展示
二・二八事件と学校:事件における建国中学関係者たち
更新日:
2021-06-21
会期:2021年3月19日(土)~2021年10月3日(日).毎週月曜日休館
開館時間:10:00~17:00(入場は閉館の30分前まで)
会場:二二八国家紀念館 二階南翼/台北市中正区南海路54号
後援:内政部
主催:二二八事件紀念基金会、二二八国家紀念館
共催:台北二二八紀念館、台北市立建国中学
協力:財団法人史明教育基金会、財団法人鄭南榕基金会、前衛出版社
台北一中から建国中学へ
台湾で知らない人はいない人気の名門校、「建中」こと台北市立建国高級中学(=高級中学とは高校のこと。以下、建国中学)は、台北市の南海路沿い、二二八国家紀念館の近くに位置しています。自由な校風であるだけでなく、進学率も高く、台湾北部で一、二を争うエリート高校です。建国中学の前身は「台北州立台北第一中学校(略称:台北一中)」で、1898年に設立されました。日本統治時代は主に日本人の生徒を募集しており、1940年代、生徒数約千人のうち、台湾人の生徒は3%未満でした。
1945年、第二次世界大戦の終結後、日本政府は台湾から撤退しました。ただ、多くの日本人はなお台湾に留まり、引き揚げの日を待っていました。当時、台湾に滞在していた日本人の生徒は、一時的に台北一中及び台北州立台北第三中学校(略称:台北三中、現在の師大附中)に通っていました。一方で、台北の台湾人生徒の大部分は、台北州立台北第四中学校(略称:台北四中)に通っていました。そして、日本人生徒の引き揚げを待って、台北四中は校舎を元の台北一中の所在地、つまり今日の建国中学の所在地に移転しました。1946年の年初、教育部は正式に校名を「台湾省立台北建国中学」に改めました。1967年、台北市が特別市に相当する「院轄市」に昇格、台北市の所有となると、「台北市立建国高級中学」に改名、略称は「建中」となりました。
創設から120年以上の歴史をもつ建国中学は、日本統治時代、第二次世界大戦末期の台北大空襲、国民政府による台湾接収後の再建期に立ち会ってきたほか、国民党による独裁、権威主義体制による統治、市民の言論の自由が奪われた戒厳令時代も経験しました。そして、台湾が民主化に向かって邁進していくまで、様々な時代を経てきた建国中学では、常に教師や生徒が良識をもち、勇敢にも不公平、不正に対して立ち向かいました。しかし、それが故に逮捕されたり、命を落とす災いに巻き込まれたほか、さらには、校長が生徒を保釈させようとしたところ、警備総司令部により数カ月間勾留されるという荒唐無稽な事件までも発生しました。逮捕、行方不明、自白の強要、銃殺といった、これらの生徒、教師たちが遭遇したことは、二・二八事件と建国中学、そして台湾の近代の民主主義発展の歩みの中に、はっきりと足跡を残しています。彼らが遭遇したことを理解して初めて、「移行期正義」の重要性、そして建国中学校門の「蒋介石像」の撤去をめぐる議論について、深く知ることができるのです。
1910年代に落成した台北州立台北第一中学校(現在の建国中学)の校舎。近藤十郎により設計された。外観が赤レンガ色をしていたことから「紅楼」と命名された。写真は1936年の校門と紅楼。
日本統治時代の台北州立台北第一中学校の鳥瞰写真。写真奥の建物が「紅楼」、最も左側の建物は木造建築。写真中央部、樹々に囲まれた建物は校長宿舎。
終戦直後の学生たちによる請願
1895年から1945年まで、台湾は50年間に渡って日本に統治されていました。近代文明の薫陶を受け、人々には、身だしなみや礼儀、「奉公守法(公のために尽くし法を守る)」の考え方が根付いており、総合的な発展ぶりは中国を上回っていました。1945年、第二次世界大戦が終結、台湾の人々は「祖国」中華民国を喜んで迎え、中国語を学ぼうという意欲に溢れていました。若き学生、生徒たちも、自分たちが国家の未来を担っていくという思いから、情勢に関心を払い、社会活動へ積極的に関わっていこう、という熱意を持っていました。
【渋谷事件を受けての反米デモ】
1946年7月、東京の渋谷で日本人警官と在日台湾人による衝突が発生しました。GHQによる軍事裁判で審理、起訴後に出された判決は、衝突に参加した在日台湾人に出国を命令するものだったことから、在日台湾人たちの不満を引き起こし、台湾社会の各方面もこれに呼応しました。当時、台湾大学医学部の学生だった郭琇琮(台北一中の卒業生)や台湾大学法学部の学生、陳炳基らは、学生を動員し各校で演説を行うと共に、同年12月20日のデモへの参加を呼び掛け、台湾省行政長官公署への請願の他、米国駐台湾領事館で抗議を行いました。これは、戦後初となる、学生たちによるデモ活動でした。
1946年12月28日、外交部駐台湾特派員は、台北の各大学、高校の学生、生徒が渋谷事件について請願を行った事を報告した。
【沈崇事件を受けての反米デモ】
1946年12月、中国で、北京大学の女子学生沈崇が米兵に暴行される事件が発生、人々の反米感情の高まりは収拾がつかない事態となりました。台湾の学生たちも事件の進展に関心を払い、当時、台湾大学の学生を主体としたリーダーたちは、1947年1月9日に反米デモ活動を行う事を決定、台湾大学、延平学院、建国中学、成功中学など台北市の中等学校以上の学校の学生、生徒たちが街頭に繰り出し、台湾省行政長官公署へ請願を行いました。これは、戦後初期の学生によるデモ、請願として最大規模のものでした。
1947年1月10日の『民報』は、台北の学生が沈崇事件に抗議しデモを行った事を伝えた。学生たちは9日午前9時に新公園(現在の二二八和平公園)に集合、米国領事館まで行進し、12時前後に解散した。
台北の学生と二・二八事件
事件の発生は偶然で、また必然でもありました。
第二次世界大戦後、台湾は国民政府によって「接収」されました。しかし、その実態は「劫收」(中国語の発音が「接収」に似ており、「強盗」を意味する別の言い方で揶揄したもの)でした。台湾へやってきた官吏は、それまでの悪習によって台湾を治めました。賄賂を公然と受け取り、法律を捻じ曲げ、規律を乱し、人々を欺き、苦しめたのです。結果、人々の不満は高まり、生活は困難を極めました。官吏はさらに、台湾人の日本文化への「奴隷化」は深刻であると考え、「二等国民」とみなしました。こうして、台湾人の「祖国」への期待は、次第に失望、嫌悪へと変わっていったのでした。
国民政府の数々の秩序ない統治に対して、学校内での不満も高まっていました。さらに、食料の不足は、教師や学生たちの生活に影響を及ぼし、授業に集中することも困難となっていきました。陳儀・台湾省行政長官による政府の「統制経済」によって人々の生活は困窮、タバコ売りの人々は、危険を犯して闇タバコを売っていました。1947年2月27日の夜、喫茶店「天馬茶房」で発生した「タバコ取締殺傷事件」は、専売局の取締官がタバコ売りの女性を負傷させ、さらに市民を誤って射殺したことで、市民との衝突が発生したもので、長年積もりに積もった人々の不満が完全に爆発することとなりました。
人々は翌日、専売局、行政長官公署などに向かい抗議しましたが、衛兵による発砲によって死傷者が発生したことから、ラジオを通じ衝突はまたたく間に台湾全土に広がり、志をもつ青年や学生たちが各地でこれに呼応、治安維持に務めたり、あるいは武装抗争に参加しました。しかし、国民政府軍が台湾へ上陸後、中等学校以上の学校は、政府にとって重要な「粛清」の対象となったのです。
陳儀・行政長官は1947年3月2日、蒋介石・国民政府主席に向け、歩兵を迅速に台湾へ派遣するよう自ら電報「寅冬亥親電」を打ちました。陳儀は電報の中で「少なくとも、まず1個歩兵師団の台湾への派遣を願う。反逆者の粛清により南方の憂慮を解決する。」と記しました。蒋介石は3月5日、陳儀に「既に1個歩兵師団並びに1個憲兵大隊を派遣した。今月7日に上海を発つ。心配なきよう。中正」と手書きの返信をしました。「陸軍整編第21師」は数日後の3月8日、基隆港から上陸すると大規模な虐殺を決行、その後の「鎮定」と「粛清」により、莫大な数の死傷者が生まれました。行政院が1992年に発表した『「二・二八事件」研究報告』では、同事件での死者は約1万8000人から2万8000人に上ると推定しています。
1947年2月28日、二・二八事件が勃発、人々は専売局台北分局へ向かい、抗議を行った。
『蔣中正派兵手諭』1947年3月、二・二八事件の発生後、蒋介石は1個歩兵師団と1個憲兵大隊の派遣を命じた。3月7日に上海を出発、3月8日、基隆港から上陸すると、大規模虐殺を行った。
処理委員会内の多くの学生、生徒たち
二・二八事件の勃発後、2月28日から全ての学校は休校となりました。そして、台湾大学、延平学院、台北商業学校、工業学校、成功中学、建国中学、開南商工など中等学校以上の学校の学生、生徒たちは、台北学生自治会聯合会を組織し、学生ネットワークをつくりました。3月1日、台北市参議会、国民大会代表、国民参政員、台湾省参議員は「タバコ取締殺傷事件調査委員会」を結成、中山堂で結成大会を行い、同日午後、「二・二八事件処理委員会」と命名、事件に関わる事柄を解決することとなりました。
3月2日午前10時、台湾大学、延平学院、法商学院、師範学院及び各中等学校高等部の生徒、学生千人あまりが、中山堂で学生大会を開催しました。同日、処理委員会は、民衆、商工会、学生、生徒及び台湾省政治建設協会も組み込んで組織を拡大したほか、当局の代表、省内の各参議員、国民大会代表も委員会に加えました。学生たちは処理委員会に加わると、主に治安維持を担当することとなりました。3月3日、処理委員会は「忠義服務隊」の組織を決議、このうち、多くのメンバーが若者や学生たちでした。
【忠義服務隊の結成】
「忠義服務隊」結成後、許徳輝が総隊長兼治安組長に推薦されました。時の台北市長、游彌堅は若者、学生に対し、治安維持活動への参加を呼び掛け、それぞれ総務、公共秩序の維持、食糧、宣伝、管理などを担当する各グループに振り分けました。また、長官公署は経費、武器、交通手段などを提供しました。
「忠義服務隊」は政府によって結成が計画され、警備総部の指揮を受けた許徳輝が計画した組織であり、陳儀の許可も得ていました。しかし、メンバー構成にあたっては1200名の台湾大学、師範学院、延平学院、建国中学、成功中学などの学生、生徒たちのほか、250名のやくざ者やチンピラも含まれていました。こうしたやくざ者やチンピラは、はばかることなく略奪を行ったり民衆を脅したりしたほか、恐喝や暗殺、また外省人の商店を焼き払ったり、外省人を殴打したりしました。そして、国民政府軍の上陸後、「忠義服務隊」に参加していた若者や学生が、圓山にあった軍の武器庫付近で、身代わりとして殺害されてしまったのです。
『台湾新生報』は1947年3月4日、処理委員会が台北市で臨時治安会を召集、忠義服務隊の結成を決議したことを伝えた。
【失敗に終わった学生武装隊】
二・二八事件の勃発後、一部の学生、生徒たちは学生軍を組織、三隊に分かれ、武装して行動を起こそうとしました。そのうちの一隊は建国中学に集まり、陳炳基が率いました。もう一隊は師範学院に集合、郭琇琮が率い、副総指揮官に就任しました。さらにもう一隊は台湾大学に集い、日本軍従軍経験のある李忠志が率い、総指揮官に就任しました。
本来の計画は3月4日の夜、警備が緩かった景尾(現在の景美一帯)の兵器庫を攻略するというもので、かつ、烏来の原住民族の集落に協力を仰ぎ、兵力の支援を求めていました。しかし、スムーズな意思の疎通が行えなかったことから、進攻スケジュールは順延となり、学生たちは次々に帰宅してしまいました。さらに、大雨による天候不良もあり、最終的に武力行動計画は失敗に終わりました。
【事件後の授業再開】
二・二八事件の発生期間、外省人が殴打され、外省人の教師は人身、財産への脅威を感じ、恐怖に慄きました。加えて、当時の経済状況は芳しくなかったことから、外省人の教職員は次々と退職しました。事件後、多くの学校では、校舎の破壊や、資産の破損などの問題に直面したほか、教師不足も厄介な問題となり、授業の再開、台湾の教育の秩序回復は、行政長官公署にとって喫緊の課題となりました。
当時、省教育処が公布した「台湾省省立中等学校以上の学校授業再開における注意すべき事項」では、各校の教職員と学生、生徒は1947年3月17日に授業を再開しなければならないと規定されたほか、学生、生徒は、父兄あるいは保証人の同行の上、学校で登録手続きをしなければならず、また学校の許可なしに、集会、団体行動へ参加してはならない、と規定されました。各校が続々と授業を再開したのち、省教育処はさらに「二・二八事件自己説明における注意事項」を公布、学生、生徒に対し、二・二八事件期間中の活動について自ら説明するよう求めました。そして、学生たちの説明後には「二・二八事件各校暴動参加学生に対する懲戒基準」を公布、暴動参加者に対し、軽い処分の者については反省文の提出を、最も重い者は除籍とする懲罰を与えました。
徐々に閉鎖的となっていった学校:二・二八事件後の戒厳令時代(1948-1987)
【機密保護・防諜、党国教育及び中国本位主義による教育】
二・二八事件の発生後、国民党政府は高校、大学の粛清を行いたいと考えていました。また、中国大陸の学生運動が日に日に拡大していることを警戒、関連部署に対し、学生運動が台湾に影響を及ぼすか否かについて関心を払うよう命じたほか、学校側には学生、生徒の活動への監視を強めるよう求めました。しかし、翌1948年、学校が徐々に正常な状態に戻ると、各校の学生、生徒によって抗議活動が行われるようになりました(学費、食費に対する抗議あるいは内戦反対など)。しかし、1949年に四六事件が発生、政府が台湾大学、師範大学のキャンパスで弾圧を行ったことで、キャンパス内の自由は、正式に終わりの時を告げました。
1949年、中華民国政府が台湾へ撤退後、国民党政府は国共内戦で中共に敗れたことから、学校における機密保護、防諜ならびに監視をより厳しく行うようになりました。知識青年団、知識青年党部、救国団などが学校での監視、防諜活動を行いました。さらに、社会全体の雰囲気に加え、中共スパイを検挙、粛清する為の各種法規により、学校の雰囲気はより殺伐とし、閉鎖的になっていきました。このほか、国民党政府は、二・二八事件の発生原因について、「日本文化に深く毒されていた」影響により、祖国を軽視、敵視していた上、民族意識も欠乏していたことによる、と考えたことから、「撥乱反正(誤りを直して本来の正しいやり方に戻すこと)」が、二・二八事件後の教育目標となりました。
事件後、ひいては1949年、国民党政府の台湾撤退後の戒厳令時代、「中国本位」と「党に忠誠を尽くし国を愛する」という教育方針が貫徹されました。例えば、国語教育についていえば、学校では中国語で授業が行われ、中国の歴史、文化、三民主義及び国父・孫文の教えなどについての指導がなされました。1950年代は、学校、社会に関わらず、国語運動がより徹底され、方言を話した人は処罰されました。学校で方言を話した生徒は、首から方言札を下げさせられたり、罰金の処罰を受けるなど、台湾の文化は抑圧され、さらにはネガティブなイメージを植え付けられました。
【「偉人」の崇拝】
国民党政府による権威主義的な統治の時期において、指導者の崇拝は、政権安定の為の重要な手段の一つとなりました。指導者の死去後はさらに追想することが義務付けられました。銅像の設置は最も顕著でわかりやすい形です。1975年、蒋介石・元総統の死去後、「蒋介石・総統銅像作成における注意事項」が公布され、多くの学校で蒋介石の銅像を設置する際の基準となりました。この法律は2017年にようやく廃止となりました。
【自由へつながる窓:USIS】
戒厳令時代、情報が厳しく制限されていた中で、「米国広報文化交流局」(USIS)が建国中学の傍ら(現在の本館の所在地。1959年に設立、1979年の中華民国政府とアメリカの断交後、「米国在台湾協会米国文化センター」に改名し、2002年に移転)に設立され、アメリカなど海外の情報が得られる重要な場所となりました。USISではしばしば、コンサートの開催、映画の上映、展覧会が開催されたほか、ライブラリーには、西洋の文学や雑誌なども所蔵されていました。こうしてUSISは、当時の台湾において自由へつながる窓となり、多くの知識人のほか、少なからぬ建国中学の生徒たちも、ここで新たな知識を吸収し、思想を得て、さらには、台湾の学生たちが海外へ留学するきっかけとなったのです。
1972年、台北のUSIS(米国広報文化交流局)は、アポロ17号(Apollo 17)の発射前、館内(現在の本館)で特別展を開催した。
1957年6月21日、ビディ・バスケットボールや6つのベースを使う少年向けソフトボールなどを発案したジェイ・アーチャー(Jay Archer)氏が、建国中学を訪れ、少年向けバスケットボールの規則を説明した。
二・二八事件「移行期正義」の着実な実行へ
【二・二八事件に関する歴史教育:43年間に及ぶ教科書上の空白期から政府による研究報告出版まで】
二・二八事件発生後、戒厳令の布告そして権威主義的な体制下において、同事件は触れることが許されないタブーとなりました。教科書は中国本位主義により、共通の祖先「黄帝」を作り出し、秦の「始皇帝」を中国統一大業の英雄とする「中華民族」史観でした。台湾史に割かれた割合はわずかであり、二・二八事件については言及できず、三民主義の精神教育と中華民国政府統治による「法統」を強化するものでした。国際情勢の変化、国連からの脱退、蒋介石の死去を経て、台湾史に割かれる割合は徐々に増えましたが、なおも大中国史観においては「辺境」の扱いでした。
蒋介石の死後、権威主義体制が、台湾人の真相を追い求めようとする声を抑え込むことは、もはや不可能となりました。二・二八事件の真相は、民間から研究が始められ、政府に対して、事件への直視と真相の公開、並びにその史実を教科書に加えることを求めました。1987年、社会の各方面から「二・二八名誉回復運動」が巻き起こり、政府に対して正式な謝罪のほか、賠償、真相の追求、史料の公開、記念碑設置や記念館の設立、並びに2月28日を国家が制定する記念日とすることを求めました。1990年、高校の歴史教科書の「第三冊」に、初めて二・二八事件への記述がなされました。字数は60字未満で、かつ、その責任を当時の行政長官、陳儀に押し付けるものでしたが、事件の真相追求解禁への第一歩となりました。
1990年11月、行政院は国内の学者や専門家を招き、「二・二八事件専門チーム」を設立、関連の文書、史料を整理、レポートを著しました。1991年、高校の歴史教科書の同事件への言及部分の字数が増え、「軍政の処置が不適切だった結果、多くの死傷者が発生した」などの字句が現れました。1992年には「不幸にも犠牲になった霊に弔慰を」の字句が、そして1993年には「無実の人々」の字句が加えられました。1994年、行政院は『二二八事件研究報告』を出版、1995年には立法院が「二二八事件の処理及び賠償条例」を可決、同年、李登輝・総統(当時)が国家元首として、二・二八事件の犠牲者家族と全国民に謝罪しました。一文字も言及されていなかった時代から、1999年には高校の教科書が「一綱多本(一つの大綱から多種類の教科書)」の時代に突入、台湾史のみで独立した一冊の教科書が出版されるようになり、二・二八事件は台湾史のシラバスにおいて無視できないものとなりました。真相を隠滅していた政府は法律を制定するようになり、二・二八事件の真相究明はますます正しく、完全なものへと近づいています。そして、台湾社会もまた、移行期正義の着実な実行へと一歩一歩邁進しています。
しかし、行政院版の『二二八事件研究報告』では、二・二八事件の責任の帰属について言及していません。財団法人二二八事件紀念基金会(本会)は、各分野の学者を集め、掘り下げた研究を行い、ついに2006年、『二・二八事件責任帰属研究報告』を出版、専門書によって二・二八事件の責任の帰属について完全な形で分析を行いました。また、国の関連文書が次々に公開され、2017年に「移行期正義促進条例」が可決、法律が制定された後、本会は2020年に『二二八事件の真相と移行期正義』を出版しました。新たに発見された文書及び史料を元に、過去、時間的な問題や取り巻く環境により究明できなかった部分について、各章に分け著しました。官民による継続的な努力を通じて、引き続き二・二八事件の移行期正義を推進しています。
1995年2月28日、李登輝・総統(当時)は、国家元首として、二・二八事件の犠牲者の家族と全国民に向け謝罪を行った。
【「二二八事件の処理及び賠償条例」と二二八国家紀念館】
1995年2月28日、台北市二二八和平公園内の「二二八紀念碑」が落成、同日、李登輝・総統(当時)は、総統として、二・二八事件の犠牲者及びその家族に謝罪を行いました。4月7日には「二二八事件の処理及び補償条例」(2007年、法改正により「二二八事件の処理及び賠償条例」に改題)が公布されました。この条例に則り、同年12月、行政院により本会が設立され、二・二八事件の賠償申請、賠償金支払いの手続きのほか、各種の記念活動を通じて、犠牲者の名誉回復、真相調査、教育、宣伝などの事柄を積極的に行うこととなりました。2006年7月、行政院は条例に則り、この地を「二二八国家紀念館」とすることを決定、歴史的建築物の修復を経て、2011年2月28日、正式に開館、運営がスタートしました。本館は、各種の企画展の展示と教育、宣伝活動により、民主と自由の価値を伝え、人権と平和の礎をより確かなものとし、この枠組みにより、民主、人権と人々の生活をつないでいきたいと考えています。
2015年、本館を参観した建国中学の生徒たち。
二・二八事件と建国中学関係者たち
国民政府が派遣した陸軍整編第21師は、3月8日に台湾に到着すると鎮圧をはじめました。3月9日、台北市は戒厳を布告、3月17日、戒厳令は台湾全域へと拡大しました。戒厳下にあっても、当局はなお、学校に通常通り授業を行うよう要求しました。学校の教員たちは授業において、その見識をもって貢献しようと努力、生徒たちを指導していました。しかし、二・二八事件は、多くの学校の教員の行方不明、死傷あるいは指名手配といった事態を生み出しました。建国中学では校長の陳文彬が拘束され、教員の王育霖が行方不明となったほか、台中師範学校でも校長の洪炎秋が失職、教員の呉振武が指名手配されました。また、高雄中学の校長、林景元は更迭され、台湾大学文学部代理学部長の林茂生や台湾大学の外省人教員、徐征は逮捕後に行方不明となりました。さらに、宜蘭農業職業学校の校長、蘇耀邦は殺害され、淡水中学の校長、陳能通は行方不明となったほか、花蓮中学の教員、張果仁も殺害されました。
【事件に巻き込まれた建国中学の教員たち】
陳文彬:「師表たる教師」
本名は陳清金、高雄出身。1931年に日本の法政大学を卒業し、上海の復旦大学及び法政大学で教鞭を執りました。1946年、日本から台湾に戻り、建国中学の校長に就任、東京帝国大学など日本の名門校に留学したエリートたちを集め、建国中学の教員に就任させました。そして、宋斐如に誘われ、『人民導報』の総主筆を兼任、時弊を暴き出しました。二・二八事件の勃発後、当局の怒りを買い、『人民導報』はただちに閉鎖となりました。
事件当時、4名の建国中学の生徒(呉沃熙、郭国純、李徳昌、陳炎陳)が二・二八事件への参加を理由に投獄されていました。警備司令部が「生徒たちの学校の校長が出向いて引き受けるならば、ただちに彼らを釈放する」という情報を流したことから、陳文彬は警備司令部に向かい「君たちが建国中学の生徒4人を捕え、そして父兄に対し、私が迎えに来たら彼らを保釈すると言ったと聞いた。今、私は実際にやって来た。ならば、4名の生徒たちを解放すべきだろう」と訴えました。数日後、4名の生徒たちは保釈されましたが、陳文彬は自らが予想した通り監禁されることとなりました。同年5月、行政長官公署は省政府へと組織変更が行われ、陳文彬も不起訴処分となりました。1949年5月、陳文彬は、宋斐如の妻、区厳華の協力により、妻と子供を伴い台湾を離れ中国の北京へ赴き、その後、台湾の地を踏むことは二度とありませんでした。
二・二八事件勃発後の1947年3月、台北綏靖区司令部は、各新聞社や出版社に対する閉鎖命令、さらには学校に対しても閉校命令を下した。この中に『人民導報』も含まれていた。
王育霖:「日本の裁判所初の台湾人検察官」
王育霖は幼い頃から才知に優れていました。旧制台北高校の文科に通っていた期間、法律を学んで初めて、日本人に対し台湾人がもつべき権利を求めていくことができると考え、最難関の東京帝国大学法学部に入学しました。そして、京都地方裁判所で検察官に任官され、日本の裁判所初の台湾人検察官となりました。
戦後、王育霖は台湾に戻り貢献をしたいと強く願っていました。ちょうど新竹地方裁判所にポストの空きがあったことから、新竹地方裁判所の検察官就任を申請しました。彼は、権力に対して恐れることなく、正義に反するものは罰するという態度で立件していきました。しかし、「救済粉ミルク横流し事件」を立件したところ、新竹市長の郭紹宗は、警察を教唆して建物を包囲させ、調査に関する文書を持ち去ってしまいました。王育霖は文書を遺失し、報告不能になったことから検察官を辞職、建国中学で英語教師となりましたが、いわれなく二・二八事件に巻き込まれてしまいました。1947年3月14日、中山服を着た正体不明の人物が王育霖の自宅に押し入り、理由なく手錠をはめて連れ去りました。そして王育霖は今もなお、行方不明となっています。
王育霖(右)と、妻・王陳仙槎、息子・王克雄。
1946年8月13日、『民報』は、王育霖が新竹市政府の食糧配給に関する汚職を調査していることを報じた。当時の新竹市長、郭紹宗は、市民から救援物資を横領していると告発された「救済粉ミルク横流し事件」の他、その他の物資についても、分配に関わる問題を抱えていた。
【事件に巻き込まれた建国中学の生徒たち】
戦後初期の台湾の高校、大学は、自由な雰囲気で、学生、生徒たちは熱心に社会活動に参加していました。しかし、国民政府は台湾を接収後、台湾人の言行、話をする際の態度や言葉遣い、考え方の論理から、さらには身なりに至るまで、偏見と誤解に満ち溢れた見方をしており、台湾人は日本による「奴隷化」の程度が著しい、と考えていました。そして、国民政府の官吏によるこうした数々の荒唐無稽な行為により、国家の大事や政局に関心をもつようになった若者や学生たちは、政治的な事柄について度々主張を行いました。二・二八事件発生後、一部の建国中学の生徒は抗争に参加し、国民政府の軍隊に逮捕されました。このほか、無実にも関わらず事件に巻き込まれ、怪我をしたり亡くなった人もいました。
呉沃熙:「二・二八事件は悪夢」
二・二八事件が発生した時、呉沃熙は建国中学に通っていました。生徒会長だった彼は、事件の状況を把握する為、新店で行われる会議に参加しようと同級生と自転車で向かいました。すると、思ってもいなかった事に、公館の付近で下級兵士に行く手を阻まれ、ひどい暴行を受けた後、逮捕されてしまいました。息子が逮捕されたことを知らなかった両親は、一日中不安でたまらず、「遺体の身元確認」の為に四方をかけめぐりました。十数日間続けた後、息子が生存していることをようやく知った両親は、息子の命を助ける為、事業を畳んでかき集めたお金で官吏を買収したのです。
拘束されていた期間、呉沃熙は自白の強要をされ、建国中学の陳文彬・校長及び教員が裏で操っているのではないかと厳しく問い詰められました。そして、最終的に台湾省警備総司令部は、「公署の占拠を企んでいた」として懲役2年、執行猶予5年という判決を下しました。呉沃熙はこの判決に強い不満を感じていましたが、傍聴席にいた先生たちが涙ながらに哀願している様子を見て、他の同級生と共に罪を認め、その場で釈放されました。呉沃熙はこの時、二度と両親に心配をかけさせないと決意、建国中学、台湾大学を順調に卒業しました。しかし、就職はことごとく阻まれ、目にはみえないものの、常に政府からの監視を受けていると感じました。そして、公務員の仕事は諦めざるを得ず、民営機関で勤務することとなりましたが、自身の過去については決して語らず、40数年間、いかなる人に対しても明かしませんでした。そして、それは、妻子に対しても例外ではありませんでした。
二・二八事件勃発後の「暴乱事件犯人名簿」。名簿には、建国中学の李徳昌、郭国純、呉沃熙、陳炎陳の名前も書かれている。
郭国純:「心身に大きな傷を負い、進学できず」
二・二八事件発生当時、郭国純は建国中学に通っていました。事件発生から約一週間が経ったある日の深夜、自宅に突然、十数名の正体不明の人たちが押し入り、捜索を受けました。そして、これらの人々は、郭国純を拘束、東本願寺に連れていき、自白の強要をしました。しばらく拘束された後、今度は軍法局に移され、その拘束期間は合わせて2ヶ月あまりに及びました。さらに台湾省警備総司令部により、「公署占拠を企んでいた」として懲役2年、執行猶予5年という判決を下された後、保釈されましたが、身体的、精神的に深刻な傷を負い、その後、進学することはできませんでした。弟の郭国長は、事件において、国民政府軍から理由なく機銃掃射を受け被弾、重傷を負いました。
郭国長:「事件は終わった。しかし身体の傷の痛みはなお消えず」
当時、建国中学中等部の2年生だった郭国長は、水泳部に所属、活発な学校生活を送っていました。1947年3月、学校からの帰り道、突然、軍による機銃掃射を受け被弾、重傷を負いました。右胸からは大量の鮮血が吹き出しましたが、幸運にも通りかかった同級生が応急手当をしたことで、一命は取り留めました。しかし、重傷を負ったことにより長期間に渡って床に伏せ、ようやく好転した後、復学の準備をしようとしたところ、学校側は何と「思想面になお問題がある為、ただちに復学はできない。」と回答、学籍を取り消してしまったのです。その為、郭国長は退学し、自宅で過ごすことを余儀なくされました。
二十あまりの銃弾の破片は胸に残り、長期間に渡り治療を行いましたが、傷の痛みはなお残っています。近所の人々や親戚、友人は、郭国長が機銃掃射を受けたこと、さらに兄の郭国純が政府から拘束され、裁判にかけられたことから、交際しようとせず、結果、生活面や就職において甚大な影響を被りました。
李德昌:「恐怖感はずっと拭い切ることができず」
李徳昌は当時、建国中学高等部の2年生で、自治会の幹部を務め、秩序維持の為の支援を行っていました。二・二八事件発生後、会議に出席する為に新店へ向かっていた同級生の呉沃熙が逮捕されました。約一週間後、警察が李徳昌の住居にやってきて、関連部署による事情聴取を理由に連れ去りました。数回の取り調べの後、台湾省警備総司令部により、「公署占拠を企んでいた」として懲役2年、執行猶予5年という判決が下され、その後、釈放されました。復学後も心身のトラウマは深刻で、しばしば恐怖感を覚えていましたが、大学を卒業し、就職した後、ようやく回復の兆しが見えてきました。
黃守義:「あなたたちは撃ち間違えたんだ!」
黄守義は当時、建国中学高等部の2年生でした。二・二八事件発生後、1947年3月10日の午前、彼と小学5年生の弟、黄守禮は朝食代わりのビスケットを買いに出かけました。家から遠くない場所で、ちょうど国民政府軍が通行人の持ち物検査をしており、黄守義を見かけるとすぐさま、こちらに来るよう命じました。そして、彼が近づいていくと、国民政府軍はいきなり引き金を引き、黄守義は音と共にその場に倒れました。弟は慌てて家に走って引き返し、家族に向かって「お兄ちゃんが、お兄ちゃんが」と叫びました。たった今、家の中で、街頭のかすかな銃声を耳にしていた家族は、弟がこうして叫ぶ様子を見て大事だと感じ、すぐに発生現場に駆けつけました。国軍はまだその場におり、父親は木の陰に身を潜めつつ、中国語で「あなたたちは撃ち間違えたんだ」と大声で叫びました。すると、国軍の一人の下級兵士が父親に向けて2発発射しましたが、幸いにも命中しませんでした。しばらくして兵士が現場を離れたので、家族は慌てて血だまりの中で倒れている黄守義の元に駆けつけましたが、残念なことに、既に息を引き取っていました。
兄、黄守義の写真を手にする弟の黄守禮。
郭琇琮:「まだやり残している事がたくさんあるんだ!」
郭琇琮は1918年に生まれ、台北一中、台湾大学医学部を卒業しました。時事問題に関心を持ち、しばしば新聞で評論を書いていたほか、抗日運動に参加し、勾留されたこともありました。
終戦後から二・二八事件が発生するまでの期間、台湾各地では突然コレラが流行しました。郭琇琮は台湾全域を巡回、治療と公共衛生の普及に務めたほか、各地の原住民族の集落も訪れ、治療を行いました。二・二八事件が発生した頃、彼は学生連盟の主席に選出され、新公園(現在の二二八和平公園)にあった台湾広播電台からラジオ放送を通じ、日本語と台湾語で中国の封建制度を打ち破ろうと呼び掛けたり、官吏が汚職にまみれた政府はいらない、などと訴えました。郭琇琮は二・二八事件においては辛くも災難を逃れましたが、1950年、妻子と共に、中共スパイ組織の台湾省工作委員会に参加したことで逮捕されました。郭琇琮は「処罰反乱条例第二条第一項」により起訴され、死刑判決を受け、1950年11月28日午前、馬場町(現在の馬場町紀念公園)で銃殺刑となりました。彼は生前獄中で「日本の憲兵に捕まった時に、死んでいてもおかしくなかった。だから、7年間長く生きたといえる。とはいえ残念なのは、あと何年か活かしてもらえば、もっと多くの仕事ができたということだ。自分はまだ、やり残している事がたくさんあるんだ」と話していたそうです。
【親を失った痛み:遺族となった建国中学の生徒たち】
父親が理由なく逮捕され行方不明となったことで、かつて建国中学に通っていた宋洪濤と李榮昌の2人は、一般の人々は想像もできない、貧しく、苦しい日々を送ることとなりました。周囲の人々の嘲笑や皮肉、肉親を失った悲しみと苦痛に加え、一家の大黒柱を失ったことで、困窮し流浪の生活を送らざるを得ませんでした。70年以上経った現在も、彼らは事件の真相が明らかになることを望んでいるのです。
宋洪濤(二・二八事件の犠牲者、宋斐如の長男):「父親がいなくなった後、人の温かさと冷たさを知った」
宋洪濤は、二・二八事件の受難者、宋斐如の長男です。宋斐如は戦後、行政長官公署教育処で副処長を務め、当時、台湾人の公務員として最高位の職位に就いていました。人柄は正直で、公務の傍ら、『人民導報』を創刊、時事問題や政治の批評、不正の摘発をしました。しかし、この事によって、命を落とす災いに巻き込まれることになったのです。二・二八事件発生後、自宅で何者かに強制的に拘束され、今なお行方不明となっています。
宋洪濤は父親が連れ去られた時、13歳で、建国中学中等部の1年生でしたが、経済的な理由から休学を余儀なくされました。継母の区厳華は1949年5月、拘束後に保釈された建国中学校長、陳文彬の台湾からの逃亡に協力したことにより、1950年、「通匪罪(中共に結託した罪)」の罪名で当局に逮捕され、馬場町で銃殺刑に処されました。
孤児となった宋洪濤は、それから街頭をさまよい、新公園(現在の二二八和平公園)や台北駅を住処にしていました。白色テロという時代背景の中、父親の以前の友人、部下あるいは運転手も皆、不安を感じ、救いの手を差し伸べようとはしませんでした。人間の温かさ、冷たさを知り尽くした宋洪濤は、意志の強さによって、ようやく安定した仕事をみつけ、生活は次第に落ち着いていきました。しかし、二・二八事件は、宋洪濤の人生において、消し去ることのできない深い傷となりました。
宋斐如の長男、宋洪濤。
宋斐如。
『人民導報』の発行元があった建物は、現在は台北市により歴史的建築物に指定された撫臺街の洋風建築で、1910年に建造された。『人民導報』は1946年1月1日に創刊、社長は宋斐如、総主筆は陳文彬で、同紙は強烈な左翼的思想の色彩を帯びていた。戦後初期の社会における政治、経済の混乱を報道、批判したことから、二・二八事件発生前から情報機関にマークされ、社長の宋斐如は当局の圧力を受け辞職、王添灯が後任の社長に就任した。二・二八事件勃発後、『人民導報』は事件を詳細に報道したが、3月、警察警備総司令部は「反動的な思想、荒唐無稽な言論により政府を誹謗し、暴動を煽動する主な勢力」として、同紙を閉鎖に追い込んだ。宋斐如は「陰謀反乱首要(反乱を企んだ主犯)」の罪名で逮捕された後、行方不明となった。
李栄昌(二・二八事件の犠牲者、李瑞漢の長男):「昌ちゃん、帰れ」
李栄昌は李瑞漢の長男です。1947年3月10日、憲兵第四団の団長張慕陶は、台湾省行政長官の陳儀が会議に招待したことを理由に、当時、台北弁護士公会会長だった李瑞漢を、台北市宮前町(現在の中山北路二段、三段一帯)の自宅から、弟の李瑞峰、友人の台湾省参議員、林連宗と共に連れ去りました。その後、三人は行方不明のままとなっています。
李栄昌は日本統治時代、台北一中で学びました。当時、生徒の大部分は日本人で、李栄昌は数少ない台湾人の一人でした。李家は日本統治時代、「皇民化教育」を受け入れず、李栄昌もまた日本名に改名しなかったことから、日頃から日本人の先輩にいじめられていました。終戦後、李家は、日本人から抑圧される日々がついに終わったと考えましたが、期せずして二・二八事件が発生しました。国民政府軍は市民を公然と逮捕し、抗争を鎮圧、彼の父親の李瑞漢も、理由なく事件に巻き込まれてしまったのです。
李栄昌によりますと、父親ら三人が連れ去られる際、ずっと彼らについていったところ、父は彼の身の安全を守ろうと、敢えて日本語で「昌ちゃん、帰れ」と大声で叫んだそうです。そして、これが父の最後の言葉となってしまうとは、この時は思いもよりませんでした。
李瑞漢は1939年、第二回台北市会及び街庄協議会員選挙に出馬、台北市大平町四丁目(現在の台北市延平北路一帯)の事務所前で、選挙活動を行った。
父、李瑞漢の遺影を手にする李栄昌。
二・二八事件.建国中学そして台湾主体意識
民主の闘士─鄭南榕:私は二・二八事件の年に生まれた。あの事件は私を生涯困惑させることになった。
外省人二世の思想改革
1947年、二・二八事件が勃発した年に、鄭南榕は生まれました。外省人二世の鄭南榕は、家庭内の教育が進歩的であったこともあり、幼い頃から権威体制に反感を抱いていました。鄭南榕は宜蘭で中学を卒業すると、台北の建国中学に進学、板橋の婦聯二村に住む父親の従兄弟の家に居候しました。鄭南榕の弟、鄭清華によりますと、当時、兄は、父の従兄弟に管理され、登下校、帰宅後と毎日変わらない生活を送っていたものの、高校三年になった年、外に部屋を借りて一人暮らしを始めると、牯嶺街の書店街を歩き回るようになり、急に思想が形成されていった、といいます。そして、鄭南榕は高校卒業後、成功大学の工学部、そして輔仁大学と台湾大学で哲学を学びました。
鄭南榕の弟、鄭清華は、多くの人々が、鄭南榕の思想は大学時代に変化を遂げたと述べていることに対して、高校三年の年には既にその兆しが見えていた、との考えを示しています。
鄭南榕が台湾独立を強烈に主張していたのは、国民党による権威主義体制の統治を打破し、独立をして初めて民主化ができると考えていたこと、さらに、台湾と中国の文化、経済、政治面などの制度上における大きな差異によって第二の二・二八事件が発生することを避ける為でした。彼は一生を、民主化、権威主義の打破、「100%の言論の自由の獲得」に捧げ、雑誌の創刊を通じ、実際の行動によって理念を実践しました。そして、戒厳令解除を要求する「五一九緑色運動」、移行期正義を推進する「二・二八和平の日促進会」などの社会運動に積極的に参加しました。
「二・二八和平の日促進会」
1987年2月4日、国内外、各分野の数々の団体により「二・二八和平の日促進会」が結成され、陳永興が会長、李勝雄が副会長、そして鄭南榕は事務局長に就任しました。そして、共同で外部に向け「二・二八和平の日宣言」を発表、政府は二・二八事件の真相を明らかにすると共に、犠牲者の名誉を回復し、2月28日を「和平の日」と定めるよう要求しました。その後、「二・二八和平の日促進会」は台湾各地で公演を行い、軍人や警察が周囲で見守る中、台湾の市民に向かって、政府が40年あまり禁じていたタブーを大胆に口にしたのです。講演中、ステージの下で話を聞いていた人々は誰しも驚きました。聴衆はこれまで、自分が生まれ育った土地で、こうした悲劇が発生していたことを知らなかったのです。そして、犠牲者に対し、やりきれない思いと同情の気持ちを覚えたのでした。
鄭南榕は、「二・二八和平の日促進会」が週刊誌『自由時代』に「台湾共和国憲法草案」全文を掲載したことにより、当局から「反乱罪容疑」で告発されました。1989年4月7日、警察が逮捕しようと鄭南榕の元に向かった際、焼身自殺を決行、政府が言論の自由を抑圧する事への不満を表明しました。2016年12月22日、行政院は、鄭南榕が焼身自殺を遂げた4月7日を「言論自由の日」に定めることを発表しました。
1987年2月26日、鄭南榕は嘉義駅前で、犠牲者に向け深々と礼をし、献花した。
1987年3月7日、鄭南榕、陳永興が率いたグループは彰化県政府前で、二・二八事件の真相を明らかにするよう要求した。そして、警察と市民が衝突、宣伝車も被害を受けた。
革命に生涯をかけた男─史明(施朝暉):青年よ、大志を抱け!
反抗心の芽生え─台北一中時代
『台湾人四百年史』を著した台湾の革命家─史明(施朝暉)は、1918年、台北市の士林で生まれました。1932年、15歳の時に、台北州立台北第一中学校に合格しました。史明は幼い頃から、父親の世代の「抗日」的な考え方の影響を受け、中学進学後、少しずつ反抗心を示すようになりました。一年生の時、先輩の陳根火が、日本軍の中国侵略を批判し退学となったことは、史明の思想をより刺激し、彼を「硬派」の台湾学生にさせました。学校では、しばしば素行の悪い日本人学生と口喧嘩や殴り合いをしました。当時は皇民化教育、軍国主義が盛んな時期でしたが、史明は父親が日本から取り寄せていた雑誌を通じ、世界や新たな思想の潮流を知ることができたのです。
日本統治時代、台湾人が従事できる職種は政府により制限されていたことから、当時、台北一中に合格した生徒の多くは卒業後、医師を目指しました。若き日の史明はある日、日本の雑誌に載っていた札幌農学校のクラーク教頭の「青年よ、大志を抱け!」という言葉を目にすると休学を決意、台湾を離れ日本に留学し、早稲田大学で政治と経済を学びました。
左派への傾倒と二・二八事件の衝撃
当時、日本の早稲田大学では社会主義、共産主義が流行していました。またこの時期は、植民地解放運動、独立運動、コミンテルンなどが世界を席巻しており、史明にも大きな衝撃を与えました。1942年、早稲田大学を卒業した史明は、中国に赴き抗日戦争に参加、共産党に加入しました。そして、中国で1949年まで過ごし、台湾に戻りました。
1947年、二・二八事件が勃発、史明はこの時、中国におり、直接事件の影響を受けることはありませんでした。しかし、その後の反蒋介石、武装抵抗についての信念の基礎は既に築かれていました。1949年、中共政権に失望した際、史明は蒋介石政権の軍事統治に対しても反感を抱いており、台湾に戻ると、ただちに蒋介石政権への抵抗を開始しました。台湾の蒋介石政権に抵抗するには、武装闘争による革命を通じて台湾が自主権を得なければならないと考えた史明は、二十あまりの小銃を集め、武装集団を組織しました。しかし、これによって指名手配され、1952年、台湾から東京へ逃れ、日本政府から庇護を受けることとなりました。
東京で再出発
東京へ逃れた史明は、中華料理店「新珍味」を開店します。生活の為の収入源という意味合いと共に、日本、アメリカ、さらには台湾の社会運動家を継続的に(特に経済面の)支援することが目的でした。1962年、彼が著した『台湾人四百年史』が出版され、1967年には東京で「独立台湾会」が設立され、台湾人は自らのことは自らで決めるべき、という理念を押し広めました。戒厳令時代、台湾あるいは海外の台湾人にとって、『台湾人四百年史』は台湾を知り、二・二八事件を知る為の大切な手段の一つでした。同時に、台湾主体意識発展の為の重要な思想の根源となったのです。
台湾へ─社会運動を強固なものに
1987年、台湾は、表面上においては戒厳令が解除されましたが、各法律による束縛からは解き放れていませんでした。1991年には、学生が『台湾人四百年史』を研究、「独立台湾会」に参加したことで警察に逮捕されました。また、史明も1993年、密かに台湾に戻った後に逮捕されました。この二件は共に、保釈金を払うことで保釈されました。
史明は台湾に戻った後、各社会運動で活躍、積極的に「独立台湾会」の組織を拡大し、より強固なものとしました。そして、台湾社会の公平と正義の為に全力を注ぎ、同時に、平和的な抗争によって体制外へ独立建国の理念を宣揚しました。彼の台湾民族主義と独立建国運動の思想は、海外亡命の期間、あるいは台湾帰国後の社会運動への参加時期に関わらず、台湾人という意識の形成過程において、いずれも重要な役割を果たしたのです。
後列、最も背の高い人物が史明。
「台湾ナショナリズム」を唱えた史明は台湾独立左派とされる。二・二八事件及び蒋介石の軍事独裁を経験し、蒋政権に強い不満を抱く。1950年、秘密組織「台湾独立革命武装隊」を組織し蒋介石の暗殺を謀るが、1951年末、暗殺に失敗し、指名手配され日本に亡命。1952年に政治犯として日本政府の政治的庇護を受け、以後日本で41年に及ぶ亡命生活を送った。
1993年、史明は帰国を前に、日本で台湾の民族主義と台湾独立について語った。
1995年、史明と「独立台湾会」の宣伝車。屏東県政府前で撮影。