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受難した淡江中学関係者:盧園

三芝(現在の新北市三芝区)に、一家の次男として生まれました。一家のなかで最も学歴が高く、淡水中学を卒業後、日本に留学、徴兵され入隊しました。第二次世界大戦後、台湾に戻ると、校長の陳能通に誘われ、母校、淡水中学の化学の教師となりました。


二・二八事件発生後の3月11日の早朝、盧園の家を訪ねる人がいました。盧園はまだ寝ていたのですが、淡水中学の校長、陳能通が国民政府軍に連行されたと聞くと、ただちに起き、顔も洗わずにコートを羽織ってすぐに家を出ました。思いも寄らないことに、家を出たとたんに、銃をもった二名の国民政府軍の兵士に身体検査をされました。盧園は北京語がわからなかったため、兵士に右肩を撃たれてしまいました。


銃で撃たれた盧園は意識ははっきりしていたものの、撃たれて転倒したことで脊椎を負傷、下半身の感覚を失っていました。その場では簡単な止血と痛みを止めることしかできなかった上、戒厳下で圓山を通って雙連の馬偕病院まで行くことができなかったため、ひとまず北投の陳医師のもとで応急手当をしました。数日経ち、情勢が少し落ち着いた後、馬偕医院に緊急移送し治療を行いましたが、最良の治療のタイミングを逸してしまい怪我は悪化し深刻な状態となり、3月18日、回復することなく息を引き取りました。出棺の当日、台湾社会はなおも恐怖に支配された雰囲気が漂っていたことから、学校の同僚は誰も弔問に訪れることはなく、学校側もまた、何を知らせることもしませんでした。

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