦上戦闘機。1932年以降、台湾製糖、保甲と壮丁団、台湾水陸組合、台湾鉱業、台湾電力などから陸海軍に寄贈された軍用機は30機以上に上ります。(王佐栄編著『帝国興亡下的日本・台湾』)
1940年代の「台北老松公学校」の父兄会と学区周辺の隣組が寄付を呼びかけ講堂いっぱいに集まった華北前線の日本軍に送られる慰問袋。(王佐栄編著『帝国興亡下的日本・台湾』)
1941年、台北の栄町(今の衡陽路一帯)で軍艦建造の献金を呼びかけている様子。(王佐栄編著『帝国興亡下的日本・台湾』)
1940年代の台湾は、皇民化運動の影響下にあり、大詔奉戴日、陸軍記念日、海軍記念日等の戦争関連の記念日には、街頭で募金箱を持ち通行人に、軍機や軍艦を製造するための国防献金を呼びかける様子が見られました。こうした募金活動の多くは婦人会が行っていました。(王佐栄監修『南方的拠点』)
決戦に備えた軍事訓練
日本内地の延長であり、戦火の第一線に置かれた台湾では、連合軍による総反撃が行われるようになると「台湾決戦」という戦闘意識がみなぎってきました。青年たちにより「青年団」が結成され軍事教練が行われたほか、学校教育の内容も大きく変わりました。軍事に関する教科は「必修科目」となり、軍事教練が行われました。日本本土では、1945年6月に『義勇兵役法』が公布されると、全国の男女により国民義勇隊が組織され、女性も武器を持ち決戦に備えました。
1945年、『義勇兵役法』が公布され、全国の男女により国民義勇隊が組織され、女性も戦闘訓練を受けました。(王佐栄編著『帝国興亡下的日本・台湾』)
戦火が逼迫してくると、日本の伝統的な武術が、台湾の国民学校でも取り入れられるようになり、男子は剣道を、女子は薙刀を扱いました。写真は1940年代の「樺山国民学校」の女子生徒たちが薙刀を練習している様子。(王佐栄編著『帝国興亡下的日本・台湾』)
1944年、万華の龍山寺前の広場での「国防訓練大会」で競技を行う「青年団」の団員。(王佐栄編著『帝国興亡下的日本・台湾』)
1940年代の戦争後期になると台湾でも連合軍による爆撃が連日行われるようになりました。女学生たちは授業中でも、救護袋や防毒マスクを身近に置き、いつでも対応できるようにしていました。(王佐栄編著『帝国興亡下的日本・台湾』)
台湾青年も前線へ
「皇民化」運動や戦争の影響下にあり、台湾社会においても日本軍の戦勝を祝うパレードが何度も行われました。戦況が悪化するに従い兵の補充が必要となり、台湾では1942年より「陸軍特別志願兵」および「海軍特別志願兵」の募集が始まり、多くの台湾青年たちが前線へと送られ、戦争末期の1945年には、台湾でも全面的に徴兵制度が実施されました。厚生省の統計によると、日本の敗戦までに、台湾から合計20万7,183人が前線へ送られ、そのうち3万304人が戦死しました。
大戦末期、日本軍の戦況は急を告げ、兵力が不足し、台湾では全面的な徵兵制が実施されました。戦地に向かう青年を送る盛大な壮行会が行われ、勇ましく栄誉な言葉で送り出すことで、より多くの台湾青年に出征を促しました。写真は、中壢の名望家庭出身の呉鴻麒氏(手を振っている)の街頭での壮行会の様子。(王佐栄編著『帝国興亡下的日本・台湾』)
1940年代、出征のたすきをかける青年、「皇民」服を着ている親族・家族、武運長久と書かれた幟と日の丸、カメラのレンズを見つめる人々というのが、出征する台湾人の記録写真の典型的な構図です。(『台湾世紀回味・Vol. 1 時代光影 1895-2000』)
戦時中の台湾の街角での子供たちの遊びからも、「皇民化」運動の影響が浸透していたことが容易に見て取れます。(王佐栄編著『帝国興亡下的日本・台湾』)
戦争後期、日本軍は高砂族の青年を日本軍大本営に属す特殊任務部隊に編入しました。ルソン島に送られた秘密部隊の「薰空挺隊」は、飛行機を胴体着陸し強行着陸攻撃を行う特攻隊でした。(陳銘城、張国権等編著『台湾兵影像故事』)
1943年、「高砂義勇隊」出征前の一コマ。台湾で志願兵制度が始まる前、原住民による「高砂義勇隊」がすでに結成されていました。統計によると、1942年から1943年の間に戦地に赴いたのは7回で、隊員数は毎回100人から600人の間、総人数は約4,000人前後、そのうち3,000人以上が戦地で亡くなっています。(王佐栄編著『帝国興亡下的日本・台湾』)
1937年、「台北老松公学校」の生徒たちによる「南京陥落を祝う」パレードが台湾総督府前を通っている様子。(王佐栄編著『帝国興亡下的日本・台湾』)
1943年、台湾人日本兵の出征前の記念写真。日本のために戦地に赴き傷を負い命を落とした台湾人は無数にいます。写真の洪坤圳氏(左の写真の右端)は軍属として南太平洋へ赴き、機銃掃射にあい右腕を銃弾が貫通し切断を余儀なくされました(右の写真の右端)。(陳銘城、張国権等編著『台湾兵影像故事』)
戦争下における流行歌:
太平洋戦争の足音が近づくにつれて、娯楽としての台湾語の流行歌もまた、日本軍国主義や皇国思想の暗い影に覆われるようになりました。統治当局は「聖戦」を宣揚するために、人々によく知られている台湾語の流行歌の歌詞を軍国主義的なものに変えたほか、台湾語の歌詞を日本語に変え、台湾人ではなく日本人の歌手に歌わせました。この時期の台湾では「皇民化運動」が推進され、鄧雨賢は東田曉雨と改名し、「望春風」は「大地は招く」に、「雨夜花」は「誉れの軍夫」に、「月夜愁」は「軍夫の妻」と変わってしまいました。また、歌は原曲より速く歌われ、歌詞は勇ましく意気盛んなものに変えられ、編曲は猛々しいものとなりました。歌詞が日本語となったことで、聴衆も台湾人から日本人へと変わりました。
作曲家の鄧雨賢(羅訪梅氏提供)
「月夜愁」のレコード歌手、純純の写真(国立台湾大学図書館提供)
空襲下の台湾
第二次大戦後期になると、連合軍との戦場は台湾に迫ってきました。1944年10月12日には「台湾沖航空戦」が勃発し、5日間という短期間に、台湾上空では日米双方4,320機余りによる空中戦が繰り広げられ、台湾各地では大規模な空爆が始まりました。このような空襲は1945年に第二次大戦が終結するまで続きました。「台湾総督府警務局」の統計によると、1945年8月10日までに台湾では空襲による死者が5,582人、負傷者が8,760人、家屋全壊が4万5,340棟、そして30万人以上が家を失いました。実際の数字は、これをはるかに上回っています。
太平洋戦争が勃発する前の1938年、台北の松山飛行場と新竹州の竹東街は、空襲に遭いました。当時の建物の外壁には、空襲の衝擊をやわらげるために「防爆シート」が取り付けられていました。(王佐栄編著『帝国興亡下的日本・台湾』)
1940年代、太平洋戦争末期になると、台北、台南、高雄等の大都市は、いずれも空襲の標的とされました。商店のガラスには、空爆による衝撃でガラスの破片が飛び散るのを阻止するために、テープが貼られていました。(王佐栄監修『南方的拠点』)
1945年5月31日、米軍は台北市への空襲(後に台北大空襲と呼ばれる)を行いました。米軍は117機のB-24爆撃機で爆撃を行い、約3,000名の台北市民が亡くなり、市の中心の多くの建物が破壊され、深刻な被害を受けました。台湾総督府もこのときの空襲で右半分の建物が被弾し、戦後の1947年にようやく修復工事が始まりました。(王佐栄編著『帝国興亡下的日本・台湾』)
1945年、塩水港製糖工場が空襲を受けた様子。日本統治時代、台湾の製糖業は非常に発達し、日本内地や台湾で使用されたほか、台湾の主要な輸出品目ともなっていました。こうしたことから、各地の製糖工場は、米軍の爆撃の重点目標となりました。(甘紀豪著『米機襲来:二戦台湾空襲写真集』)
1945年、米軍のB-25爆撃機が苗栗製油所上空を飛行中に日本軍により撃墜された場面。(甘紀豪著『米機襲来:二戦台湾空襲写真集』)
当初、米軍による爆撃目標は、主に軍事施設でしたが、1945年以降、インフラや人口が密集する住宅地も空爆されるようになりました。写真は、1945年6月6日、米軍による竹南駅の空爆の様子です。ここは、台湾鉄道の海線、山線が交わる要所だったため、駅舎と市街地が爆撃目標とされました。(王佐栄編著『帝国興亡下的日本・台湾』)
1945年、高雄港が空襲を受けている鳥瞰写真。高雄港の「要塞化」としての軍事的地位に加え、日本の海軍が高雄の岡山に「海軍第61航空廠」を置いていたことから、高雄もまた米軍の重点爆撃目標となりました。1944年10月14日の「岡山大空襲」では、約130機のB-29爆撃機が出撃し、投下された爆弾は約590トンとされ、岡山一帯の家屋はほとんど壊滅状態となりました。(甘紀豪著『米機襲来:二戦台湾空襲写真集』)
空襲に遭い、赤ちゃんをおんぶして逃げている女の子の様子を偶然カメラが捉えました。(徐宗懋図文館提供)
空襲を受けた台湾南部の住宅の様子。住民らが瓦礫を片付けています。(徐宗懋図文館提供)
繁栄していた台北の中心部も空襲で廃墟となりました。(鄧南光撮影 夏門攝影企画研究室提供)
台北大空襲では、台北帝大医学部付属医院(今の台大医院)も爆撃を受けました。(『台湾世紀回味・Vol. 1 時代光影 1895-2000』)
戦後の台湾
第二次大戦終結後、陳儀と国民政府軍(国府軍)は来台し台湾を接収しました。当時、戦争に苦しんでいた台湾の人々は、「祖国」が台湾を接収することで新たな局面が展開されると期待しました。ところが願いに反し、国府軍統治下の台湾では、物価の高騰や文化の違い、統治方法が法治とはかけ離れていたこと等が原因で社会衝突が頻繁に起こりました。1947年2月27日、台北の天馬茶房前で起こった闇タバコの取締りが発端となり「二二八事件」が発生しました。1949年、国民政府が台湾へ移転。戒厳令も布告され、揺れ動く時代の中、台湾社会はこれまでと違う光景が現れることとなりました。
台湾の「光復」
無条件降伏を受諾し、1945年8月15日、日本の敗戦が国民に告げられました。10月17日、国府軍第70軍の主力部隊が基隆に上陸しました。同年10月25日、「中国戦区台湾省受降式」が台北公会堂(今の中山堂)で挙行され、台湾省行政長官陳儀と最後の台湾総督安藤利吉が「降伏文書」に署名しました。台湾の人々は、政府が言う「光復」を受け入れ、国府軍が台湾へ移ってきたことを祝い、社会秩序が早く元に戻るよう期待しました。
1945年10月25日、台湾省行政長官の陳儀(右)が台湾総督兼第10方面軍司令官安藤利吉の降伏を受諾し、その書類を受け取る第10方面軍参謀長の諌山春樹(左)。(高雄歴史博物館収蔵)
台湾への第一陣、国府軍第70軍は、1945年10月17日に台湾を接収するために基隆に上陸しました。写真の4名の将校は左から第70軍の軍長、陳孔達中将、参謀長の盧雲光少将、第107師師長の謝懋権少将、第75師副師長の崔広森少将です。(杜正宇提供、米国国立公文書館収蔵)
戦後、日本への引揚げのため、基隆港で乗船する日本人の様子。(戚嘉林著『台湾史』)
基隆港で整列する第70軍。当時、国府軍は第70軍を寧波から基隆へ送り台湾北部地域を、1945年11月には第62軍を北ベトナムのハイフォンから高雄へ送り台湾南部地域を制圧しました。両軍とも米国海軍の艦艇によって輸送されてきました。(杜正宇提供、米国国立公文書館収蔵)
敗戦による日本への引揚げにあたり、台湾総督府が1945年10月に日本人を対象とした「臨時戸口調査」(国勢調査)を実施した結果、在台日本人数は32万3,269人でした。引揚げは3期に分かれて行われましが、約1,000人が台湾に残り帰化しました。写真は引揚げにあたって家財道具を売っている日本人の様子。(『戦後在台日人拍売家当』(戦後、在台日本人が家財道具を売っている様子) (1946) 鄧南光撮影、銀塩写真、47 x 31 cm、台北市立美術館収蔵)
1945年10月、台湾は50年間に及ぶ日本の統治が終わろうとしていました。この頃の台湾の人々は、いわゆる「祖国」のことが、わかっているようで実はよく知りませんでした。写真は太平町(今の延平北路一段)に掲げられた歓迎の横断幕ですが、国旗の右左が逆になっています。
戦後の社会混乱と二二八事件
日本統治時代に繁栄していた台湾社会は、工業や農業、そして教育での成果においても、中国内地を遥かに上回っていたのですが、「光復」後に迎えた現実は、日本統治時代の台湾総督府よりも、はるかに耐え難い統治だったため、台湾のエリートたちは大いに失望し政府への批判を始めました。これに加えて、農業・経済政策の失敗、法幣(中国で使用されていた貨幣)と旧台湾ドルとの交換レートが公平を欠いたことなどが食糧危機や深刻なインフレを招き、人々の不満は溜まる一方でした。そうしたなか、1947年の2月に二二八事件が発生したのです。
第二次大戦終結後、戦争による破壊と台湾における物資の統制が解かれたことで、国府軍が1945年10月に台湾を接収する前から、台湾の物価は急騰し始めていました。統計によると、1945年8月の物価指数は8倍に跳ね上がり、9月には18倍になっていました。陳儀の来台後も有効に物価を安定させることができず、こうした状況が戦後の政局の混乱を招き、二二八事件発生の主な原因の一つとなりました。(戚嘉林著『台湾史』)
第二次大戦後の台湾は、あらゆる産業が疲弊し、物資も欠乏、市場は混乱し、インフレが起こっていました。当時の台北市民は戦争で墜落した軍用機の残骸から使える物を拾い、それを売って生活の足しにしていました。(鄧南光撮影 夏門攝影企画研究室提供)
1945年から1947年にかけて、国府軍による台湾接収後、規律の乱れが度重なる汚職を招き、農業・経済政策の失敗や、不公平な両替レートなどが、食糧危機や深刻なインフラを引き起こしました。当時の新聞報道からは民衆の不満が爆発し始めている様子がうかがえます。(『二二八事件責任帰属研究報告』)
戦後、西門町でのタバコ売りの様子。街はひっそりと生気がなく、どんよりとしていました。(『煙販』(タバコ売り )(1946) 李鳴鵰撮影、銀塩写真、23.5 x 18.5 cm、台北市立美術館収蔵)
1947年2月27日、専売局の取締官が警官をともない行った闇タバコの取締で一般市民を死傷させてしまったことがきっかけで、台湾の人々が長い間ためていた不満が爆発しました。翌28日、人々は専売局台北支局(今の重慶南路一段27号の彰化銀行台北支店)前に集まり抗議を行い、台北駅から長官公署(今の行政院)へ請願に向かいましたが、公署前の広場で衛兵による機銃掃射に遭い請願は阻止されました。そこで、人々は台湾ラジオ放送局を占拠し、ラジオを通し台湾全土に事件の発生を告げたのです。(『二二八事件責任帰属研究報告』)
写真は、2月28日の専売局台北支局での衝突で人々に殴られ倒れた専売局の職員。
二二八事件勃発当日、人々は専売局台北支局前に集まり、局内の物を持ち出し燃やしてしまいました。またたく間に台北市では、デモ、ストライキ、破壊等が行われ、衝突も拡大し、さまざまな抗議活動が台湾各地で次々と起こりました。(『二二八事件責任帰属研究報告』)
二二八事件勃発当日の台北駅前の動乱の様子。
戒厳令と反共復国
二二八事件発生後、国民政府が武力で台湾を鎮圧したことで、台湾の人々と国民政府との間で衝突が起こり、戒厳令が布告されました。一方、国府軍は第二次国共内戦で続けざまに負けたため、中国から台湾へ退去してきました。台湾社会は緊張が張り詰め、白色テロが社会を覆いました。社会秩序は高圧的な統治により、しだいに正常に戻っていきましたが、街のあちらこちらに「反共復国」というスローガンや、中華民国国旗の「青天白日満地紅」がたなびき、総統を偉人化するといった現象が見られるようになりました。こうした光景が、あの時代の不条理さを示すものとなったのです。
1949年、中国にあった国府軍は国共内戦に敗れました。5月19日、陳誠が台湾に戒厳令を布告したことで台湾は「戦時動員状態」に入り、以後台湾は38年という長い軍事統治下に置かれました。同年12月、台湾へ退去した中華民国政府は「反共抗ロ」の方針を掲げ、台湾における白色テロが展開されることとなりました。(『台湾新生報』、1949年5月19日、一面記事)
1945年、国府軍による台湾接収後、台北の東本願寺は「保安司令部保安処看守所」となりました。1936年、今の台北市西門町西寧南路と武昌街に建設された東本願寺は、1979年に取り壊され、獅子林商業大楼に改築されました。戒厳令下、共産党スパイと疑われると、刑法第100条の内乱罪が適用され、軍や警察または保安大隊により逮捕され、ここに送られ、尋問・勾留された後、軍法処看守所(今のシェラトングランド台北ホテル)に移送され審判を受け、銃殺または拘禁されることになっていました。(『南瀛佛教』第15卷第1号)
1950年6月10日、呉石事件の法廷の様子。柵の前の(右から左へ)聶曦、呉石(遺書を書いている)、朱諶之、陳宝倉の4名は死刑判決を受けた後、そのまま台北馬場町の刑場へ連行され銃殺されました。戒厳令下、国民党は軍事裁判により中国共産党の地下党員(呉石等)の粛清を行いましたが、こうした案件以外の冤罪は、星の数ほどの多さだったのです。(徐宗懋図文館提供)
台湾省保安司令部の判決文(左)と国防部台湾軍人監獄開釈(釈放)証明書(右)。
蔡焜霖氏は1930年台中の清水に生まれ、高校卒業後、清水鎮公所(役場)の事務職員をしていました。ところが、1950年に、「台北電信局支部案」に関係しているとの嫌疑をかけられてしまいました。台湾省保安司令部は、蔡焜霖氏が高校時代に参加した勉強会が反乱組織であるとし、その組織のために宣伝ビラを配布したというだけの理由で有期刑10年、公民権剥奪7年を言い渡しました。蔡氏は政治犯収容所「緑島」に送られた第一陣の政治犯となり、1960年にようやく自由の身となりました。
このように証拠不十分で、判決理由もでたらめな判決が下されることは、白色テロの時代には珍しいことではありませんでした。(蔡焜霖氏提供)
1951年から1965年の間、政府に共産党と関係があると思われると政治犯とみなされ、緑島の「新生訓導処」に送られ拘禁されることになっていました。新生訓導処に入れられた政治犯は12の中隊に分けられ、一中隊には約120人~160人が属し、最も多い時は2,000人に達しました。これに管理人を加えると3,000人近くとなり、当時の緑島の人口とほぼ同じでした。このように規模が大きな政治犯を収容していた刑務所は、当時、国際的にも注目され、米国駐華大使だったカール・L・ランキンは、1953年と1957年の二回、緑島を訪れたほか、米軍顧問団や国内外の記者も1954年に緑島を視察しています。(中央社提供)
緑島新生訓導処には女性の政治犯も収監されていました。舞踏家の蔡瑞月、藍明谷の妻の藍張阿冬など、最も多い時には100人近くが収容されていました。女性の政治犯も男性同様、「改造」や「新生」が必要だとみなされ、肉体労働を行わせ心身ともに疲労させることで抵抗できなくしたほか、思想の改造も行われ、さまざまな「討論」や「授業」を行うといった方法で、「三民主義」、「国父遺教」、「総統訓詞」、そして「共匪(共産ゲリラ)暴行」等の「反共抗ロ」の理論思想を叩き込まれました。(中央社提供)
日本統治時代の菊元百貨は、1945年10月24日以降、「台湾中華国貨公司」と名前が変わり、商品も日本の物から国産品に変わりました。1951年、「中華民国軍人之友社」の本部もここに置かれました。菊元百貨の外壁は、ガラス張りになりました。(李鳴鵰撮影、李道真氏提供)
国民政府は台湾における統治を強化するため、1950年代から、子どもたちへの文化教育を積極的に行い、国が治めている国土の範囲を教えることで、国の版図という概念を教え込みました。(『台湾世紀回味・Vol. 3 文化流転 1895-2000』)
1954年、8,000名の青年男女が「中国青年反共救国団」への入団の宣誓を行いました。救国団は1952年に当時の蒋介石総統が団長を兼務し、蒋経国氏が初代の主任となった「反共抗ロ」時期における重要な青年組織です。団員に「忠義・貞節・愛国」思想を教え込み、組織的な団隊訓練を行いました。(徐宗懋図文館提供)
戒厳令下の台湾では、街のあちこちで総統を偉人化し崇拜する様子が見られました。写真は、1950年に中国童子軍(スカウト)16周年記念大会で、中山堂の前に聳え立つ巨大な蒋介石の半身像です。(中央社提供)
「青天白日満地紅」の国旗は、「反共抗ロ」時期の台湾各地でよく見られました。(『川畔製旗』(河畔での幟づくり) (1960s) 林権助撮影、林全秀氏提供)
1958年8月23日、中国人民解放軍が金門への砲撃を始め、44日間に金門へは50万発近くの砲弾が発射されました。この時期、台北市には僧侶と尼僧が一列となり「太平洋の自由と安全を守る戦い」の名の下に托鉢を行い前線への支援を行いました。(中央社提供)
帝国の眼と国府の視点
『南進台湾』と『今日台湾』は、どちらも統治者が政治実績を宣伝するために作成した映像ですが、台湾を見る視点が違うことが見て取れます。
『南進台湾』が描く台湾は、ジャスミンの香りに満ち、資源も豊富な南国の宝島で、当時、天然資源の開発が底をついていた日本にとって、台湾を掌握することは南方へ進出する足がかりでした。映像では、台湾の豊かな物産が紹介されており、日本内地に向けて台湾への投資の正当性を説明する宣伝目的を帯びたものではありますが、「探索し発見する」興奮と興味が溢れたもので、台湾を一周する列車とともに、日本統治の実績を紹介しながら、見る人が台湾に触れ、台湾のあれこれを知るという映像作品です。
『今日台湾』に見られる台湾は、中華文化そのものであり、三民主義の薫陶を受けた反共基地です。映像では随時政治スローガンが叫ばれ、偉大な指導者を失ったら台湾は頼るものがなくなるということを人々に告げているかのようです。政治実績を部門別に紹介していく過程には、日常の街の光景や街を歩く人々の姿は少なく、映像でより多く見られるのは、各地を視察している長官が人々と集団で活動する様子です。運動場で画一的な動きをする学生、整然と下校する様子、練兵場での直立不動の軍人など、規律ある訓練を受けている整然とした様子に圧迫感を覚えます。
異なる時空、異なる統治者、同じ土地に、異なる台湾が現れます。
戦前と戦後の家族写真を比べてみると、わずか数年の違いなのですが、手に持っている国旗が違い、時代の変化や混乱を反映しています。(黃恵君著『激越与死滅:二二八世代民主路』)
南進台湾
『南進台湾』は、日本人に南進基地である台湾を深く理解してもらうことを主な目的として、台湾総督府の後援で製作された記録映画です。鉄道で台湾を一周しながら当時の「五州二庁」(台北州、新竹州、台中州、台南州、高雄州、花蓮港庁、台東庁)や各地方の風土、産業、建設、地理、景観、美しい自然や資源を紹介するもので、日本による統治で近代化した台湾の様子を描いたものです。
作品では「文明」の重要性や工業化がもたらした便利さを宣伝しているほか、日本人がどのように台湾統治や教育を行ったかを見ることができます。南進基地としての台湾を見せるほか、建国したばかりの満州国や北進の成功を宣伝することも忘れてはいません。日本が意図していた大東亞共栄圏の建設という狙いが十分に現わされています。
『南進台湾』は、植民地政府の政治実績を宣伝する政治的道具で、特に美しい場面を選んでおり、台湾の人々が享受している近代化の過程だけを取り上げた客観性のないものです。とはいえ、映像に詳しいナレーションによる説明がなされており、政策宣伝映像ではあるのですが、1930~1940年代の台湾の様子がよくわかる非常に貴重なものです。
今日台湾
『今日台湾』は「台湾電影文化事業有限公司」(以下、台影)が1969年に製作した作品です。台影は1950年から1980年代にかけて、台湾の重要な動態映像を数多く記録しています。主に撮影したのは、台湾省政府のニュース映像、ドキュメンタリーや教育関係の映像で、1970年代にテレビの普及前に人々が見ることができた唯一の動態映像ニュースでした。これらの映像は映画が始まる前に放映され、一党独裁時代の戒厳令下で、当局の国策や政治宣伝を行うという役割を果たしていました。
『今日台湾』では、当時の教育体制、文化復興運動、交通水利建設、農・漁・牧畜業の発展、土地開発等が紹介され、蒋介石総統の素晴らしい指導の下に台湾は三民主義の模範省となり、最も強固な反共の要塞であると称賛します。しかしながら、意気軒昂な音楽が流れる中、台湾は反共の要塞であると聞かされることは、実は息が詰まる白色テロの空気そのものです。
1960年、蒋介石は憲法に違反し三期連続して総統に就任しました。同年、これに反対した雷震は新党結党を主張したことで、警備総部に「涉嫌叛亂(叛乱に加担した)」罪に問われ逮捕され、雑誌『自由中国』も発行停止となりました。1964年、彭明敏、魏廷朝、謝聡敏が「台湾人民自救運動宣言」を作成。宣言を配布する前に捕まり実刑判決を受けました。権威主義体制下の台湾では、人々は声を上げることができず、政府によって『今日台湾』に言う「堂堂正正的中国人(正々堂々たる中国人)」であることを要求されました。こうした社会を取り巻く環境は、映像に見られる活気あふれる繁栄とは異なる、多くの抑鬱と苦悶に満ちあふれたものだったのです。