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展示

特別展示|悲しみの駅 二二八

更新日:
2019-03-13
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駅で積み込まれた喜びや悲しみは、台湾人一人ひとりの心から消すことのできない記憶

「悲しみの駅 二二八 特別展」では、駅を切り口とし、八堵駅、嘉義駅、高雄駅、及びその周辺で発生した事件をテーマに、この3つの地で二・二八事件が発生した過程を説明します。文献、画像や映像、そして関連するオーラルヒストリーを通じて、歴史の様相をより明確に描き出します。

二・二八事件は、ただ単に闇タバコの取締り流血事件、あるいは役人の圧政に民衆が反抗を起こしたというものでもなく、ましてや族群(エスニシティー)の衝突という事象に限定できるものでもありません。事件は社会や文化のあらゆる面に影響を及ぼしただけではなく、さまざまな人や集団の考えや決断に影響し、行動を起こさせることとなりました。現場となった駅は、今日では文化的には観光拠点となっていますが、改めて解釈がなされた歴史的事件の現場を再構築することにより、当時、事件の受難者が、国家による暴力の下で殺害された過程を知り、人権意識の向上の中、鉄道の駅が持つ歴史的な価値を体得していただければと思います。 

 

台湾鉄道と島民による統治

鉄道は街の姿を変え、産業、経済や社会の文化交流をも運びました。清の統治時代には、1887年に「全台鉄路商務総局」が設立され、台湾の鉄道輸送建設が本格的に始まりました。日本統治時代になると、1899年に鉄道部が設置され、統治と管理という観点から、まず清が残した鉄道路線の改良に着手することとなりました。大規模な鉄道建設が始まり、1908年に南北縦貫線が全線開通しました。また、豊富な天然資源の開発のため、国や民間により、林鉄、糖鉄、塩鉄、鉱物輸送線などの産業用の専用鉄道の建設に力が入れられました。第二次世界大戦後、1945年に設立された台湾鉄路管理委員会は、鉄道設備と路線の復興と接収を行いました。日本統治時代に基礎が築かれた鉄道路線は、戦後初期における国民政府*による台湾統治の基礎であり重要な輸送ルートでした。

*国民政府 ここでは、終戦直後、蒋介石に任じられ台湾省行政長官公署長官となった陳儀(1883~1950)による政府を指す。

 

清朝統治時代(1683-1895)

1887年:劉銘伝(劉銘伝(1836~1896)中国安徽省出身。光緒10年(1884)に福建巡撫として台湾に着任。初代台湾巡撫。)は清朝より台湾の鉄道建設の認可を得て「全台鉄路商務総局」を設立。台湾で最初の鉄道建設が始まった。

1891年:台北-基隆間開通。

1893年:台北-新竹間開通。

1894年7月25日:日清戦争勃発。

 

日本統治時代(1895-1945)

1895年4月17日:清と日本との間で「馬関条約(下関条約)」が締結され、台湾島と澎湖島が日本に割譲された。1895年5月8日に条約発効。

1899年:「台湾総督府鉄道部」設立。

1899年:基隆の八堵乗降場開業。

1900年:縦貫線鉄道のうち、台南・打狗(現在の高雄)間開業。

1902年:嘉義駅、開業。1933年に現在の駅舎に建て替えられる。

1908年:縦貫鉄道が全線開通。

1924年:改組により「台湾総督府交通局鉄道部」となる。

1924年:宜蘭線(八堵-蘇澳間)全線開通。八堵が宜蘭線と縦貫線の接続駅となる。

1941年:新高雄駅落成(現在は高雄鉄路地下化展示館)

 

戦後(1945-現在)

1945年8月15日:日本降伏 戦敗

1945年10月25日:国民政府が台湾を接収統治

1945年11月:台湾省行政長官公署交通処に「台湾鉄路管理委員会」が設置

1947年3~4月:二・二八事件により台湾各地で衝突が起ったため、北から南までの全ての鉄道が運行を停止する

1948年3月:改組により「台湾省政府交通処台湾鉄路管理局」となる

1998年:改組により「交通部台湾鉄路管理局」となり、現在に至る

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台湾総督府鉄道部

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高雄駅落成

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嘉義大空襲

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国民政府による台湾接収

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「私は崇敬の念を懐き、胸を高鳴らせて基隆港第二波止場に走って出迎えに行きました。国民政府軍の威風堂々たるさまを早く見たくてたまらなかったのです。」--周清標、八堵二・二八事件の証人

台湾は 今日の平和を慶び、見上げれば青天白日がきれい
六百万の民の誰もが嬉しく 食事を用意してお出迎え
ハハハと、あちこちで大歓迎、ハハハと、あちこちで大歓迎
六百万の民の誰もが嬉しく 食事を用意してお出迎え」

----『歓迎歌』の歌詞。台北市の三十万人の市民、小学校から大学までの教師と学生が列をなして国民政府軍を歓迎し、「歓迎歌」を歌って出迎えた。

「国民政府の軍隊が花蓮にやってきて、うちの父は大歓迎しました。父はお金を出して鳳林街に牌楼*を建てて、国民政府軍を歓迎しました。」--張玉嬋。花蓮二・二八事件で亡くなった張果仁の妻(*牌楼 中国の伝統的建築様式を用いた門のこと。中華街の入り口にも建てられている。)

「ある日、先生は国民政府軍がもうすぐ嘉義に来るとおっしゃいました。私は日本軍は強かったから、中国兵は、きっと日本軍より勇猛で、だから日本軍を負かすことができたのだと思っていました。そんなわけで気持ちを高ぶらせて、みんなについて駅まで歓迎に行ったんです……」--施青鏞。嘉義二・二八事件で亡くなった施珠文の息子

「折しも喜ばしい十月十日の双十節に内外ともに慶賀する
国土を取り戻し万民喜びに湧き上がる」

―公会堂(現在の中山堂)の対聯には、台湾の人々が国民政府を迎える気持ちが反映されていた

鉄道と二・二八事件

第二次世界大戦末期、台湾各地は連合軍による空襲を受けたため、鉄道も深刻なダメージを受けました。材料や修理費用の不足に加え、戦後、大勢の日本人技師が日本に引き揚げたため、国民政府は採用条件を緩めて技師を新たに採用したことから「素人が熟練者を指導する」といった問題が起こりました。また、様々な原因により、当時は脱線事故が頻発し、また、戦後の鉄路管理委員会の人件費が多額となったことから、たびたび乗車運賃及び貨物運賃が値上げされたため、間接的に物価が大幅に上がることとなりました。

1947年2月28日、大規模な抗争事件が勃発しました。闇タバコの取締が発端となり、政府に適切な調査を要望する民衆のデモ行進やストライキが起こり、混乱は広がっていきました。この争いと衝突は、ラジオを通じて瞬く間に台湾全島に広まり、単純な闇タバコ取締事件が政治運動へと展開していきました。全面的な政治改革を求めた地方の有力者も現れたほか、軍や警察の武器を接収したことで武力衝突に至ったところもありました。こうした不穏な要素は軍による鎮圧の口実となり、国民政府軍は「清郷(粛清)」に着手し、台湾各地で武力による鎮圧が行われました。台湾全土の鉄道も武力衝突が起こったことで駅員が逃げ、各地で運行が停止されてしまいましたが、懸命に運行を維持した台湾人の鉄道職員もいたことから、鉄道輸送が全面的に止まることにはなりませんでした。

二・二八事件勃発当時、鉄道と駅は、抗争が集中して発生したというだけではなく、衝突そのものが発生した場所でもありました。多くの罪なき人々の命が奪われ、社会のエリートたちが言われなき罪により命を奪われるという最悪の事態に至った命の終着駅となり、台湾史上、最も悲痛な1ページを刻んだ場所でもあるのです。

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「新台湾建設の歌」
歌/謝銘祐.三川娯楽有限公司提供

1946年に発表された許石作曲「新台湾建設の歌」。ヒット曲「台湾小調」の歌詞にもなった。当時の台湾社会において、積極的な意気込みがあったにもかかわらず、志を遂げることができず、しかも物価高騰に見舞われる苦境が描かれており、二・二八事件前の台湾社会の様子と困難な生活が実によく反映されている。(国立台湾歴史博物館収蔵)

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「新台湾建設の歌」歌詞
私が愛する美麗島
農耕を憂うことはなかった
思えば昔は お茶や砂糖に塩や米
生産は充分だった
農民や労働者の皆さん
これからも勇気を奮い起こし
真の自由を築こうではないか
農民や労働者の皆さん
これからも勇気を奮い起こし
真の自由を築こうではないか
 
私が愛する常夏の島
衣食を心配することはなかった
昨今の物価高や
思いもよらぬ生活苦を見るにつけ
官民心を同じくし 力を合わせて
真の自由を築こうではないか
官民心を同じくし 力を合わせて
真の自由を築こうではないか
 
私が愛する天の恵みの島
安住を心配することはなかった
将来はもっと豊かになり
意のままになるよう望む
喜ばしいのは 国家平和が築かれ
真の自由が実現すること
喜ばしいのは 国家平和が築かれ
真の自由が実現すること

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「光復一年図」
二二八事件紀念基金会提供

沈同衡の作。1946年8月15日『新知識』創刊号に掲載。戦後の操業停止により工場が寂れた様子が描かれている。

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物価高騰を描いた漫画

雑誌『新新』に掲載された漫画。物資が欠乏し物価高騰を招いた様子が描かれている。

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米国「ワシントンポスト」一面記事
二二八事件紀念基金会提供

1946年3月、台湾は接収後、問題が続出した。米国の「ワシントンポスト」はトップ記事で、「中国人の台湾に対する略奪は日本人以上」という見出しで報道した。

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「夠不上(手が届かない)」
秋恵文庫提供

1947年2月、米不足を描いた『台湾新生報』に掲載された漫画。庶民は基本的な生活に必要な米を「目にすることはできても、口にすることはできなかった」。

二・二八事件の原因

国民政府による統治開始から一年もたたないうちに、台湾社会は、政治の腐敗、経済的破綻、物価高騰といった状況に陥りました。1946年の台湾は、すでに混乱が生じ、民衆の怨嗟が沸き上がっていました。二・二八事件勃発前から、台湾社会では事件があちこちで起こっていました。同年発生した「布袋事件」「新営事件」「員林事件」*といった三大事件は、役人の汚職や腐敗、軍人や警察による発砲傷害事件や規律の乱れなどに起因したものでした。社会の空気は異常に張りつめ、一触即発の大規模な衝突がいつ起きてもおかしくない状態でした。

1947年2月27日夕方、台北大稻埕の円環(ロータリー)近くの店先で、専売局の闇タバコ取締官が闇タバコを没収する際に、銃の台座でタバコ売りの林江邁を殴打しました。現場に居合わせた民衆は取締官を取り囲むという混乱の中、市民の陳文渓が流れ弾を受けて亡くなり、居合わせた市民らが逃げる取締り官を追いかける事態となりました。些細なことが大事件へと発展します。2月28日の午前中、民衆はデモ行進やストライキを行い、即刻、取締官を追及するよう求めました。専売局や派出所におしかけ破壊する民衆も現れました。昼には群衆が行政長官公署(現在の行政院)前に陳情に訪れたところ、衛兵による機関銃掃射を受け即死者が出ました。その場から散り散りに逃げた人々は再び集結し、ラジオ局へ赴き放送を通じて台湾全土に向かってともに立ち上がり抵抗するよう呼びかけました。その後、情勢は収拾がつかなくなり、動揺は台湾全土にひろがりました。

「二・二八事件」は、多くの社会のエリートがいわれなき罪に問われ命を落としただけではなく、多くの罪なき人々の命や自由、財産を奪い、受難者や受難者家族に永遠に忘れることのできない傷をもたらすこととなりました。台湾社会の調和とその後の政治に大きな影響を及ぼすこととなり、台湾の人々の心や社会にも極めて深い影響を与えたひとつの不幸な事件であったことは疑いようがありません。

*布袋事件・新営事件・員林事件:布袋事件は1946年4月、台南県布袋嘴(現在の嘉義県布袋鎮)で伝染病防止のための隔離措置を巡って警察が民間人に発砲し負傷させた事件。新営事件は同年9月、台南市新営区の廟で芝居が上演されていた際に、警官が人心が攪乱していることを理由に芝居を中断させ、騒然となった観客に向けて発砲した事件。員林事件は、同年5月、台中県鹿港警察所所長の許宗喜が県参議員を殴打したことを発端とし、同年11月に台中県員林警察所に異動していた許を検察官が逮捕しようとしたところ、警察所内で許の同僚の警察が検察官に発砲した事件。

日中戦争勃発後、日本は多くの軍隊を海外に送ったため、巨大な軍事費が必要となりました。そこで、日本政府は『国家総動員法』を制定し、あらゆる「人的」および「物的資源」を「統制運用スル」大幅な権限を政府に与えるとしました。こうした政策や社会の雰囲気の下、台湾では民間による「供出」が始まり、軍機や軍艦の建造のために人々はお金や物資を供出しました。また、「愛国婦人会」台湾支部の活動に見られるように、社会団体による銃後支援活動も行われるようになり、物資の供出のほか、兵士の食料の準備、前線への慰問袋の作成、衣服の縫製などの支援活動を行いました。

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二・二八事件を伝える新聞の第一報

1947年2月28日の『台湾新生報』

二・二八事件 台湾全土の情勢と鉄道の路線

2月28日午後、青年らは、ラジオ局(現在の台北二二八紀念館)から、台湾全島に向かい台北の二・二八事件の発生原因を放送し、合わせて各地の民衆に自分たちの動きに呼応し、この事件を速やかに台湾全土に伝えるよう呼びかけました。

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各地の抗争の発生及び鎮圧された日時

赤:暴動日時
青:国民政府による鎮圧日
参考:「台湾暴動起止及平定日時調査概要図」「陸軍整編第廿一師台湾戡乱戦闘経過要図」

鉄路局局員の受難者

財団法人「二二八事件紀念基金会」により確定された案件のうち、2019年時点の統計によると、鉄路局局員の受難者は計56名です。これには八堵・嘉義・高雄駅以外での受難者が記録されています。

「清郷」の実行

二・二八事件発生当時、台湾を統治していた台湾省行政長官公署は、直ちに事件を収拾することができませんでした。国民政府により派遣された増援兵が台湾に到着して行った鎮圧において、事件に関わったとされる者が無差別に逮捕、殺害されました。1947年3月17日、国防部長(国防大臣)の白崇禧が台湾を訪れ、「慰問視察」を行いました。3月21日、「綏靖布署計画(平定措置計画)」が実施され、戸籍の精査や武器供出を行うことで、政府に改革を求めるエリート層及び政府への抵抗運動に参画した者、疑わしい者が一網打尽にされました。これを「清郷(粛清)」と言います。「清郷」は5月15日に終結が宣言され、粛清の恐怖がただようなか、二・二八事件は終息を告げることとなりました。

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国防部の布告
二二八事件紀念基金会提供

国防部長の白崇禧により「過ぎたことは咎めない」との命令が出されていたにもかかわらず、1947年3月17日の白崇禧台湾到着後の、3月18日、23日及び25日には、嘉義駅前で裁判を経ない公開銃殺刑が3件行われた。その後「清郷」の時期にも、逮捕、銃殺される民衆が相継いだ。その多くは公開裁判が行われなかった。

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清郷工作告示「愛国家!愛民族!愛台湾」宣言
国立台湾歴史博物館提供

1947年3月20日、台湾省行政長官兼警備総司令の陳儀は、民衆に武器と「悪人」を差し出すよう要求した。

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為實施清鄉告民眾書(清郷実施ノ為メ民衆ニ告グルノ書)
二二八事件紀念基金会提供

漢文及び日本語による「清郷」宣言。

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八堵駅・嘉義駅及び高雄駅の二・二八事件

各地の大きな駅は交通の要所であるため、二・二八事件においても統治者が民衆を威嚇し震え上がらせるための拠点とされました。日本の植民地時代に確立された鉄道体系は、事件において再び高圧的で権威主義的な統治の道具となったのです。なかでも、八堵駅、嘉義駅、高雄駅は、二・二八事件において国家暴力を受けたことで、事件における重要な歴史的現場となりました。

財団法人「二二八事件紀念基金会」確定済みの案件によると、2019年現在の統計では、受難者数は、八堵駅が18名、嘉義駅が16名、高雄駅が24名ですが、実際の人数はもっと多いと考えられています。国家暴力を受けたことで、亡くなったり行方不明になった受難者の数えきれない数の悲しみや別れの物語を駅は背負うこととなりました。

(「二二八事件紀念基金会」が確定した案件とは、受難者やその関係者が基金会に賠償を申請し、且つ事実を証明するに足る証拠が揃っているものです。しかし、事件発生から何年もの時間が経過しており、その間には38年間にわたる戒厳令の時代もあったため、受難の事実を立証するのは困難です。また全ての受難者や家族が基金会に賠償を申請しているわけではないため、実際の受難者は上記の人数よりも多いと考えられます。)

八堵駅

1899年開業の八堵駅は、1924年に宜蘭線(八堵・蘇澳間)の開業にともない、宜蘭線と縦貫線の接続駅となりました。八堵駅は台湾で初めて地下道が設けられた駅で、日本統治時代及び戦後初期には鉄道輸送の要所だったのですが、二・二八事件では悲惨な大虐殺事件が起こってしまいました。

 

事件の顛末

1947年3月1日、澳底地区駐屯中の基隆要塞直属台所属の官兵は、糧食購入のため基隆要塞司令部に向かっていました。列車に乗り瑞芳駅を通過した時、規則を守らなかったことで他の乗客との間に争いが起き、八堵駅到着時に殴打事件が起こりました。群衆は隊を率いていた軍人を縛り拳銃を奪いました。重軽傷を負った兵士や逃げる途中で基隆河に墜ちて溺死した兵士も1名いました。八堵駅の駅長李丹修と駅員は、群衆に殴打されて傷を負った兵士らを助け、兵士らが衝突現場から離れるための車両も手配しました。

ところが、国民政府軍の増援部隊が続々と基隆港に到着した後、3月11日には澳底砲台台長の史国華が30名余りの兵士を率いて八堵駅を包囲し、その場で駅員の張水連・鄧順兼・湯振平・謝清鳳・陳境棋の5名を殺害しました。その後、3月1日に当直をしていた駅長の李丹修、副駅長の蘇水木、許朝宗、黄清江、そして周春賢(総務)、王貴良(記録係)、廖明華(記録係)、蘇両城(作業員)、林天助(作業員)、林輝龍(作業員)を指名し連行していきましたが、今に至るも生死が明らかではありません。また駅員で車両番号係の許尖山は、八堵街付近で捕えられ、田寮港の運河において溺死体で見つかりました。

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八堵駅駅員補充に関する文書
国立台湾歴史博物館提供

この八堵駅についての1947年3月11日の記載には、駅員が数名、当日殺されたり捕えられた様子が特に説明されている。

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八堵駅犠牲者記念碑
二二八事件紀念基金会提供

1994年、犠牲となった李丹修駅長、許朝宗副駅長らの遺族の働きかけにより記念碑が建てられた。

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台湾鉄路管理局の公文書
二二八事件紀念基金会提供

1992年10月6日、台湾鉄路管理局が台湾鉄道職員の陳境棋と謝清鳳が八堵駅で犠牲となったことを証明した公文書。

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嘉義駅

1896年開業。1908年、縦貫鉄路全線開通にともない、重要な駅となりました。阿里山の森林開発にともない、嘉義駅は阿里山森林鉄道の起点となり、その地位はいっそう重要なものとなりました。駅から数百メートルのところに噴水のあるロータリーがあります。そこは嘉義市の重要な玄関口で、市民生活の中心的空間でした。二・二八事件当時、嘉義駅は抗議の民衆に占拠されましたが、事件終結後、嘉義市の役人と軍人がこの場所で報復を開始しました。同じ嘉義駅という場所で、時間帯を3回に分けて、裁判を経ぬまま駅前で18名が公開銃殺に処され、死体が晒されました。その残酷なやり方は、嘉義市民に拭いがたい記憶となって残りました。

 

事件の顛末

1947年3月2日、彰化と台中から南下してきた数十名の青年が、嘉義駅前の噴水で、市民に抗議の列に加わるよう呼びかけました。軍隊の蛮行や理不尽さ、生活の不安定や政治の無能と腐敗に、人々は憤っていました。激昂した市民が群れを成して市長官邸に出向き抗議を行い、その後、激しい衝突へと発展していきました。

嘉義は混乱に陥りました。多くの地元の名士や指導者らは、二二八事件処理委員会を組織し、嘉義の秩序を保とうとしました。中南部から応援に来た青年たちは防衛本部を組織し、民兵は軍隊の鎮圧により市民が殺傷されることのないよう、各軍隊の駐屯地に攻撃を加えたほか、市役所も占拠しました。軍は、市街地を砲撃し水上飛行場に撤退したため、事態は膠着状態となりました。

二二八事件処理委員会は基隆の大虐殺が始まっていることを知っていましたが、それでも最後の努力を試み、3月11日に八人による和平代表団が組織され交渉に赴きました。ところが、中国からの援軍が既に基隆に上陸したと知って恐れるものが無くなった軍隊は、交渉に出向いた使者を銃口で迎え、尖った針金で一人一人縛り上げ、その後、3グループに分けて嘉義駅前に連行し、裁判を経ぬまま、その場で銃殺しました。そのやり口には見せしめのほか、復讐という強い意味合いが込められていました。

 

オーラルヒストリー

医師で嘉義市参議員 潘木枝/潘英三(潘木枝の息子)
3月24日、父は警察に連行され牢に閉じ込められました。家族はもちろん、嘉義市の人々は誰もが、父は善良で慈悲深い医者だと知っていたため、その日のうちに釈放されるだろうと思い、家族全員でドキドキしながら知らせを待っていました。夜になり、突然、警察官の陳氏が、父がタバコの箱に書いた3〜4枚の遺言を届けに来たのです。

 

材木商 林登科/林国雄(林登科の息子)
私の父はずっと商売をやっており、政治活動に参加したことなど全くありませんし、代議員の選挙に出たこともありませんでした。ですが、お金はありました。外省人(中国籍)の兵士が嘉義にやってきたときに、誰が金持ちかを聞いてまわり、うちに無心に現れました。金がもらえなければ捕まえるんです。父が逮捕されてから2回、軍人が家に恐喝に来て、毎回20万元、家の者が渡したのですが、父が釈放されることはありませんでした。母に教えてくれる人がいました。「お宅の旦那さん、駅前で銃殺されようとしてますよ。私、見たんです。ご主人が縛られて、背中に『林登科』と書いてある木札を挿されて、市内を引き回されているところを。銅鑼を叩きながら。」

 

画家で嘉義市参議員 陳澄波/陳碧女(陳澄波の次女)
一人目の銃殺が始まった時、どこからそんな勇気が出たのかわかりませんが、私は兵隊のズボンを引っ張って、なんの言葉で話したかも忘れましたけれど、とにかく通じたんです。私は「これは私の父です。父は善人なんです。ちゃんと父の人となりをよく調べて下さい。銃殺はその後でもいいでしょ。」と言ったのですが、その兵隊は私を蹴り飛ばして、一人一人銃殺し始めました。かわいそうに父は最後の一人でした。最後が一番辛いのに。

 

警察官 陳容貌/陳信鈕(陳容貌の息子)
3月3日、嘉義市議会はラジオを通じて「警察署を無人にしてはならない。警官は速やかに勤務に戻り治安維持に努めるよう」と呼びかけました‥‥‥。父、陳容貌は、3月4日から通常通り出勤し勤務しました。そのとき、私にこう言ったんです。「今回、治安維持の責任者に任命されたが、自分の命は危ないと思う」と。そして、こうも言いました。「面倒に巻き込まれないように、出かけてはいけない」と。3月13日、潘木枝議員らが逮捕されたというニュースが伝えられました。父の陳容貌に、暫く身を隠した方がいいと忠告してくれる人がいましたが、父は恥ずべきことは何もないと思っていたため、通常通り出勤したところ、思いもよらないことに、出勤した直後に拘束され、それ以来戻って来ることはありませんでした。父を埋葬する時に、長ズボンに入っていた懐中時計の袋の中に一枚のメモを見つけました。そこには、「栄利と名声に関わること非ざるに、大禍を身に受け恨みをまねく。48年の年月ここに断たるも、皆のために犠牲となるに甘んず」と書かれていました。

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「二二八処理委員会」腕章
国立台湾文学館提供

1947年3月2日午後、二二八事件処理委員会が初めて中山堂で開かれた。台湾各地でも次々と「処理委員会」が設立されたが、平和と理性、非暴力を訴えた結果が虐殺とは、思いもよらないことだった。

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陳澄波の遺書
国立台湾歴史博物館提供

父からの遺言
一、12万の同胞のために死すことに悔いは無い
二、母や兄姉妹を大事にし、仲睦まじくするように。聖人と賢人の書を勤勉に読み、祖先の名を揚げるように
三、建物の一部を売り家計の足しにするように。生活のさまざまなことは母と相談し、錦燦氏に世話を頼みなさい
四、碧女の結婚は自由にさせなさい
五、姉さんの旦那さんに知らせなさい
困った折には、叔父さんが面倒を見てくれるだろう
六、棺は簡素でよい。祖父の傍らに葬るように
七、母、親戚、みなの健康を祈る
三六、三、二五  澄波 涙とともに

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潘木枝の遺書
二二八事件紀念基金会提供

わが妻素霞へ
余は既に絶望した!僅かにこれを記し最後の遺言と為す。素霞には気を強く持ち自分を大事にと願う。
一、潘木枝一家は、わが妻一人を頼みとす。わが妻には、自ら体を大事にし、決して過度に悲しまぬよう
二、わが母は老いたり。汝 母に孝行せんことを望む
三、子女は立派に育て、成人にせねばならぬ。木枝は市民のために死す。身は死すといえども、なお光栄なり
四、余は一生、わが妻を苦しむること多し。わが妻の我を許すを望む。我は日夜汝の側におり、汝らを守る
五、家門の名誉を大切に。自暴自棄になるべからず。重ねて身を大切されんことを祈る
夫 潘木枝 遺す

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高雄駅

1900年、縦貫線「台南〜打狗(ダカオ)」間が開業しました。当時、高雄駅は「打狗停車場(現在の高雄港駅)」駅と称されていました。1941年、大港埔に新しい「高雄駅」が建設されました。この駅が二・二八事件発生当時の高雄駅です。その外観は「帝冠式建築」(1930年代の日本において採用された和洋折衷の建築様式)で、駅構内には台湾で初めて、構内プラットホームを繋ぐ駅構内の地下道が設けられました。

高雄市「二・二八事件」の衝突は、1947年3月3日から始まり7日に終結しました。2月27日、台北で闇タバコ取締まりが発端となった事件が勃発し、翌日には高雄市にそのニュースが伝わりました。3月1日、台北・高雄間の電話回線は不通となり、3月2日に事件は嘉義まで広がっていったことに、高雄の人々は恐れおののきました。3月3日、台北から南下してきた数百人の民衆が、台南からトラックで高雄に入り、台南工学院(現在の成功大学)の学生も次々と高雄に到着しました。軍人と民衆の衝突はここに始まり、市全体が不安に包まれ、いつ何が起こってもおかしくない状態になりました。高雄要塞司令部中将司令の彭孟緝は、これを共産党のスパイの陰謀であるとし、台湾の民衆の考えを理解しようとはしませんでした。そして、寿山へ和平交渉に訪れた、凃光明・范滄榕・曽豊明・彭清靠・林界、李仏続を捕え、拘留し、そして直ちに国府軍を急襲に向かわせ鎮圧を行いました。

1947年3月6日、彭孟緝は急襲を命じ、兵は三方向から市街地に入り鎮圧を行いました。目標としたのは市役所(高雄市参議員による二・二八事件処理委員会の拠点)、高雄駅、憲兵部隊でした。高雄駅に集まった学生及び群衆は、軍隊が来ると聞き、我先にとホームとホームの間の地下道に身を隠しました。国府軍は地下道の出入り口を塞ぎ、手当たり次第に射殺を行い、手榴弾をも使用したのです。駅の乗客や駅を行き交う人々も、流れ弾にあたるなどして亡くなりました。高雄駅は、この地域で発生した事件の殺戮現場となったのです。

強硬に鎮圧を行い、裁判を経ずして民間の和平交渉代表者を銃殺し、罪なき人々を殺傷した高雄要塞司令部司令の彭孟緝は、事件が鎮静化した後においても譴責されることはなかったばかりか、国防部長の白崇禧は彭孟緝の表彰を蒋介石に上申し、台湾全省警備司令に昇格させるよう推薦しました。以降、彭孟緝が昇進を重ねていったことに、高雄の二・二八事件の受難者家族は今に至るも心安らかにはいられません。

高雄駅は二・二八事件での受難者の数が非常に多いため、二二八事件記念基金会に賠償申請し承認された方々の名前のみ。
陳天生(中国石油有限公司社員)・呂見発(刑務所所長/兄)・呂見利(拘置所所長/弟)・楊宜三金(糧食局職員)・呉万于(藥商/父)・呉碧瑾(藥商/母)・呉亮(息子)・張瑞松(学生)・呉朝岩(自営業)・李金俊(使用人)・郭農富(印刷業)・顔盛来(商人)・黄藍雄(学生)・黄再居(小売業)・顔再策(教師)・梁祥雲(農家)・廖水明(台湾鉄路職員)・蘇万根(台湾鉄路職員)・董登発(台湾鉄路職員)・黄雪娥・李新金(運送業)・李*於(運送業)・蘇万福(台湾鉄路職員)・陳檜(商人)

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戦後初期の高雄駅
高雄市立歴史博物館提供

高雄駅が攻撃を受けた時、多くの民衆が地下道に逃げ込んだことが、かえって機関銃掃射による多数の死傷者を生む結果となってしまった。

事件の教訓を活かすために

国民政府は1947年1月1日に『中華民国憲法』を発布し、人権保障をうたっていました。ところが、そのわずか2ヶ月後に台湾で凄惨な二・二八大虐殺事件が起こったことは、「憲政時期」に入ろうとしていた国民政府にとっての最大の汚点となりました。当時の憲法の条文に照らしてみると、実に皮肉なことです。

八堵、嘉義、高雄の3駅で発生した虐殺事件では、中国の統治モデルの残酷な手段が際立ちます。国民政府は、鎮圧や報復のために、人々を敵とみなしました。そこで採られた手段は、非常に衝撃的なものでした。増援部隊は台湾上陸後、武装していない大勢の人々に銃口を向け殺害しました。その後、軍や憲兵隊、警察は、人々の間に情報網を作り特務を潜伏させ、人々の仕事や生活を監視させました。また、戸籍の精査や連座(連帯責任)により、住民を互いに監視させました。また、報酬による懐柔や厳罰による脅迫で、人々に密告を奨励したことで、台湾は恐怖政治に陥りました。台湾警備総司令部は、交戦状態にない台湾全島に戒厳令を布きました。疑わしき人を捕え、軍事裁判にかけ、裁判を経ずに公開処刑を行い、遺体を公に晒すなどといった行為は、「虐殺」を手段とし、人々の恐怖を増幅させ、「人々を怯えさせる」という目的のためになされたと言うことができるでしょう。こうした手法は、国民政府が中国各地で土匪(盗賊)や共産党に対峙するときのやり方そのものだったのですが、それをすでにかなり近代化され法制度が確立されていた台湾に用いたことで、台湾社会はひどい苦しみを味わうこととなったのです。

1987年、「二二八和平日促進会」が設立されたことで、戦後最大の政治的タブーがなくなり、二・二八事件の真相が少しずつ公になっていったことで、台湾の人々の心の奥底に深く隠されていた痛みも、表に出せるようになりました。二・二八事件からすでに70年以上の年月が経ち、戒厳令が解除されてからも30年以上になります。かつてこの上なく大きな悲しみを乗せた駅は、賑やかに行き来する人々に紛れながらも慌ただしくも軽やかな色に彩られています。しかし、歴史の傷を忘れることがあってはなりません。二・二八事件による苦しみは、受難者が命を奪われたことや遺族の悲しみに限ったものではなく、台湾社会全体の傷跡でもあるのです。この事実を明らかにしていくことで、台湾の未来が二度と言われなき屈辱の血を流すことが無いよう、そして、歴史の教訓から前進し続ける勇気を探し求めること願ってやみません。

八堵から高雄までの切符をお受け取りください。皆様が展示をご覧になった後のご感想をお聞かせ下さい。
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