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新たな教育制度-淡水中学に

1895年、日本は台湾を領有すると、新たな教育制度を導入しました。淡水女子学堂は1907年に淡水女学校となり、多くの女子生徒が学ぶこととなり、台湾の女子教育の歴史において重要な役割を果たすこととなりました。台湾初の女性医師である蔡阿信は、淡水女学校の優秀な卒業生の一人です。


淡水中学は資金不足やその他の要因により、1914年3月9日、つまりマッケイ博士の淡水上陸記念日に、ようやく設立が認められました。淡水中学と淡水女学校は、ともに宗教の精神に基づき設立されましたが、当時、台湾を統治していた台湾総督府は、学校が自ら宗教教育を行うことを認めず、教師や生徒たちに神社に参拝するよう命じました。このため、両校はなかなか日本政府から認可されず、生徒たちは高学年になると学校を辞めたり、あるいは日本へ進学するようになりました。こうした制度上の制約により、淡水中学の中退者は年々増えていきました。


1934年、国際的緊張が高まるにつれて、総督府は次第に国家による統制を強め、教育政策も強硬路線へと転じます。1936年8月15日、淡水中学は第二次大戦の終結まで総督府の管理下におかれました。積極的で真摯な学校運営がなされたことに加え、台湾総督府の認可を受けたことで、正式な教育体制内に組み込まれるようになったことから、進学が可能となり、校内は活気に溢れ、生徒数は増加し、進学率も大きな伸びをみせました。

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