展示
特別展示|文字の力量—二・二八事件に関する民間出版物特別展示
更新日:
2020-02-11
展示期間:Feb 22, 2020 – Aug 16, 2020
開放時間:火曜日〜日曜日 10:00~17:00
会場:二二八国家紀念館 二階南翼/台北市中正区南海路54号
休館日:毎週月曜日
指導単位:内政部
主催単位:二二八事件紀念基金会、二二八国家紀念館
執行単位:定錨點文化事業有限公司
展示の趣旨
1947年、台湾で第二次世界大戦の終戦と政権交代の際、二・二八事件が発生した。その後38年以上に渡り戒厳令がしかれ、台湾社会は長期にわたり言論と思想の自由が抑制を受ける白色テロの時代となった。しかし台湾の人々は言論の自由を求め、真相を追求する願望と勇気をもって、あらゆる方法で制度に挑み、現状を突破し、最終的に権威主義の障壁を破った。
戒厳令下では、二・二八の歴史の傷跡は触れてはいけないタブーとなっていた。しかしなお多く先行者が冤罪の悲運に陥る人々を救い、歴史の真相を知らせるために声をあげた。これらの民間からの力は文字に書かれ、海外で発行されるか、危険を冒して非公式のルートで流通した。さらに社会運動の際に小冊子として配布されることもあった。民間の出版物として生み出されたこれらの力は、二・二八事件の真相の調査研究に歴史の軌跡を残した。
時間の回廊
タイムラインの概念を用い、1947年から2019年までの間に政府および民間から出版された各種出版物を時系列順に並べている。二・二八事件発生から現在までの関連書籍の発行状況と、環境の影響を受け、政府や民間の出版物の間に生まれた競合のような微妙な関係を表現した。
禁制と咆哮
二・二八事件発生直後、中国での国共内戦の激化や台湾での長期にわたる戒厳令がしかれたため、政府はプロパガンダを流布し、二・二八事件を「暴動」や「共産党の煽動」、「台独」だと定義し。騒動に参加した人々や無実の受難者は「暴徒」と誹謗中傷され、二・二八事件は台湾社会のタブーとなった。
しかし、二・二八事件の真相の追求は民間から消えることはなかった。事件直後に一部の新聞が当局の腐敗を報道したり、それに対する民衆の意見や反応を掲載したものは、貴重な史料である。戒厳令の時期に海外で翻訳された出版物や雑誌に掲載された文章は、出版が規制されていた時代における、二・二八事件を知るための主要な手掛かりとなっている。1980年代以降、政治的な雰囲気が緩まるにつれ、話題になことが増えてきた。その後、「二・二八公義和平運動」が民間から起こり、受難者や目撃者たちに沈黙を破ることを促し、封印されていた歴史がとうとう日の目を見た。
禁じられた世論
二・二八事件に関し、初期に政府は「暴動」、「共産党の煽動」、「台独」だという論調を用い、民間において事件への探求は全面的に禁止されていた。今振り返ると、明らかに言語道断なことだが、思想や言論が制限を受けていた時代に、これらは抵抗しえない真理とされていた。
咆哮の時代
相対的に政府寄りの立場をとる『中央日報』と、『台湾新生報』は、2月28日に「密売取締員がヤミたばこ密売者と衝突、昨晩二名の市民が銃殺された」と報道した。3月1日、新聞の社説では「延平路事件感言」というタイトルで、ヤミたばこ密売者への取り締まり事件の背景や、当時の台湾社会の不穏な状態、そして当局の事件後の処理に対する呼びかけを載った。3月2日から8日まで、『台湾新生報』は二・二八事件処理委員会の動きを大々的に報道し、人民の要求を一面のトップに掲げた。各地で起こったデモや、若い学生たちの運動なども報道の焦点となり、全台湾に知られることとなった。
38年間に渡る戒厳令の時代には、厳格な出版規制のため、二・二八事件に関する文章を発表する場は台湾にほとんど存在しなかった。当時、二・二八事件に関する著作の多くは海外のもので、さらに非公式のルートを経て密かに台湾社会へもたらされた。これらの筆者の多くは二・二八事件の目撃者であり、個人が見聞きした出来事や、保存収集された資料は、後代の研究のための貴重な記録となっている。
二・二八を記す
戒厳令が解除された1990年代から、二・二八事件に対する社会の注目が増すにつれ、事件に関連する出版物は多様さを呈した。またそれらが集まり大きな力となることで、二・二八の真相の公表を促した。この民間の力は二・二八事件の研究や調査、オーラルヒストリーの記述、記録、文学創作など様々な面から探求し、この時代の台湾史に対する民衆の注目と理解を呼び起こした。
私は、二・二八にいた
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戒厳令解除後、政治的な雰囲気は緩和され、二・二八事件の当事者や受難者遺族、または目撃者たちは、長期に渡る抑圧や、声をあげられない恐怖を克服すべく、オーラルヒストリーのインタビューや、先人が残した手紙などをまとめることで、当時強いて忘れ去られた歴史を世に広めた。このような歴史事件や人物に関する内容を扱う出版物を通し、彼、彼女らの生涯を完全に表現している。同時に政府が語る歴史とは別の角度からの視点を与え、公の歴史では省略されてしまう歴史のディテールを補足している。
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1990年代から、各地域ごとの二・二八事件のオーラルヒストリーの記録を著した民間の出版物が次々に現れた。その内、自立晚報社文化出版部は1992年に『噶瑪蘭二二八:宜蘭228口述歴史』、1993年に『悲情車站二二八』、1994年に『基隆雨港二二八』そして、『嘉義北回二二八』を出版している。吳三連台湾史料基金会からは1995年に『嘉義駅前二二八』、『諸羅山城二二八』と『嘉雲平野二二八』、『臺北南港二二八』を、1996年には『台北都会二二八』、『淡水河域二二八』、2001年に『花蓮鳳林二二八』、2014年には『新竹風城二二八』が出版された。
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民間の出版社の書籍だけでなく、2000年以降には行政機関も関連書籍の出版を始めている。例えば、2002年には新竹市文化局は張炎憲編纂の『風中的哭泣–50年代新竹白色恐怖政治案件(上、下)』、2009年には二二八事件紀念基金会が陳儀深主導により『濁水渓畔二二八:口述歴史訪談録』を出版、2010年に彰化県文化局が呂興忠編纂の『彰化県二二八口述歴史》(上冊)』などの書籍を出版している。
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これらの出版物により、各県市地域での二・二八事件発生時の実況が明らかになってきた。また、この時に初めて開示された一次資料は、二・二八事件の真相解明のための貴重な手掛かりとなった。
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今回展示している15冊の著作のうち、90年代に自立晚報社が出版した4冊と、2002年に新竹県文化局が出版した1冊(上、下2冊)の専門書は、2011年以降に吳三連台湾史料基金会より次々に再刊されており、叢書としてシリーズ化されている。
真相探究の道
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戒厳令下の特殊な背景に、二・二八事件に関する議論は絶対的なタブーであった。しかし二・二八事件の真相の追求と公表することは中断されたことはなかった。1983年から党外雑誌は黄天福が発行した『鐘鼓鑼』、許栄淑主導による『深耕』、林正杰が創刊した『前進』などの刊行品で、二・二八事件を大きく取り上げ議論した。それらは全て政府により取り締まられ、印刷所が捜索・差し押さえに遭うほどの事態にもなった。これらの民間の力は文字により描写され、非公式な形で流通することにより、二・二八事件は多くの人々の知るところとなり、それで事件を語る人が増えた。1987年2月13日、陳永興、李勝雄、鄭南榕らは六十三の台湾と海外の台湾人団体を連携し、「二・二八和平日促進会」を発足し、二・二八事件に関する40年に渡るタブーを破り、様々な講演やデモ行進を行なった。政府に対して、二・二八事件を公開し記念すること、事件の真相を公布すること、名誉の回復を要求した。官憲に何度も止められたが、ますます多くの受難者やその遺族が立ち上がることを望み、二・二八事件の様々な面が社会で公開討論された。これは台湾の民間人が推し進めた最初の「移行期正義」の主張である。
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戒厳令解除後、政府は事件に関する報告書を出版し、国内外の文献資料の解読と応用に伴い、二・二八事件の研究が進められた。また研究の視野も直接的で強烈な真相解明と責任追求というものから、より高い視座で、改めて二・二八事件発生の時代背景を捉え直す動きもある。政治、社会、経済と文化などの角度から、そして国際的な視野、歴史記憶と二・二八事件の責任の所在などの面において、より完全な学術的な検討が進められている。マクロな視点で慎重に二・二八事件を理解することは、現代台湾の移行期正義の議論において強固な基礎となった。
恨みではなく、愛のために--文学二・二八
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文学作品における「二・二八事件」は、長きに渡り象徴的意味が満ちたシンボルとして扱われた。戦後の台湾政治の独裁統治に対する抗議の声を反映し、本省人と外省人間の矛盾だけでなく、より普遍的な、独裁政治が生み出す恐怖に対する一般市民の抗議が描かれた。
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「二・二八事件」が半世紀以上に渡り、語り尽きない文学のテーマとなったのは、その象徴的意義は、実際に社会で認識されている歴史事件そのものを遥かに超越している。私たちが今日、文学作品のなかの「二・二八」を議論する場合、その現象を社会的、歴史的な環境と文学作品の相互関係としてとらえることで、初めて文学の表現が歴史事件自体を越えることを見て取る事ができる。さらには台湾文学における一つの後世に伝える題材となった。
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今回展示する文学作品は『無花果』、『波茨坦科長』、『台湾連翹』『二二八台湾小説選』、『怒濤』、『埋冤一九四七埋冤』、『槍声』、『傷口的花』、『阿嬤的碗公』。ジャンルとしては小説、詩集、絵本にわたる。
輝けない若き日を凍りついて・『辛酸六十年』を著した鍾逸人
鍾逸人氏は1921年、台中大墩生まれた。日本統治時代に東京外語学校フランス語学科に在学していたが、後に父親の病気により帰台した。第二次世界大戦終戦後、鍾氏は「三民主義青年団」に参加し、その後『和平日報』嘉義支社の主任を務めた。1947年二・二八事件発生後、鍾氏は楊逵と市民大会開催を呼びかけるビラを配布した。3月4日に台湾各地に「二・二八処理委員会」が成立し、台中市の学生は鍾氏の召集に応え「民主保衛隊」に加入した。部隊の編成を行なった後、鍾氏は「民主保衛隊」を解散し「二七部隊」を結成。鍾氏は部隊長となった。台中が国軍との戦場になることによる市民の負傷を避けるため、部隊は埔里へ撤退した。二七部隊は国軍整編第二十一師にわずかに反撃したことはあるが、圧倒的な戦力差に解散を余儀なくされた。この時26歳の鍾氏は逃亡時に逮捕され、「内乱罪」により懲役15年の刑罰を下された。刑期満了後に公判を受けず、さらに小琉球に送られ労働改造所で2年を過ごした。こうして彼の青年時代に、17年間の凍りついて月日がある。
1964年、鍾氏は出獄し住居を北斗へ移し、緑藻養殖の事業を開始した。この時期にも監視され、政治に意見を表明しなくようになった。1987年2月28日、鍾氏はアメリカのワシントン、ヒューストン、ニューオーリンズ、アトランタ、ニューヨーク、カナダのトロントなどに招かれ、当事者として世界に向けて二・二八事件の真相を語った。1988年、鍾氏は李喬に自伝を書くよう勧められ、『辛酸六十年』が出版された。これは二・二八事件当事者による初めての伝記で、二・二八事件と白色テロ時代を知るための重要な資料となった。また台湾人が強権と立ち向かった悲哀の物語でもある。2014年、鍾氏は医師である陳篡地(1907–1986)の伝記『此心不沉-陳篡地与二戦末期台湾人医生』を執筆し、知識人の暗く悲しい生涯を記録した。
張炎憲教授は『辛酸六十年』をこう評する。二・二八事件に関する非常に貴重な資料であるだけでなく、鍾氏の人間関係ネットワークに通じ、当代の人物に関する情報を得、また、当事者たちの報道などから、二・二八事件に対する民衆の憤怒や失望の最中に行なった具体的な反抗の行動であることがわかる。人々が経験を通して学び、より広い未来に向かうことを期待する。
「父さん、おやすみなさい。晚安」--生涯を父親失踪の真相追及に尽くす阮美姝(1928-2016)
1928年生まれの阮美姝女史は、『台湾新生報』の総経理であった父親の阮朝日のもとで、芸術と美に情熱を注ぐ優雅で繊細な女性に育った。しかし1947年に二・二八事件が発生し、『台湾新生報』は民情を忠実に記録した結果、阮朝日は政府に討たれてしまった。3月12日、阮女史は新婚後初めて実家へ帰ったが、その喜びの瞬間に彼女の父親がまさに病床から連れ去られ、二度と戻ることはなかった。
阮女史は父親の捜索を諦めることなく、図書館での資料収集に明け暮れ、台湾全土を奔走し遺族を探し歩いた。父親の行方不明だけでなく、二・二八事件の真相をも掘り起こした。
1992年、阮朝日が連れ去られてから45年。阮女史が著した『孤寂煎熬四十五年』は世に問いを投げかける。彼女は「私の父親とその友人のため、二・二八事件で命を奪われた罪のない多くの市民のため、私は力を尽くします。私が集めた史料は、人々の共同の支持のもと広く世に知らせてきました。これで私の労苦にも意義が生まれます。天国の両親も賛同してくれるでしょう。」と期待している。
同年、阮女史は『幽暗角落的泣声』を出版している。この本は80名の受難者と遺族の物語を記録したものである。彼女は「私たちが争わねばならないのは、私たちの父兄の潔白です。私たちが争わねばならないのは、政府の責任を取る態度です。私たちが争わねばならないのは、正確な歴史です。」と訴える。阮女史はまた「タブーを乗り越えて、勇敢にかつ積極的に台湾の歴史構図の再構築に登場する。それをしてこそ、私は真に解放されるのです。」と語っている。
二・二八研究史における学術の先駆—張炎憲教授(1947-2014)
張炎憲教授(1947-2014)嘉義出身、東京大学歴史学博士である。張教授は1986年から社会運動、特に二・二八冤罪解消運動に積極的に加わった。二・二八事件や白色テロの受難者、台湾籍の日本兵、台湾籍の国軍や海外の台独運動家などへのインタビューも開始し、長期にわたり各地へ赴き、民間のオーラルヒストリーの聞き取り調査に従事した。1993年からは二・二八事件被害者、白色テロおよび海外の台独運動家へのオーラルヒストリーの記録と人権救援に関する資料を整理し出版している。
張炎憲教授は2000年に国史館の館長を務めた。任期中に国史館は『二・二八事件責任帰属研究報告』、『二二八事件档案彙編』、『二二八事件辞典』などのシリーズを出版した。
民間から政府部門まで、張教授は絶えず二・二八事件と白色テロの補償と、歴史の真相の復元に尽力した。また、長年二・二八の受難者の冤罪者の名誉回復や、受難者家族への配慮のため、2008年に人々の希望を裏切ることなく、被害者の遺族でないものの、「台湾二二八関懐総会」の会長となった。
愛と希望の木
台湾は1949年に戒厳下に置かれ、1987年に戒厳令が解除されるまでの約40年間「台湾省戒厳時期新聞紙雑誌図書管制辦法」が施行され、出版と言論の自由が国家機構により厳しく規制されていた。その後1999年に「出版法」が廃止され、ようやく台湾の書刊審査の長い歴史が幕を閉じた。
1990年代以来、民間の二・二八事件に関する出版物の多様さは、社会各界の二・二八事件の探求に対する熱意と努力だけでなく、二・二八事件後の民主化の過程を表している。二・二八事件に対する各種様々な論証と観点は、現在の台湾社会においても未だいろいろなな衝突と課題への挑戦が続いていることを反映している。
あらゆる出版物の発行は、木を植えたように、文字が持つ力は根のように人々の心に伸びている。いつの日か枝葉が生い繁り、花が咲き誇るだろう。「希望という光合成で成長し 生い茂る木陰は傷ついた土地を慰撫し 爽やかな緑陰は痛む心を慰める」と詩人が詠うように。歴史の傷の真相探求は憎しみのためではなく、私たちが教訓を得るためにある。先人たちが私たちのこの島を守ってきたように、愛と希望を持って、同じ未来を迎えよう。
木を植えよう 私の土地に
憎しみでなく 愛のために
二・二八 この日
君とわたし共に懐かしむ 失くした家族を
木を植えよう 私の土地に
死のためでなく 希望のために
二・二八 この日
きみと私はともに慰めあう あまりに悲しまないで
一枚の葉から 愛と希望が成長する
木は私たちの土地に根を張るだろう
木は私たちの空に伸びるだろう
暗闇のなか夜空の星を眺める
木の頂で煌めいている
---李敏勇〈愛与希望的歌〉(愛と希望の歌),1993
出版社と研究者へのインタビュー