特別展示|彼らの時代:台展92
きらめきほとばしる才能——陳植棋の生涯

 發佈日期:2019-08-18

会期:2019年6月29日(日)~2019年9月1日(日).毎週月曜日休館
開館時間:10:00~17:00(入場は閉館の30分前まで)
会場:二二八国家紀念館 二階南翼/台北市中正区南海路54号
後援/内政部
主催/二二八事件紀念基金会、二二八国家紀念館
協力/陳子智、葉思芬、李欽賢、邱函妮、鈴木恵可、顔娟英、倪侯德、倪伯群、李宗哲、財団法人李石樵美術館基金会、財団法人陳澄波文化基金会、財団法人楊三郎文教基金会、財団法人蒋渭水文化基金会

はじめに

時代的な臺灣藝術を創り出さねばならない。

陳植棋 台湾第一世代の洋画家。1906年1月生まれ。1931年4月病没。享年26歳。陳の人生は、あたかも花火の如く、一瞬で弾けてまばゆく輝き、そして忽然と夜の闇に消えていった。陳は油絵を通し美に対する自らの考えを表現しただけではなく行動でそれを実践した。美術団体の創設に関わったほか、絵画研究所の講師をつとめ文を表すなど、行動と参加を通し、自身が追い求める台湾民族意識を表現した。「時代的な台湾芸術を創り出す」ことを目標とした、1920年代の台湾における民族運動及び文化啓蒙の流れにおいて最も代表的な人物の一人である。

1938年4月末、第4回台陽美術協会展覽会(略称「台陽展」)が、この会場——かつての台湾教育会館——において開催され、故黄土水の雕刻作品、及び陳植棋の「真人廟」「祖父像」「淡水風景」「婦人像」「静物」の6作品が展示された。80年後の今日、当時と同様に陳の6作品が同じこの場所に展示されている。展示では、手紙、関連報道、作品を通し、より深く陳の台湾主体意識に関する思想や台湾美術に対する貢献への理解を深める。

二二八国家紀念館の建物は日本統治時代の1931年に落成しました。1945年、第二次世界大戦終結後は、台湾省参議会の執務や会議場となり、二二八事件の現場となり台湾人が民主主義を追求してきた歴史的な場所です。この建物の最初の主人は台湾教育会でした。主な業務の一つに「台展」の開催と「府展(台湾総督府美術展覧会)」の会場提供があり、合計5回の台展と4回の府展がここで開催されました。多くの台湾近代美術史における重要な画作は、かつてここで展示されており、ここは台湾近代美術発展の歴史的な現場でもあります。こうした場所で陳植棋の生涯及び作品の展示できることに、また別の歴史的な意義があります。

今回は、陳植棋が1938年の第4回台陽展に出典した6作品及び美術展に入選した多くの作品等、18作品が展示される。陳植棋の描いた「台湾総督府」と陳の恩師である石川欽一郎の「台北総督府」の水彩画、陳植棋と倪蒋懐がそれぞれ描いた「真人廟」がともに展示され、それぞれの交流の深さを物語る。このほか、家からの手紙、陳が集めた新聞記事のスクラップや絵葉書、関連史料、新聞報道の展示のほか、実際に手にとって見ることができるよう『台湾日日新報』紙上に掲載された陳植棋に関連する27の記事を選びまとめた。

展示からは、陳植棋が美術の道に進むようになった経緯を知ることができる。陳の人生が大きく変わったのは「修学旅行事件」に起因して受けた退学処分だった。陳はこの事件の後、美術を学びに東京へ行くこととなり、その後、その天才の姿が台湾と日本内地の両方の画壇で大きく異彩を放ち、後進を育てるために美術団体の創設にも加わった。台湾の民族社会運動への関心も非常に高く、台湾文化及び民族意識の前途のために日台間を奔走した。日台の警察に尾行、監視されたが、それでも台湾文化の水準を上げ、台湾民族意識の理想を追求に力を尽くすことを止めることはなかった。一生を台湾画壇に捧げた陳は台湾画壇を代表する人物である。

 

経歴

1906年(明治39年)|誕生
  • 1月16日、台北庁水返脚支庁横科庄に生まれる。祖父陳彬琳、祖母黃敬、父親陳海棠、母親林求、妹陳鶴
1913年(大正2年)|8歳
  • 私塾に入り漢学を学ぶ
1915年(大正4年)|10歳
  • 錫口公学校南港分教場(南港公学校、今の南港国小)入学。近代教育を受ける
1921年(大正10年)|16歳
  • 3月29日 南港公学校卒業
  • 4月1日 台北師範学校入学
1924年(大正13年)|19歳
  • 1月1日 新春試筆、隸書で李白の〈春夜宴桃李園序〉を抄錄
  • 4月 石川欽一郎が台北師範で組織した「写生会」に参加
  • 11月初め 台北師範学校の修学旅行先に台湾籍の学生たちが反発した「修学旅行事件」が起こる
  • 11月18日 「修学旅行事件」に関する学生運動が延焼し、陳植棋等は授業ボイコット呼びかける
  • 11月28日 「修学旅行事件」授業ボイコットを先導した陳植棋、陳炘、許吉等、学生30名が退学処分となる
1925年(大正14年)|20歳
  • 2月1日 陳同様に退学処分を受けた10余名の学生とともに、台湾文化協会の蒋渭水等の援助を受け、船で日本へ向かい、岡田三郎助の本郷絵画研究所で絵を習う
  • 3月 東京美術学校西洋画科に合格
  • 4月 東京美術学校に入学。東京の瀧野川区で借家暮らしをし、吉村芳松が塾長を務める吉村画塾に通い洋画の技法を学ぶ
1926年(大正15年)|21歳
  • 3月 〈郊外風景〉日本光風会展に入選
  • 5月 〈橋〉第3回槐樹社展に入選
  • 8月 台北において陳植棋、倪蒋懐、藍蔭鼎、陳澄波等の7名で「七星画壇」を組織
  • 8月28日~31日 〈汽船〉〈塔之影〉〈日本橋〉の3作品を「七星画壇」が台北新公園の博物館(今の国立台湾博物館)で開催した第1回展覧会に出展
1927年(昭和2年)|22歳
  • 1月2日 士林望族の令嬢、潘鶼鶼と結婚
  • 1月27日 妻とともに日本へ
  • 4月21日 第6回国画創作協会展(国展)に入選
  • 5月 〈静物〉〈瀧野川風景〉が第4回槐樹社展に入選
  • 9月 「七星画壇」の第2回展覧会に出展
  • 10月 第1回台展で〈海辺〉が特選に〈愛桃〉が入選
  • 12月10日 長男、陳昭陽誕生
1928年(昭和3年)|23歳
  • 5月 〈黃色洋館〉が第5回槐樹社展に入選
  • 7月 家族とともに帰台。新学期が始まると、妻子を汐止横科の実家に残し単身日本へ
  • 9月8~9日 〈港之午後〉〈公園〉〈公園入口〉〈静物〉〈榕樹〉〈池邊〉〈淡水所見〉〈玫瑰〉〈魚釣〉〈裸体〉〈日傘〉の11作品を「七星画壇」第3回展覧会に出展
  • 9月12日 『台湾日日新報』紙上に短文〈本島美術家に與へる〉を発表
  • 10月 〈台湾風景〉が第9回帝展に入選。〈二人〉〈三人〉〈卓上静物〉を無鑑査で第2回台展に出展
  • 「七星画壇」解散。南部赤陽会を合併し「赤島社」を設立。メンバーは、陳植棋、陳澄波、廖継春、郭柏川、楊三郎等13名
1929年(昭和4年)|24歳
  • 1月5~7日 台中行啓記念館で個展を開催。約40点の作品を展示
  • 1月11日 台湾北部の有志で陳植棋の帝展入選祝賀会が行われる
  • 2月13日 日本へ渡り学業を続ける
  • 5月 〈基隆公園〉が第6回槐樹社展に入選
  • 7月1日 倪蒋懐が出資し「台北洋画研究所」を成立。陳植棋、石川欽一郎、藍蔭鼎、洪瑞麟、倪蒋懐等が午後5時に蓬萊閣で食事をともにし、記念撮影をした
  • 8月31日~9月3日 〈桐花〉〈秀人〉〈緑〉等を「赤島社」が台北博物館(今の国立台湾博物館)で開催した第1回展覧会に出展
  • 10月 第3回台展に〈芭蕉の畑〉が特選、〈土地公廟〉が入選
1930年(昭和5年)|25歳
  • 3月22日 東京美術学校卒業
  • 4月 〈芭蕉〉が第2回聖徳太子奉讃展に入選
  • 5月 〈静物〉が第7回槐樹社展に入選
  • 5月9~11日 〈風景〉〈花〉〈静物〉等を「赤島社」第2回展覧会に出展
  • 7月 「台北洋画研究所」の看板が台風で飛ばされる。研究所の規模と授業内容を調整、看板を掛け直す際に「台湾絵画研究所(会)」と名称を改め夏期講習を行う。講習内容は、石膏像、素描、水彩等で、陳植棋、石川欽一郎、楊三郎等が指導を行った
  • 9月 台風で汐止が洪水。暴風雨の中、作品を携えて帝展に応募するために日本へ。東京到着後、肋膜炎を患う
  • 10月 〈淡水風景〉が第11回帝展に入選。〈観音山の見える風景〉〈赤壁〉〈真人廟〉を無鑑査で第4回台展に出展。〈真人廟〉が特選となる
1931年(昭和6年)|26歳
  • 3月下旬 病情が好転し台湾に戻る
  • 4月3日 長女陳淑汝誕生
  • 4月3~5日 「赤島社」が台北旧庁舍(今の中山堂)で開催した第3回預展、及び11日~13日、台中公会堂に出展
  • 4月上旬、肋膜炎を再発し総督府医院(今の台大医院)に入院
  • 4月13日 脳膜炎を併発し汐止の自宅で病没。享年26歳
  • 4月19日 台北で陳植棋の追悼会が行われる
  • 5月 〈街上〉が第8回槐樹社展に入選
  • 9月11~13日 倪蒋懐が企画し、総督府旧庁舍(現・中山堂)において「陳植棋遺作展」が開かれ82点の作品が展示される。開幕日には石川欽一郎が『台湾日日新報』紙上で追悼文を発表
  • 10月 〈婦人像〉無鑑査で第5回台展に出展
  • 11月 〈風景〉新竹州学校美展に出展
1932年(昭和7年)
  • 1月 〈花〉が第9回白日会展に入選。〈淡水風景〉〈静物〉〈自画像〉〈花〉〈真人廟〉が第7回春台美展に入選
1934年(昭和9年)
  • 10月19~20日 『台湾新民報』に蕭金鑽の〈故陳植棋兄の追憶〉が掲載される
1935年(昭和10年)
  • 『台湾文藝』1月号に妹の陳鶴による〈兄の画生活を想ふ〉が掲載される
1938年(昭和13年)
  • 4月29日~5月1日、第4回台陽展と同時に黃土水、陳植棋の遺作特別展が行われる。陳植棋の〈真人廟〉〈祖父像〉〈淡水風景〉〈婦人像〉〈静物〉の6点が展示される

 

作品

自画像
1925~1930|木板.油彩|21×27 cm

家族收藏.中央研究院臺灣史研究所檔案館提供


祖父像
1931|画布.油彩|45×52.5 cm

家族收藏.中央研究院臺灣史研究所檔案館提供


汐止街
1930|木板.油彩|33×24 cm

家族收藏.中央研究院臺灣史研究所檔案館提供


台湾総督府
1924|画布.油彩|27.2×36.4 cm

家族收藏.中央研究院臺灣史研究所檔案館提供


陳植棋と石川欽一郎の〈台湾総督府〉

陳植棋と陳に影響を与えた石川欽一郎は、ともに1920年代に得意とする水彩で、1919年に落成したばかりの総督府(今の総統府)を描いた。石川欽一郎の作品は、一貫して淡く柔らかな色使いの水彩画。遠くからの写生で、道の両側の樹木に遮られることで、高い塔が建物そのものより際立って見える。陳植棋は1924年に石川の作品に呼応するかのように、油彩画で総督府を描いた。当時、陳植棋は台北師範の学生で「台北師範生暴行事件」や「治警事件」等の事件を見聞きし、統治者日本の強権的な圧政を目の当たりにしたことから、総督府の権威性を心に留めざるを得ず、作品の中央には総督府の塔が聳え立る構図になっている

台湾総督府
石川欽一郎|紙.水彩|34×25 cm

臺北市立美術館典藏


柿と八角皿
1925~1930|木板.油彩|33×23.5 cm

家族收藏.中央研究院臺灣史研究所檔案館提供


公園入口|第3回七星画壇美術展覧会入選
1928|画布.油彩|60×50 cm

家族收藏.中央研究院臺灣史研究所檔案館提供


台北橋
1925|画布.油彩|53×46cm

家族收藏.中央研究院臺灣史研究所檔案館提供


陳植棋と李石樵の〈台北橋〉

1925年6月、淡水河にかかる台北橋が竣工。台北と三重埔を結ぶ重要な交通の要路でありランドマークとなった。同年、東京美術学校に入学した陳植棋は夏休みを利用して帰省し、落成したばかりの台北橋を描いた。三重埔から大稻埕を望む角度から橋を描いた陳は、河床の砂州で写生をし、目の前に見える大きな赤い鉄橋、淡水河を行き交う船、対岸に林立する建物を描いた。当時、陳と同じ台北師範学校で学んでいた陳の後輩であり友人でもある李石樵も、1927年に同じ角度から水彩画で新時代の建築物である台北橋を描き、初めての作品で第1回台展に出展、入選した

台北橋
李石樵|1927|紙.水彩|47×32 cm

李石樵美術館典藏


観音
1927|画布.油彩|52.5×45 cm

陳植棋の静物画は、周りの物を細かく観察しているのみならず、鮮明な個性と飾り気のない優雅さのあるたたずまいを描き出している。この作品の背景は、陳が特に好んだ真っ赤な色で、前方には母親が縫った中国風の刺繡下着の上に、陶器の観音像、顔が赤い黒い小さな人形、竹籠や柿が数個置かれている。この絵に描かれているものの一部は、今でも保存されている

家族收藏.中央研究院臺灣史研究所檔案館提供


卓上静物|第2回台展無鑑査
1928|画布.油彩|72×60 cm

家族收藏.中央研究院臺灣史研究所檔案館提供


真人廟|第4回台展 無鑑査特選
1930|画布.油彩|100×80 cm

家族收藏.中央研究院臺灣史研究所檔案館提供


陳植棋と倪蒋懐の〈真人廟〉

真人廟は日本統治時代の建成町得勝街(今の建成円環近くの天水路)にある。1924年11月末、陳植棋は「修学旅行事件」が原因で退学処分を受けた。その後、2ヶ月間は、蒋渭水が率いる「台湾文化協会」でぶらぶらしていたが、1925年2月、進学のため日本内地へ向かった。1927年、蒋渭水、林献堂等は台湾文化協会を脱退し、台湾初の政党である「台湾民衆党」を結党。1930年に落成した党本部事務所は、真人廟のそばにあった。一年前の1929年、陳の友人、倪蒋懐が創設した「台北洋画研究所」(1930年に「台湾絵画研究会」と改称)もまた、ここから遠くないところにあった。こうしたことからわかるように、陳植棋がこの伝統文化のランドマークを描いたのには、深い意味がある。陳植棋が世を去った1933年、倪蒋懐は陳植棋と同じ角度から、水彩で真人廟を描き、若くしてこの世を去った良き友陳植棋を偲んだ

真人廟
倪蒋懐|1933|紙.水彩|48.5×33 cm

倪蔣懷家屬倪伯群提供


芭蕉|第2回聖徳太子奉讃美術展覧会入選
1930|画布.油彩|90.5×72.5 cm

家族收藏.中央研究院臺灣史研究所檔案館提供


基隆駅
1928|画布.油彩|90.5×72.5 cm

家族收藏.中央研究院臺灣史研究所檔案館提供


夫人像
1927|画布.油彩|64.5×91 cm

昭和2年(1927)に潘鶼鶼と結婚。結婚した年に新婚の妻を描いた作品。背景には大きく広げられた伝統的な真っ赤な結婚衣装が描かれている。身ごもっていた妻は刺繍のある白い服を着て姿勢を正して腰掛け、手に持った扇で大きくなったお腹を隠している。左下に筆で赤く「丁卯夏日陳植棋」との落款がある

家族收藏.中央研究院臺灣史研究所檔案館提供


煉瓦工場
1925|画布.油彩|65×50 cm

家族收藏.中央研究院臺灣史研究所檔案館提供


日本の風景
1925~1930|画布.油彩|90.4×71.5 cm

家族收藏.中央研究院臺灣史研究所檔案館提供


淡水風景
1925~1930|画布.油彩|90.5×72.5 cm

家族收藏.中央研究院臺灣史研究所檔案館提供


淡水風景|第11回日本帝展入選
1930|画布.油彩|100×80.5 cm

陳は自身の淡水に対する観察を内在化し、短い平筆でのタッチで塗りを重ね、丘の上に点在する建物や、建物の間の鬱蒼とした樹木を描いた。この作品は、もともと台中市の仕紳、楊肇嘉が所蔵していたが、陳植棋の没後まもなく陳の家族に返され大切に所蔵されていた

家族收藏.中央研究院臺灣史研究所檔案館提供


瀧野川の風景|第4回槐樹社展覧会入選
1925~1927|画布.油彩|53×65 cm

この作品は、陳植棋が1925年から1927年に東京の瀧野川に住んでいたときのもの。上野の東京美術学校に遠くなく、吉村芳松の画塾がある田端町にも近いことから、ここに借家住まいをした。こうしたことから、この街の建物や水が流れる景色をよく描いた

家族收藏.中央研究院臺灣史研究所檔案館提供

 

気が強く言うことを聞かない横科の少年だった

生来のリーダー気質で男気のある性格

1906年1月、陳植棋は台北汐止の横科に生まれた。代々農業を営み田畑を増やし汐止の望族となった。幼少期には祖父の影響を大きく受け、8歳(1913年)で私塾に入り漢文を学び、達筆となった。

1914年、錫口公学校南港分教場に入学し、近代教育を受ける。背が高く痩せ型の陳は、情熱的でリーダー的な気質を持っており、学校ではいつもヒーローだった。1921年に台湾総督府台北師範学校(今の台北市立大学)に入学。

在学中、絵画を習うきっかけ

1924年、石川欽一郎が台湾に渡り、台北師範で絵を教える。陳植棋は学校の授業のほか、石川が週末に開いた「写生会」にも参加し倪蒋懐と知り合う。二人は意気投合し深い友情を結ぶこととなる。

修学旅行事件で授業ボイコットをする

1922年2月、陳植棋が在籍していた台北師範学校では、二名の台湾籍の学生が左側通行の交通規則に違反したことが原因で、学内で「台北師範生暴行事件」が起こった。裁判では、台湾文化協会の主要メンバ-の林献堂、蒋渭水や楊肇嘉等が助けようと働きかけてくれた。1923年12月に発生した「治警事件」では、台湾総督府主導の下、「治安警察法」に違反したとして台湾全島の民族運動家等の逮捕が大規模に行われた。陳植棋は強権的な圧政を目の当たりにし、心に抱いたいいようのない思いは権力への対抗意識に火をつけた。

1924年11月、台北師範学校では修学旅行を行うことになった。学校側は多数を占める台湾籍の学生たちの中南部に行きたいとの希望を顧みることなく、少数の日本内地籍の学生たちの希望である宜蘭を行き先としたため、台湾籍の学生たちは大勢で学校側に不満を表明した。志保田校長との話し合いは結論が出ず、とうとう陳植棋等4年生は11月18日に全校授業ボイコットを敢行するに至った。11月28日、学校側は処分を言い渡し、陳植棋、許吉等30名の「騒ぎを起こした」学生は退学処分となった。この事件は陳植棋の生涯において大変重要な転換点となった。


1920年代頃の汐止横科、陳家旧宅

資料來源|中央研究院臺灣史研究所檔案館


1924年1月1日陳植棋は新春試筆で、隸書で李白の〈春夜宴桃李園序〉を抄錄

資料來源|中央研究院臺灣史研究所檔案館


石川欽一郎


石川欽一郎と学生が学校で写生をしている様子

影像翻攝自李欽賢,《家庭美術館✕美術家傳記叢書:俠氣.叛逆.陳植棋》,雄獅美術、文化部,頁36


倪蒋懐

倪蔣懷家屬倪伯群提供


倪蒋懐が親友陳植棋を描いたスケッチ

倪蔣懷家屬倪伯群提供


1921年 台湾文化協会第一回理事会の集合写真

資料來源|財團法人蔣渭水文化基金會


『臺灣民報』1925(大正14)年1月1日に掲載された〈學生的悲哀和雪谷的苦心〉及び〈對於師範學校這回的罷課我要説的幾句話〉は、「修学旅行事件」に関するもの。「雪谷」とあるのは蒋渭水の「字(あざな)で、退学処分を受けた学生たちが大安医院に身を寄せていること、決定を取り消せないかどうか、学生の家族が校長に掛け合ったことが記されている。

資料來源|財團法人蔣渭水文化基金會


『臺灣民報』1925(大正14)年2月21日に〈有志青年更赴遠地研學〉と題し、台湾文化協会が「修学旅行事件」で退学となった学生等を支援し海外留学をさせ、餞別の茶会を開いたこと。そこで陳植棋が謝辞を述べたことが記されている。

資料來源|財團法人蔣渭水文化基金會


陳植棋は新聞の切り抜きをスクラップする習慣があった。
これは陳植棋がスクラップしていた新聞の切り抜き
1925年2月21日、22日、新聞に「治警事件上告棄却」(上)、「蒋渭水即日收監」(下)の記事が掲載された。この時、陳植棋は東京で勉学に励んでいたが、海外にありながらも台湾の民族運動へは非常に関心をもっていたため、新聞を切り抜きスクラップしていた

資料來源|中央研究院臺灣史研究所檔案館

 

日本で絵を学んだ画壇の俠客

石川欽一郎の導きと支援

陳植棋は一ヶ月かけて熟慮を重ねた。恩師の石川欽一郎が陳に絵画の天賦の才能を見出し、わざわざ陳の実家を訪ね日本へ行かせるように家族を説得したこともあり、1925年2月、東京美術学校(今の東京芸術大学)を受験するため東京へ赴いた。

遠く日本へ進学

1925年2月、東京に到着。4月に東京美術学校西洋画科に入学し、東京府瀧野川区で借家住まいを始めた。授業が終わると吉村芳松の画塾に通い画を習うという、絵の創作に情熱を注ぐ生活に没頭した。家を遠く離れての学生生活は経済的な苦労も多々あり、生活上の困難は多々あったが、こつこつと努力を重ね、帝展に入選し芸術の殿堂に入ることを目標とした。後に、妻へ手紙で「パンの為に特選だ(帝展)。乞食になるのだ。」と書き送った。

1927年1月、正月休みで台湾に戻った陳は、士林の庄長潘光楷の次女潘鶼鶼と結婚し、月末には妻とともに東京に赴き学業を続けた。同年12月、長男昭陽が誕生。この一年、陳植棋夫妻はずっと東京におり、陳は妻をモデルとした多数の人物画を完成させた。

1927年11月、陳植棋は東京で設立した「中華留日基督教青年会」の会員となり、東京新民会、台湾青年会や台湾文化協会等の旧幹部やメンバーと行き来した。このことで台湾でも日本でも警察の厳しい監視を受けることとなったが、それでも台湾の文化水準を向上させたいという理想への尽力をやめることはなかった。

同郷の仲間への躊躇うことのない支援

陳植棋は裕福な家に生まれたこと、そして持って生まれたリーダーとしての気概から同郷の仲間の面倒を見た。李梅樹、李石樵、洪瑞麟、張万伝等、多くの台湾の画家たちは、日本で陳植棋に大いに助けられた。李石樵が1955年出版の『台北文物』第3巻第4期「美術運動専号」で発表した〈酸苦甜〉には、「……東京へ行った後、陳と過ごした二年余りの間、よくともに生活し、陳の指導や教えを受けるなど、陳から多くの影響を受けた。私の生涯においてとても大切な時間だった。」とある。


1925年 陳植棋の東京美術学校の身分証明書

資料來源|中央研究院臺灣史研究所檔案館


キャンバスの前に座り、絵筆を動かす陳植棋。東京のアトリエで同級生と

影像翻攝自李欽賢,《家庭美術館✕美術家傳記叢書:俠氣.叛逆.陳植棋》,雄獅美術、文化部,頁46


吉村 芳松

資料來源|轉載自日本「田端文士村記念館」網站https://kitabunka.or.jp/tabata/artist/2806/



1926年9月23日、陳植棋が日本語で婚約者の潘鶼鶼に宛てた詩「ガランス色の小花」。空白に「今天再来」とある

資料來源|中央研究院臺灣史研究所檔案館


ガランス色の小花

「それは確かに闇の夜であった!」
魂の流れ行くが侭に僕は野に出た
明き盲目かも知れない
僕はおびけなく(怯えず)動いて行く
夜露が僕の靴を通して脚に沁み込んだ
時、僕は始めて立ち止まった
そして僕の脚元に何だか僕を誘ふて
居るのを感じた
僕はかがんで触って見たら小花らしい
ものでした 取り上げてその姿を見たかった
けれど闇は闇だから…
大空を仰げば何ものも見えない
僕は独りでタイムの過ぎ去る事も気付
かずして佇立してゐた。
…………………………………
…………………………………
急に明るくなった気がした時、手平の上に
はガランス色の小花がいとしい姿を見せた

仰いで見れば大空に星が二つ、三つ、
愛らしげに光ってゐる
僕は胸にある無限を抱かれた
気がして思はず小花を口唇
にあてたのだ。

一九二六、九、二三、夜感じて記す
            棋


1927年1月2日 陳植棋と潘鶼鶼の結婚写真

資料來源|中央研究院臺灣史研究所檔案館


1927年 陳植棋が結婚してまもなく恩師等に宛てた手紙。つらいことは乗り越え、新しい生活を送ることへのしっかりした気持ちが書かれている。末筆に陳植棋夫妻二人の名前がある。

資料來源|中央研究院臺灣史研究所檔案館


謹んで諸先生乃御好意を感謝しそして前途の御愛顧御鞭撻を御願ひ申上げます。
幾年となく求め彷徨ゐて居た生等の魂は本当にみすぼらしい孤児であった。跳ねても踊ってもさみしさには変りがない。唯未来への思慕で自ら慰めて居た。そして荒み果てた大地の上を一本脚の案山子見たやうでながらも通って来た。輝やかしい夏の日だった。ふと放した瞳に報られたものそれは共に美しい光であった。そして感ずる次の瞬間は華やかな未来への舞踏曲で魂はにぎはってゐた。
屢々諸先生への惜愛と親等の可愛さとで融け合ふ生等はみずぼらしくても小さく巣立つ事が出来た。
そして過去に白眼を投げては現実の瞬間々々にベストを尽し未来への建設に心は専念に耽けてゐる。
息苦しい邪悪な浮世は絶えず醜い芝居事が演ぜられてゐる。それは生きようとする霊と肉との争闘である。他の幸を喜ぶよりは他の禍を冷笑するのが現実の世態である。
俗世を離れて生きようとするそれは人生の進軍である。たまらなく苦しさに追はれるであらう!然し意気沮喪してはならない。でも可愛想だもの!然しひるんではならない。理想に向いて進むものは死骸を踏み台にして向上しなければならない。
曙の光は天井窓を透しては「起きよ!」と呼び睲ます。そして相抱た魂は唯「光よ!光よ!」と闇から抜け出すのみ。
総べては新たに生きよう。俗世に身を浸してたまるものか。
・エルンスト・トルレル氏の言葉(夢見る力のなきものは生きる力がない)

植棋
鶼鶼 頓首



1928年11月29日、日本にいた陳植棋が潘鶼鶼に宛てた手紙。手紙には、生活が苦しく、借金をしなければならないこと。家に金銭的援助を求めているほか「パンの為に特選だ(帝展)。乞食になるのだ。」とある

資料來源|中央研究院臺灣史研究所檔案館


乾燥し切った僕の旅の生活は親しき貴女の便りで湿ひを得られる。私は純で生一本の生活をする。そして飽く迄も金力を呪め。
惨めな生活だ。
愈々私は職業的画家にならねばならないのか。私は純粋な藝術をもとめるに金力の為に苦しめられる。
今冬を期して、金もうけに帰る。力強い味方が居る。助けて呉れる。台中で個展をやる。
そして、吾々夫妻子の生活を保持出来るやうな職業を見出して見る。
数回の手紙を書き出し委しく説明したのに何等返事がない。目下は無一文の惨めな借金屋に限る。
広告するのだ。ヱハガキの代価はなんとかある。全く不愉快な生活だ。
限りなく妻子を愛する。
努力だ。朝から晩迄。パンの為に特選だ(帝展)。
乞食になるのだ。

二十三日 陳


1927年11月、東京中華留日基督教青年会発行の陳植棋の普通会員証

資料來源|中央研究院臺灣史研究所檔案館


約1927年、陳植棋の東京美術学校時代。他の台湾からの学生たちとの集合写真。前列左から顔水龍、廖継春、潘鶼鶼、陳植棋、後列左から張秋海、范洪甲、陳澄波、一番右が陳承藩、右上の写真は王白淵

資料來源|中央研究院臺灣史研究所檔案館

 

台湾の画壇にきらめく新星

画展で頭角を現す

陳植棋は1926年以降、槐樹社、光風会等の学外の団体や研究団体が主催する美術展に次々と入選する。1927年に台展が始まると、毎年作品を出展し、特選や無鑑査(審査無しで出展が認められる)という最高の栄誉を得た。1928年には、日本の美術の最高の殿堂第9回帝展に〈台湾風景〉で入選。1930年には〈淡水風景〉で第11回帝展に入選した。

主体性を強調した台湾芸術——七星画壇、赤島社、台湾絵画研究会を組織

1928年9月、『台湾日日新報』紙上に陳植棋の〈本島美術家に與へる〉が掲載される。画家は精神的な内面の向上に心し「時代的な台湾芸術を創り出さねばならない」とした。

1926年、陳澄波、倪蒋懐、藍蔭鼎等7人で「七星画壇」を組織した。台湾で初めて本島人が組織した美術団体だったが1928年に解散。「赤誠の芸術の力で台湾の人々の生活に潤いをもたらす」との理念の下、別途「赤島社」を組織した。陳澄波、藍蔭鼎、廖継春、郭柏川、楊三郎……等が加わり、1929年8月末に第1回公開展覧会が開かれた。1929年、倪蒋懐は台北円環の近くに「台北洋画研究所」を開設。1930年に「台湾絵画研究会」と改称し、美術を志す青年たちの教育を行い、暑期講習を行った。


出展した油絵を手にする陳植棋

資料來源|中央研究院臺灣史研究所檔案館


陳植棋が切り抜いていた1927年4月22日の第6回国画創作展入選の新聞記事

資料來源|中央研究院臺灣史研究所檔案館


陳植棋のスクラップ帳には、1927年10月28日『台湾日日新報』で〈初の台湾美術展覧会〉と題し、第一回台湾美術展覧会の開会式と入選作品に関する評論が大きく報道された記事が残されている

資料來源|中央研究院臺灣史研究所檔案館


1928年10月、第9回帝展に入選した切り抜きがスクラップされている。このとき入選した台湾の画家には廖継春がいる

資料來源|中央研究院臺灣史研究所檔案館


1928年9月12日、『台湾日日新報』に陳植棋の〈本島美術家に與へる〉が掲載される。画家は精神的生活を高め「時代的な台湾芸術を創り出さねばならない」と記されている

資料來源|漢珍數位圖書


本島美術家に與へる/陳植棋

歸臺する度に何時も感する事は本島の自然が内地に較べて熱情的であり、しかも色彩が豐富である事だ、樹木、建築物、空氣、風俗等が原色的なコントラストを為し、極めて佳い階調が保たれ、實に感覺的な詩を形成してゐる、唯生きる人達が時代の流れにはなれて、濃綠の木蔭で靜かな夢を貪るやらな氣がする、そこらを彷徨ふ幾等かの畫家らしいものは倦怠の姿を見せ、恰も夢遊病者のやらである。彼等は身なりこそは畫家らしく見せてゐ(い)るけれと、受ける印象は俗人と変りがない、佳き自然に惠まれてゐ(い)るにも拘はらず、眠から覺めやらとしないのは、あんまりに情けない事だ、もとより本島の多くの家庭では未だペンキ繪を平氣で應接聞に掛けてゐる時代であるから畫家の一面が察せられる。

唯願ひたい、真實な畫家になるなら、もっと心的生活を深くし、且、純真にすべき事である。

俗に媚びるな!妥協するな!妥協する所に破滅が来る、易つぼい醜い姿があらはれるのだ。

今や世界の多くの畫家は劃時代的なものを創り出す為に凡ゆる苦鬪をしてゐ(い)る時である、甘ったるい夢を棄て、本道にかけ出さねぱならない、近代畫家は過去の美術史が語ってゐ(い)る多くの名家より、以上に精神的生活を高く、力強く、しかも純主觀的にすべき事は勿論の事である、美は時代に生き、そして進步すべきものてあると思ふ、感覺は天上のものから地上のもの、人間的のものから物そのものへと。……進行する、皮相描寫、俗に媚びるやらな作品は全滅すべき事である、斯るものは繪畫史上無益であるばかりでなく、かへって有害である。

より本質的なものは、物質感、實在感、感動性等の表現が必要である、淫逸的な物語,皮相的な部分描寫、力の拔けたもの、靜止的なもの-畫面に流動性のないもの-は排斥すべき事である。

自然を見ろに純、愛、深てあったなら、そこに潛む美は自分の魂と呼應するに定まる。

兔に角、吾々は時代的な臺灣藝術を創り出さねばならない。

昨年教育會主催の臺灣美術展覽會が開かれた事は斯界の為に大慶の至りである、佳き發表機關は何處の國の藝術運動でも大切である、作家は有意義に善用せればならない、虛榮の為、展覧會向き、審察員張り等は唾棄すべき事た、展覧會は嚴肅であり審査員は公不無私であるべき事は云ふに及ばない、作家は間に合せでなく、一年中精々努力して、その中の佳いものを出せばそれて結構である

第二回展も迫って來たから吾々は深く考へ、善く創り、以てレベルを舉げればならない。

平凡な自分の粗言が些少なりとも斯界に寄與する事が出來たら幸甚の至りである。

終りに親愛なる本島美術家の健康を祈る。

譯文轉引自顏娟英,《風景心境(上):臺灣近代美術文獻導讀》,雄獅美術,頁133


1929年7月1日、蓬萊閣で台北洋画研究所の設立記念食事会が行われた。右から藍蔭鼎、陳植棋、陳英聲(立っている)、石川欽一郎、倪蒋懐、洪瑞麟、陳徳旺

資料來源|中央研究院臺灣史研究所檔案館


陳植棋(後列右から2人目)と倪蒋懐(前列一番右)、石川欽一郎(前列右から3人目)らとの展覧会場での集合写真

資料來源|中央研究院臺灣史研究所檔案館


1930年7月14日『台湾日日新報』に掲載された記事〈台湾絵画研究会生る〉。写真からは当時の台湾絵画研究会の講習の様子がわかる。指導者は左に立っている陳植棋と、右に立っている楊三郎

資料來源|中央研究院臺灣史研究所檔案館


1931年、第三回赤島社洋画展覧会場(於:台北)

資料來源|中央研究院臺灣史研究所檔案館

陳植棋出展の美術展一覧

西元

開催国

展覧会

入選作品

1926

日本

第3回槐樹社展

〈橋〉

1926

日本

光風会展

〈郊外風景〉

1926

台湾

第1回七星画壇

〈汽船〉〈塔之影〉〈日本橋〉

1927

日本

第4回槐樹社展

〈静物〉〈瀧野川の風景〉

1927

日本

第6回国画創作協会展

不詳

1927

台湾

第1回台湾美術展覧会

〈海辺〉〈愛桃〉

1927

台湾

第2回七星画壇

不詳

1928

日本

第9回帝国美術展覧会

〈台湾風景〉

1928

日本

第5回槐樹社展

〈黃色洋館〉

1928

台湾

第2回台湾美術展覧会

〈二人〉〈三人〉〈卓上静物〉

1928

台湾

第3回七星画壇

〈港之午後〉〈公園〉〈公園入口〉〈静物〉〈榕樹〉〈池邊〉〈淡水所見〉〈玫瑰〉〈魚釣〉〈裸体〉〈日傘〉

1929

日本

第6回槐樹社展

〈基隆公園〉

1929

台湾

第3回台湾美術展覧会

〈芭蕉の畑〉〈土地公廟〉

1929

台湾

第1回赤島社

〈桐花〉〈秀人〉〈緑〉

1930

日本

第11回帝国美術展覧会

〈淡水風景〉

1930

日本

第7回槐樹社展

〈靜物〉

1930

日本

第2回聖徳太子奉讃展

〈芭蕉〉

1930

台湾

第4回台湾美術展覧会

〈観音山の見える風景〉〈赤キ壁〉〈真人廟〉

1930

台湾

第2回赤島社

〈風景〉〈花〉〈静物〉

1931

日本

第8回槐樹社展

〈街上〉

1931

台湾

第5回台湾美術展覧会

〈婦人像〉

1931

台湾

新竹州学校美展

〈風景〉

1932

日本

第9回白日会展

〈花〉

1932

日本

第7回春台美展

〈淡水風景〉〈靜物〉〈自畫像〉〈花〉〈真人廟〉


台湾風景(絵葉書)|1928|第9回帝国美術展覧会入選

家族收藏.中央研究院臺灣史研究所檔案館提供


海邊|1927|第1回台湾美術展覧会特選

家族收藏.中央研究院臺灣史研究所檔案館提供


愛桃|1927|第1回台湾美術展覧会入選

資料來源|中央研究院歷史語言研究所-台灣美術展覽會(1927-1943)作品資料庫


三人|1928|第2回台湾美術展覧会無鑑査

家族收藏.中央研究院臺灣史研究所檔案館提供


二人|1928|第2回台湾美術展覧会無鑑査

資料來源|中央研究院歷史語言研究所-台灣美術展覽會(1927-1943)作品資料庫


芭蕉の畑|1929|第3回台湾美術展覧会特選

家族收藏.中央研究院臺灣史研究所檔案館提供


土地公廟|1929|第3回台湾美術展覧会

資料來源|中央研究院歷史語言研究所-台灣美術展覽會(1927-1943)作品資料庫


観音山の見える風景|1930|第4回台湾美術展覧会無鑑査

資料來源|中央研究院歷史語言研究所-台灣美術展覽會(1927-1943)作品資料庫


赤キ壁|1930|第4回台湾美術展覧会無鑑査

資料來源|中央研究院歷史語言研究所-台灣美術展覽會(1927-1943)作品資料庫


婦人像(絵葉書)|1931|第5回台湾美術展覧会無鑑査

家族收藏.中央研究院臺灣史研究所檔案館提供

 

輝かしい才能没し涙する

台湾と日本とを駆け回り病に倒れる

1930年3月、陳植棋は東京美術学校を卒業し台湾に戻った。過去に学生運動や社会運動に参加したことで、なかなか仕事が見つからなかった。そこで、世界の芸術の中心であるフランスのパリに渡り絵の腕を磨こうと、留学費用を稼ぐために全力で創作に勤しんだ。

同年8月、陳植棋は帝展に出展する作品を携えて汐止の自宅を後にし東京に出発したが、途中、河川の洪水にあい、張万伝とともに河を渡り南港駅から汽車で基隆港に向かった。東京到着後、肋膜炎を患い入院治療を余儀なくされたが、李石樵、李梅樹の友人等の献身的な看病を受け快復した。

1931年3月下旬、台湾に戻る。4月3日、長女淑汝が誕生したが、肋膜炎が再発し総督府医院に入院する(今の台大医院)。入院中、妻に宛てた手紙には「最喜歡的還是画画、就算是因為絵画而倒下去、也絶不後悔。做自己喜歡的事、生死真的可以置之度外、能活下去就明朗的活、這才是積極的意義」と書かれていた。4月13日、病のため横科の実家で亡くなる。享年26歳だった。

哲人は遠のけど 典型は夙昔に在り——遺作特別展と友人や恩師からの追悼

1931年4月15日、台北市西本願寺(今の西門町中華路、台北市立文献館所在地)において追悼会が行われた。同年9月、石川欽一郎、塩月桃甫、倪蒋懐等が合同で「陳植棋遺作展」を開き、開幕当日には『台湾日日新報』紙上に石川欽一郎による〈陳植棋君的藝術生涯〉が掲載された。1934年「台陽美術協会」が創立され、1938年4月末、台湾教育会館(今の二二八国家紀念館)において第4回台陽展が開催。同時に、陳植棋、黃土水の遺作特別展が行われた。翌1939年には、後進の画家を奨励するため、陳の家族が賞金を出し「植棋賞」が新設された。

陳植棋は絵画を制作した7年間、大胆な筆使いや色使いを試みた。南国の自然の風景や台湾の風情を描き、台湾第一世代の画家としての風格を示し、台湾における新時代の芸術の創造に尽力し、力を結集して台湾の絵画団体を設立し美術教育の普及に努めるなど、台湾画壇の模範といえる存在だった。



東京美術学校校友会月報第29巻第1号、1930年4月発行、全27頁(含目次)。〈卒業生氏名及び卒業製作目録〉では、陳植棋の名前は「西洋画科」に見られ、卒業作品は〈朱衣〉とある

資料來源|中央研究院臺灣史研究所檔案館






1930年12月9日、李梅樹と李石樵が東京から潘鶼鶼に送った陳植棋の病情を伝える手紙

資料來源|中央研究院臺灣史研究所檔案館


前略
陳様のお病気の経過を知せ申上げます。それ以後別にこれといふことがなく順調に恢復しつゝあるのですが吾等が思ったのよりも時間がかゝったのでその全快の日の来るのが待ち遠しくてたまりません。御本人にとっても何となく病院がいやで仕様がないと言って居られました。現在では元気は随分あるし、大して瘠せては居ないし、意識がはっきりして、平常と何ら変りがございません。熱は平熱を保ってゐますが時々発寒して微熱を見るばかりです。今ではその微熱が気になるだけで絶対に危険がございません。若しその熱がなかったらと希った末、昨夜梅樹兄と一緒に先生と詳しくその真実の経過、病状、及び以後の療養法を相談し、聞かせてもらいました。先生は「このやうに行けば大へん経過がよいといはれる。たゞ

最初(入院前)無理なことをした為め時間がかゝった分けで、肺の方へは絶対に移ってゐませんから、間違ひなく治ります。一般に助膜炎は治りにくい病気で治ったやうであってなかへ治りません。治ったと言って事実すっかり治ってゐなければ百人に八十人以上は三年乃至五年で肺病で倒れます。私は助膜に対してはやかましいもので、治ってゐないものを治ったといったら親切なやうで甚だ不親切であります。して今が大事で、完全に治ったら以前よりも助膜が強くなり却って肺病に罹る心配がないやうになります。早く帰りたいと言ってゐるやうですが今の所では決してそのやうなことを考へてはならない。汽車や汽船で必ず悪くしますからこの方面の病気はゆっくりした気持で当地で療養して暖くなってから帰った方がよいでせう」と。
だが私等の方では経済関係から、お家の絶え

ざる御心配から、といふやうなことを言って何時頃退院が許されますかと聞いたら
「これからの経過も考慮して若し平熱を保って行けば本月二十日あたりに下宿の方へお帰りになって往診でもしたらよいでせう。そして一応針を刺してみて水の有無を確かめませう」
今日も注射器で背中の方から百瓦ばかりの水を取り出しました。水の質がよくて血がなく余り濁ってゐませんでした。明後日も一度取ってみるさうです。二十日あたりに私等の方でも学校は休みであるから都合がようございます。下宿に居ても今の病勢から考へてやはり経験のある附添婦が必要でせう。
尚御承知の通り陳様は殊に御病気になってから、さうだ何々の支那料理を食べたい、あゝ、あっさりした何々の日本料理を食べたいといふやうに気持ちが

変わりますから現在の所、何とかして間に合わせてゐます。尤もそのやうなことは病人に取っては当然のことですから。先に御手紙でお家の方御一人いらっしゃるさうですが陳様では御自分では早く治ると思って、又御父上様でも余り御丈夫ではないし、お家の仕事が多ふございますから、そんなにしなくてもよいといふことにして置いたのです。尚奥様がいらっしやるとしたら、寒い時節だし昭陽ちゃんが困りますからと言ふこともありました。若しお出になると仮定したら看護婦の一月七十円位のお金がいらないし、お食事も好きなものが食べられますから、大へん結構でございます。でも色々なその事情の為め御本人でも口に出せません。尚現在では幾分か親切な看護婦さんをやとっていますから、吾等も出来るだけ尽して不自由ないやうにして上げてゐますから御安心下さいませ。そして追々よくなれば看護

婦もいらなくなるし、気持ちもやはらげられて行くでせう。
尚以前には直ぐ治るといふやうなことを何回も差上げてお家の方々をだましたやうな形になってゐましたが不経験な私等はそのやうに信じてゐたからです。
陳様は起きられない(先生からそのやうにさせてゐるから)から御手紙を書く時は仰向けになって書き、興奮してしまひますから、発熱の原因を引き起します。その点御了承を願ひます。
先づは御通知まで。

皆様の御壮健を祈る。
乱筆を謝す。

十月九日夜 李梅樹
      李石樵


1931年4月14日『台湾日日新報』漢文版。陳植棋の死亡記事

資料來源|漢珍數位圖書


1931年4月19日『台湾日日新報』漢文版に掲載された、台北市西本願寺で行われた陳植棋追悼会の記事
同日同紙に掲載された黃土水追悼会の記事

資料來源|漢珍數位圖書


1931年9月11日、総督府旧庁舍(今の台北市中山堂がある場所)において石川欽一郎、塩月桃甫、倪蒋懐等が合同で「陳植棋遺作展」を開催。82点の作品が展示される。開幕当日、石川欽一郎は別号「石川欽一廬」の名で『台湾日日新報』紙上に〈陳植棋君の藝術的生涯〉を発表し、陳を偲ぶ

資料來源|漢珍數位圖書



1931年12月30日、李石樵は陳鶴に宛てて、岡田三郎助が陳植棋の作品5点を選び、翌年の春台美術展覧会に出展することを伝えた

資料來源|中央研究院臺灣史研究所檔案館


拝啓
昨日珍しい御土産を頂戴しまして恐縮に堪へません。美味しく戴きました。御礼申上げます。
次ぎにお兄さまの遺作品は先日岡田先生を訪問した際に見て頂きましてその中、五点受付けて下さることになりました。
淡水風景、静物、自像、花、真人廟。
例年ならば春台展は何もそんな大した展覧会ではないが来年から色々な小団体の展覧会がなくなるものですから、現在では各方面から人気が集って相当盛会になるものと予想されてゐます。出来るだけ多く出したかったけれど会の性質から、作品の上から考へて五点受付けて下されば結構なものと感謝しなければなりません。
念の為め出品目録を同封しましたから御覧下さいませ。
それから額縁のことですが、静物と自像の方は風景幅のものですから友人の間では誰でも持ってゐません。(現在風景幅の絵は殆ど誰も描きません)それで額縁屋から借りることになりました。外の三点は私の持合せのものを使用しました。何卒御休神下さいませ。
先づは通知並びに厚く御礼申上げます。
年の始めに当り皆々様の御健康を祈り申上げます。
乱筆にて失礼。

十二月三十日
石樵
李梅樹先生からも御礼申上げます。


1934年10月19日、20日、陳植棋の友人、蕭金鑽が『台湾新民報』に投書した〈故陳植棋君の追憶〉が二日に分けて掲載された

資料來源|顏娟英,《風景心境(下):臺灣近代美術文獻導讀》,雄獅美術,頁432-435


1935年1月 陳の妹、陳鶴(鶴子)が『台湾文藝』に寄せた一文〈兄の画生活を想ふ〉

資料來源|顏娟英,《風景心境(下):臺灣近代美術文獻導讀》,雄獅美術,頁436-438


1935年、「台陽美術協会」の第一回展覧会が台湾教育会館(今の二二八国家紀念館)で行われた。「台陽美展」は民間の主催で、「台湾美術展覧会」は政府の主催。写真は右から陳澄波、李梅樹、陳春徳、陳植棋の未亡人潘鶼鶼と長男陳昭陽、長女陳淑汝、楊三郎、許玉燕夫婦と娘、李石樵。本館2階のバルコニーで撮影

資料來源|楊三郎美術館


1938年4月29日から5月1日まで、台湾教育会館において第4回台陽展が開催され、陳植棋と黃土水の遺作特別展も行われた。ポスターは陳澄波所蔵

資料來源|財團法人陳澄波文化基金會


1938年4月末 第4回台陽展の画家たちと台湾教育会館(現在の二二八国家紀念館2階)にて撮影
右から、陳春徳、呂基正、楊佐三郎(楊三郎)、李梅樹、李石樵と陳澄波

資料來源|呂基正後代家屬李宗哲

 

『台湾日日新報』の陳植棋関連報道

『台湾日日新報』は日本統治時代の台湾における発行量最多で発行期間最長の新聞。発行期間は1898年5月から1944年3月まで。陳植棋の名前は1926年に美術展に出展した後、紙上でたびたび見られるようになった。1938年までに60近くの報道がなされた。紙上で陳は、しばしば「麒麟児」と称された。今回の展示では、手にとって見ていただけるよう、その中から27の記事や絵画を選んだ。