二・二八事件における選択
嘉義
1947年3月2日、嘉義市でも動乱が始まり、3月3日には無政府状態となりました。当時、呉鳳郷の郷長だったウオグ・エ・ヤタウヨガナ(日本名:矢多一生、漢名:高一生)は地元の士紳 (=有力者)である盧鈵欽らの誘いを受け、幹部を集めて会議を開き、先住民族の仲間を平地に派遣して秩序維持に協力することを決めました。また、阿里山に避難していた台南県県長(=県知事)の袁国欽や県の管理職など多数を保護しました。1947年3月9日、張秉承は保密局への報告で、3月2日に嘉義の暴徒が先住民族や山中に潜伏する日本人を集め、深夜に国軍の宿営地を襲撃したと伝えました。
秩序維持と飛行場包囲
1947年3月3日深夜、戦前、日本軍の少尉だったヤプスヨグ・エ・ユルナナ(日本名:湯川一丸、漢名:湯守仁)は先住民族を率いて楽野村を出発し、奮起湖駅へ向かいました。そこから鉄道で竹崎へ移動し、トラックに乗り換えて嘉義市内へ入り、招待所「蛍光舎」(現在の嘉義市嘉義仏教会)に進駐しまた。
3月4日には紅毛埤(現在の嘉義市蘭潭)の第19軍械庫(武器庫)を包囲。国軍が急いで火を放ったものの、民間部隊は小銃、ピストル、機関砲などの武器や弾薬を持ち出し「蛍光舎」へ戻りました。部隊は二手に分かれ、一方は方義仲が指揮し、嘉義の青年や学生による市内の治安維持に協力しました。もう一方はヤプスヨグ・エ・ユルナナが指揮を執り、平地人とともに水上機場(=飛行場)を包囲しました。
3月10日、戦局は膠着状態となり、双方の交渉に進展は見られませんでした。そうした中、国軍が台湾に上陸し、南下してくるという消息が相次いで入ってきたため、深夜になってヤプスヨグ・エ・ユルナナは先住民族たちを伴い、嘉義の北門駅から汽車に乗り、大量の武器を携えて阿里山へ戻っていきました。
屏東
1947年3月20日、張秉承は保密局への報告で、屏東市参議会の葉秋木らが二・二八事件処理委員会を組織したこと、先住民族のならず者を扇動して略奪を行い、秩序を乱していると伝えました。しかし、この情報を裏付ける口述や関連の資料などは存在していません。
花蓮
東部は交通の便が悪いため、二・二八事件の影響が出たのは1947年3月3日以降のことでした。しかし、この地域は先住民族の割合が高いことから、それが事件の発展を多少なりとも左右することになりました。
3月5日、花蓮港に集まった市民、学生、青年団、台湾籍の警察官、消防隊らが事件に呼応。軍や憲兵は基地に集中して待機し、これに対応しました。一方、花蓮の有力者たちは二・二八処理委員会を組織しました。鳳林区の各高山族が代表1人を派遣し、計20人がそれぞれに日本刀一本を持ち、街で政府が事件をどのように処理しようとしているかを調べ、二・二八処理委員会から状況を聞いた後、戻っていきました。そのうち秀林郷の郷長、Walis Umin(タロコ族/漢名:林明勇)も処理委員会の交渉委員でした。
3月11日、国軍が台北に到着したと聞き、処理委員会は解散しました。また、暴動に加わった若者の多くは山中の高山族(山地先住民族)の居住地に逃げ込みました。
台東
1947年3月3日、群衆が台東県県長(=県知事)の謝真が住む官舎へ押しかけました。謝真は卑南郷の南王集落に逃げ込み、参議会議長の陳振宗に群衆への対応を指示しました。
3月4日、地方の民意代表や士紳(有力者)らが二・二八事件処理委員会を組織。警察がすでに銃や銃弾を隠していたため、青年団や学生隊などはあまり武器を入手することができませんでした。しかし、青年たちは嘉義や高雄などで国軍が数万人の台湾住民を惨殺したと聞きつけて非常に憤慨し、嘉義へ向かおうとしました。議長の陳振宗はこれを阻止したことで、群衆の怒りを買い、最終的には二・二八事件処理委員会を脱退しました。
3月7日、処理委員会は代表を派遣し、県長及び議長に対し、職務に戻って県政を取り仕切るよう求めました。3月10日、謝真は臨時事務所を設置。徐々に平静を取り戻していきました。