紀念館紹介
紀念館の建設記録
当館は角地に位置し、道路の境界線と建物までの間に空間を残すセットバックと呼ばれる手法により、歩道と花壇のスペースを確保しました。交差点に面する両側は線状の空間配列とし、建物を上から見るとL字状になっています。建物全体の配置は泉州街と南海路の交差点に面する「車寄せ」を主要入口の目印としており、そこからつながる「玄関」や「広間(ロビー)」、「階段室」などが建物の主要な動線となっています。両翼の両端にはいずれも階段室が一つずつ設置されており、次に重要な垂直動線となっています。
当館は「セットバック」と呼ばれる手法で設計されており、建物の中央部を奥に向かって高くし、両翼よりも高さを出すことで奥行きを持たせています。建物に近づくにつれてより際立って見えるようになり、全体の輪郭から細部までをじっくり味わえる設計となっています。
当館は日本統治時代の1931年に落成しました。台湾の歴史の変遷や政権の移り変わりに伴い、それぞれの時代において重要な役目を果たしました。
台湾教育会館|台湾と世界の近代美術の対話の窓口
日本統治時代、台湾総督府は各種の近代化教育の実施に合わせて「台湾教育会」を創設し、当時台湾総督府営繕課に在籍していた井手薰に「台湾教育会館」の設計、建設を命じました。1931(昭和6)年4月の落成後、各種の講演会や教育成果の発表、映画上映、美術展覧会などを開く重要な会場になりました。台湾初の近代美術・文化展示施設となっただけでなく、日本統治時代の台湾社会が世界の近代美術と対話をする重要な窓口でもありました。
かつて「台湾教育会」が主催した「台湾美術展覧会」(台展)は当時の台湾美術界にとって一年の中で最も重要な行事だったと言えます。現代のわれわれがよく知る陳澄波や廖継春、楊三郎、顔水龍、劉啓祥、洪瑞麟、藍蔭鼎、陳植棋、郭雪湖、陳進、林玉山、李梅樹、陳敬輝などの台湾の先達の画家はいずれも台展で高い評価を受け、日本、ひいては欧米へと渡り、腕に磨きをかけました。
当館の設計を手掛けたのは井出薫です。井手は岐阜県出身で、1906年に東京帝国大学建築学科を卒業し、翌年、辰野葛西建築事務所に就職しました。1910年に来台して営繕課技師・森山松之助の補佐を務め、台湾総督府庁舎の新設工事に加わりました。1914年、台湾総督府庁舎新設工事の工事主任に昇進し、1919年に営繕課課長となり、1940年7月に定年退職するまで台湾の重要な建設事業を手がけました。井手は建物とその土地の風土の関係を重視すると共に、建材には鉄筋コンクリートを用い、地震やシロアリなどの自然災害、被害に備えました。台北幸町教會(1916年、現・済南教会)、建功神社(1930年、現・南海学苑に鎮座、戦後に取り壊し)、台湾教育会館(1931年)、台北公会堂(1936年、現・中山堂)などが、井手が設計した代表的な建築物です。井出は1944年、台北で病死しました。
台湾省参議会|二・二八事件の重要な歴史現場
1945年8月29日、国民政府は陳儀を「台湾省行政長官」に任命すると同時に、「台湾省各級民意機関設立方案」に基づいて「台湾省参議会」を設立、「台湾教育会館」を事務所と会議の場としました。しかし、二・二八事件発生後、30人いた省参議員の中で、王添灯が逮捕され命を落とし、林連宗は行方不明に、林日高や馬有岳は拘禁されました。この出来事によって当館は台湾人が戦後に民主主義を追い求めたことの重要な証人となり、二・二八事件の重要な歴史的現場となりました。1949年、当館は「台湾省教育会」に接収されましたが、建物自体は「台湾省参議会」や改選後の「台湾省臨時省議会」に引き続き無償で供用されました。
米国広報文化交流局|台湾の民主化推進と現代芸術向上のもう一つの立役者
臨時省議会が移転した翌年の1959年、「米国広報文化交流局」が当館に入居しました。その後20年間、台湾海峡が緊張状態にある中において、この場所は台湾が欧米の情報を得る重要なルートとなりました。1979年、中華民国と米国の断交により、もともと台湾にあった米国大使館の文化、教育、ビジネス関連の組織は非公式の「協会」あるいは「センター」に改編して交流を続けました。米国広報文化交流局はこの時から「米国文化センター」に名称変更しました。1991年末、台湾省教育庁は「南海地区再開発計画」に合わせて建物の改築を検討し、米国文化センターは移転することになりました。しかし、文化界が改築に反対したため、この計画は棚上げされ、その後、一度はスカウト運動組織「中国童子軍」の本部が借り受けましたが、1993年6月、米国文化センターが再び当館を借り、この建物は同年、国の三級古跡に登録されました。
「米国広報文化交流局」は米国政府の公式資料や、風土・民情、米国留学の情報をまとまった形で保有していただけでなく、一部の空間は文化や芸術の展覧会の会場として提供されていました。これは、情報が現在と比べて閉ざされていた1960年代の台湾の文化界にとっては極めて有益で、今でも文化人の語り草になっています。日本統治時代、「教育会館」が多目的な展覧会場としての機能を備えたのに続き、台湾の近代芸術を推し進めるもう一つの立役者になったと言えます。
二二八国家紀念館|二・二八事件名誉回復運動の新たなマイルストーン
2006年7月、行政院によって「二二八国家紀念館」の所在地とすることが承認され、2011年2月28日、「二二八国家紀念館」は正式に開館しました。これにより、二・二八事件名誉回復運動は新たなマイルストーンに到達しました。
二二八国家紀念館設置までの歩み
行政院が設立した「財団法人二二八事件紀念基金会」は、「二二八事件処理及び賠償条例」に基づいて二・二八事件の補償に対応するほか、国民に対する事件の真相の理解促進、歴史の傷の治癒、エスニックグループの融和促進を担っています。真相の理解促進のための広報活動や二・二八事件の調査・考証の実施、被害者の名誉回復や台湾社会の平和促進なども業務に含まれます。これに鑑み、2001年8月24日の第64回董事会では、国家レベルの二・二八紀念館推進チームを設置し、二二八事件処理及び賠償条例によって与えられた任務を実行することが議決されました。
行政院は2003年8月、補償金の交付が一段落した後、方向転換に向けた下準備と計画に取り掛かるよう紀念館に対して書面で指示しました。2年後、再び書面で、社会教育または歴史伝承の機能を有する「国家レベルの記念館」の設立を原則として支持する旨を表明し、また、記念・教育・歴史・文化の各方向から策定するよう指示しました。2006年7月5日、行政院は関連省庁を集めて国家レベルの記念館の建設に関する会議を開き、「財団法人二二八事件紀念基金会が被害者家族の意向を調査した上で提案する旧台湾教育会館は、二・二八事件と歴史的なつながりがあり、教育的・文化的意義に合致する。国家レベルの二・二八記念館の設置準備を教育部に要請し、二・二八基金会に運営管理を委託する」との結論を出しました。
二二八事件紀念基金会の第3、4、5回董事会を経て、6年に及ぶ積極的な推進と政府・各界の支持の末、「二二八国家紀念館」の設置はようやく最終決定され、2007年2月28日に正式に看板が掛けられました。看板掛けの後、同年4月に教育部はさっそく紀念館の古跡修復工事に取り掛かり、2009年9月に修復を終えて内政部に引き渡しました。その後、当基金会に移管されると、2010年に古跡の再利用工事が始動しました。300日にわたる作業の末、2011年1月16日に竣工、2011年2月28日に全面開館しました。
建設時の文化的背景と二・二八事件の歴史的つながりが所在地選定の理由に
「二二八国家紀念館」が入る建物、つまり日本統治時代の「台湾教育会館」の建設は、米国を皮切りに起こった経済大恐慌の影響を全世界が受けた1930年代という時代の中で行われました。しかしながら、当時の台湾都市部の建築物の風貌は、世界を牽引する現代主義の波によって次第に様変わりしていました。同時代の有名な建築物には米ニューヨークのエンパイア・ステート・ビル(1931年)、ペンシルベニア州の落水荘(1935年)などがあります。いずれも今でも称賛される傑作です。世界と足並みをそろえるこの流れこそが、台湾社会を秩序化し、中国の封建人治社会とは異なる価値観が形成された時代背景です。そしてこれが二・二八事件発生の重要な遠因の一つにもなりました。今日、二・二八事件を省みる際、「二二八国家紀念館」現在地の古跡建築は、わたしたちを二・二八事件発生当時に引き戻し、時代の雰囲気を感じさせてくれます。
1945年8月15日、日本の昭和天皇が終戦を宣言し、第2次世界大戦が終結しました。「台湾省参議会」の設立に伴い、日本統治時代の「台湾教育会館」が有する格式高く広々とした空間は会議を開催するのに最適な場所となりました。黄朝琴、郭国基、林獻堂、李万居、王添灯ら参議員30名による陳儀行政長官への質問もここで行われました。当時の省参議会は民意を代表する台湾の最高機関であったものの、行政長官が掌握する権力による縛りを受けていました。行政長官が有する権力は日本統治時代の台湾総督府をはるかにしのぐもので、参議員には質問しか認められておらず、表決権は与えられていませんでした。そのため、陳儀政権を抑制し、均衡を保たせることは到底不可能で、さらには中国内戦の足かせや国民政府の民主主義制度への不理解なども重なり、省参議の設置は実際には、台湾人の「あるじになりたい」との願いをごまかすだけのものでした。1947年の二・二八事件発生後、30人の参議員中、2人が逮捕、投獄され、2人が失踪、命を落としました。その他も多くが指名手配されたり、政界を一時的に退いたりし、省参議会は解散を余儀なくされた形となりました。この二・二八事件の歴史的背景は先述の建物の文化的時代背景と共に、当建物が「二二八国家紀念館」に選定された重要な理由となっています。
言うまでもなく、「台湾省参議会」の設立は、台湾人が戦後、民主政治を求めた重要な証です。参議員の定数30人に対し、1,180人が名乗りを上げた熱狂ぶりからは、当時の台湾社会のエリートにとって、台湾の未来への期待と民主主義への要求がどれほど強かったのかをうかがい知ることができます。このほか、「米国広報文化交流局」が過去の戒厳令時代、欧米の民主主義と自由、文化の新知を理解する窓口の役割を担ったという重要な歴史的地位もまた、当建物に保存の意義と、活用を改めて論述する実質的な意義を少なからず付け加えています。
紀念館の業務運営
展覧
一階にはテーマ展覧室を設け、当館の建築や起伏に満ちた台湾の過去100年の歴史の軌跡を紹介しています。
二階北翼の大展示室では「二・二八事件」の常設展を開催しています。歴史歩道をイメージし、従来型の展示と双方向型のデジタル展示を融合させた手法で二・二八事件の史料や歴史記録を展示し、歴史の概要を伝えています。
二階南翼の大展示室は特別展の会場とし、不定期にテーマや内容を入れ替えながら、二・二八事件や人権関連の研究や創作物を展示しています。
三階の芸術文化スペースでは企画展を行い、台湾の歴史に関連する資料や創作物を展示しています。また、小規模の集会を開ける多目的スペースにもなっています。
文物の収蔵
二二八国家紀念館を運営、管理し、二・二八事件の歴史教育を伝承するという役目と機能を十分に発揮するため、文物の収蔵を行っています。主な業務は二・二八事件に関連する歴史的文物の収集、実地調査、収蔵、管理、展示、普及などです。内容は公文書、写真、映像、著作物、芸術品、民俗関連の品に及びます。
教育普及
教育普及は社会に根を張るための取り組みです。学生や教師、社会人を対象としており、これまでに教師向けや高校生向け、高専生・大学生向けのキャンプセミナーや大学のサークル活動、社会教育などを実施しました。今後は館内の各展覧会やイベントに合わせ、さまざまな人を対象にした教育普及活動を企画していく予定です。
外部機関や海外との交流
国内の人権組織や研究機関、学術研究機関などと交流を進めています。資料や経験の共有、業務面での連携などに加え、教育キャンプなどの教育訓練プログラムを積極的に開催していく方針です。また、国際人権団体や関連組織と会務交流や歴史経験の交換を積極的に行い、二・二八事件の経験に国際的存在感と視野を付与していきます。