Preface
1945年の第2次世界大戦終結後、国民政府は台湾の人々の民情に明るくない陳儀を行政長官として派遣し、台湾を接収し統治するという重大な任務を負わせました。しかし、中国の人治社会に由来する覇権という悪習により、不公平な政権運営や台湾人差別、官紀の乱れ、生産・販売の不均衡、物価の高騰、失業の深刻化などが起こり、人々の不満は爆発寸前にまで達していました。1947年2月27日、専売局職員が台北で闇タバコの取り締まりを行った際、女性販売者に暴力をふるい、通行人を誤殺したことで、人々の怒りは激化しました。翌日、大勢の市民が集団でデモ行進を行い、職員の処罰を求めましたが、あろうことか銃撃され、複数の死傷者が出ました。これにより台湾全土で抗争に火がつきました。争いの種を解決するため、各地の地方名士が処理委員会を組織して間を取り持ち、改革の要求を出しました。しかし、陳儀はこうした地方名士を売国奴とみなし、鎮圧や「清郷(検挙・処刑)」のために兵を派遣するよう国民政府に要請し、これによって数カ月の間に市民の生命や財産に大きな損害がもたらされました。この事件は「二・二八大虐殺事件」と呼ばれています。その後実行された「清郷」や戒厳令、それに蒋介石による権威主義統治を強固なものにした白色テロは、社会の調和に深い影響を与え、台湾の自由化や民主主義への歩みを阻止しました。
1987年、社会各界で二・二八事件の名誉回復運動が起こり、政府に対して正式な謝罪や賠償、真相究明、史料公開、記念碑や記念館の建設などを積極的に求めるようになりました。同時に、2月28日を国定休日にするよう求める声が次第に高まっていきました。政府は憎しみの解消に向けて努力すべく、歴史の傷を癒やしてエスニックグループの融和を図ることを事件処理の原則として定めました。1990年、行政院は国内外の専門家を招請し、国内外の関連の公文書や資料の収集を担う「二二八事件研究グループ」を立ち上げ、1992年に『二二八事件研究報告』を公表しました。1995年には台北市の二二八和平公園に「二二八紀念碑」が落成し、われわれの社会や国家が二・二八事件の新たな段階に入ったことを象徴しました。
1995年4月7日に『二二八事件処理および補償条例』が公布され、同年12月、行政院は『財団法人二二八事件紀念基金会』を設立し、物質的補償と精神的救済の両方に配慮するとの原則の下、二・二八事件の賠償申請受理や賠償金の交付を行うことを決めました。このほか、各種の記念行事の開催や犠牲者の名誉回復、真相調査、実地調査などを通じ、被害者や遺族の心の傷を癒やし、台湾社会が真相を明らかにし、理解できるよう促しました。また、名誉回復を実現することで、台湾社会に公平と正義を返し、真の許しと永久の調和をもたらすとしました。