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展示

「土地に刻まれた傷跡:二・二八事件の遺跡-北部地区」特別展
銃声のその後に

更新日:
2021-07-13
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会期:2021年5月20日(木)~2021年8月15日(日).毎週月曜日休館

開館時間:10:00~17:00(入場は閉館の30分前まで)

会場:二二八国家紀念館 二階南翼/台北市中正区南海路54号

後援:内政部

主催:二二八事件紀念基金会、二二八国家紀念館

共催:台北二二八紀念館

主管:社団法人台湾共生青年協会

簡介

 1947年に発生した二・二八事件は、台湾社会に決して拭い去ることのできない傷跡を遺しました。その事件の舞台になった場所や建物には、歴史の記憶が刻まれ、二・二八事件を知る手がかりを伝える「二・二八遺跡」となっています。

 こういった遺跡には、公的機関の執務場所や一般市民の暮らしと密接な関わりを持つ場所、そして人々が実際に迫害を受けた場所があります。今回の展示では空間を軸に、公文書などの文献や口述記録で描写されている場所、建物、経路をたどり、点と線、面からより具体的に歴史的な事件の姿を繋ぎ合わせました。

 二・二八事件に関連して起きた事件について、時系列と発生地点の2つの視点から3回に分けて展示を行います。第一回は戦後まもない1947年2月に事件が発生した台北市天馬茶房での闇タバコ取締り暴行事件から、同年3月1日の臨時戒厳令まで。第二回は台北市以西、淡水河以南の台湾北西部のそれぞれの場所において、台北で起きた事件を受け、各地の人々が時局への対応策を話し合い、集まって議論した場面。そして3月8日に国民政府軍が中国から台湾に上陸したのちに各地で展開された鎮圧作戦と掃討作戦の状況まで。最後の第三回は台北市以東の台湾東北部および台湾東部の宜蘭や花蓮における市民と政府との間で繰り広げられた出来事、特に基隆港での陸軍第二十一師団上陸後の機銃掃射、及び銃殺刑により多くの人々が死傷した場面を取り上げます。全三回の展示に登場する遺跡は、台北周辺から基隆、桃園、新竹、苗栗、さらには台湾東部の宜蘭、花蓮などに及んでいます。

第二回:銃声のその後に
展示期間:2021年5月20日~8月15日

 1947年3月1日、住民の代表らが闇タバコ取締り暴行事件の処理委員会を組織。翌3月2日には二・二八事件処理委員会と改組され、中山堂でさまざまな立場の代表者による会合を開催し、事件の平和的な収拾を目指しました。4日には台湾全土の17の県や市で処理委員会が組織され、状況は一見好転するかに見えました。しかしながら、各地で処理委員会が成立された同時期に、行政長官公署長官だった陳儀は中国からの派兵を蔣介石に要請していたのです。陳儀は、対外的には武力による鎮圧は行わないと表明していたにもかかわらず、一方では中央政府(当時は中国南京)に支援を要請し、台湾での兵力配備を進めており、事態は平和的に収拾できない方向へと進んでいったのでした。

  • 台北市警察第一分局|台湾新文化運動紀念館

  • 台北商業学校|国立台北商業大学

  • 台北工業学校|国立台北科技大学

  • 台湾省立法商学院|台湾大学徐州路キャンパス

  • 延平学院|開南中学

  • 板橋中山堂|板橋区公所

  • 淡水中学|淡江中学

  • 関渡埔頂|関渡埔頂

  • 淡水沙崙|淡水沙崙

  • 桃園駅|桃園駅

  • 新竹県政府|合作金庫銀行桃園分行(支店)

  • 新竹県警察局桃園分駐所|桃園市新住民文化会館

  • 桃園景福宮|桃園景福宮

  • 新竹都城煌廟|新竹都城煌廟

  • 新竹市政府|新竹市政府

  • 台湾新竹地方裁判所|台湾新竹地方法院新竹簡易庭

  • 二・二八事件処理委員会新竹分会|新竹中学

  • 新竹旭橋|成功橋

  • 後龍駅|後龍駅

  • 憲兵第四団|第一銀行資訊大楼と私有駐車場

  • 台湾省警備総司令部第二処警衛大隊看守所|獅子林商業大楼

  • 台湾高等裁判所|司法大廈

  • 台北植物園|台北植物園

  • 台湾省警備総司令部労動訓導営|国防部海軍司令部

  • 川端橋|中正橋

  • 台北橋|台北橋

  • 南港橋|南港橋

結集せよ 声をあげよ

 闇タバコの取締りから始まった民衆の抵抗は、1947年2月27日、28日の2日間続きました。行政長官公署前における官民の衝突は流血事件に発展、台北の市街地では次々に騒動が起き、行政機能はまひ状態に陥りました。28日午後、警備総司令部は台北市に臨時戒厳令を発し、集会やデモを禁止しました。武装した軍人や警察が市内を巡回し、通行人に向けて機銃掃射することさえありました。政府に抗議する市民らは、台湾広播電台からラジオ放送を通じて二・二八事件を台湾全土に向け知らせました。台北市街地での官民の衝突を受け、台北県(現在の新北市)や基隆などでも市民による抗議活動が繰り広げられました。こうした状況を見た各界の代表者が表に立ち政府側との交渉にあたりました。28日夜、省参議員の王添灯、省参議会議長の黄朝琴らはラジオを通じて、政府との交渉を見守るよう相次いで市民に訴え、事態の悪化を防ごうと試みました。

 3月1日午前、台北市参議会は国民大会代表、省参議員、国民参政会参政員らを招集し台北市中山堂において「緝煙血案調査委員会(闇タバコ取締流血事件調査委員会)」を結成、周延寿、王添灯、林忠、黄朝琴らを行政長官の陳儀との交渉にあたらせ、戒厳令の解除、銃発砲の禁止、共同での処理委員会結成、拘束された市民の釈放などを要求し、事態の収拾を試みました。ところが、この要求を受け入れた陳儀は、ラジオを通じて戒厳令の解除を宣言する一方で、抗議活動やストライキを禁じるなどし、市街のあちこちで銃声が止むことはありませんでした。

 3月2日午前、延平学院、師範学院、法商学院ら高等教育機関の学生が中山堂に集まり、陳儀による腐敗政治の打倒を呼びかけました。同日午後、「緝煙血案調査委員会」は官民による共同組織「二二八事件処理委員会」へと改組され、中山堂で会議を開きました。会議では、台北市参議員の張晴川が、直前に行われた陳儀との会談について報告し、商工団体や市民、学生、組合、台湾省政治建設協会から代表が選出され、引き続き事件の処理について話し合いが行われました。行政長官公署からは民政処長の周一鶚、警務処長の胡福相ら官僚5人が処理委員会に参加、市民に向け、政府が交渉に応じ政治改革にも取り組むとの姿勢を見せました。しかし、陳儀は同日、台湾で動乱が発生したことを南京にあった中華民国中央政府に打電し、現時点で駐軍する軍事力では平定が難しいとして台湾に兵力を速やかに派遣するよう求めたのです。

▲陳儀が事件直後の3月2日に南京中央政府に兵力派遣を要請した打電文。国防部の陳誠参謀総長に「暴徒を粛清し南顧の憂いを排除せんがため、より優秀な歩兵を一個旅団、少なくとも一連隊を速やかに台湾に派遣されたし」と要請している。

台北市警察第一分局
遺跡紹介

 1920年、台湾総督府が大稲埕の日新町に設置した台北北警察署(略称・北署)で、北門以北の派出所を管轄しました。同署は、1933年に2階建ての新庁舎(現在地)に移転し、1階には扇形の拘留室、水牢、鞭刑室が置かれました。戦後、1945年、国民政府により接収され、台北市警察局第一分局と改称され、1949年には台湾省警務処下の刑事警察総隊に、そして、1990年には台北市警察局大同分局となりました。1998年、台北市の市定史跡に指定され、2012年、大同分局は隣接する錦西街200号に移転しました。2014年より史跡修復工事が始まり、日本統治時代の台北北警察署の姿が甦りました。2018年には台湾新文化運動紀念館として開館、展示や講演などのイベントが随時行われています。

事件の概要

 1947年3月3日午後、二二八事件処理委員会治安組は、台北市臨時治安委員会を開き、「忠義服務隊」の組織を決議し、許徳輝を総隊長に推挙、この台北市警察局第一分局を事務所としました。許徳輝率いる社会隊と、副総隊長の廖徳雄(当時の学生自治会聯合会会長、処理委員会治安組副組長)が組織する学生隊が昼夜交替で台北市の治安維持にあたりました。ところが、実は忠義服務隊は政府によって組織されたもので、許徳輝は警備総司令部の指揮を受け組織の画策を行うとともに、陳儀の命をも受けてスパイ工作を行っていたのです。

台北商業学校
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遺跡紹介

 1917年に設立された台湾総督府立商業学校です。校舎は台北州立台北第一中学校(現在の台北市立建国高級中学)と同じ場所にあり、1922年に州立台北商業学校と改名、夜間講習所が増設されました。1924年、総督府の指示により現在の場所に移転、1936年に同校内に州立台北第二商業学校が増設されました。戦後の1947年、この二校を統合し台湾省立台北商業学校となりました。校舎は何度も改築されたため、建築当時の面影はありません。

事件の概要

 1947年2月28日、台北商業学校の学生の一部が市民とともに街頭での抗議に参加しました。3月1日、台北市参議会は各界に呼びかけ「緝煙血案調査委員会」を組織しました。台北商業学校の学生、廖徳雄は学生代表3名の一人で、同校のその他学生も治安維持のための活動に積極的に加わりました。3月3日、廖徳雄は忠義服務隊の副総隊長として台北商業学校の学生を第八分隊として編成し、艋舺分局周辺の治安の維持を担いました。

台北工業学校
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遺跡紹介

 1912年に台湾総督府が大加蚋堡大安庄(現在の場所)に開設した民政局学務部附属工業講習所です。1918年、日本人学生が学ぶ台湾総督府工業学校が増設され、1923年に二校を統合して台北州立台北工業学校と改称、戦後は台湾省立台北工業職業学校となりました。校舎は当初、多くが木骨レンガ造りでしたが、1930年以降、次々とコンクリート建てに変わっていき、その後も何度も改築されたために、旧校舎はほとんど残っていません。唯一、昔の面影を残す思賢楼は1998年に台北市の史跡に指定されました。

事件の概要

 1947年2月28日、台北の市民は闇タバコの取締によって起こった流血事件に憤慨し街頭で抗議を行い、台北工業学校の学生らも抗議デモに参加しました。抗議デモの隊列が行政長官公署に着いたとき、衛兵の機銃掃射に遭いました。銃撃を受けた同校の学生呉炳煌は、のちに機銃掃射時の様子を絵画「長官公署前の銃声」として描き残しています。

 台北工業学校の学生らも、台北の治安維持に積極的に協力しました。3月3日の忠義服務隊が結成され、各校の学生は8個分隊に分けられ、台北工業学校は第四分隊を担いました。

台湾省立法商学院
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遺跡紹介

 1919年、台湾総督府高等商業学校が開校しました。1926年には台北高等商業学校と改称され、主に台湾及び南洋地域の経済について研究が行なわれていました。戦後、1946年に省立法商学院となり、翌1947年には台湾大学法学院に移管されました。建物はレンガ造りの新古典主義建築で、保存状態もよく、現在は台湾大学の生涯教育部門が管理する空き校舎となっています。1998年に台北市の史跡に指定されました。

事件の概要

 1947年2月28日、闇タバコ取締に端を発した流血事件に対する群衆の街頭での抗議に、法商学院の学生も加わりました。3月2日、延平学院、台湾省立師範学院、法商学院などの学生が中山堂に集まり、「学生隊」を組織して治安維持にあたることを決定。また、別の学生たちは武力抵抗をするための「学生軍」を組織する準備をしました。元日本兵だった李中志は、台湾大学医学部の郭琇琮、法商学院の陳炳基、延平学院の葉紀東と連携し、3月4日に三個大隊を組織しました。第一大隊は陳炳基が率い建国中学に、第二大隊は郭琇琮が率い師範学院に、第三大隊は李中志と楊建基が率い、そのうち延平学院の学生らは葉紀東が率い台湾大学本部にそれぞれ結集しました。また、士林、円山の労働者は別途一個大隊を結成し、桃園方面からも武装した大隊が応援に駆け付けるべく準備を進めました。しかし、計画は頓挫し、具体的な行動を起こす前に解散。陳炳基は後にこの行動に参加したことで、台湾大学から退学処分を受けました。

延平学院
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遺跡紹介

 日本統治時代に日本で学んだエリート、朱昭陽が台湾の人材を育てるために1946年9月に延平学院を開校し学生の募集を始めました。校舎は一時的に開南商工職業学校のものを借り、夜間に授業を行いました。同10月に開校式典が行われました。

 1947年3月、二・二八事件が全土に広がるなか、国民政府軍は校内で武器を発見したとし、延平学院を一旦閉校に追い込みました。1948年9月、「延平高中補習学校」の名で復活し、1953年には台北市建国南路一段に新たに校舎が建設され、現在に至ります。

事件の概要

 1947年、二・二八事件の際、延平学院の学生は治安維持に参加する者もあれば、学生軍の組織を計画する者もありました。葉紀東らは台湾省立師範学院、法商学院などの学生と三個大隊を組織し、武力抵抗の準備を進めていましたが、この計画は未遂に終わりました。

 3月9日、国民政府軍の援軍が台北に入り、延平学院の校内で武器と「興華共和国」旗を発見したとして、学校の閉鎖を命じました。3月20日、警備総司令部は、「正しく運営されておらず、かつ未許可である。二・二八事件の際には、一部学生が反乱に参じ、極めて不法である」との理由で延平学院を閉鎖させました。

処理委員会拡大改組し、各地で続々結成

 1947年3月4日午前、台北市の処理委員会は、同委員会を台湾省の全省的な組織へと拡大改組することを決議します。そして、当時17の県市にあった参議会に対し、現地での騒乱を収めるため、各地で処理委員会の分会を緊急に組織し、代表を任命し台北の全省的な処理委員会に派遣するよう通知しました。これを受け、各地で相次いで処理委員会が結成されていきました。同日、台湾学生聯盟は中山堂で大会を開き、大会後に学生軍を組織しようとしていましたが、実行に移されることはありませんでした。3月5日、台湾省自治青年同盟が中山堂で結成されます。また、同日、全省的な処理委員会が中山堂で臨時大会を開き、組織大綱及び8項目の抜本的な政治改革案を可決しました。3月6日には結成大会が開かれ改組が完了し、17名の常務委員が選出されました。

▲1947年3月5日、二二八事件処理委員会は、陳逸松委員を議長として臨時大会を開きました。国民大会代表、参政員、省参議員、台北市参議員、各界の代表が参加し、組織大綱草案を討論、決定し、8項目の抜本的な政治改革草案を決議しました。

北部と東部14カ所における二二八事件処理委員会の分会結成状況:

台北市
  • 3月4日:台北市処理委員会を改組し全省的な組織に。

  • 3月5日:処理委員会が臨時大会を開き、組織大綱、8項目の抜本的な政治改革案を可決。

  • 3月6日:処理委員会成立大会を開き、17名の常務委員を選出。「告全國同胞書(全国の同胞に告ぐる書)」を発表。

  • 3月6日:台北市分会を結成。

  • 3月7日:処理委員会が「32条の処理大綱及び10項目の要求」を決議。同日夜、陳儀はこれを拒絶。

  • 3月8日:処理委員会が決議案を撤回。「32条の処理大綱及び10項目の要求」は省民全体の意思ではないと声明。

新北市(旧台北県)
  • 3月4日:淡水分会結成。多くが政治建設協会のメンバー。

  • 3月6日:板橋支会が板橋の中山堂において結成。

  • 3月7日:台北県分会結成。

基隆市
  • 3月4日:基隆市分会が市参議会において結成。

宜蘭県
  • 3月5日:宜蘭分会が開化楼にて結成。

  • 3月6日:宜蘭分会は主任委員に郭章垣を選出。5項目の要求を全省的な処理委員会に提出。

  • 不詳:羅東分会が歯科医師の陳成岳の主導で警察局の武器を接收し、地方の秩序維持にあたる。

花蓮縣
  • 3月4日:情報機関、国防部保密局の情報によると、鳳林鎮の鎮民が青年を集めて集会を開催。同日、鎮長の林茂盛が鳳林分会を結成経済部長となった陳長明がビラを印刷し、海外から台湾に戻った青年を集め青年団を組織。6日、各区の警察署及び軍用倉庫を、7日には農林処花蓮農場穀物倉庫を接収。

  • 3月5日:花蓮分会が花蓮県中山堂にて結成。青年団の幹部、馬有岳が主任委員となり、12項目の要求を提示。

  • 3月7日:花蓮分会が「不流血、不(台湾)独立、不共産化」の3項目の処理原則を提示。

桃園市
  • 3月1日:保密局の情報によると、中壢分会が張阿満、陳徳星、林添奎らによって結成。

新竹市
  • 3月2日:新竹市分会が新竹中学において結成。

  • 3月5日:新竹市分会が10項目の提案を決議し、処理委員会に提出。

新竹県
  • 3月7日:新竹県分会結成。総務、治安、食糧の三部門に組織を分け、黄運金が責任者となった。二・二八事件の際は、総務部が治安隊維持のため、民間から財物を徴収。

苗栗県
  • 3月7日:情治(情報・治安)報告によると、豊春医院の院長で苗栗後龍郷の郷長だった蔡咸陽が郷民を集め、青年自治同盟と処理委員会後龍分会の組織を決議。

板橋中山堂
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遺跡紹介

 1933年5月に落成した板橋公会堂です。1945年、国民政府により接收され、板橋中山堂に改称されました。もとの建物は1980年に取り壊され、現在の6階建ての市政大楼(ビル)に建て替えられました。1983年、板橋市公所(市役所)がここに移転、執務を行っています。2010年、台北県が直轄市の新北市となったことで板橋市公所は改組され板橋区公所となりました。

事件の概要

 1947年3月6日午前、200余名の板橋鎮の鎮民と青年が板橋中山堂に集まり、鎮長だった林宗賢を議長として処理委員会板橋鎮支会が結成されました。王以文を主任委員に、游石虎を副主任委員に推挙するとともに、地元の治安維持にあたるべく板橋鎮保安隊を組織しました。

淡水中学
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遺跡紹介

 1882年、カナダの長老派教会宣教師だったジョージ・L・マッケイ(馬偕、偕叡理とも)が滬尾(淡水の旧名)に開校した「理学堂大書院」で、またの名を「牛津学堂」といいます。1914年、長男、ジョージ・W・マッケイ(偕叡廉)牧師が牛津学堂の跡地に淡水中学校を設立。1922年に私立淡水中学と改名し、1925年に現在の場所(原校舍そば)に移転しました。1936年に台湾総督府により接収され「私立淡水中学校」と改称、戦後の1947年4月には「私立淡江高級中学」となりました。2007年、キャンパス内に「埔頂二二八蒙難紀念碑(蒙難=受難)」が建立されました。

事件の概要

 二・二八事件が勃発すると、一部市民が淡水中学に入り、日本統治時代に軍事訓練用に使われた銃を奪取し淡水郊外の守軍への攻撃を試みます。1947年3月10日、国民政府軍が淡水に入り、淡水中学の学生だった郭曉鐘は友人を訪ねようと街頭にいたところを撃たれて死亡しました。陳能通校長と訓導主任だった黄阿統は知らせを受けて、郭曉鐘の遺体を校内へ運んで安置します。翌日午前、黄阿統主任は郭曉鐘の遺体を気にかけてキャンパス内の寮に様子を見に行ったところを、学生を逮捕しようと学校に入ったものの逮捕できずにいた軍隊に遭遇、陳能通校長、陳旺牧師(陳能通の父)とともに連行されてしまいます。陳旺は12日午後に釈放されました。陳能通校長の娘に助けを求められた理化学教師の盧園は、出かけたところを兵士に銃撃され死亡。黄阿統主任と陳能通校長の行方は未だにわかっていません。

関渡埔頂
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遺跡紹介

 関渡埔頂は現在の淡水区福徳里に位置します。淡水区竹囲小学校自強分校の教師と生徒の調べによると、埔頂には処刑場が2カ所ありました。一つは媽祖石のあたり、もう一つは旧自強新村の下方の空地あたりです。媽祖石は自強分校の敷地内にあり、媽祖石に関する碑文が1913年に刻まれています。2002年に市の史跡に指定されました。媽祖石の向かい側には自強新村がありましたが、現在では取り壊されています。

事件の概要

 関渡埔頂は二・二八事件の際に、国民政府軍による殺戮が行われ遺体が遺棄放置された場所です。福徳里の長老、胡新興氏は、二・二八事件の際に軍人が10数名を埔頂地区に運び込み、銃殺するのを目撃したといいます。淡水鎮公所職員の呉有徳、雑貨商の呉彭、作業員の林阿和は、いずれも3月中旬に軍人に自宅から強制連行され、3月15日に関渡埔頂で銃殺され、遺体は遺族自ら銃殺地に出向いて引き取っています。

淡水沙崙
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遺跡紹介

 淡水沙崙は日本統治時代に海水浴場として開発され、1919年に利用が始まりました。1950年に一度閉鎖され、1961年に淡水鎮公所および台湾省公路局が軍方用地そばに新たに海水浴場を設けましたが、1999年に閉鎖されました。

事件の概要

 淡水沙崙は二・二八事件の際に、国民政府軍による殺戮が行われ、遺体が遺棄放置された場所です。1947年3月11日、軍隊は淡水中学に踏み込み学生を捕らえようとしましたがかなわず、代わりに陳能通校長と、陳旺牧師、黄阿統訓導主任を逮捕しました。3人は逮捕当日に沙崙海水浴場に連行され、別々に3本の樹木に縛り付けられました。陳旺は12日午後に釈放されます。他の2人は数日後、後ろ手に縛られ、軍用トラックで基隆の方に運ばれるのを見た人がいるのを最後に消息を絶ちました。料理人の黄両岸、作業員の陳萬生、税関現業作業員の翁陳樹欉、北投陸軍医院院長の頼亨炭らも軍や警察に強制連行され、淡水沙崙の海辺で銃殺されました。

市庁舎を群衆が包囲・新竹、桃園での抗議活動

 二・二八事件が勃発すると、事件の様子は直ちに近隣の新竹地区にも伝わりました。行政長官公署の施政に不満を抱いていた各地の民衆もこれに呼応して相次いで行動を起こします。戦後初期、新竹県の管轄地区は広く、現在の桃園市、新竹県・市と苗栗県も含まれていました。当時の新竹県の庁舎は、今の桃園市中正路、桃園駅の駅前商圏に位置していました。

 1947年2月28日、台北での抗議活動は新竹にも伝わりました。人々は、まず景福宮に集まり、廟の前の広場で施政について議論し、汚職官吏の打倒を求めました。新竹県政府はこれを聞きつけ、警察大隊を派遣して集会を解散させたため、再び民衆の怒りに火が付きました。翌日午前、30余名の学生と青年らが台北から桃園に到着し、地元の青年と合流し、国民党や政府機関に向かって攻撃を始めます。まず、鉄路保安警察の武器を奪取して桃園駅を占拠し、上りの列車を止め、軍隊が高雄の鳳山から台北の鎮圧に駆け付けるのを阻止しようとしました。

桃園駅
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遺跡紹介

 桃園駅は1893年に「桃仔園停車場」として開業しました。1905年に縱貫線改線工事の際に、現在の位置に木造の駅舎が建てられ、名称も桃園駅に改められました。1962年、鉄筋コンクリートの駅舎に建て替えられました。

事件の概要

 1947年3月1日午前、30余名の青年が台北から桃園に到着。地元の青年団と合流して政府機関への攻撃を開始しました。まず、鉄路保安警察の武器を奪い、上りの列車を止め、国民政府の軍隊が高雄の鳳山から台北の民衆の鎮圧に駆け付けるのを阻止しようとしました。青年らが桃園駅を占拠すると、地元の人々は外省人を探し出そうとしました。多くの外省人は、本省籍の友人宅や新竹県警察局に逃げて身を隠しました。

新竹県政府
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遺跡紹介

 1904年に落成した桃仔園庁舎です。台湾総督府営繕課の技師、小野木孝治の設計によるもので、羽目板(weather board)を用いた洋風木造建築でした。1920年、地方行政区画に街庄制が導入されると、桃仔園庁舎は桃園郡役所となり、二階建ての洋風レンガ造りの建物に建て替えられました。立面にはタイルや石の洗い出し仕上げなどのさまざまな建材が使われ、1922年に落成しました。戦後は新竹県政府の執務に使われ、1950年に行政区画が再編成されて桃園県政府の庁舎となりました。その後、もとの建物は取り壊され、現代的な庁舎に建て替えられました。

事件の概要

 二・二八事件の消息が桃園に伝わると、1947年3月1日の午後から人々が外省人への攻撃を始めます。さらに、汚職に関わった役人を探し出そうと県の庁舎などの行政機関に集まり、こうした役人を景福宮の前に連れて出し、人々に対して誤りを認めるよう迫りました。当時の県長だった朱文伯はちょうど台北におり、農林事業について話し合いをしていたため、代理県長が地元の名士を集めて協議し、暴動を収拾しようとしました。しかし、民衆が市政府に結集するのを阻止することはできませんでした。一部の民衆は県政府の倉庫に入り、米や牛乳などを持ち出して住民に配りました。

新竹県警察局桃園分駐所
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遺跡紹介

 ここはもともと1927年に東本願寺が建てられたていたところです。戦後、新竹県警察局桃園分駐所が接収し、執務を行う庁舎として利用されました。その後、何度も改築され、1950年代の初めにもとの建物は取り壊されました。1955年に新庁舎が完成、1979年には70年代によく見られた標準的な警察庁舎に改築され、建物は現在も使われていますが、2018年に桃園市新住民文化会館に生まれ変わりました。

事件の概要

 1947年、二・二八事件の消息が桃園地域に伝わると、3月1日の午後から人々が外省人への攻撃を始め、多くの外省人が新竹県警察局桃園分駐所に逃げ込みました。青年や学生が分駐所を包囲し、汚職官僚を出せと要求しましたが、軍と警察に拒絶されます。そこで、人々は空軍倉庫へ行き銃や弾薬を奪取、再び分駐所に戻り警察に武装解除を求めます。軍や警察は、これを拒絶し、その場で機銃や小銃で民衆に向け銃撃、死傷者が出ました。夜になっても両者の対峙は続き、情勢が芳しくないとみた警察は、台北の省警務処に救援を求めます。夜中の2時に台北から援軍が駆け付け、警察内の職員は騒ぎに乗じて裏門から逃げ、援軍とともに北上しました。

桃園景福宮
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遺跡紹介

 開漳聖王を祭る景福宮は1745年に建立され、「聖王廟」とも呼ばれています。1813年、地元の信者、簡岳らにより雄壮で立派な廟に建て替えられました。景福宮は桃園市の中心部に位置し、同市でも極めて重要な廟です。戦後、何度も改築、増築がなされ、全体的に保存状態は良好です。1985年に市の史跡に指定されました。

事件の概要

 1947年、二・二八事件の消息は当日のうちに桃園まで伝わります。2月28日の夜、人々は景福宮前広場に集まり、行政長官公署の悪政を批判、汚職官僚の打倒を叫びました。新竹県政府がこれを聞きつけ、警察大隊を派遣してこれを追い払ったことが、さらに民衆の怒りを買います。3月1日午後、青年らが県政府に攻め入り、役人を景福宮に連行、跪かせ、民衆に対して誤りを認めさせます。学生隊は指揮部を景福宮の廟の入り口に置き、地元を守る保郷隊もここに集まりました。

群衆 政治を論じる、新竹苗栗

 1947年2月28日午後、台北市で臨時戒厳が宣言されると同時に警備総司令部が高雄の鳳山から列車で即座に北上させた軍隊は、3月1日未明に新竹に到着しました。しかし、台湾籍の運転士が逃走したため、軍は新竹市で足止めとなります。新竹市の郭紹宗市長には事件以前から汚職に関わった噂があったため、台北での官民衝突を聞きつけた新竹市民は、これに呼応して城隍廟近くに結集しました。

 3月2日、群衆が新竹市政府(庁舎)、新竹地方法院(裁判所)、公務員宿舎などの行政関連施設を包囲します。しかし、役人らはすでに逃亡した後でした。市長は鎮圧のため、憲兵とともに警察局に出動を命じました。午後3時過ぎ、憲兵と警察は、旭橋付近で抗議する人々と睨み合いになります。民衆は武装解除を要求したところ軍警の機銃掃射に遭い、少なくとも市民8人が死亡、10人が負傷しました。

 新竹の名士らは新竹中学で二二八事件処理委員會新竹市分会を結成。参議員の張式穀が主任委員となり、事態の収拾を試みます。処理委員会新竹市分会は新竹市政府に対し「外省人は今回の損失に対し賠償を要求しない」、「今回の暴動に参加した者を追及しない」、「県市長の民選を即座に行う」、「警察の武裝を即刻解除する」、「軍を市街地から撤退させる」、「当市に足止めされている軍を台北の援軍に派遣しない」といった6項目の要求を提示しましたが、郭紹宗市長は最初の2項目にしか応じませんでした。3日から市内は秩序を取り戻し、5日に処理委員会新竹市分会が10項目の政治改革を要求、6日には分会が中南部に代表を派遣して米やサツマイモなどの食料を調達し、市内の食糧不足を解消しようとしました。

 当時、新竹防衛司令部の司令であり、新竹生まれの台湾籍の将官、蘇紹文は故郷の情勢に鑑み、陳添登、鄭作衡、鄭建杓ら逮捕された参議員たちの保証人となり、軍による無差別殺傷を止めるよう命じたため、新竹地区における緊張はやや緩和されました。それでも多くの市民が騒動の中で逮捕されたり命を落としたりしました。

 苗栗地区でも散発的に衝突が起こりました。豊春医院の院長で、後龍郷の郷長だった蔡咸陽は、この情勢を受け、郷民を集めて大会を開き、地元の治安維持を図るべく処理委員会後龍分会の結成を決議しました。

新竹都城煌廟
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遺跡紹介

 1748年に落成した新竹城隍廟です。台湾の城隍廟として最も高位に位置付けられ、地元の人が集まる重要な場となっています。現存する前殿の石彫りの壁は、ほとんどが1924年から1926年にかけて完成したものです。城隍廟の主体建築の保存状況は良く、1985年に市の史跡に指定されています。

事件の概要

 1947年3月2日午前、人々は城隍廟に結集し、抗議活動を展開しました。外省人が経営する「福興営造公司」と「中華興雑貨店」に向かい、商品を焼き払い、外省人を殴打しました。何故この2カ所が襲われたのか、それは中国の官僚と関係が深かったため、人々が心に溜まった憤懣をぶつけようとしたからだとも言われています。群衆はその後、さらに裁判所や市政府といった政府機関や公務員宿舎を攻撃しました。

新竹市政府
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遺跡紹介

 1926年に落成した新竹州庁の庁舎です。戦後は新竹市政府庁舎となりました。1950年に行政区画が再整備され、もとの新竹州は桃園、新竹、苗栗の3つの県に、新竹市は県直轄市となり、建物は新竹県政府(庁舎)となりました。1989年、県政府は竹北に移転し、この建物は新竹市政府として使用され現在に至ります。1998年に国の史跡に指定され、1999年の台湾中部大地震で損壊しましたが、5年をかけた修復工事が2005年に完了しました。

事件の概要

 1947年3月2日、民衆が新竹城隍廟前に集まり抗議を行い、通り沿いの政府機関を打ちこわし公務員を攻撃しました。市政府も群衆の攻撃に遭いましたが、役人はすでに逃げ出した後で、周囲には軍や警察が配置されていました。その後、群衆が市政府近くの旭橋に集まると、軍民の衝突が起こり、兵士が突然銃撃を始め、橋の下を通って市政府の方に避難する人もいました。

台湾新竹地方裁判所
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遺跡紹介

 1896年、台湾総督府は清朝が設置した淡水庁署衙門を接収し、台北県新竹支庁としました。支庁長の松村雄之進は吹き抜けの正庁に執務室を置き、もとの牢房を監獄に、衙門の大堂(大広間)を台北地方法院新竹支部としました。1938年、支部は新竹地方法院となり、新竹州を管轄し、新竹州庁と並ぶ新竹地区の二大政府機関となりました。1945年、国民政府に接収されるとともに新竹地方法院と改称され、2017年に新庁舎に移転するまで使われました。現在は新竹地方法院簡易庭として使われています。

事件の概要

 1947年3月2日午前、群衆は城隍廟近くの会社や雑貨店の商品を焼き払い、法院、市政府、警察局、専売局などの政府機関や公務員宿舎を攻撃、法院の推事(判事)や、民政科長、地政科員ら数人を殴打しました。目撃者の洪旭然によると、二・二八事件勃発前、法院の職員はすべて福州人で、同一家族がみな法院で仕事をしているといった状況さえ見られたこともあったことから、法院が二・二八事件において民衆に攻撃され、また一部の民衆が法院向かいの宿舎に侵入し、警察官を殴打したり家具を焼き払ったりしたということです。

二・二八事件処理委員会新竹分会
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遺跡紹介

 1922年、台湾総督府によって設立された新竹州立新竹中学校です。1945年、国民政府により接収され台湾省立新竹中学となり、1970年には新竹高級中学に名称が変更されました。剣道館(日本統治時代の新竹武道場)は2001年に市の史跡に指定されました。建物の保存状態もよく、台湾で唯一現存する日本統治時代のレンガ造りの剣道場です。

事件の概要

 1947年3月2日夕方、市参議員は各界の人々を集め、新竹中学で二二八事件処理委員会新竹市分会を結成。総務部、政務部、糧食部、処理部、治安部の各部門を設け、張式榖を主任委員に選出しました。3月4日、新竹市分会は郭紹宗市長に対し、発砲した者を厳罰に処し、駐屯する軍を市街地から撤退させるよう求めましたが、市長はこれを受け入れませんでした。政務部長の陳添登(当時の新竹市参議員)は分会の会議において、学生と教員から成る「治安隊」を組織して秩序の維持にあたるよう提案し、任務で使用できるよう市政府に武器の供出を求めました。

 3月7日、台湾省自治青年同盟新竹分会が新竹中学で結成され、李世薯が議長となり青年や学生が参加しました。同日、新竹防衛司令であり代理新竹県長の蘇紹文が「治安隊」を「治安服務隊」に改名し、処理委員会新竹市分会が指揮するよう命じました。しかし3月12日午後、処理委員会新竹市分会と治安服務隊は解散させられてしまいました。

新竹旭橋
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遺跡紹介

 旭橋は清の時代に作られた竹塹城を護る濠にかかる橋で、日本統治時代に出版された『新竹市要覧』にも旭橋と記載されています。戦後、橋は架け直され成功橋と名前も変わりました。2015年、新竹市政府によって駅前広場から旭橋付近の東門まで続く濠の周辺が親水公園として整備されました。

 2004年2月28日、橋のたもとに新竹市二二八和平紀念碑が建立されました。紀念碑のそばにある碑文には、白色テロ時代に黎子松が学生の傅如芝のためしたためた現代詩「南方の木棉花」が刻まれています。

事件の概要

 1947年3月2日午後3時、旭橋に集結した民衆が橋の周辺で抗議を続けていたところ、現地にいた軍隊が銃を装備したトラックを出動させて旭橋に向かい人々に呼びかけようとしたところ、群衆から銃を渡すよう求められたため、人々に向かって機銃掃射しました。橋の下に飛び降りて濠に身を隠し、難を逃れた民衆もいましたが、弾に当たった8名が命を落としました。数十名が負傷し、8名が死亡した同事件は、新竹で知られている最も大きな事件です。

後龍駅
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遺跡紹介

 1922年に鉄道の海線の開通とともに後龍駅が開業しました。1945年、国民政府に接收され、後龍車站と名を変えました。新竹区間の旅客運輸と貨物運輸を担う三等駅で、貨物業務は1984年まで行われていました。元の駅舎は木造で、駅長室、切符売場兼荷物預かり所、待合室、プラットフォーム、倉庫、便所がありました。1970年に建て替えられ元の建物はすでにありません。

事件の概要

 1947年3月2日、後龍車站で弾薬を積み込もうとしていた2名の兵士が、台中から台北に向かう乗客に取り囲まれ、そのうち1名が殴打され死亡し、1名は群衆に向かって発砲しました。群衆はそのまま車両に乗り込み新竹に向かいました。後龍車站の駅員だった王金定は、車両の配車を担当していましたが、このときの事件に巻き込まれました。二・二八事件後、王金定は龍港軍営区の兵士に逮捕され、新竹憲兵隊に連行され、2カ月にわたって拷問を受けました。商人の楊昌貴は3月2日に後龍車站を通りかかったときに逮捕され、その後の行方はわかっていません。

台北市街地における鎮圧

 1947年3月1日、台湾省警備総司令部は午前零時に戒厳を解除すると宣言しましたが、集会や抗議活動は禁止されたままでした。3月3日、警備総司令部は、政府が民衆の要求を受け入れ、「平和的に寛大に処理」したと宣言しましたが、その実、行政長官の陳儀は南京に兵力を派遣するよう要請し、鎮圧の準備を進めていました。

 3月8日夜、第二十一師団が基隆港から上陸し、長官公署と警備総司令部は夜10時半、中山堂、日新小学校で会議を開いていた二二八事件処理委員会を攻撃して委員会の主要メンバーを逮捕するよう命令しました。3月9日早朝6時、柯遠芬はラジオ放送を通じ、台北と基隆の戒厳を宣言しました。翌日、陳儀は台湾全土に向けラジオで戒厳令を宣言し、処理委員会や台湾省政治建設協会などの「違法団体」の解散を命じました。警備総司令部は「民衆に告ぐる書」を発し、二・二八事件は「少数の陰謀を企てた者が機に乗じて政権を奪取し国家に反乱しようとしたものであり、台北の一角を皮切りに、ラジオ局を占拠して事実を歪曲して扇動し、⋯⋯さらに全省の行政官吏は威嚇または殴打、侮辱され、政府機関は占領または破壊され、外省籍の公務員や商売で台湾を訪れたものは略奪または負傷させられた」ものであると指摘しました。処理委員会の主要メンバーの逮捕を命じたのに続き、警備総司令部は事態の平定と粛清を進め、台湾全土の鎮圧にとりかかりました。

 3月20日、警備総司令部は台北、基隆、新竹、中部、南部、馬公の6カ所に綏靖(平定)司令部の設置を宣言、翌日から事態の平定と粛清が進められました。

▲台北綏靖区は憲兵第四団団長の張慕陶が、台北市と台北県の一部を管轄しました。東は汐止から西は竹囲郷まで、南は板橋から北は草山(陽明山)、北投、淡水までです。

▲陸軍によって組織された第二十一師団第一四六旅団は新竹県地域の新竹綏靖区を担当し、第一区から第三区に分けられました。図は第一綏靖区をさらに細分化した第一から第四警戒区の兵力配置図です。

憲兵第四団
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遺跡紹介

 1918年に林清月が開設した宏済医院のあった場所で、のちに台湾総督府がここを建て替え更生院とし、1930年に竣工しました。アヘン中毒など麻薬中毒者を収容し、医学博士の杜聡明が責任者を務めました。戦後の1945年11月、更生院には憲兵司令部第四団団部が駐留し、台湾で投降した日本軍を監視、警察の秩序維持に協力しました。1950年、台北で組織再編された憲兵司令部がここにおかれ、憲兵隊が逮捕した政治犯を監禁しました。1957年、憲兵司令部が転出し、「光復大陸設計研究委員会」が入居、1991年まで使われました。元の建物は1995年に取り壊され、私有の駐車場とオフィスビルに建て替えられました。

事件の概要

 二・二八事件の際、憲兵第四団は、1947年3月8日の国軍の台湾上陸後、基隆要塞部隊とともに基隆市街地の掃討を行いました。3月10日に戒厳が宣言され、憲兵第四団は北部平定区の粛清と掃討任務にあたり、団長張慕陶が北部綏靖区司令を兼任しました。二・二八事件における台北地区で射殺された嫌疑者の多くが憲兵第四団によって行われました。

台湾省警備総司令部第二処警衛大隊看守所
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遺跡紹介

 1895年、日本の仏教、浄土宗大谷派が日本軍とともに布教のために台湾に渡ってきました。徐々に信者が増え、1928年には「東本願寺台北別院」が建立されましたが、1930年に一度焼失しました。1932年、まず僧侶が日常暮らすための「庫裏」が建てられ、さらに1936年には鉄筋コンクリートの本堂が再建されました。戦後、1945年、台湾省警備総司令部第二処に占拠され、嫌疑者の拘留に使われました。1967年6月、東本願寺は取り壊され、商業ビル3棟が建設されました。

事件の概要

 二・二八事件において警備総司令部に逮捕された人々の多くが、ここに拘禁され拷問による取調べを受けました。受難者の郭國純は、1947年3月10日に台北市の住居で何者かに家宅捜索を受け逮捕されました。のちに東本願寺に拘留された後、最後は軍法局に移送されました。拘留は半年にわたり、拷問を受けました。

 二・二八事件の際に、理由もなく行方がわからなくなった李瑞漢、林連宗、施江南、林茂生らの家族も東本願寺に赴き、それぞれの家族を探しましたが消息は一切つかめませんでした。

台湾高等裁判所
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遺跡紹介

 もともとは清の時代に建てられた武廟があった所で、1929年に台湾総督府がこれを取り壊して法院(裁判所)を建設。総督府営繕課課長だった井手薫が設計し、1934年に竣工しました。台湾総督府高等法院、検察局、台北地方法院の3つの司法機関がここで執務しました。日本統治時代において最高位に位置付けられた司法機関です。

 戦後、国民政府軍により接收され、「台湾高等法院」と名称が変わり、1949年に司法院、最高法院、行政法院、公務員懲戒委員会がここに移転して執務を行うようになり、「司法大廈」と呼ばれるようになりました。1977年には4階部分が増築され、大法官執務室と憲法法庭として使用されています。

事件の概要

 二・二八事件の際、台湾高等法院の推事(判事)だった呉鴻麒は、法院の執務室で国民政府軍に逮捕され、1947年3月16日に死体となって南港橋のたもとで発見されました。二・二八事件後、高等法院やその管轄下にあった各地の分院では「滋事份子(騒動に関わった者)」、「反乱犯」などの起訴や裁判が行われました。

 二二八事件紀念基金会が審査、認定した受難案件のうち、事件当時に高等法院(分院含む)において「有期懲役刑」に処されたのは21件、うち7件は「執行猶予」でした。また、「無罪」は6件、「不起訴処分」は7件ありました。最終的に、高等法院で結審した二・二八事件関連の事件は34件で、そのうち14件が有期懲役刑でした。

台北植物園
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遺跡紹介

 1895年、台湾総督府は、台湾の森林の特性を調査し造林の方針を策定するため、小南門の陸軍用地を苗圃として整備しました。1900年、小南門の外側の龍匣口庄に農地12,953坪(約4ha)を購入し、台北苗圃と名付けました。1921年に台北植物園と改名、園内には武徳殿、共進会商品陳列館、建功神社など植物とは関連のない研究機関も置かれていました。

 1946年、武徳殿は長官公署の宣伝委員会の映画撮影場となり、白崇禧が台湾を訪れ「宣慰(慰問)」した際には、ここを見学しました。後に取り壊され、現在の農業委員会駐車場として整備されました。建功神社は1955年に国立中央図書館として建て替えられ、1973年に図書館の転出にともない国立教育資料館となり、現在は国立台湾芸術教育館となっています。共進会商品陳列館は建て替えられ国立歴史博物館となりました。

事件の概要

 1947年3月8日、第二十一師団の上陸後、台北植物園は兵士が死体を遺棄した場所の一つとなりました。受難者の林麗鏘は、3月9日に姉の家を出てから消息を絶ちました。家族はあちこちを探しまわり、「植物園にたくさんの死体があると聞き、園内を探し歩きましたが、多くの酷い状態の死体が木の根元にあるのを見ただけでした。」と話しています。

 ある人は、植物園を通りかかっただけで軍警に捕らえられました。受難者の陳糞陽は、東門市場で布団屋を経営していましたが、3月9日の早朝に植物園の入り口を通りかかったところ、理由もなく国民政府軍に射殺されました。

 1947年に中国南京の新聞「大剛報」の記者だった唐賢龍の著書『台湾事変内幕記』によると、1947年3月12日に唐が台北の街頭を歩いていた際に植物園の外の大通りに死体3体を見かけ、そのうち2人は新聞や牛乳を配達していただけの若いアルバイト学生だったということです。また、植物園内の木の枝には「十数ものバラバラになった人肉がぶら下がっていた。」とも記されています。

台湾省警備総司令部労動訓導営
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遺跡紹介

 台湾省警備総司令部労動訓導営は、旧日本軍の軍用地に置かれました。ここは、日本統治時代末期に台北第一青年特別錬成所となり、戦後は警備総司令部が接収、1946年4月から設置準備が始まり、6月1日に労動訓導営が開設されました。労動訓導営の設置目的は社会治安の維持で、主に教育を受けていない、失業した浮浪者(ホームレス)を収容し、警備総司令部参謀長の柯遠芬が監督しました。

事件の概要

 二・二八事件の平定と粛清が続く間、警備総司令は「首謀者以外の暴徒」を労動訓導営(キャンプ)に移送して再教育を行いました。1947年3月16日、警備総司令は、「事件に参加したことが確実な暴徒のうち、重大な罪を犯した者は法に則り厳罰に処すが、それ以外は一律、警備総司令部大直本部の労動訓導営に移送し再教育を行うこと」との命令を下しました。二二八事件紀念基金会が審査、認定した受難者の賠償金申請資料によれば、約338人がここに移送され「再教育」を受けました。

受難者死体遺棄地
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遺跡紹介

 川端橋は1937年に建設され、戦後は中正橋と改名されました。その後、何度も架け替えられ、1960、70年代には橋面が拡幅され、1937年に架けられた当初の鉄骨の橋梁を両側から挟む形でコンクリートの橋梁が新設されました。そのため古い橋梁はそのまま中に挟まれています。2015年に歴史建築に指定され、2019年に解体改築工事が始まりました。もとの橋梁を残しつつ、そばに新しい橋を架ける計画で、もとの橋面は歩行者と自転車の通行に使われる予定です。

事件の概要
 

 川端橋は古亭、公館一帯に通じる橋で、二・二八事件の際に国民政府軍による殺戮が行われ遺体が遺棄放置された場所です。受難者の家族、林麗珊の証言によると、事件発生時に台湾大学で学んでいた弟の林麗鏘の行方がわからなくなり、あちこち探し歩いて川端橋、新店渓のほとりで弟の足跡を辿っていたとき、川面や岸辺にたくさんの死体が浮かんでいるのを見たということです。別の受難者の家族、黄玉葉の話では、事件当時、川端橋の船夫が橋のたもとで死体を発見したが、両手両足を後ろに縛られ浮腫んで変形していたとのこと。黄玉葉が現場に出向いて確認したところ、それが夫の陳福の遺体であることが分かったとのことです。

台北橋
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遺跡紹介

 台北橋は淡水河の下流にあり、台北市と新北市の三重や新荘を結ぶ橋です。1889年当時は木造でしたが1897年に台風で流され、1925年に鉄橋に架け替えられました。工期は3年半、当時の総工費で44万円、総長434.5メートル、中央に追越し車線があり、両脇に歩道のある橋が整備されました。1960年に錆による腐食などの問題が深刻になり、取り壊して架け替えられることになりました。1969年、コンクリート製の4車線の橋が完成し、1996年には交通量の増大から6車線に拡張、そして、主橋部の両側に新たに副橋が架けられ、現在に至ります。

事件の概要

 淡水河を跨ぐ台北橋のたもとは、二・二八事件の際に、国民政府による殺戮と死体遺棄の場になりました。胡聡火は父の胡順を探していたところ、橋の下に沢山の遺体が浮かんでいると聞きつけました。「十六水門のあたりには毎日のように死体がたくさん浮かんでいました。一人一人が針金で後ろ手に縛られ、首には石やレンガがぶら下げられ、着衣は乱れ、下着やパンツしか身につけておらず、水に長い間浮かんでいたため浮腫み腐りかけていました。ほぼ一週間の間、淡水河の岸辺には、こうした身元のわからない死体が流れてきたが、みな若い人のようでした。淡水河の船乗りたちは死体を引き上げ、岸辺に安置しました。遺体の身元は確認されませんでしたが、その後、多くは手押し車で引き取られていったのですが、ほかにどれくらい川から引き上げられずに海に流された死体があったかはわかりません。橋の向こう側の死体はもっと多く、ほかには松山の基隆河一帯にも死体が浮かんでいた聞いたことがあります。年寄りが言うには、針金、そして石をくくりつけたんだから、絶対に死ぬと。」

 二二八事件紀念基金会が審査、認定した補償申請名簿には、橋の近くで無差別に拷問や銃殺された民間の人々の名前があります。受難者の林義吉は国民政府軍に逮捕され、台北橋まで連行され、ひどく殴られ、刺し傷を負わされ、淡水河に投げ込まれました。このため長い間痛みに苦しみ、農作業もできなくなりました。

南港橋
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遺跡紹

 南港橋は大坑渓にかかる南港から汐止、基隆を結ぶ主要道です。橋体は何度も書け替えられています。二・二八事件の際、南港橋は死体が遺棄された場所の一つで、地元の住民が橋のたもとで死体8体を発見したことから「八仙橋」とも呼ばれています。

事件の概要

 1947年3月15日の夜半、南港の鄰長だった蘇渓圳は銃声を聞き、翌朝、南港橋のたもとの農地で死体8体を発見しました。手足は後ろに縛られ、口は布で猿ぐつわをされていました。おそらく道端で銃殺されてから大坑渓に捨てられたようで、多くが着衣は乱れ悲惨な有様だったといいます。身元が判明しているのは呉鴻麒、林旭屏、鄭聡、周淵過、林定枝で、あと3体は身元が確認されていませんが、施江南、陳屋ではないかとも言われています。呉鴻麒は台湾高等法院の推事(判事)で、死体発見時には上着、懐中時計、靴はなく、身体中に傷跡があり、右後頭部に銃を突きつけられて撃たれたようでした。林旭屏は東京帝国大学法学部を卒業した文官高等試験行政科の合格者で、台湾に戻り職についていたところ、二・二八事件に遭い命を落としました。両手両足を縛られ、頭部や身体には多くの傷跡があったといいます。

 1947年4月、行政長官公署は「期限内に南港で殺された死体8体を回収せよ」との命を下し、台北市警察局はすぐ南港での調査に人を派遣し、家族に死体発見の経緯を報告しました。ところが5月30日、警備総司令部は蒋介石に対し、台北市の不良分子の秘密組織の仕業であると報告したのです。

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