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「還我土地」

日本人が台湾から去ると、エスニック・グループの関係であれ、土地資源であれ、台湾の先住民族たちは再び漢人の山地資源への「要求」と直面することになりました。ロシン・ワタン(日本名:日野三郎、漢名:林瑞昌)らは平地と山地は依然として規制が必要だと主張しましたが、漢人の中には開放を求める人もいました。先住民族の伝統領域を取り戻すという「還我土地」の呼びかけは、政府あるいは平地の漢人にとっては受け入れがたいものだったのです。


1947年6月8日、ロシン・ワタン(日本名:日野三郎、漢名:林瑞昌)や林忠義ら先住民族102人は「台北県海山区三峡鎮大豹社の返還」を求める陳情書に連名で署名しました。


9月には角板郷の郷長、県参議員、郷民代表らと連携し、新竹県に対して水流東にある共有地100甲(約100ヘクタール)を、先住民族の平地移住居住地とするよう求めました。しかし、どの陳情も政府からほぼ回答を得ることはできませんでした。


嘉義県警察局は1950年11月14日、保安司令部に対してウオグ・エ・ヤタウヨガナ(日本名:矢多一生、漢名:高一生)、ヤプスヨグ・エ・ユルナナ(日本名:湯川一丸、漢名:湯守仁)、Tibusung'e Muknana(武義徳)らが政府を軽視し、平地人を敵視するよう群衆に吹き込んでいると報告しました。


この公文書には呉鳳郷のツオウ族と平地人、あるいは政府との間で発生した数々の衝突の内容が記載されています。しかし、事実もあれば、政府側または平地人の観点によるものもありますが、その内容を見ると、民族の自尊心、土地、その他の権益を守るための衝突に過ぎませんでした。


1949年10月27日、台湾省警務処が保安司令部に宛てた公文書には、ロシン・ワタン(日本名:日野三郎、漢名:林瑞昌)は9月某日、政府は山地の土地を「公有」としたが、それは間違いであると指摘し、同胞のために奪還して「私有」に戻すことを誓ったと記載されています。これは、実際には先住民族の「還我土地」運動の先駆けと言えるでしょう。

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