展示
企画展
二・二八事件と学校:事件における淡江中学関係者たち
権威主義から民主主義への移行は、台湾の多くの民主主義運動の先人が自由を犠牲にし、ひいては命に替えて勝ち取ったものです。
第二次大戦後、国民政府は台湾省行政長官公署を設立、台湾を接収しました。わずか一年あまりの間に、政治の腐敗、経済の混乱、軍紀の乱れ、そして、伝染病の流行といった公衆衛生の失政もあり、大小の衝突が次々に発生しました。人びとの不満が積もりに積もった中、1947年2月28日、前夜の闇タバコの取り締まりをきっかけに台湾全土で抗争が勃発しました。これが二・二八事件です。
二・二八事件発生後、学校は深刻な影響を受けました。学生や生徒、教師が巻き添えになっただけでなく、学校の体制へもさまざまな形で波及しました。淡江中学は、二・二八事件において、最も深刻な被害を受けた学校のうちの一つです。校長、教師が兵士に連行され、今なお消息不明となっているほか、生徒も理由なく兵士に射殺されて亡くなりました。創立から百年以上となる淡江中学は、非常に長い歴史をもつ学校として、様々な困難な日々を経て、台湾の民主主義の発展を見届けてきました。今回の展示では淡江中学の物語について説明します。
オンライン企画展
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「台湾先住民族と二・二八」:____を返せ
1895年に日本の台湾統治が始まり、台湾の先住民族たちは初めて近代国家と遭遇しました。新しい教育、文化、物質、技術などは、台湾の先住民族の思想に刺激を与えると同時に、伝統文化の価値を脅かす存在にもなりました。日本統治時代、台湾の先住民族たちは近代文明を吸収し、それをエスニシティ発展の動力に変えていきました。しかし一方で、植民地制度はじわじわと先住民族の経済、政治、文化方面の自主性をむしばんでいったのでした。
1945年、日本が戦争に負け、中華民国が台湾を接収しました。その2年後に「二・二八事件」が勃発し、台湾全土に激震が走りました。各地の先住民族はこの中で、集団で事件に参与した部族もあれば、介入を回避した部族もありしました。対応はさまざまでしたが、それはいずれも部族の指導者が部族を主体として考えた末の選択でした。「二・二八事件」において、先住民族に対して大規模な弾圧が行われることはありませんでした。しかし、先住民族としてのアイデンティティを明確に持つ一部の先住民族エリートたちは、その後の「白色テロ」で粛清の対象となりました。例えば「湯守仁(ヤプスヨグ・エ・ユルナナ)等の反乱事件」では、一部は懲役刑となり、一部は安坑刑場で処刑されました。戦後初期に叫ばれた「高山自治(先住民族の自治)」、「帰還土地(土地の返還)」、「正名(先住民族固有の名称を取り戻すこと)」などの主張は、日々厳しくなる監視と社会的制約を受けて声を潜め、公の場で訴えることが難しくなりました。また、その後に行われた「中国化」の文化政策は、先住民族の言語、文化、アイデンティティ、そして歴史を徐々に失わせていったのでした。
今回の展示は「台湾先住民族と二・二八」をテーマとし、先住民族のために歴史と真相をつまびらかにし、「二・二八事件」という公共の記憶から先住民族を取り残さないようにするためのものです。
オンライン企画展
民主主義・台湾の街頭運動—彰化平野 名もなきヒーロー
権威主義から民主主義への移行は、台湾の多くの民主主義運動の先人が自由を犠牲にし、ひいては命に替えて勝ち取ったものです。
あの荒れ狂っていた街頭運動の時代、ほぼ全ての活動に参加して積極的に応援し、並外れた勇気を見せた台湾人が老若男女問わずいました。街頭デモではいたるところに彼らの姿がありました。特別展では彰化平野の人物を例とし、街頭運動の現場写真や口頭インタビュー、関連の出版物を展示します。彰化人はかねてから伝統に逆らい、不正に対して勇敢に立ち向かっていました。日本統治時代の八卦山の戦い(1895年)、二林事件(1924~25年)から第2次世界大戦後の二・二八事件(1947年)まで、いずれにおいても彰化人の参加の形跡を見て取ることができます。戒厳令解除前の彰化鹿港反デュポン運動(1986年)では、鹿港の住民は勇敢にも当局に立ち向かい、環境保護署の設立を間接的に後押ししました。「二二八和平日促進会」のデモ隊が彰化にやって来た際には(1987年)、勇敢な彰化の住民は応援に駆け付け、無情にも警棒で殴られ、散々な目に遭いました。政権交代後、街頭運動に参加していた人々はもとの仕事の持ち場に戻りました。事業で成功を収めた人もいれば、子孫に恵まれ、安らかな余生を過ごした人もいた一方で、病気や衰えに直面し、この世を去った人、生涯独身で孤独に老人ホームに入った人もいます。しかし、彼らが民主化運動に身を捧げた命の物語は、いずれも伝え継いでいくに値するものです。
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「土地に刻まれた傷跡:二・二八事件の遺跡-北部地区」特別展
銃声のその後に
3月1日、住民の代表らが闇タバコ取締り暴行事件の処理委員会を組織。翌3月2日には二・二八事件処理委員会と改組され、中山堂でさまざまな立場の代表者による会合を開催し、事件の平和的な収拾を目指しました。4日には台湾全土の17の県や市で処理委員会が組織され、状況は一見好転するかに見えました。しかしながら、各地で処理委員会が成立された同時期に、行政長官公署長官だった陳儀は中国からの派兵を蔣介石に要請していたのです。陳儀は、対外的には武力による鎮圧は行わないと表明していたにもかかわらず、一方では中央政府(当時は中国南京)に支援を要請し、台湾での兵力配備を進めており、事態は平和的に収拾できない方向へと進んでいったのでした。
オンライン企画展
「土地に刻まれた傷跡:二・二八事件の遺跡-北部地区」特別展
真夜中の喧騒
1945年10月25日、日本の植民地だった台湾では、日本の敗戦により統治権力が日本から中国国民党率いる国民政府に移りました。多くの人々が、この日本とは違う見知らぬ「祖国」が、台湾の人々に新たな希望を与えてくれるものと期待していました。しかし、近代化された日本の統治を受けていた台湾の人々は、新政権の行いの一つひとつに驚きをもって直面することになります。不当な統治、汚職や腐敗、公権力の濫用などを目の当たりにし、人々の不満は日増しに高まっていきました。
1947年2月27日、暴力的な闇タバコ取締りによって人命が奪われ、積もり積もった人々の不満が爆発します。大稲埕での衝突が、翌日には行政長官公署前での衛兵による群衆への発砲に拡大。命からがらラジオ局まで逃げてきた人々が「全島放送」を通じ、行政長官公署前で起きた血の弾圧事件を台湾全土に伝えたことで、人々の国民政府への不満が一気に爆発したのでした。
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二・二八事件と学校:事件における建国中学関係者たち
創設から120年以上の歴史をもつ建国中学は、日本統治時代、第二次世界大戦末期の台北大空襲、国民政府による台湾接収後の再建期に立ち会ってきたほか、国民党による独裁、権威主義体制による統治、市民の言論の自由が奪われた戒厳令時代も経験しました。そして、台湾が民主化に向かって邁進していくまで、様々な時代を経てきた建国中学では、常に教師や生徒が良識をもち、勇敢にも不公平、不正に対して立ち向かいました。しかし、それが故に逮捕されたり、命を落とす災いに巻き込まれたほか、さらには、校長が生徒を保釈させようとしたところ、警備総司令部により数カ月間勾留されるという荒唐無稽な事件までも発生しました。逮捕、行方不明、自白の強要、銃殺といった、これらの生徒、教師たちが遭遇したことは、二・二八事件と建国中学、そして台湾の近代の民主主義発展の歩みの中に、はっきりと足跡を残しています。彼らが遭遇したことを理解して初めて、「移行期正義」の重要性、そして建国中学校門の「蒋介石像」の撤去をめぐる議論について、深く知ることができるのです。
オンライン企画展
1987年人民の覚醒:写真展 韓国民主主義の目撃証言
20世紀の韓国と台湾の歴史は似ているところが数多くあります。両者とも日本に植民地化されたことや、軍事独裁政権に支配されたことだけではなく、人々の力で民主化を成し遂げることに成功しています。
この原動力は、台湾では1947年の二・二八事件、韓国では1980年の光州民主化運動にその源があります。
1987年、台湾紙の韓国特派員が6月民主抗争の現場を取材し、多くの貴重な歴史的記録写真を残しました。これらの写真を通して、私たちは血と涙が入り混じった現場に連れ戻され、民主化を求める人々の叫びが聞こえるような気がしてきます。この貴重な映像を通して、民主主義や自由が如何に貴重なものなのかを知り感じてくださることを願っています。
オンライン企画展|二・二八芸術文化関連展示
あの日・あの日の後:陳武鎮二・二八関連芸術創作展
陳武鎮は1949年、屏東県の萬巒郷で生まれました。それは権威主義統治下の戒厳令がしかれた時代でした。1969年に高雄・左営の海軍新兵訓練中心で兵役に就き、適性検査の回答用紙に「反中央反対国民党」の8文字を書いたことで「叛乱罪」に問われて軍事法廷に送られ、「懲治叛乱条例第7条」に違反したとして懲役2年を言い渡されました。控訴を諦め、台東の泰源感訓監獄に収容されました。政治犯となって囚禁され、家族が政治的抑圧を受けて精神的にも心理的にも傷を負ったことが、陳を、苦難を絵筆で記録し、彫刻刀で刻むことで、台湾人に「二・二八事件と白色テロに踏みにじられた台湾の歴史を忘れるな」と訴える行為に駆り立てました。
2017年、二二八国家紀念館は陳武鎮氏と共同で「風中的名字(風の中の名前)」油絵展を開催しました。そして2020年、再び陳氏を招き「あの日・あの日の後:陳武鎮二二八関連芸術創作展」を開催します。「虐殺」シリーズの木彫作品10点および「家族」シリーズの油絵作品18点を展示し、二・二八事件で受難者が射殺された瞬間と遺族のその後の苦しみについて掘り下げていきます。あの日、あの日の後、それは私たち台湾の歴史の永遠の痛みなのです。
特別展示|彼らの時代:台展93
意志固く誇り高き道:青年 張万傳
張万傳は性格が誇り高く不屈であったことに加え、戦時中という情勢も相まって、青春時代は各地を放浪していました。台湾やアモイの風景、友人の店での鮮魚料理などを、軽快に筆を動かし紙上に瞬時に描き出しました。しかし、1947年、建国中学で教鞭を執っていた際、二・二八事件の抗争に参加した生徒を支援した疑いをかけられ、また、校長の陳文彬、教師の王育霖や生徒等が相次いで拘留されると、身の安全のために陽明山や金山に避難しました。そして、そこで人生の伴侶に出会ったことで、教師を職業とし、引退後は絵を描くことに生活の重きを置くこととしたのです。今回の特別展では張万傳の半生をテーマに、張が絵画を学び台湾美術展覧会(略称「台展」)に1回、総督府美術展覧会(略称「府展」)に4回入選するまで、そして、画会の結成から二・二八事件後、教師生活に入るまでを中心に紹介し、25点の作品を展示しています。「生活の中にある芸術こそが真実である」という信念のもと、日本統治時代、二・二八事件、戒厳令期を経て、今日の民主的で自由な時代にいたるまで、いかなる社会情勢にも拘わらず、常に誇りを持って歩んできた張は、台湾近代美術史の一頁を刻む存在です。
特別展|二・二八事件と台湾独立運動
啓蒙と行動:彼らの青春 私たちの歴史
1945年9月、アメリカ統合参謀本部により作成された「一般命令第一号(General Order No. 1)」が発令され、蒋介石は連合国軍中国戦区大元帥として中国(満州を除く)、台湾、北緯16度以北の仏領インドシナの日本軍の降伏を受けることとなりました。これに基づき、台湾の接収を行い「実質的に」台湾の統治を続けたのです。ところが、その統治は妥当なものではなかったため、戦後の台湾経済は悪性インフレ、深刻な物資不足、伝染病の流行など混乱に陥り、人々の不満が積もりに積もった結果、1947年に二・二八事件が勃発することとなりました。1949年、国民政府は中国共産党との戦いに敗れ、中国から台湾に撤退しました。同年、戒厳令が敷かれ、台湾は白色テロの時代に入りました。軍部と警察が権力を濫用し、事件のでっち上げや冤罪が頻繁にあり、言論や思想も厳しく統制されました。蒋介石政権が行った一連の粛清や高圧的な統治下にあった知識人のなかには難を逃れようと海外に亡命、留学する者もいました。海外に出た青年たちは、さまざまな思想や自由な空気に触れることで、もはや国民党政権が作り上げた偽りの民主主義を信じることができず、学生会や同郷会を組織し、台湾の主権と地位の確定について解釈する権利を得ようと、国民党の海外特務が張り巡らすネットワークによる脅威の中、身を挺して国民党による権威主義体制下の独裁と闘いました。さまざまな弾圧にも屈することなく、海外における台湾人コミュニティは拡大し、国際的な反政府勢力と連携すべく取り組みを進めました。台湾アイデンティティの啓発、政治犯の救済、台湾における民主主義の実現を目指し、海外の台湾青年たちは人々と力を合わせ、民主と独立の道を一歩一歩進んできたのです。