二・二八事件責任帰属研究報告(摘要)
著者:張炎憲 二・二八事件は戦後の台湾史上で最も悲痛な事件であり、政治上最大のタブーである。長い間公然と討論はおろか、公の研究すらできなかったが、その影響は深く台湾史上に刻みこまれている。 一、曖昧にされた二・二八事件の真相 1987年以来の二・二八正義平和運動展開後、各界からの呼びかけと奔走により、事件の影は次第に消えていった。運動の主な要求には、史料の公開、記念碑の建立、記念館の設立、国定休日への指定、政府の公式謝罪及び事件被害者の傷害・損失への賠償等があり、政府が一つずつ譲歩して全て実現された。しかしタブーが解かれていく過程で、かえって、事件を徹底的に解明しようとせず、うやむやのままにしておこうという雰囲気が生まれてしまった。政府は補償金を支払ったことで既に責任を果たしたと考え、世間の人々は災難に遭った者の家族が金銭を得て慰められ、事件は既に終わったと考えるようになった。表面的な記念儀式や金銭的補償の下、二・二八事件の歴史的真相は逆に曖昧になり、忘れられようとしているのである。 二、二・二八事件に対する真の反省の欠如 こうした現象が民主化後の台湾に出現するとは、本当に不思議なことである。権威主義体制の時代、国民党政府は人権を圧迫し、反対する者は逮捕し、無数の冤罪事件を生み、民衆は心に怒りを充満させつつも、敢えて不満または抵抗を口にし、態度に表すことはなかった。これは当時の時代環境を考えると理解出来る。しかし民主化を求める先輩たちが先人の屍を乗り越えて努力を続けた結果、台湾が終に民主化され、二・二八事件のタブーが解除されたにも関わらず、自由な民主社会の中で、かえって事件の歴史的意義を正視することが難しくなったのだ。これは今もなお事件の歴史が真の意味で反省されておらず、事件の歴史的責任が未だ整理されていないことを示している。民主化以後の台湾は、民主というまやかしの中で、寛容的和解と民族調和という空虚な大義名分の下、事件の歴史的真相と責任の所在という核心問題に触れようとしなかった。 三、「二・二八事件の責任所在」研究の起因 行政院は二・二八事件の記念基金会成立後、積極的に補償金を審査発給し、記念活動、慰問及び奨学金等の活動を行ったほか、更には、災難に遭った者の家族が長い間期待している責任所在の探究を、政府自ら負うべきだと考えた。 そのため当会は2003年末、二・二八事件の歴史責任所在研究計画を開始した。当会理事である黄秀政、薛化元、陳儀深、張炎憲及び李筱峰、陳翠蓮、何義麟といった学者が共同執筆し、また、陳志龍教授、黄茂栄教授は二・二八事件の刑事的、民事的責任を法律面から探求し、蔡宗珍教授はナチスのホロコーストを題材に対比研究を行った。 当会は2003年末に計画に着手した。2004年にはほぼ毎月の討論を行い、終に二・二八事件の責任所在研究報告を完成させた。本書は第1章と結論の外、事件発生とそれが台湾に与えたダメージ、南京の政策決定階層の責任、台湾の軍政方面の責任、事件に関係した者の責任等、5つの部分に分けられている。 四、責任所在の明確な整理 今まで二・二八事件に関しては多くの関連史料が見出され、台湾省文献委員会、中央研究院近史所、国史館といった機関がそれぞれ重要史料を出版している。しかし口述の歴史記録と論著が相当な成果を挙げているにも関わらず、歴史的責任の所在について体系的に論述した書籍は依然として存在しない。このため本書はこれらの問題に探求を加えるものである。 〈事件発生と台湾が被った痛手〉は事件発生の背景、過程、国民政府軍派遣による鎮圧とそれが台湾に与えた痛手を説明している。二・二八事件発生の節目をそれぞれ深く掘り下げて分析し、責任所在につながる基礎的史実を探求する。 〈南京政策決定階層の責任〉では、蒋介石が最大の責任を負うべきだと結論づける。なぜなら蒋介石が最高指導者として位置付けられ、各方面の情報を掌握し、台湾事変の発展を理解していたためである。尚且つ軍隊派遣を決定して台湾を鎮圧し、台湾民衆に膨大な死傷者をもたらした後も、陳儀と台湾の軍事政治指導者に対する懲戒は一つもなく、それどころか事後陳儀を浙江省主席へ、彭孟緝を台湾省の警備総司令官へ昇格させている。これは蒋介石が台湾の民意を軽視し、台湾人の政治改革要求を祖国への反逆暴動行為と見なしたことを示している。また蒋介石が最大責任を負うべきとするほか、監察委員として台湾に調査へ来て、監察的機能を果たせなかった楊亮功、何漢文等を糾弾するものである。国防部長の白崇禧もまた、慰労に来台したものの、銃殺事件を阻止することが出来ず、最後まで陳儀の言葉に従い台湾人民の真意を反映することが出来なかった。 〈台湾軍政階級の責任〉では、南京政府の最高指導者である蒋介石が最大の責任を負うべきだと説明するほか、台湾の軍政指導者の責任について報告する。行政長官兼警備総司令官の陳儀は、台湾軍政階級においては最大の責任を負うべきであり、台湾警備総司令官参謀長の柯遠芬、高雄要塞司令官の彭孟緝らがそれに続く。憲兵第4団団長の張慕陶、基隆要塞司令官の史宏熹、21師師長の劉雨卿、及びその他情報治安人員も煽動と人民の逮捕、銃殺に責任を負う。 〈事件の関連人員の責任〉では「半山」分子、スパイ、陥穽者、密告者、メディア関係者、社会団体構成員の責任を探求していく。これらの者は直接指揮したり、決定した者ではないが、追従或いは服従者であり、部分的責任を負うべきである。 五、社会正義の追求 執政者が国家公権力を通じて民衆を集団殺戮する計画を有していたことに対して、事後にその真相と元凶とを追及するのは相当に困難である。特に二・二八事件は国民党により史料が葬られ、故意に曲解して説明され、圧政下にあったため、真相を知るのは更に難しい。責任追及を進めようものなら、最高指導者の蒋介石の賢明なイメージを傷つけることにもなってしまう。また国民党政権は戦後初期も台湾を実質的に統治しており、責任の追及は国民党政権の正当性に衝撃を与えるだけでなく、更には長期の国民党教育の価値観に背くものだ。しかし歴史はやはり歴史に帰すものであり、度重なる困難があっても、真相は依然として探求され、歴史責任も追及されるべきである。 第2次世界大戦後、ドイツ人はナチスのユダヤ人虐殺を自己批判し、責任追求と反省を行った。ドイツが自己反省出来たものを台湾はなぜ出来ないのだろうか。第2次世界大戦の終戦後既に60年がたったが、戦後多くの歴史問題は未だ真に直面され、反省されてはいない。二・二八事件は台湾の最大の痛手であり、今なお台湾に影響を与え続けている。それに対して責任の所在を明確に整理し、社会正義を実現させてこそ、ようやく教訓を銘記し、怨恨や誤解を解消し、相互扶助や台湾への慈愛を生み出すことが可能になるのだ。
著者:黄秀政 1947年2月に台北市で勃発した「二・二八事件」は、戦後台湾の歴史発展に極めて深遠な影響を与えた不幸な事件である。事件発生の背景に関する議論は、複雑に交錯している。まず長官公署体制の特殊性である。行政長官が行政、立法、司法、更には人事、監督権を擁し、そのため台湾に於ける独断的かつ無制限の権力を一手に握ることになり、加えて台湾全省の警備総司令官の兼任により、軍政権力が一極集中する特殊な状況を形成した。この体制公布後、間違いなく多くの台湾籍人民が大きな失望を覚えた。また、この体制が台湾で実施されていた間、人々は絶えず国民政府高層に長官公署の廃止及び省政府制度の回復を提案し続けたのである。 その次には政治的権力の独占及び不正行為の横行である。当時、中国大陸出身者が政府の重要な中・高級職務を独占し、各種血縁政治、私利の追求、法の曲解・収賄等不正行為を行ったこともまた二・二八事件の重要な原因と考えられる。第三には、経済統制と人民の生活苦である。陳儀とその接収グループは経済統制政策を採用して物資の管制、金融独占、物品専売を行ったが、その結果民衆が失業し、人民が飢えに苦しむ状況となった。第四に社会動乱と文化的な隔たりである。部分的に台湾にもたらされた軍警紀律が崩壊し、軍と警察が権威をふりかざし権力を濫用したことに加え、統治者と台湾民衆文化との隔たりが原因で衝突や対立が起き、治安が悪化して暴動事件が次々に発生したのだ。 事件は国民政府の鎮圧と説得の中、迅速に終焉したが、この事件の台湾に対する痛手は深く、その影響は量り知れないほどであった。まず台湾人に心理的な打撃を与え、長期間政治に対する恐怖と拒絶を招いたのである。この事件の前後、政府は粗暴な武装鎮圧を行い、公に或いは密かに銃殺するなどして台湾人の抗争行為に報復した。特に軍警当局は街頭で非情に掃射発砲を行い、罪のない大勢の民衆を死傷させた。地方の安寧を保つとした農村討伐行動中では、憚ることなく民衆を逮捕し、地方にパニックを引き起こした。事件後、政府は更に敵対者に濡れ衣を着せ、虚偽の罪に陥れる等の方法により、人々に危機感をもたらし、政治の話を避けさせ、台湾社会において、長期にわたって白色テロのムードを充満させた。 その次にエリートたちを断絶させることで、地方政治状況に影響を与えた。二・二八事件の発生期間中、陳儀と軍部及び警察が計画的な逮捕を開始したため、多くの地方名士または知識階級ら台湾社会のエリートたちが次から次に暗殺或いは冤罪により獄死させられたのである。事件後、台湾全土の各県市参議員の本土エリート構成には激しい変動が起こり、8割の地方名士が政治領域中から消失するなど、人材の断絶が起こった。これらの欠員を埋めたのは、当局に追随する政治の成り上がり者であり、伝統ある地方名士という社会的地位に取って代わっただけでなく、地方政治権力と経済資源をも独占し、地方本来の政治状況を一変させた。第三には、国民党に有利な一党独裁体制が民主政治発展を妨げたことである。戦後初期、陳儀ら統治グループ及び国民党と台湾地方社会との間には明らかな隔たりがあったが、二・二八事件を通じて一気に本土勢力を弱めたほか、本土エリートの断裂をもたらすとともに、国民党グループ内の派閥闘争を進めたのだ。1949年8月、国民党政府の台湾への撤退後、国民党総裁の蒋介石は大陸喪失の原因を検討したところ、党内の派閥問題と相当に関係があるとし、党内で重大な改造を行った。様々な方法を通じて中央及び台湾の従来の派閥勢力を取り除き、改めて自身の集権的地位を確立したのである。両岸が対立する局面において、中国はいつでも台湾を侵犯しかねない脅威であった。このため臨時戒厳令を宣言して、高圧的な統治方法でニュース、言論、集会等の自由を制限し、軍警当局の情報管理での優位を利用して、異議を唱えた者を監視、逮捕し、台湾社会を長期にわたる白色テロの強権統治下に置いたのだった。第四には族群(エスニック・グループ)間の隔絶が深まり、台湾の文化的発展を阻害したことである。二・二八事件勃発には、陳儀政府の汚職腐敗が関係人民の恨みを買ったことのほか、族群間の衝突も関わっていた。族群間の誤解と対立もまた二・二八事件を誘発したため、事件の終息と安定回復にも関わらず、族群間の隔絶が一層深まり、台湾社会文化の正常な発展に影響を及ぼしたのだ。特に事件後、台湾社会のエリートたちが当局の迫害と打撃を被って日に日に凋落し、政治的影響力が弱体化しただけでなく、台湾文化伝承の断裂も起こった。加えて中央政府が台湾への撤退後、政権の正統性確立のため、伝統的な中国文化を道具として、政府機関或いは学校教育を可能な限り中華文化の復興運動拡大のために利用したため、社会全体に大きく中国の影が溢れ、日常生活を伝統的な中国的道徳、倫理文化の中で過ごすこととなり、台湾本土の歴史文化の軽視、辺境化が発生した。この種の不公平な状況は1987年7月の戒厳令解除まで続いたが、本土意識の高揚に従って、台湾本土の歴史文化は当然重視されるようになり、状況がやっと改善されたのだ。 歴史とは一枚の鏡のようなものである。所謂「前事を忘れざるは後事の師なり」である。前述の通り「二・二八事件」は確かに台湾戦後史上、極めて不幸な悲劇である。如何に事件の傷を早期に治癒し、台湾2300万の国民が事件の影から抜け出すか、また、台湾ができるだけ早く正義ある平和社会を成立させ、不幸な悲劇を永遠に再発させないことこそ、我々がしっかり考えていくべきことであり、且つ共に直面すべき重要な課題なのである。
著者:陳儀深 1945年に中日戦争が終結し、1946年5月に国民政府が重慶から南京へ戻る際、東北地方では国民党と共産党の軍事衝突が熾烈化していた。内戦の原因の1つは南京政府の統治正当性への挑戦であり、国民党は渋りつつも同年12月25日に中華民国憲法を通過させ、1947年1月1日に公布、同12月25日に施行した。二・二八事件はこの政治改革の終結間際、間もなく憲法が施行されるという時期に発生した。 国民党総理孫文の五権憲法理論は国民政府制度設計に影響を及ぼした。訓政時期(南京国民政府が統一完成後1928年~1947年の間)、監察院による多くの官吏に対する糾弾、弾劾は止むことがなかった。監察委員の丘念台は「陳儀は将来必ず災いをもたらす」と言い、福建台湾監察使の楊亮功もまた戦後台湾の悪政に対する現地視察並びに南京政府への報告を行い、国防最高委員会は劉文島を台湾に派遣し「清査団」を以って業務を行わせたものの、長官である陳儀は蒋介石の深い信任を受け何ら影響を受けることがなかった。二・二八事件の勃発を待って、南京国民党第6期第3回中央委員会全体会議で3月22日、劉文島等55人の連署提案が通過され、陳儀の「免職・調査処分」が決定されたが、蒋介石の持つ総裁特権によりこの議決は取り消された。 二・二八事件処理委員会は3月7日、32条(一說では42条)の要求提出と同時に、「台湾政府が全ての責任を負うべきである」と明示し、当時上海に居た台湾人団体も直接陳儀を「悲惨な事件の元凶」とした。しかし、当時の情勢による制約があり、台湾人側代表が期待できるのは南京政府に万事解決してもらうことのみで、事件の責任を南京政府にまで遡らせるものではなかった。具体的には国防部長白崇禧を台湾に派遣し「慰労」させるというものだったが、白崇禧は3月17日の来台後急速に陳儀側に近づき、白が提案した褒賞名簿はなんと無差別殺戮を行った高雄要塞司令官の彭孟緝、基隆要塞司令官の史宏熹を含むものであった。当時の参謀総長陳誠と比較すると、陳誠はなおも台湾の状況には戒厳令法第14条(第9条ではない)の規定のみが適用されるべきで、非軍人身分の者が軍法裁判にかけられるべきでないと注意を喚起している。こうした違いは統治階級の人権観念、価値判断が事件の深刻性に影響していたことを示すもので、責任問題にしても一概に論じるべきではないのである。 我々は国民政府主席の蒋介石が台湾二・二八事件に対して最大の責任を負うべきだと考えている。理由は上述の監察委員による事前の警告情報無視以外に、事後陳儀を庇い、その上台湾省軍政上級指導者が一人として事件の処罰を受けることがなかったためである。更に、事件発生後程無く、人員移動配置のために陳儀が3月13日に蒋介石へ宛てた手紙では、「今回の事変は閣下の迅速な派兵が望まれます。その変遷は考えるだに恐ろしい」と書かれていた。蒋介石は党、政府、軍、特務機関及び台湾人団体の代表等各方面からの情報を掌握しつつ、迅速な軍隊派遣を決定し、21師団を編成した師長劉雨卿の召喚と同時に彼に600丁の拳銃を渡すなどして、事件を一層悲惨なものにしたのである。 二・二八事件と関係する大渓ファイルには、1947年2月10日から1948年6月4日まで計99件の書類があるが、全てが蒋介石と陳儀、保秘局、中統局、葉秀峰、劉雨卿、陳誠、白崇禧、桂永清、何漢文、魏道明、彭孟緝、呉鼎昌、于右任、謝冠生等といった党や政府、軍、特務機関及び監察司法関連人員らの往来書簡であり、蒋介石の事件介入の奥深さ、関与面の幅広さを察するに十分である。故に最高指導者は当然の如く不幸な事件の最大責任を負うべきなのだ。 2005年2月という今、特に1947年3月6日に陳儀が蒋介石に宛てた派兵依頼書簡の内容に注目せざるを得ない。迅速な軍隊派遣を台湾に求めた理由が「台湾を中華民国台湾として維持するため」だったからである。陳儀の台湾での政治任期はあと1年残っており、政治・経済・社会・教育各方面で、台湾と中国を結ぶ困難な問題に彼は相当敏感であったに違いない。ただ、彼も当時の国民党政府指導者階級の思考様式、行動パターンにとらわれ、誤った処方によって悲劇を引き起こしてしまった。この誤りが今に至るまで影響を及ぼし続けているのである。
著者:陳翠蓮 本章では台湾軍政階級の二・二八事件中の行為に対して論述を加え、その負うべき責任を追及する。台湾省行政長官兼警備総司令官の陳儀、警備本部参謀長の柯遠芬、高雄要塞司令官彭孟緝、その他軍政人員、情報治安人員の5節に分けて詳しく述べていく。 戦後国民政府が台湾を統治し、国民党の派閥間で権力を争う政治習慣と生態は海を跨ぎ、台湾へと移植された。しかし台湾の最高軍政指導者となった陳儀は無策で、派閥闘争を傍観するのみだった。人の使い方も分からず、下役の汚職腐敗化と軍紀の崩壊に対しても見て見ぬふりをした。政策も不適切で、人々から軽蔑を受け、経済を搾取し、社会動乱を引き起こすこととなった。二・二八事件以前、陳儀の失政により台湾民衆はすでに国民政府に対して極度に失望しており、また、上海メディアは台湾が「随時暴動を起こしかねない局面にある」と予言していた。 大量の史料発見と口述史の研究結果から、事変発生後、陳儀は局面を制御するために十分な兵力を欠いていることに困り、民衆を適当にあしらい、対応を引き延ばし逃げてばかりだったことが分かる。しかし、陳儀は事件勃発後には下心を持ち、台湾民衆の政治改革要求に応える誠意など無いまま、策略を巡らせ、表面的に譲歩しつつも陰で出兵依頼をした。一度援軍が確定すると、即座に態度を変えて前言を翻し、しかも濡れ衣で罪を作り上げ、正当な理由による出兵かのように装い、自身の台湾統治には何ら責任が無いよう奔走したのである。このような悪質な権謀術数は正に前近代的中国官界の長年にわたる習慣の生き写しであり、最大限の非難を受けるべきものであった。 台湾省警備本部参謀長の柯遠芬は台湾事変開始と共に、事態は共産党が裏で糸を引いているのだと決め付け、巧妙な罠で地方名士を利用し彼らを分断すると、ゴロツキや情報治安人員の編成により「武装暴動」を煽動し事件の重大性を誇張した。一方で自分の先見の明を誇示し、もう一方で負うべき責任から逃れたのである。国民政府軍の増援後、警備本部主導で台湾のエリートと民衆が逮捕・殺害されると、更にはこの機会を利用して財物を強奪するなど、やりたい放題を行った。台湾へ送られ、調査を行った楊亮功は「法に反し殺人など悪事を働いている」と指摘した。 高雄要塞司令官彭孟緝は高雄「32事件」が始まると全くの主観で共産党が画策した「陰謀活動」だと考え、平和裏の解決に反対し、「軍による反乱平定」を堅持した。3月5日、彭孟緝は交渉を装い、民間指導者を誘って寿山に登ると、3月6日には高雄市街区で軍事行動を始め、罪のない民衆を殺戮し、膨大な死傷者を出した。彭孟緝は二・二八事件中「自発的な反乱平定」により、台湾最高軍事上級指導者に抜擢されるなど、官吏として出世の道を歩んだ。同時に、血生臭い手段による鎮圧で罪のない人々を無差別に殺したため、人々の間では「高雄の食肉処理業者」という悪名を残している。 その他軍政人員では、憲兵第4団団長の張慕陶は、柯遠芬を助け、地方名士を利用して事件処理委員会を分裂させ、幾度となく公然と嘘をつき、民衆の警戒心を綻ばせた。国民政府軍の台湾到着後、憲4団は積極的な民衆逮捕行動を採り、法律など眼中になく、狂ったかように無闇に逮捕を行ったため人々は常に恐怖にさらされた。しかも警備本部は功績と権力を争い、法治観念など微塵もなかった。基隆要塞司令官の史宏熹は要塞下士官の報復殺戮を放任した。その並み外れて残酷な手法によって台湾人が受けた被害状況は高雄に次ぐものであった。史宏熹本人と甥の史国華はともに事件後、ここでの殺人報復を非難され訴えられることとなった。第21師団を編成した師長の劉雨卿は部下をうまく統制しなかったため、所属部隊は南北双方向からの進軍中、兵士同士競い争って殺人を犯し鬱憤晴らしを行った。この恐怖の殺戮は台湾史上類を見ないものであった。「地方の安定維持」の責任を負い、「農村討伐」を任務とする軍政人員は、恐怖政治を敷き基本的人権を侵害する政権の共犯者であった。各地の軍政憲警人員及び外省人公務員は機会に乗じて財産略奪を行い、殺人を巡る冤罪事件が次々と発生し、改造後の台湾省政府は、各地方政府に上述したような不法事例の厳重取り締まりについて電報を打たなければならないほどだった。 情報治安人員もまた、二・二八事件の中で積極的な役割を演じたものである。戦後初期、警備本部調査室、国防部保秘局(国民党特務組織)を含む、国民党台湾省党部の調査室(中央調査統計局)、憲法兵団等の機関はすべて台湾各地で調査員及び密偵を配置し、台湾社会の動向監視を行った。最近見つかった<許徳輝呈毛人鳳──台湾二二八事件のスパイ工作報告>と関連史料によると、事変中、保秘局は許徳輝に台北地区のゴロツキ集団合計250人から成る「忠義サービス隊」を指揮させた。表面上治安の維持を目的としたが、その実、彼らは憚ることなく暴れ狂い、争いごとの拡大、外省人の殴打、外省人の店の焼却など中央政府が軍隊を派遣する口実を作り出すこととなった。そのほか、純朴な青年学生に出動を促し、事後は学生に罪を転嫁しスケープゴートに仕立て上げた。各系統別の情報治安人員は事件中、それぞれ中央政府へ機密の電報で台湾事変の深刻な状況を誇張して伝え驚愕を与え、陳儀の威信に大いに打撃を与えた。情報治安人員はまた、二・二八事件中の暴動状況を制御不能と誇張し、外省人の被害程度を詳細に伝え、これが共産党に操作された事件で党員は数万人、更に事件は単に政治改革を求めるものでなく、権力の奪取であり祖国への裏切り行為である等と強調した。その目的は、一に陳儀が台湾情勢に対し掌握能力を完全に失したことを暴露し、その威信に打撃を与える、 二に多くの情報治安機関が台湾情勢の安定維持に寄与出来ないことに対する責任逃れ、 三に援軍を依頼し武力解決を求める口実にすること、にほかならなかった。このように誇張された情報が1つ1つ南京最高当局まで報告され、当局の軍隊派遣による鎮圧という決心を一層強固なものにしたことは疑いようもない。 1947年4月、国防部保秘局は<228事変反逆者名簿>一部を提出し、全台湾を台北、新竹、台中、台南、高雄、屏東、花蓮等の各区に分け、千人以上の「反逆者」名簿に沿って、その姓名、性別、年齢、原籍、元の職業、相当する「反逆行為」、罪状、住所等詳細資料を揃え、事件で中立の立場を取った温和な林献堂を「反逆者」のトップに据えた。また半山の李萬居、連震東、黄國書といった面々もその中に含まれた。台湾の知名人たちがその反逆者狩りから逃れるのは難しく、その被害範囲は幅広く、人々を大いに震撼させることとなった。
著者:李筱峰・何義麟 二・二八事件の発生後、台湾の民間社会は政府機関現職員の所謂「半山」に対して批判的な目を向け、彼らが台湾人を売ったと考えた。そのほか、多くの口述歴史記録において、情報治安機関の密偵を担当した例、或いは密告で他人を陥れた例も少なくない。これらの人々もまた当然部分的な責任を担うべきである。一方、政府の調査レポートによれば、統治者は事件の発生、拡大への罪を現地社会の名士たちに負わせた。幾人かの社会団体幹部或いはメディア関係者は、騒動を引き起こしたという罪名を背負わされた。民間からの視点或いは政府報告の別に関係なく、事件に関連した団体または個人について、私達は全て再調査した上でその責任程度を明確に整理し、人によってはその潔白を証明しなくてはならない。 所謂「半山」とは台湾出身者で、台湾で一定期間生活した経歴を持ち、その後中国大陸での生活経験もある者を言う。特に国民政府陣営に身を投じたものは、中国の政治文化をある程度広汎に目にしていた。こうした経験は、長期間日本の植民地統治下にあり、情報が制限されていた本土人は遠く及ばないものであった。そのため、半山は本来なら中国政府と台湾社会間の橋渡し役を演じるべきだったのだが、多くの半山にとって台湾帰還前の最も重要な役割は、わずかに中国政府に台湾の「回復」を呼びかけるのみであった。何人かの半山は言論を通じて国民政府に台湾の接収管理における注意事項を提出したものの、実際のところその影響力は限られており、国民党統治当局は半山の提案に対し、軽視するどころか否定的でさえあった。 戦後、半山は台湾に帰還後、次々と各種の党、団、軍、政治の各要職を担った。本来陳儀政府はこの半山集団を、長官公署と台湾民衆間の架け橋として重用するよう期待していたが、一部の半山は職務上の機会を利用してあれこれと策を弄し「引継ぎ」過程中に受益者となった。その上、彼らは本土エリートと競争関係にあり、結局権力を握った半山が戦後初期に政府と民衆の架け橋となる責任を果たすどころか、逆に官民間の障害となったのである。事件勃発当初、陳儀は半山を使って調停や、秩序回復を試み、治安確保を図ろうとした。例えば、省参議会議長黄朝琴、省参議会秘書長連震東、国民党代表李萬居、国民参政員林忠等、これら半山は調停役として立ち、実際には特に積極的というわけではなかったが、能動的或いは受動的に陳儀当局が抗争を平定するのを助けた。 その他、別の半山グループは更に統治当局に依存し、実際に武力鎮圧行動に関与して、統治者の鎮圧行動の共犯となった。このうち国民党特務組織局台湾所所長の林頂立、かつて軍職にあった華南銀行理事長劉啓光、新竹地区防衛司令兼県長蘇紹文等は最も典型的な人物である。その次に、事件後警務処長を引き継いだ王民寧及び台中区防衛司令の命を受けた黄國書もまた、政府の武力鎮圧過程で相当に重要な役割を演じた。そのほか、半山が最も非難されることには、ブラックリストを軍の情報部門に手渡し、それが台湾社会のエリート除去に用いられたことが挙げられる。一般市民の多くは、武力鎮圧後に展開された「地方安寧の維持」及び「農村討伐」の過程において、仮に半山の協力がなければ、警総当局が「暴動首謀者」を列記したリストを逮捕対象とすることもなく、各地の社会エリートが逮捕され殺されることもなかっただろうと信じている。実際の状況がどうであったにせよ、半山は確かに事件で利を得た。このことは、その後多数の半山が高い官位を得たことから明らかである。 それに比べ、政府の調査報告では事件の起因を「政治的野心家の吹聴」及び「共産党の機会に乗じた扇動」と考え、事件の発生と拡大を「共産党」や「三民主義青年団」、「台湾省政治建設協会」等の団体指導者の罪として咎めている。そのため、鎮圧期間中、共産党員の追跡以外に、政治建設協会の解散命令を下し、三青団台湾区団を粛清した。しかし、各団体の組織と活動とを分析すると、共産党員の事件画策はあり得るものではなかった。三青団については多くの幹部が抗争活動に関わったものの、皆個別的な行動であり、組織的な行動ではなかった。三青団は決して一般的社会団体ではなく、訓政時代に党と並ぶ地位を有した特殊組織である。戦後多くの台湾左翼分子が三青団台湾区団に加入し、改革の気質を持つようになったので、政府の腐敗汚職には当然ながら相当の不満を抱えていた。事実上の党が主導する国民政府と党団の二元体制の下、事件前には早期から台湾党団、軍政など各派の闘争が行われていた。事件後にも派閥間衝突は続き、さらに三青団幹部の抗争もあったが、概ね合理的な政治改革を要求していた。こうしたことから、三青団の責任を追及するよりも、国民政府体制の矛盾について探求する方が賢明だと言えよう。 訓政体制の問題以外に、国民党の省党部委員長李翼中は社会団体をコントロールしたことに対して、一定の責任を引き受けなければならない。省党部が舞台裏でコントロールしようとした団体として代表的なものとしては、政治建設協会が挙げられる。政建協会は省党部の協力を得て成立し、それによって合法的な地位を獲得出来た。しかし成立後には積極的に早期の自治選挙実施要求を提出するなど、省党部の完全な従属団体というわけではなかった。李翼中と陳儀は協会の態度に不満ながらも、事件発生後はなお指導者の蒋渭川に民衆をなだめるよう協力を求め、これにより軍隊派遣の時間を稼いだのであった。しかし鎮圧が始まると、政府は政建協会が事変中に公然と日本時代の退役軍人を招集し、国家を裏切ったとする理由で解散命令を下した。成立から解散まで、政建協会はずっとCC派に属する省党部が意のままにできる団体であった。抗争期間中は陳儀政府に引き延ばし策の駒とされ、利用された後には解散させられた。しかも鎮圧の殺戮過程中の傷亡者は極めて多く、大勢の幹部は行方不明となるか殺され、あちこちへ身を隠し島外に逃亡した者たちだけが運良く難を逃れることができたのである。このように、政建協会もまた最も深刻な被害を受けた社会団体だと言うことが出来る。それに比べ、半山人を主として構成された「台湾省憲政協進会」は、事件後「台湾新文化運動委員会」を組織し、その構成員の大多数が政界で成り上がったことから、この団体の責任者たちもまた最も追及すべき人々に違いないのである。 事件後、政府の検討報告はまた、メディアも事件の部分的責任を負うべきだと指摘している。「世論に不適当な影響を与えた」ことを事変の原因の1つとしているのだ。つまり、民衆の反政府行動を新聞言論が過度に鼓舞した、或いは記者が報道の自由を濫用したとしている。しかし学者の分析によると、事件発生の原因は決して新聞雑誌の言論が過度に自由だったためではない。実際、政府はメディアに対し厳格な管制を行っていたため、メディアはただ事実を報道していたに過ぎないのだ。しかし、ありのままの報道で紙面に毎日出現したニュースは、大部分が軍人の発砲、警官の紀律違反、官吏の汚職、物価高騰等などであった。社会の実情を隠匿することは出来ず、しかもニュースは急速に広まり、事件の発展に確実な影響を及ぼしたが、このことからメディアが事件拡大に責任を負うべきとは認められない。事件拡大の原因としてもう一つ、矛先がラジオ局に向けられることがある。政府は、処理委員会成立後に各地の無線ラジオ放送局が民衆に占領され、その放送内容が台湾人民の反政府感情を鼓舞し、台湾同胞の排外的な怒りを高めたと考えていたのだ。このような非難告発は完全に一方的なものであり、事実は地方名士と一部の官吏がラジオ放送局へ赴き、民衆に冷静になるよう呼びかけたのであった。 メディアの責任を追及しようとするならば、最も問題とされるべきは中央通訊社である。国民党政府による訓政統治体制の下、党運営の中央社は情報収集機関として利用された。戦後中央社は台北支社を設立し責任者を葉明勲とした。主な仕事は台湾で取材したニュースを南京本社に伝えることであった。しかし、最近見つかった幾つかの「中央社秘密電報原稿」を研究者が分析したところ、その報道は完全に陳儀政府側、更には軍サイドの立場に立ったもので、電文には絶えず外省人が殴打されたニュースが見られ、社会の実情或いは民衆の感情、台湾人が銃殺されたといったニュースは省略され、しかも政府に軍隊派遣を提案するものだった。中央社は南京政府が台湾政情を理解する為の重要なパイプであり、その情報は蒋介石の軍隊派遣決定に必然的に一定の影響を及ぼした。 事件に関連した人員の責任問題を追究する時、ある意味最も末端の役割を演じた、或いは共犯の一部と見なすことが可能なのは、情報機関であり、更には上層権力機構への情報提供者である。こうした役割には、俗に言う「スパイ」並びに密告者や陥穽者が含まれる。関連史料の中で、我々は所謂「スパイ」或いは「密偵」の存在を見て取ることが出来る。こうしたスパイが情勢を激化させたと見られる事例は多くの史料中に散見され、中には信用出来るものもある。そのうち、最も顕著な事例として次の三つがある。まずは、中山堂での会議期間中、処理委員会が32条の原案を42条乙節とするよう要求したことである。次ぎに、3月8日、円山一帯で所謂「暴動民」が海軍事務所等の機関を攻撃したとする話。最後に、福建省台湾監察使の楊亮功が台湾を訪れた際、基隆から台北への道中に「暴徒」に狙撃されたとするものである。 3月8日以後、軍隊が台湾に到着し鎮圧及び殺戮を行う中、当局は多くの暴動への直接参加者或いは反抗者を逮捕、殺害した。しかしいずれの暴動にも関与しなかった、社会を導いていくべきエリートである多くの人民代表、教授、弁護士、作家、医師、記者らもほぼ同時期に逮捕され、殺された。3月20日から、長官公署は全島各地で所謂「農村討伐」行動を展開し、連座法による脅迫によって、民衆に武器と「悪人」を差し出すよう要求した。「農村討伐」の過程において、各地で絶えず逮捕者が生まれ、死刑が執行された。しかもそのほとんどは公判を経ていなかった。大粛清の背後には、多くの密告者や陥穽者が隠れている。密告者たちは連帯責任を恐れたこともあるのだろうが、往々にして、この機会に乗じて公事の名を借り私憤を晴らし、また政治闘争を進めたのである。 スパイ、密告者、陥穽者の行為の多くは公開されておらず、実名を知ることも、その具体的な身分を議論することは難しい。そのため、具体的な個人の責任を追及することは相当困難である。たとえ実名或いは具体的な身分が判明したとしても、当時密告或いは陥穽を弄したいう具体的証拠を掌握することは極めて難しい。しかし、私達はたとえこれらのスパイ、密告者、陥穽者の具体的な身分を掌握出来たとしても、全責任を彼らに負わせるべきではない。これらのスパイ、密告者等が提供した情報は、ただ上層の情報治安部門及び統治者が参考とするために提供されただけであり、上層の情報治安部門と統治者こそ証拠確認の責任を負うべきだったからだ。もしも彼らが情報を精査せず、ひたすらスパイ、密告者、陥穽者の一方的な情報を採用した結果、災いを引き起こしていたのであれば、その責任は情報提供者よりも重くあるべきである。更に、統治者がスパイを潜伏させて情勢の激化を試み、ある種の政治的目的の達成を図ったのならば、スパイ或いは潜伏者はただの道具に過ぎず、主謀者たちは当然ながら更に大きな責任を負うべきなのである。
著者:陳志龍 二・二八事件は1947年の発生以来現在(2006年)まで、既に59年が経過している。台湾の刑事司法の実務家たちは二・二八事件に所謂「刑事責任」は無く、所謂「元凶責任」も無く、また所謂「犯罪行為」も無いと考えているが、これは当然国内の思想状況と大きく関係している。これまでの「固定観念」を打ち破り、「人権」思想の啓蒙を経てこそ、二・二八事件の「刑事責任」の問題へ立ち戻ることが可能になるのである。 「権力者の立場」から事件の本質を見ると、それは正当化された行為であり、純粋に「行為の本質」から事件を観察したものであって、「平等の原則」の観点から加害者と被害者を対処したものではない。こうした観点を持つ法律人は、民主時代の憲法が要求する「人権の保障」という思惟が甚だしく欠乏していると言える。 司法改革は、まず「人権思想」による啓蒙に立脚すべきであるが、台湾の司法改革は法律人が当然なすべき「人権に関する思惟」をいまだに行っていない。所謂司法改革における本質とは、司法の「自由化」、「理性化」であり、それこそが鍵となるべきであるのに、司法改革中これまで、改革のポイントして「司法システムの理性化、自由化」が提唱されたことはない。 もし台湾が二・二八事件の刑事法律責任を検討しないと言うならば、台湾政治においては「政権交代」が行われたものの、過去の「強権国家」の「政府犯罪」に対し、これを顧みなかったり、検証しないのは民主法治国家の正道ではなく、これで法治と言うのであれば風刺的ですらある。逆に、もし台湾の法曹界が二・二八事件の刑事責任について深く検証するのであれば、台湾は「人権保障」が成された法治国家にふさわしい刑事司法を行っていると言えよう。そのゆえに、台湾の法曹界が二・二八事件に関連する法律問題を真剣に討論できるか否かは、台湾が「民主的法治国家」或いは「非民主的法治国家」であるかを分かつ重要な指標であると言える。 「生命権の保護」という法律価値システムの重要性とこれに関する検討は、台湾の刑事司法実務の重要な任務である。今日まで、国内の刑事司法実務は二・二八事件に関わる行為や行為者、被害者、証人について能動的且つ持続的な調査や証拠保全、情報収集活動を行ってこなかった。 具体的には、もし刑事司法システムが「二・二八事件元凶の責任追究」の具体的プログラムを展開出来れば、「人権保護の確保」が可能になる。 二・二八事件は、一般人による犯罪ではなく、「絶対的権力」を擁した統治者による行為であり、政府自身が犯罪者なのである。このような犯罪は所謂「政府犯罪」(Regierungskriminalität)と呼ばれる。 政府機関が犯罪者である場合、当該統治者の権力以上の実力を持つ者がいて、はじめて対抗可能となる。これもまた政府犯罪を訴追する上で直面する困難な点である。 政府犯罪と一般犯罪(非政府犯罪)との差は、政府犯罪の行為者が統治権力の掌握者であり、行政、立法、司法等の権限をも包括する点にある。しかし時には法の枠組みを超えて、国家権力を濫用したり、公権力に働きかけて恣意的行為を行うことがある。暴力を伴う恣意的行為か経済的な恣意的行為かに関わらず、「政府権力の濫用」と密接につながっており、これも「政府犯罪」の特色である。 政府犯罪は権力濫用を伴う。その規模は一般犯罪と比較することはできず、訴追されない特権を有する。政府犯罪には以下のような特色がある。 第一、犯罪行為者が政府権力を有する。 第二、政府犯罪は公権力による犯罪行為であり、国内ではその絶対的権力により優位に立つ。 第三、政府犯罪は、唯一犯罪者が政権を追われた時にのみ訴追を受ける可能性が有る。 次に現行刑法の時効の解釈問題について論じる。殺人罪については公訴時効を規定しているが、その対象は「一般犯罪行為」に限られている。時効の成立は刑事司法機関が一般犯罪行為者に対し「訴追可能な時期にそれをしなかった」状況を指す。 しかし「政府犯罪」の特性から見るに、当該政府が依然政治権力を有する場合、司法機関は政府犯罪の行為者に対して「訴追可能にも関わらず訴追しない」のでなく、「訴追できないため訴追しない」のである。つまり「公訴時効」の主旨に一致しない状況であると言える。何故なら訴追権の時効の示すところは、「訴追可能な時」を時効成立に向けた起算点とするが、政府犯罪は「訴追不可能」の状況であるので、いかなる時効も成立しないからである。 我国の刑法における公訴時効に関する規定では、殺人罪についても依然時効が認められており、この規定は「生命権の保護」に抵触しているように思われる。刑法の時効規定条文を修正することなく、二・二八事件の虐殺行為の訴追を考えた場合、「統治権力に関わる現実的な問題」に突き当たる。「統治権」が存在する場合、刑事司法機関は「政府犯罪者」の訴追が全く不可能であり、「訴追可能にも関わらず訴追しない」という状況であるとは言えない。言うなれば、この状況下では訴追の可能性すら存在しないため、時効は起算されていないと考えるべきなのである。 また、民族虐殺の訴追については、法的手続きに入ることが、誰が犯罪行為者であるかを明確にする助けになり、行為者以外の外省人が冤罪を被らずに済むのである。 二・二八事件における虐殺行為の刑事責任検討は次の3つの重大な意義を有する。 1)事件の再発防止 2)人権に関する啓蒙と人権思想に基づく司法の遂行 3)アジアの強権的政治に対する警告 アジアでは未だ強権的政治が横行しており、武力鎮圧をもって騒乱の解決を図るケースや、甚だしきは血で血を洗う方法をも排除していない。例えば、「流血を伴った天安門の手法」は、アジア政治における悲劇であり、地域の民主化、理性化の流れにおいて、負の指標としての意義を持つ。アジアにおいて「人権の普遍性」(universalität der menschenrechte)を浸透させることは急務である。ある文化的伝統の下では「人権の実現」(die Realisierung von Menschenrechten)は比較的容易であるが、別の文化的伝統の下では困難を伴う。しかし、「人権の普遍的価値」が広く認められる中、人権そのものと人権の実現を相互に無関係なものとして、ないがしろにしてはならない。「哲学上の人権問題」は欧州における古い問題ではあるが、現代欧州の人権思想の実践、そして「人間の尊厳」の確立とその実現へ向けた実践は、ヨーロッパ人たちの「専売特許」ではなく、アジアにおいてもなしうるし、またなさなければならないのである。
著者:張炎憲 二・二八事件は戦後の台湾史上、最も悲惨な事件であり、今なおその傷跡は完全には癒されてはいない。長きに渡る国民党の権威主義体制下、事件の史料が公開されることはなく、真相の追究も出来ず、事件は台湾社会に大きな陰を落とし、消え去ることのない悪夢と成り果てた。事件に対する国民党の言い分はお決まりのものだった。歴史の解釈権を掌握した彼らは、二・二八事件は「武装反乱」、「反国家的」暴動であり、参与者は「暴徒」、「反乱者」であると見なした。1987年以降、228名誉回復運動の展開後、政府は批判を受けて、ようやく致し方なく史料を開放し、学界もまた二・二八事件の研究を開始した。今日までの研究成果は豊富であるものの、二・二八事件の責任所在を検証するまとまった著作はなかった。二・二八事件記念基金会は受難者家族の切実な期待を受け、深く責任の重さを感じ、今回の研究計画を推進することになった。学者らに討議への参加を呼びかけ、2年の月日をかけて原稿が完成した。私達は史料の実証と歴史的文脈の分析を経て、歴史に対する責任の所在とその軽重及び負うべき責任に関する整理を試みたのである。 一、二・二八事件発生の原因 国民党は、二・二八事件の発生は台湾人が日本植民地統治による「奴隷化」教育を受けために日本化して、国民党の接収に反抗したためだと考えている。さらに、日本の影響を受けたために中国文化を理解せず中国を排斥した、共産党分子が内側から扇動して台湾人と接収人員との間の溝を深めた、野心家たちが機に乗じて事件を拡大させ、収拾がつかない状態にした、ゴロツキたちもまた社会不安を煽った、などと考えているのだ。国民党の中での二・二八事件の位置付けは、台湾人が中国を脱却して主権者となるための反国家的暴動であり、参与者は暴徒、反乱者なのである。 このような国民党の固定化された観点は実証研究によるテストに耐えることは出来ない。ここ数年来の事件に関する史料公開と研究成果は、既に国民党の観点を打ち破り、二・二八事件の発生には別の歴史背景があることを指摘している。台湾に来た接収官吏は勝者の立場から台湾人を敗者とみなし、差別と敵視の心を以って、高みから台湾を統治した。接収人員が要職を占め、台湾人は下層に位置するのみで、その地位は日本統治時代と変わり無く、依然二等国民のままであった。台湾は日本による50年の統治を経て、既に近代社会へと邁進していた。台湾人はまた、近代教育の薫陶を受け、近代的な国民観念、公事を重んじ法律を守る精神を具え、中国社会と比較にならない程進歩していたが、接収官吏はこれらの事実を軽視し、逆に中国の悪習を以って台湾を管理し、汚職で法をねじ曲げ、公然と賄賂を収め、また血縁政治と特権の独占により、社会的混乱を招いた。接収官吏は資源の独占だけでなく、台湾の物資を中国へ送って利潤を貪り、台湾の米・食糧不足、物価高騰、インフレを引き起こし、生活は日本統治時代よりも更に苦しくなった。文化面でも、接収人員は台湾文化を差別し、至る所で台湾人の価値観を排除し、また抑圧したため、台湾人と中国人との間に文化認識上の対立と衝突が生まれた。これらの政治、社会、経済、文化的要素が二・二八事件勃発の原因となったのだ。1947年2月27日のタバコ事件は、ただ爆発の導火線に火をつけたに過ぎない。国民党は事件の原因を考えることなく、逆に台湾人民の民主的改革要求を抑圧し、事態を曲解し、台湾人の武装反乱と共産党の内側からの扇動による事件だと言ったのである。実際には二・二八事件は武装反乱ではなく、参与した民衆は暴徒でもなかった。そうではなくて、まず国民政府の台湾統治政策の失敗があり、民衆が抗争を通じて、改革を求めたのであった。国民政府は改革の道を考えず、反対に「武装反乱」鎮圧の名の下に、中国から軍隊を呼び込み、農村討伐、知識階級及び民衆の逮捕銃殺を行った。事件後、国民党政府は事件の真相を覆い隠し、不満分子を厳格に監視、抑制するなどして、人々が形のない恐怖におののかねばならない空気を造り出し、二・二八事件を台湾社会最大のタブーにしてしまったのだった。 二、最大の責任を負うべきは事件の元凶である蒋介石である 二・二八事件発生前、福建台湾監察使の楊亮功は1946年1月、4月、10月と3回に渡って視察のため台湾に派遣された。楊は、台湾に社会不安が広がっており、陳儀の施政は改革すべきだと報告したが、陳儀は中央政府の注視を受け入れなかった。国防最高委員会は1946年7月、劉文島を指名して「清査団」を編成させ、調査のため台湾へ派遣した。劉は貿易局長の于百渓と専売局長任維鈞の汚職の事実を指摘したが、陳儀は彼らを助け、2人は結局保釈されて追及されることは無かった。陳儀が深く蒋介石の信頼を得ていたために、これらの調査報告は全て陳儀の地位を揺り動かすことはできなかったのである。 事件発生前、国民政府主席の蒋介石は党(李翼中)、政治(陳儀)、軍(桂永清)、特に保秘局からの報告を通じて、台湾情報を掌握していた。事件発生後、中国の上海、天津、南京等にあった台湾人コミュニティ及び台湾二・二八事件処理委員会と民間人はみな、中央政府に対し台湾への派兵を行わないよう呼びかけ、更に陳儀の処罰、参与した民衆の赦免を求めた。しかし蒋介石は陳儀らの報告を信じ、3月5日に第21師長劉雨卿を指名すると、秩序維持のため台湾に派兵した。軍隊は台湾到着後、直ちに殺戮と農村鎮圧任務を展開することとなった。 3月15日、中国国民党は第6期中央執行委員会第3回全体会議を開き、3月22日の第8回会議開催までに、劉文島ら55人の連署による提案を通過させ、陳儀を免職・調査処分にした。しかし蒋介石が動いたため、この議決は取り消されてしまったのである。陳儀は蒋介石の庇護の下、5月6日に国民政府顧問へと職務を変え、翌年6月には浙江省主席へ抜擢された。高雄市民を銃殺した高雄要塞司令官の彭孟緝もまた事件後重用され、台湾警備司令官へと昇進を遂げたのだった。 蒋介石の台湾人民の実情に対する認識は浅く、台湾人の呼びかけや楊亮功、劉文島らの提案を受け入れることが出来なかった。逆に台湾人民の改革要求、不公平への抗議を、中国脱却を意図し、中国を裏切る行為だと考えたのである。そのため、派兵及びに鎮圧を行い、台湾に大きな被害をもたらしたのだった。蒋介石は国民政府主席を務める国家最高指導者であり、党、政府、軍隊に対する特権を掌握していた。彼だけが台湾への派兵決定をなしえ、また彼の支持があったからこそ、陳儀らは台湾の民意を軽視し、好き勝手に振舞えたのである。さらに、彼が黙認したからこそ、軍隊も不当な逮捕を繰り返し、審判を経ずに無辜の人々を銃殺しえたのだ。したがって、蒋介石は事件の趨勢に決定的影響を与え、鎮圧を決定した元凶として、最大の責任を負うべきなのである。 三、陳儀、柯遠芬、彭孟緝ら軍政人員が負うべき副次的責任 戦前、陳儀は蒋介石の信頼を得て1933年福建省主席を務め、1935年の台湾博覧会開催時、中華民国政府を代表して見学のため来台した。1944年4月17日には「台湾調査委員会」主任委員に任命され、台湾関連事務を担当した。1945年8月15日、日本が戦争に負けると、同月29日に台湾省行政長官へ任命され、台湾省警備総司令官を兼任した。こうした経歴から、陳儀は国府官吏きっての台湾通であるように思われる。しかし、台湾へ来た後の施政ぶりを見ると、到底台湾通と呼べる人物とは言えなかった。 国民政府の台湾接収後、国民党特務組織、中央調査統計局、国民党党部、そして孔宋集団等が次々と人員を派遣し、権力争いを繰り広げた。陳儀はこれを制止するどころか、互いに闘争するがままにさせ指導力の無さを示し、しかも人の使い方も分からず、地方政治の崩壊、軍紀の混乱を招いた。不適切な接収過程の下、日系企業は特権者たちの私有財産となり、台湾人の個人企業さえも理不尽に没収された。経済政策として統制手段を用い、専売と公営貿易制度を行ったことで、人民と利益を争うこととなり、ついに経済発展に悪影響を及ぼすようになった。これらの政策は人民の恨みを買ったが、陳儀は調整することもなく、更には部下たちをかばって責任を負わせず、結果、社会不安と人心の不満とを醸成したのである。 二・二八事件の発生後、陳儀は二面的な手法を用いた。一方で二・二八事件処理委員会の改革要求を承諾し、ラジオで台湾人民に街へ出ないよう呼びかけながら、もう一方で分裂手段を採って、蒋渭川を利用して二・二八事件処理委員会に内部衝突を造り出した。また、同時に南京政府に事実と異なる報告を提出したのである。2月28日、蒋介石に「謀略者がゴロツキと結託した」と報告し、3月2日には中央に対し、派兵して台湾の反乱を平定するよう要求した。3月6日に蒋介石へ呈した書簡には、台湾人民が中国から離れ独立したがっているのは祖国への裏切り行為だと指摘している。3月7日には、再度派兵、鎮圧の要求を行った。そして陳儀は軍隊の3月8日基隆上陸という情報を知ると、即座に豹変した。二・二八事件処理委員会の42条要求を顧みなかったばかりか、このことから中国を裏切り、独立を追求しているという罪名を着させたのである。軍隊上陸後、陳儀は庶民が銃殺されるがままにして阻止せず、しかも農村討伐を進めて無辜の人々を傷つけたのだった。 鎮圧後、陳儀は功を挙げたと自認し、地位と権力に執着を抱き、策動して台湾籍人士の連名電報を中央に呈し、改組後も台湾省主席に留まれるよう画策した。後に各方面からの非難により、ようやく転任となったが、程無くして浙江省主席へと栄転したのであった。1949年、共産党軍隊が南下し長江を越えようとした際、陳儀は大勢が決したと見て、南京上海杭州方面警備総司令官である湯恩伯に共産党に投降するよう説いた。湯恩伯がこのことを蒋介石に伝えると、陳は逮捕され、後に台湾へと送られた。そして1950年6月、「兵を惑わし逃亡した」罪により、死刑に処されたのである。 陳儀が二・二八事件により処罰されることなく、浙江省主席へと栄転したことから、蒋介石の彼に対する信頼と重視とが窺い知られる。後に銃殺刑となったのは、蒋介石に対し不実で、共産党へ身を投じようとしたことに対する処罰であり、決して二・二八事件に対する処置ではなかった。陳儀は台湾滞在期間中、台湾人に同情することなく、台湾人の主張を認めることもなかった。二・二八事件中、陳儀は配下の軍隊が不足していると見ると、妥協したかのように装って台湾人を騙した。実際には時機を待っていただけで、結局は鎮圧行動を採ったのだった。 柯遠芬は陳儀に次ぐナンバー2の人物で、警備総部参謀長を務めた。2月28日の事件発生後、事件の舞台裏で何者かが扇動していると考え、3月2日には政府の転覆を狙う者がいるとして、台湾の高度な自治、独立、委託統治等は祖国に対する裏切りである、という主張を行った。3月3日、情報統治部門責任者で警備総部調査室主任の陳達元、憲兵団長の張慕陶、国民党特務組織局台北支局長の林頂立等を召集すると、事変の舞台裏にいるはずの分子の捜査と動態の掌握を求め、反乱の平定へと備えた。3月8日、福建台湾監察使の楊亮功が増援部隊と共に基隆に上陸したが、夜中台北へ兵を運ぶトラックに乗っているところを、途中待ち伏せ攻撃された。柯遠芬はこれを台湾反逆軍の仕業と考えたが、民衆たちは警備総部が事件の拡大を欲し、台湾人のやったこととして罪をなすりつけ、楊亮功に台湾人が武装反乱を起こしたと誤解させて、鎮圧の合理的な口実を作り出したのだと考えていた。同日夜、警備総部は圓山山兵器庫で「暴徒の進撃」があったと言ったものの、民衆の側ではこれもまた捏造だと考えたのであった。 国民政府援軍到着後、警備総部はただちに前面に立って台湾エリートと民衆の殺戮を主導した。また、この機会を利用して財物の略奪を行った。板橋にあった林家の林宗賢などはすぐに略奪を受け、金銭的な賄賂を贈ってなんとか生命だけは免れた。柯遠芬のやりたい放題の行為は、楊亮功にまで「違法な殺人で悪事を働いた」と言わしめたのである。 二・二八事件発生時、彭孟緝は高雄要塞司令官を務めていたが、陰謀を抱いた分子が裏で組織立って計画的かつ政治的な意図を背景に活動していると考え、共産党による策動であると認定して鎮圧を決定した。3月5日、凃光明、范滄榕、曾豊明らが「和平条件」を寿山要塞司令部に届け、彭孟緝との交渉を要求した。彭は軍事行動の準備不足により、妥協を装い交渉を引き延ばす策略を選び、翌日改めて協議するとした。3月6日午前9時、高雄市長黄仲図、参議会議長の彭清靠、凃光明、范滄榕、曾豊明、李佛續続等6人が山へ登り、「和平9条件」を提出すると、彭は凃光明が銃を抜いて彭を暗殺しようとしたとして、凃以下の者を逮捕した。そして6日午後2時、彭は軍隊に高雄駅、高雄中学(高校)、高雄市政府と憲兵部へ進撃命令を下し、民衆が死傷する惨劇となったのだった。 陳儀、柯遠芬、彭孟緝の3人は終始鎮圧を主張した。援軍到着前には故意に妥協的態度を見せたが、その実、陳儀は事件開始と同時に武装反乱が起きたと南京政府に報告し、派兵鎮圧を要求していた。この3人共、台湾人民鎮圧の責任を負うべきであり、陳儀は更に施政上の失策、人員登用への不公正で社会不安を招いたことから、更に重い責任を負うものである。 四、その他軍政人員の責任 憲兵第4団団長の張慕陶は柯遠芬と協力し、蒋渭川に対して民衆を落ち着かせるよう誘導した。また、これによって二・二八事件処理委員会を分裂させ、内部対立と混乱を引き起こした。派兵部隊の台湾到着後、3月10日には憲兵を伴って蒋渭川を捕らえた。しかしその事も認めなかったばかりか、更に「反乱分子」の追跡、逮捕を続けるという悪辣ぶりを示した。警総副参謀長の范誦尭は、憲兵で編成された特高組と林頂立が組織した特別行動隊は重要な反乱分子の逮捕を担い、同時に警備総部と捕殺の功労を争い合ったと指摘している。 基隆要塞司令官の史宏熹は3月10日から逮捕行動を展開し、針金で逮捕者の手足を突き刺し、3人或いは5人まとめて縛って銃殺後に海中へ突き落とした。その結果、基隆港は全て水死体で満たされ、悲惨極まりない光景となった。また、3月11日には軍隊に8つの駅の包囲命令を下し、駅の鉄道従業員を銃殺した。 第21師団編成の師長、劉雨卿が担当した部隊は台湾各地で民衆の銃殺を行った。陳儀は3月21日、各地に「地方安寧保持」任務の実行を命じ、台湾を7つの地方安寧実行区に分け、「農村討伐」工作を展開した。各地の軍政人員は機に乗じてゆすりや金銭の略奪を行い、公事の名を借りて私腹を肥やしたほか、濡れ衣による殺人事件が次々に起こった。張慕陶、史宏熹、劉雨卿の3人は命じられた任務を実行しただけだといえども、見境無く民衆を殺戮し、その過程で金銭を掠め盗った。3人はこの鎮圧行動の共犯者なのである。こうした鎮圧行動の結果、改組後の台湾省政府は、各地方政府に不法行為を厳しく禁止する旨を通知しなければならなかったほどである。 五、情報治安人員の責任 戦後初期、警備総部調査室、国防部保密局、憲兵団(以上、国民党特務組織)、国民党台湾省党部調査室(中央調査統計局)等の機関は台湾各地に調査員とスパイを配置し、台湾民衆の動向を監視した。〈許徳輝呈毛人鳳──台湾二二八事件スパイ業務報告〉と関連史料によると、保密局は許徳輝に台北地区のゴロツキ250人で「忠義サービス隊」を編成するよう指揮した。表面的には治安維持を目的としていたが、実際には、「外省人」を殴打したり、「外省人」商店を焼き討ちするなどいざこざを拡大させた。また、純朴な青年学生に社会秩序維持への出動を呼びかけた後、逆に学生たちへ罪をなすりつけてスケープゴートに仕立て上げたのである。各系統の情報治安人員は事件においてそれぞれの役割を演じた。それぞれ秘密電報を中央政府へ送り、台湾事変を深刻な状況であると誇張して伝えた。特に「外省人」の被害程度を明確に示したほか、共産党党員が数百人ほどいて、事変を内側から操っていると強調した。更には事件が単なる政治改革要求でなく、権力の奪取という反国家的行為であると断言することもあった。これらの秘密電報の目的は台湾の安定を維持できない責任を逃れ、同時に陳儀の無能さを示してその威信に打撃を与え、そこから利を得ようとするものであり、更には派兵と武力鎮圧を要求する理由にしたのである。南京政府はこうした誇張された情報を受け取って派兵鎮圧の決心を強めたのみで、台湾の政情改善を助けようとはしなかった。 国民政府軍の台湾到着後、監察委員の何漢文と21師団副官処長の何聘儒の指示の中には、党、政府、軍、憲兵、警備総部による報告会議の開催、進歩的人士の調査、ブラックリストの作成、各地での問題分子の捕捉、暗殺などがあった。こうした指示の下に殺害された人民は千人を下らない。日ごろ情報治安人員は陰で台湾民衆の言行を監視する役を演じたが、事件勃発後は、情報を手に入れると内側から煽動し、後に罪をでっち上げて逮捕銃殺するための証拠とした。誇張されたネガティブな報告及び獲物を捕えようとする貪欲な姿勢を見せた情報治安人員は、共犯の責任を担うべきである。 六、半山の責任 所謂「半山」とは台湾出身者で、日本統治時代に中国へ渡って国民党に加入し、国民政府と国民党の中で働いた者を指す。半山が持つ特殊な中国経験は、本土人のそれとは比べようがなかった。こうした特殊な背景により、国民政府は台湾接收後、半山を台湾統治において重用した。半山は本来なら中国政府と台湾社会間の橋渡し役を演じるべきだったが、実際には戦後多くが要職を担当し、接收の受益者となった。台湾の本土エリートとの間で権力や利益を巡って競い合う関係になり、好ましい仲介者を演じることは難しかったばかりか、本土人を排斥することさえあった。国民政府官吏もまた全面的に半山を信頼していたわけではなかったが、政策決定上の重要な地位を与えた。半山は中国接収官吏の随従者を演じることしかできず、両者の間には上下関係が成り立っていた。 二・二八事件発生後、陳儀は省参議会議長の黄朝琴、省参議会事務総長の連震東、国民大会代表の李萬居、国民参政員の林忠実等、半山を調停役として用いた。これらの半山の多くは陳儀の立場に立って抗争の平定を助け、台湾民衆の立場に立つことはなく、陳儀に対して権益を求めた。 一部の半山は統治当局の重用を受け、実際に鎮圧行動へ参与し、鎮圧の共犯者となった。例えば国民党特務組織局台湾支局長の林頂立、軍職にあった華南銀行董事長の劉啓光、事件後警務処長を引き継いだ王民寧らが挙げられる。台湾の人々の間では、事件後の「農村討伐」工作に際し、半山の協力があったからこそ、軍警当局が名簿を作成し、台湾エリートたちを逮捕出来たのだと広く噂されたものである。 二・二八事件中、半山でも台湾人民の立場に立つ者もいた。当時の政府を批判して災難に遭遇した者の中には、例えば『人民導報』社長で教育処副処長の宋斐如、三民主義青年団嘉義分団主任の陳復志らがいた。国民政府にとっては、ただ素直に従う者だけが重用するに値し、抗議する者は目の敵と見なされた。たとえ中国人の「純度」が比較的高い半山でも同様に銃殺の運命に見舞われるこがあった。 七、社会団体とメディア関係者の責任 国民政府の台湾接収後、党、政府、軍、特務組織の各勢力が台湾に進入し、互いに地盤を奪い合った。台湾人が国民党の派閥や権力構造を明確に見分けられていない時期に、訓政体制の下、党と国府の派閥闘争に巻き込まれたのである。 接収時に派閥間で台湾の資源争奪が行われる中、国民党台湾省党部主任委員の李翼中は社会団体をコントロールし、押さえつける責任を負った。台湾省政治建設協会は省党部の協力を得て創立されたが、積極的に早期の地方自治選挙実施要求を行ったため、李翼中と陳儀の不満を招いたのである。二・二八事件発生後、陳儀等は指導者の蒋渭川に民衆を落ち着かせるよう求め、派兵の時間を稼いだのだった。援軍の台湾到着後、陳儀は政建協会が事件中、治安維持のため公然と台湾人の旧日本軍兵を召集したという理由で解散命令を下した。幹部の多くは逮捕された。中にはなんとか身を隠し通して海外へ逃亡して、難を逃れた者もいた。反対に半山を主とする「台湾省憲政協進会」は、事件後「台湾新文化運動委員会」を組織し、国民政府の政策を支持し、その多数の構成員は政界で成り上がっていった。この事例からも分かるように、忠実な半山だけが国民政府の重用を受けたのだった。 3月8日、国民政府軍が台湾に到着した後、新聞を始めとするメディアは清算され、『民報』社長の林茂生、『新生報』日本語版編集主幹の呉金錬、社長の阮朝日、人民導報前後任社長の宋斐如、王添灯、『大明報』編集長の艾璐生、『新生報』台中支社記者の陳要南、嘉義支社主任の蘇憲章、高雄支社主任の邱金山らが殺害された。『民報』編集長の許乃昌と総括編集長の陳旺成は指名手配されて逃亡した。『民報』、『人民導報』、『大明報』と『和平日報』は同時に差し押さえられた。これは国民政府が言論思想の自由を封じ、不満分子を抑圧した明らかな証拠である。 メディアの責任を追及するには、「中央通訊社」の責任を問わないわけにはいかない。中央通訊社は国民党の党営機関で、情報収集の職責を負っていた。戦後、中央通訊社は台北支社を設立し、責任者を葉明勲とした。その主な業務は台湾を取材したニュースを南京本社に伝えることであった。最近「中央社秘密電報原稿」が見つかり、その電文内容が陳儀政府と軍側の立場に立ち、台湾民衆の意見と社会動乱の実情を軽視し、更には南京政府に派兵、鎮圧を提案するものだったことが分かった。中央通訊社は南京政府が台湾の政情を理解するための重要なパイプであったため、その伝達情報は蒋介石の派兵決定に対し一定程度の影響を及ぼしたはずである。したがって、中央通訊者は偏った報道、真相の曲解、誤った情報の伝達に対して、責任を負うべきなのである。 八、スパイ、密告者、陥穽者の責任 統治者は常に各種チャンネルを通じて社会大衆を理解し、また監視、抑制しようとするが、スパイはその中の一つである。二・二八事件中、二・二八事件処理委員会が中山堂で会議を開催した際、潜入スパイが傍らで監視していたという話、圓山近くで3月8日、海軍事務所等の機関が所謂「暴徒」から攻撃を受けたという話、3月9日の明け方には楊亮功が「暴徒」によって狙撃されたという話がある。この三つとも軍警当局が画策し、スパイは当局が望む状況を作り出したのだ。中でも許徳輝が指導した「忠義サービス隊」は、軍隊が来台する前は治安維持の役割を装い、国民政府軍の到着後は役柄を即座に変えて、台湾人民を逮捕する手先となったのだった。 軍隊は台湾到着後に鎮圧と農村討伐を行い、「連座法」により民衆に武器と「悪人」を差し出すよう脅した。この過程の多くの殺害事件は密告者と陥穽者の報告のために引き起こされたものであった。これは恐らく巻き添えになることや密告されることへの恐怖によるものか、或いは混乱に乗じて私憤を晴らすため、または政治闘争に利用された結果とも見られる。密告者らの身分や行為の多くは公開されることはなく、事後に名前を知ること、ましてやその具体的身分を議論することは困難である。たとえ名前や身分を知ったとしても、同様に当時密告したり陥穽を弄したという具体的な証拠を掌握するのは極めて困難である。 スパイ、密告者、陥穽者は情報を提供し、二・二八事件の被害を更に拡大させたことに対する責任を有する。しかし情報治安部門と統治者が提供された情報に調査を加えることなく、投書などの一方的な言葉を鵜呑みにし、その結果被害が引き起こされたのであるから、その責任は情報提供者らよりも重くあるべきである。 九、二・二八事件による被害 二・二八事件は台湾に甚大な被害をもたらした。それには無形、有形の被害がある。多くの台湾社会のエリートたち、例えば民意を代表する弁護士や医師、司法官、検察官、大学教授、教師、商工業指導者、メディア関係者、学生、大衆らが逮捕され、ある者は戻らず、今尚行方が知れない。ある者は公衆の面前で銃殺され、死体は見せしめにされた。ある者は銃殺された場所も分からず、今も骨さえ残っていない。ある者は財産を奪われ、今尚返還されていない。その悲惨な光景は目を覆いたくなるようなものばかりで、ただただ、心が沈む。台湾のエリート階層はこうして破壊され、殆ど死傷し尽くし、生存者は姿を隠し、再度政治へ関与することはなかった。行政院の228研究グループによって推定された死亡人数は約18000人から28000人であるが、依然として確実な数字は掌握は出来ていない。 無形の被害は推定が不可能である。二・二八事件発生後、国民政府は農村の討伐を行い、敵対者を捕え、社会は不安な空気に覆われることになった。誰もが狼狽してどうしていいかわからなくなり、台湾人は事件について話をしようとしなくなったのである。二・二八事件を経験した世代の人々は子供たちに対し、「耳が有っても口はない」、つまりは多く聞いて話は少なく、そして政治に関わらないよう言い聞かせた。二・二八事件はタブーであるだけでなく、歴史の集団的記憶の喪失であり、台湾人はその気高い誇りを失い、国民党の権威主義的統治に服従したのであった。国民党もこうした状況に乗じて様々な障害を取り除き、積極的に中国化政策を推進し、文化的な覇権を築き、台湾本土文化を抑制した。そして1950年代以降の白色テロ時代を迎えることになった。 十、人権と社会正義 二・二八事件は台湾最大のタブーであり、国民党の党国一致体制の下、このタブーに公然と挑戦する者はいなかった。1980年代になってようやく民主化運動が盛り上がった後、228正義平和運動が国民党権力に公然と挑戦するようになった。二・二八事件名誉回復運動の過程は衝突や対立で緊迫に満ちながらも、三つのタブーを打ち破ることに成功した。一つは政治タブーの打破である。二・二八事件はもはや武装反乱、暴動であり、暴徒、反乱者の仕業とは見なされなくなったのである。二つめには歴史タブーの打破であり、これにより二・二八事件は公開研究されるようになった。台湾史研究にタブーはなくなり、国民党の党国一致権威主義体制による歴史観に挑戦することが可能になった。三つめは文化タブーの打破である。作家や芸術家たちはもう逃避することなく、二・二八事件を題材として、台湾の文化的特色を備えた作品を創作するようになった。この「三つの打破」は二・二八事件を台湾の重要な歴史的資産へと昇華させたのである。 民主化への過程で、二・二八事件に関するタブーは解消された。事件は、元々台湾歴史文化上の一大事件であったのに、国民党の党国一致権威主義体制による影響が台湾社会に浸透したため、人々は中国政治の伝統的な人治思想によって、人物評価をするようになり、統治者の外面を良く見せ、その罪を免除し、蒋介石の派兵決定は陳儀等の誤った情報と欺きによるものだと言うようになった。また第2次世界大戦後、すぐに国民党と共産党が対峙しため、国民政府が強硬な鎮圧を採取したのは、止むを得ない苦渋の判断であったとか、台湾人が先に「外省人」を殴打したからこそ、「外省人」が後に報復したのであるとか、或いは、第2次世界大戦後、中国各地で多くの抗争が発生し鎮圧がなされたのであって、二・二八事件の如き事件は台湾だけに発生したのではなく、また中国の王朝交代時に常に発生する殺戮、鎮圧であるので、二・二八事件は取り立てて大きな事件とはいえないという言い方がある。これらの言い分はみな統治者のための弁解であり、民主、人権理念の思考の上に立ったものではない。1970年代には新しい人権理念が弱者の教育、歴史、文化権を尊重するよう強調し、弱者の権益を守るようになった。事件当時の台湾人民は統治される側で、弱者であった。主導的地位にあった国民党政府は、当然人民の生活に配慮し、人民の声に耳を傾けるべきであった。改革要求に直面した際、これを謙虚に受け入れるべきであったのに、国民党はそうしなかったばかりか、公権力を濫用して派兵、鎮圧した。さらに事後には国家による暴力行為を正当化し、統治されていた台湾人民に罪を転嫁したのである。権力者の暴虐さと尊大さに満ちたこうした態度は人権、民主、自由といった普遍的原則に背くものである。 台湾は民主主義の変革期にある。これまでの民主化に伴う多くの成果は誇らしいものであるが、社会正義の実現は相変わらず政治的現実や族群間の調和、寛容という名目の下で軽視されている。また、衝突と社会不安が再び起こることを恐れるがあまり、統治者の歴史的傷害に対する追及に及び腰になっている。しかし歴史の真相を正視しないことには、事件の落とす暗い影から抜け出し、国民が相互に思いやることはできないのである。政治上は和解することができても、これを以って歴史の問題を解決することは出来ない。そこで私達は二・二八事件で人民を鎮圧、虐殺した元凶と関係者について検証を加えた。そして、事件の反省を通じて社会正義と公正な歴史が台湾にもたらされ、台湾人民が痛ましい歴史の教訓を心に刻み、共に民主化の成果を慈しむことができるよう願っている。同時に私達は、二・二八事件が歴史研究者だけでなく、研究領域の垣根を越えて共同で研究する対象であることを望んでいる。民法学者の黄茂栄と刑法学者の陳志龍は、二・二八事件の鎮圧者は歴史的な責任を負うだけでなく、刑事的、民事的責任も負うべきであると指摘している。第2次世界大戦後、ユダヤ人がナチスのホロコーストの責任を追及したことは、人々が歴史事件に対処する際に参考とすべき優れたケースであり、台湾の歴史もこのような省察を必要とする。そうしてこそ、人権と社会正義が台湾へ根を下ろすことができるのである。