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二・二八事件後の宥和計画と善後処置
1947年3月8日、憲兵と再編第21師が相次いで基隆に上陸すると、台湾省警備総司令部とともに宥和計画の策定に着手しました。その内容は、まず兵力をもって反乱を鎮め、それから粛清を展開し、最後に反乱者を懐柔して更生させるというものでした。しかし、政府は先住民族に対してほとんど軍事的な鎮圧を行いませんでした。それどころか「功績」のあった先住民族を称えたり表彰したりして、政府の宥和計画や粛清に協力し、反乱者の更生を促すよう仕向けました。
1947年3月17日、国防部部長の白崇禧は「宣慰大員」として、三民主義青年団中央団部第二処処長の蒋経国とともに台湾に到着しました。25日にプユマ族のシシン(南志信)、Matreli(馬智礼)を引見。26日にはラジオ放送で高山族同胞に向けて、この2人が「反乱」に加わるよう扇動されることなく、県・市などの自治体に協力して地方の秩序維持に努めたことを称賛し、高山地区の集落に逃げ込んだ「共産党分子」を一掃するため、さらに政府に協力してほしいとの期待を寄せました。
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