第二次大戦後初期における台湾の学生たちの社会参加:二・二八事件における学生たち
二・二八事件の間、学校の多くは休校となり、多くの学生たちが抗議行動に加わりました。治安維持のための組織を結成した学生や、各地の武装抗議に加わった学生もいました。例えば、台中の若者や学生たちは二七部隊に加わったほか、嘉義、台南の若者や学生たちは、嘉義水上飛行場の戦闘に加わりました。
このほか、北部の学生たちは「台湾省自治青年同盟」を組織して治安維持に努めるとともに、景美、馬場町一帯の兵器庫を攻略する武装抗争を計画し、烏來の先住民族の集落に赴き兵力の支援を求めましたが、意思の疎通がはかれず、大雨の影響もあり、最終的に行動をおこすことはありませんでした。
台北の「忠義服務隊」は、治安維持を目的としていましたが、千人あまりの学生のほかは、数百人のやくざ者やチンピラでした。こうしたやくざ者やチンピラは、公然と略奪を行ったり、民衆を脅したりしたほか、外省人を殴打したりしたため、「忠義服務隊」に参加していた学生たちは濡れ衣を着せられ、彼らの身代わりに政府に殺害されてしまいました。
台北県の淡水(現在の新北市淡水区)では、若者や学生たちは淡水中学に銃があることを知っていたことから、事件発生後まもなく倉庫に侵入し、軍事訓練用の銃を持ち出しました。しかし、ほとんどの銃器には銃身内部にある螺旋状の溝、「ライフリング」がなかったため、発砲することができませんでした。こうした若者や学生たちは、今の真理大学グラウンドがある場所に防衛線を張り国民政府軍と対峙し、さらには軍営にも進攻しましたが、武器が不足していた上に、使用経験がないことから総崩れとなりました。しかし、この抗議行動は、後に国民政府軍にとって鎮圧の根拠となり、また、淡水中学の軍事訓練用の銃を使用したことにより、淡水中学の陳能通校長が受難者となる大きな原因の一つとなったのです。